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第十一話 新たな任務

「何はともあれ初任務の完遂ご苦労だった」


 午後10時30分、西門前広場。藤林夜間忍者学校を守護する狐の石像が西方に長鼻を向けている。


 初任務から三日後、再び集った緋ノ小隊の面々に向けてそんな校長の労いの言葉から話は始まった。


「こうして任務終了後から再びの召集に三日の期間を空けたのは、まず第一にその英気を養ってもらうため」


 冥力の消費、毒の抜けた回復明けの疲労などがまだ完全には薄れず残っているだろう。


 そして此度の任務を生き抜き得たものは体の疲労だけでなく、各々の持っていた精神的な面にも影響を及ぼしつつあった。


「次に、学年のエースたる緋ノ小隊の諸君らにはまだ、それぞれに熟考し伸ばすべきところがあると……見たからだ」


 緋ノ小隊の前回任務における反省点、その総括が、夜鈴校長が収集し蓄積したデータに基づき始まっていく。


「先ずは、古林綾女。古林家といえば代々髪縛りの術を扱う潜入忍者の血筋。その手入れされた艶髪のような繊細さと、結び解き変容する冷静さをいかなる時であれ見失ってはいけない。ただ言われた通りに遠慮や従属をするのではなく、これからは確たる己の考えを持って仲間に気を配るように」


「はいッ……!」


 どおりでツッコミ上手。木の印、髪縛りの術を扱う古林綾女へと手厳しい評価が下された。


 校長の言葉を粛々と受け止め、古林はただただ強く返事をした。



「次に藤林夜翠、今は姉としてではなく校長として、前回任務における小隊の鼻であるお前の取った選択や行動を採点する」


「ええ。遠慮はいらないわ」


 青い瞳と緑の瞳が、真剣な色の視線を合わせた。


 ならばと夜鈴校長は、隙のない引き締まった表情に変わった夜翠へと、同様に気を引き締め話を始めた。


「そうか。なら、はっきり言って私の思い描く優秀たる鼻役を務めるには、まだまだ明確に経験値が足りていない」


「ええ、痛感したわ」


 任務での経験値、やはりいの一番に突かれたのはその補いきれていないウィークポイントであった。


「うむ……具体的に言うと、この任務の二重式に気づきながらも急ぎ敵を突っついた点だ。結果的には今回、その二重式ですら敵の手の者が数箇所紛れ込んでいたイレギュラーな事態であったが……それも緋ノ小隊の動かし方次第では、もっと上手く、裏切った敵を外のサザ先生と連携し誘い倒せたはずだ。この辺りのバランス感覚をもっと磨きリスク管理ができなければ、小隊の鼻は務まらないと言える」


「……はい」


 小隊の動かし方いかんでは、いくらでも上手いやりようがあったと夜鈴校長は言う。


 小隊の鼻を務めるのに必要な資質とは、単一ではない。戦闘力だけではない部分にまだまだ見直すべきところがあった。


 それは夜翠も、今回の任務の失態を経て身に染みて分かっていた。ただ、上忍で校長である姉の冷徹な意見を鵜呑みに返事をした。


「とまぁここまでは、椅子にふんぞりかえっていた節穴の意見だ」


「……?」


 だが、突然校長らしくない、いや上忍で完璧な姉らしくないことを宣い始めた。


 「節穴」とはいったい。夜翠は思わず今まで真剣に模っていたその表情を崩した。


「ここからは……私はあまりそうは思わないのだがッ、現場からの意見もないと何かとフェアではなかろう? ──『その名門藤林たるプライドを捨てず諦めず、よく忍んだ』と、彼が言っていた」


「え? 彼……! そそ、それは」


 夜鈴が何を宣うかと思えば、それは同じ任についていた現場からの意見であった。


 夜翠はまたさらにその表情を崩す。「彼」──夜翠の頭の中で思い当たる「彼」といえば、それはもう──。


 妹の驚き変に歪んだ顔を一瞥し微笑い、夜鈴校長はまた話を先に進めていく。


「フッ、次に土門美沙」


 次の採点は緋ノ小隊に属する三人目。土の印を持つ砂使い、平目忍者の土門美沙。


「ダクトからの毒ガスによる敵の分断作戦により、一時別行動を強いられたが……動じずに指示を待ちいい判断をした。おかげで外にいたサザ先生が二重式の乗っ取りを見破り、それらを制圧し素早く駆けつけることができた。そうだな、敢えてその点数をつけるなら……75点と言ったところか。25点のマイナスは分かるな?」


