第6話:逃げ道を塞がれて
「嫌よ……絶対に嫌!」
私は首を横に振り続けた。
目の前の娘も。 土下座している健太君も。 黙り込んでいる夫も。
みんな狂っている。
「四十五歳よ? もう若くないの。産むだけでも命がけなのよ! それに、健太君の子を私が産むなんて……生理的に無理よ。おかしくなるわ!」
私の悲痛な叫びが、リビングに空しく響く。
誰か、そうだと言って。 私が正しいと言って。
私は縋るような目で、夫の博を見た。 三十年連れ添ったパートナーなら、私の体を気遣ってくれるはずだ。
「……博さん、あなたからも言ってやって。こんなの間違ってるって」
博は重々しく口を開いた。
「……由美。冷静に考えてみろ」
その声のトーンに、私は嫌な予感を覚えた。
「今ここで堕胎すれば、健太君との不貞の事実は一生消えない。離婚騒動になれば、近所の噂になるし、俺の会社の耳にも入るだろう。定年目前にして、家庭崩壊のレッテルを貼られるのは……正直、きつい」
「え……?」
「だが、お前が実家で静養して出産し、それを莉奈たちが養子として引き取れば……すべては『なかったこと』にできる。誰も傷つかず、丸く収まるんだ」
目の前が真っ暗になった。
この人は、私の命のリスクよりも、自分の体面と老後の平穏を選んだのだ。 妻である私を、不祥事を隠蔽するための「産む機械」として差し出したのだ。
「そんな……あなたまで……」
「由美、お前が撒いた種だろう。責任を取りたくないと言うのか?」
博の冷たい視線に、私は言葉を失った。
味方は、もう誰もいない。
それでも、頷くことなんてできない。 震える唇で拒絶しようとした、その時だった。
「ママ」
莉奈が、私の膝に手を置いた。 その手は小刻みに震えている。彼女は俯いたまま、絞り出すように言った。
「私ね、言ってなかったけど……病院で言われたの。子供、できにくい体質だって」
「えっ……」
嘘だと思いたかった。 でも、莉奈の深刻な表情が、それを否定させる。
「排卵障害で、自然妊娠はほぼ不可能だって。治療も痛くて、辛くて……もう諦めようと思ってたの」
ポロポロと、莉奈の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「そんな時に、この子ができたの。健太の子供が、ママのお腹に。……これって、運命だと思わない? 神様が、ママの体を借りて、私にチャンスをくれたんだよ」
不妊。
その言葉の重みが、私の胸を押し潰す。
もしそれが本当なら、私がこの子を堕ろすことは、娘から永遠に母親になる未来を奪うことになる。 しかも、原因は私と健太君の過ちなのだ。
私が罪を犯した結果、娘の希望の光が宿った。 それを「私が嫌だから」という理由で消していいのか?
「ママ……お願い。私をママにして。ママの罪も、健太の罪も、全部許すから。だから……この子を私にちょうだい」
莉奈が泣きながら私に抱き着く。 健太君も「一生かけて恩返しします」と床に頭を擦り付けている。 博は無言で