「はいはいっ、じゃなくて──はいですっ」


 「はい」は一度でいいことに土門美沙は自ら気づいた。25点のマイナスもどこが原因であるかを、彼女はいずれ見つけられるのだろうか。



「最後に──」


 ようやく自分の番が回ってきた。百地大地はふざけない。


 おそらくこれが校長からの藤林夜間忍者学校における最後の叱責であることを、彼は事前に知っていたからだ。


 暗闇の中にある青い瞳と目が合う。と思えば、彼女は彼からその視線を途中で逸らした。



「その前に皆に話がある。藤林夜間忍者学校に属する百地大地はこの日をもって、緋ノ小隊から脱退し──」


 皆の前に堂々と立ち、黒靴の踵を整え向き直る。藤林夜鈴校長が次の言葉を西門に向けて放った。


「替わりに、他県での〝長期遠征の任〟へと、ついてもらうことになった」


 長い藤色髪が威勢よく靡く。一声と一陣の風が吹き抜ける方角を、皆の前に佇む狐の石像が見つめている。


「は?」


 百地大地は知っている。それが自分も聞かされていない、冷たい彼の両耳をつんざいた初耳の任務であることを────。














 百地大地は西門前の広場で彼女、夜鈴校長の発言した勝手な思惑に付き合うこととなり。


 とりあえずその全く聞かされていない任について、さっそく校長室で詳しい話を伺うことになった。


「任務の詳細はまだ伏せるが、ざっくり言うと指定したその高校に潜り込み、そこに居る印持ちの確保と何か危機が迫った時に備えての護衛任務の担当だ」


 詳しくは現地で伝達するという手筈か。本当にざっくりといった感じの説明に対して、大地は痩せた頬をかきながら質問を短く返した。


「印持ちの護衛、それはどういう? 藤林家の者か?」


「いや藤林のことではない……。おそらく大地お前も良く知っているだろう、我々忍びの血でないものにも極偶に発現する印持ち、〝はぐれ者〟たちのことだよ。度々にわたる調査の結果、そこには僅かだが一般人よりも多くの冥力を持つ疑わしき二人の生徒がいることが判明した。君にはその実態を観察し調べて来てほしい」


「野良の印持ちはぐれ者か……なるほど。しかし長期ってゴールは? まさか対象の卒業までとは言わないですよね?(てか俺の学歴って今どうなってんだ? まぁいいか……)」


 変化の印を持つ大地は、千忍蛙と呼ばれる忍びとして活躍した百地家の父と、家系は異なるが印持ちである特別な母から生まれている。


 つまり忍びの家系以外の者で、印を刻み持つ者の存在はほぼイレギュラーと言っていい。また冥力が一般人より高いということは、それだけ印を持っている可能性が膨れ上がるということを指す。


 夜鈴校長が言うように、このはぐれ者のことを大地は良く知っていた。しかし、それはまた任務とは直接は関係のない別の話になる……。


 大地はこのざっくりと告げられた長期任務に対して、その期間と任務終了地点がどこであるのか、気になる点をまた校長の彼女へと質問した。


「さぁな。それが発現せずに済むか、支障のない印と分かればNに報告し放置するもよし。有用な印と判明したならば、はたまたこちらに手厚く引き込むという選択肢もある。だが今はどう転ぶか分からぬ、そんなに気張る必要はない。だから当然、これだけではなく他の任務もこなしながら……ということにおそらくなるだろう。長い目の作戦だ」


 忍びの印を全て管理登録するのはN。つまり藤林家に引き入れた後の事後報告になってもいいということだろうか。


 大地はそう顎に手を当てながら考えたが、その前にまず自分がこの任務に相応しい能力を持っているかどうかを確認した。


「こなしながらか……アルバイトの掛け持ちは邪魔さえなければ得意だが、そういうタイプの長期任務となると正直あんまり受けたことがないな」


「あぁ。だが経験がなかろうと心配はない。既にそちらにも仲間の忍びが配備されている」


「ま、そうなるよな?」


 予想通りまたも協同作戦。ソロの任ではないことを知らされる。


「──というわけだ。今伝えられる情報はこのぐらいだが……どうだ。今なら断ることもできる」


「いいのか」


 どうやら任を請け負うよう強要はされないらしい。


 不思議に思った大地は僅かに首を傾げて、執務机の前に背筋良く座る校長に聞き返した。


「そこまで緊急性は要さない。そうなれば他の統率能力の高い者を向かわせるまでだ。秘匿事項になるが……これはNからの任務ではないのでな」


 緊急性がなく、自分の代わりには統率力が高い者が望まれるような任務。


 大地は色々な要素と情報を加味し、夜鈴校長の青い目を見つめ返しはっきりとした声で答えた。


「いや、受けるぜそれ」


「そうか」


 今発された彼の一声で、冷徹さを保っていた青い光の水面が僅かに揺れ動いた。


「ここで断れば、暇を嗅ぎつけた意地悪なNに任務漬けにされるかもしれねぇ」


「よほどNに恨みがあるようだな?」


「ちょいとばかししつこい野郎ってだけで、大した恨みじゃないって、たださ」


「ただ?」


「あんまり早く千忍蛙の実績を追い越すのも、それはそれで可哀想だろ? どれぐらいサボれば親とNにケツ叩かれるか調べる為に、ちょっと充電期間あけてやったんだよ」


「ふっ。何を言うかと思えばか」


 神妙にもったいぶって何を言うかと思えば、次々と出てきた男の軽口に、夜鈴は思わず微笑い返していた。


「まっ、それはそれとして。そうなると……あぁ、お言葉に甘えてしばらくのんびりやらせてもらうぜ。〝百地とは違う〟藤林の大看板、その後ろ盾で雨風凌ぎ楽させてもらえそうだ」


「ふふっ。それはそちらの出来次第だ。この前のように何があるか分からない。大看板にも水の滴る穴はある、くれぐれも油断するなよ大地」


「あぁ、くれぐれもな」


 やり取りしていた彼が、その言葉を最後に校長室をゆっくりと背を向け出ていく。


 深く息を吐いた夜鈴は、おもむろに執務机の引き出しを開く。


 退学届の巻物と、彼の写る一冊の本を見ながらまたくすりと微笑んだ──。












▼▼▼

▽▽▽













 時刻11時15分、四時間目の授業開始丁度、赤見(あかみ)南高校その1年B組の教室の戸を開いて現れたのは──随分恰幅の良い生徒の姿だ。


「では皆の前で自己紹介をお願いできるかな」


 既にその新顔の生徒の名前が、黒板に縦書きにされた。


 しかし何故、白ではなく可愛いらしいピンク色のチョークで書いたのか。


 恰幅の良い生徒はそんな些細なことを一瞬気にしたが、今は見つめるクラスの皆の前に堂々と立ち、始まりの挨拶を成功させることが先決だ。女教師に気遣いをありがとうと、心の中でつぶやいた。


 さっそく女教師の指示に促されてそのどっしりとした足取りで教壇の上に立ち、その生徒は自己紹介の挨拶を始めていく。


「5月途中から転校して来ました桃乃木(もものき)大地です。えーっと、B組の皆さんとにかく……長期的によろしく!」


 肉付きの良い頬が朗らかな表情を見せる。何が嬉しいのか、転校生の彼は席につく皆の前で今微笑んでいるように見える。



『色々でけぇ』


『力士入場かよ』


『食費かかりそう』


『え、隣だとやだ』


『長期的によろしくってなに?』


『なんか笑ってない?』


『根暗ではなさそう』


『それ制服のサイズぎりじゃない? ははは』



(──滑り出しは、まずまずだな?)



 支給された制服のサイズはXL。他生徒より一回り大きな腹回りに、その臙脂色のブレザーがよく似合っている。


 そこそこの挨拶で滑り出しは上々。明るいざわめきと浴びる注目の中、先生に指定された一番後ろの窓際の席へと、大きな転校生は手を振り返しながら歩いていった──。







 転校生の彼はここで「桃乃木大地」として、学園生活を満喫しにきた訳じゃない。請け負った任務の事を忘れてはいない。


 四時間目の授業終了のチャイムが鳴り、出だしを間違えてしまった桃乃木大地は、思いのほか新顔の席へと寄って来たクラスメイトたちとの談笑を済ませた。


 思わぬ青春という名の新鮮なタイムロスをしたもののさっそく、対象を見つけなければならない。


 1年B組の教室を手を振り抜け出して、昼休みに行動に移った。



「対象の名は一人が町原由璃(まちはらゆり)、そしてもう一人の方が丹波(たんば)もつこ。──そいつは今見つけたようだ」


 焼きそばパンを片手に登り着いた校舎屋上にて、大地は、取り囲む数名の人影と共に対象の女子の姿を発見。


(もつこってなんだ。まぁいい、もつこ、もちや百地みたいで良い響きじゃないか。親近感、親近感)


 丹波もつこ──その対象の容貌は、遊ばせたようにウェーブした金髪に、スカートの丈は短くもなく普通。今をときめくギャル風の女子高生と言ったところであった。


(って、なんでいきなりこんな特殊なシチュに遭遇をしてんだかな……)


 『たたんったたんっ、たんたんたん』突然始まったタップダンスの愉快な足音が響く。


 細かく刻むステップで真新しい黒革の靴が床を打つ音が、徐々に徐々に激しくなっていく。


 そして一通り練習の成果を踊り終わると、大男の生徒は目の前にいた金髪のギャルへと、頭を水平になるまで下げながら真っ直ぐにその右手を差し出した。


「丹波もつこさん! おっ、オレと付き合ってください!!」


 情熱の国スペインに迷い込んだのか。今披露されたそれはとても愉快で斬新な求愛行動だ。


 物陰に身を潜めていた大地は、その地味に自分の今後の任務の成否を左右しうる大男の告白模様を覗き、盗み聞く。


「あはは、西嶋くんはとってもかっこいいけど。私今はちょっと……そうっ! もっと細身のフィギュアスケーターみたいな人がタイプかなって? ね!」


「ほっ細身ぃ!? まっ、待ってくれぇ! 前の前はキャップの似合う人でッ、この間はタップダンスが得意な人が好きだって! あっ、もつこさん!!?」


 それは見るからにタイプがちがうゴリマッチョの男だ。どちらかというと優美に舞うフィギュアスケーターではなく、その黒い洒落たキャップ被りにはスケボーの方が似合いそうだ。


 金髪の頭を同じ角度以上へと、ぺこりと下げる。丹波もつこがそそくさと逃げ帰るようにその場を去っていく。


 屋上に吹くなんてことのない春風が、見てるこちらまでやけに冷たく感じるのは何故だろうか。


 隠れて見ていた大地は、ほっとしていいのか、同情すべきなのか困惑の表情を浮かべつつ、その鮮やかなる失恋シーンを最後まで見守っていた。


 伸ばしたゴツい手をすり抜けるそよ風、顔に溜まったダンス後の汗。屋上のドア方へと吸い込まれていく金色の髪を追い……ガックリと項垂れ落とす大男の肩。




 あちらも出だしには、失敗したようだ。










「ははははこれで五連敗ぃ、もう諦めなってな! まっ、俺らはこうして楽しめていいけどっ!」


 惨敗した告白シーンを見ていた西嶋の取り巻きの男子たちが、笑い揶揄うように言う。


 すると被っていた黒いキャップを、西嶋は床へと叩きつけるように投げ捨てた。


「じゃかぁしい!! ……もつこさんはな! もつこさんはな! とっても……」


「「「とっても?」」」


 「たたんたんっ」靴音が鳴る。地団駄を踏んだのかと思いきや、西嶋はまた軽妙なタップダンスをし始めた。


「──かわいい!」


 散々溜めたあげく、とっても普通の感想をそうも誇らしげに天に指を差し西嶋は発した。


『ぶっ!』


「何笑っとんじゃぁ!!」


 怒号を上げ振り向くも、取り巻きの友人たちは首をぶんぶんと横に振っている。


(しまった、あまりの踊る意味のなさに思わず笑ってしまった)


 隠れ潜んでいた大地はどうするか迷ったが、やがて友人の襟を掴んでいた西嶋という男の後ろへと姿を現した。


 友人たちは必死で、今現れた太っちょの生徒のことを指を差しアピールした。


「──なんやお前? どこおった? おいお前かさっき笑ろたんは?」


「さぁ。俺は何も見てないし、何も笑ってないとは思うぜ」


 今現れた恰幅の良い生徒は平静を装いそうは言うものの、しかし僅かに口角が上がっている。


 その表情と態度、そして達観したような悠然とした言動が西嶋は気に食わなかったようだ。


「チッ、このデブ何を言いさらして──!!」


 突然殴りかかって来た。「ぱしっ」乾いた音が、大きな掌と拳が衝突し響く。


(なんやコイツ……うっ、動かねぇ!?)


 西嶋がそう表情を歪めた矢先に、不意に力が入る。ぴたりと掌の前で止まっていた西嶋の拳がまた始動し、今、勢いよく大地の顔へとぶつかったように見えた。


 西嶋に殴られた顔を抑えた様子で、大地は屋上のドアを開き逃げるように去っていく。


「いいとこ入った! びびって逃げたぞあのデブははは」


「何がしたかったんだ? ははは」


「あのおデブを西嶋の失恋サンドバッグ係になってもらうってどうよ?」


「「「ははははは」」」


 くだらないことを言いながら、取り巻きの男子は騒ぎ笑う。


(なんじゃあいつ……)


 呆然と突っ立つ西嶋は、まだ硬く閉じていた自分の右の拳をおもむろに見る。


 上から掴まれたような大きな赤い痕がついていた──。






 足音は屋上から階段を降りていく。


「告白して対象に近づく手筈かと思ったが……あのタップダンスゴリラさんが仲間の忍びなわけねぇよな……てことは、アイツ一般人か? この学校まさか、あんなのばっかじゃねぇよな? ……まぁそれはいいか」


 あの告白後の落ち込みようが演技だとすればアカデミー賞ものだ。大地は屋上で会った西嶋という男のことを、配備された忍びではなくまさかの一般生徒であることを無駄に確認してしまったようだ。


 しかしなにも大地は、ただ小躍りする変な男の前に姿を見せ殴られにいっただけではなかった。


「……大丈夫?? 怪我してるっしょそれ! って、わ!」


 顔を痛そうに抑えていた大地が階段を下り終えると、突然横の廊下から先ほど屋上で見た金髪ギャルが現れ声をかけてきた。


「あぁー、ちょっとやべぇかも……」


 鼻筋の左を押し込む、すると忍ばせていた偽の血糊が大地の鼻からだらっと赤く垂れていく。


 対象の女から気の利いたハンカチを受け取り、大地は痛そうに微笑んだ。







 校舎の道を知らない転校生である桃乃木大地は、丹波もつこに保健室まで案内された。


 そこで運良く対象と二人きりで昼食がてらの雑談に勤しんでいた大地は、話していくうちに僅かながら彼女が一般人よりも多い冥力を持っていることを確認できた。


(たしかに少し多い冥力を感じる……でも妙だな、このなんだ、肌をこちょばすような感覚は……?)


 任務の対象1年D組、丹波もつこ。彼女の印を調べ上げることは赤見高校に潜入した大地の目的の一つ。


 だが、早々に分かることはない。そもそも印が発現していなければ、一般の枠からちょっとだけはみ出た冥力の多い人間というだけである。


 このまま印を得ず何事もなく終わる可能性も十分にある。


 頭を巡らせあれこれしていたその邪推を一旦やめ、大地はまた口を開いた。


「わりぃな細身のスケーターじゃねぇのに、ここまで助けてもらって」


 保健室の丸い椅子にかけ鼻にティッシュを詰めた大地は、同じく向かいの椅子に座っていた彼女に、突然冗談めかした言葉を放つ。


「ええ? あははもしかして聞いてた?」


「あぁ、なんかおおきい小鳥さんの足音が愉快で気になってさ」


「あはは、いやいやアレは……なんというか……そうそう女の嘘!」


「女の嘘? ははは。じゃあ本当は別にタイプがいるのか?」


「それは……もうっそんなこと詮索してるとモテないよ桃乃木くん!」


「はは、ごめんごめん、もう余計なことは言わねぇ。あ、そうだこのハンカチ何か別の形で返したいからさ────」


 女の嘘のその笑える内容の方は後でうかがおう。保健室での治療と談笑を終えて、昼休み終了のチャイムが鳴った。





 屋上での思わぬトラブルとの遭遇から、上手くもらった怪我の功名か、対象の一人に取り入ることに成功。


「とりあえずデブだが、丹波もつこの友達の一人にはなれたようだ。何事もまずは積極性とはよく言っ……まぁそれも程度だな。あの失敗の後だと誰でもやりやすいという……うん。その西嶋くんとやらに感謝だ、ははは」


 汚れたハンカチを口実に、つい先刻スマホに登録された丹波もつこの連絡先のアイコンを確認する。


 大地はとりあえず一つ、親指を立てその成功を喜んだ。


「ところでおかしいな? もう一人〝町原由璃〟は休みか。校内をいくら探してもいねぇ……」


 放課後の校舎一階玄関前、校内を探し回ったあげくももう一人の任務対象は見つけられず。


 滑り出しは上々に思われた、だが片方に夢中になるあまりに浮き彫りになっていくもう片方の懸念点。そして中々挨拶に来ない恥ずかしがり屋の味方たち。


 始まった太っちょ転校生、桃乃木大地としての学校生活はどうやらまだまだ油断ができなさそうだ。

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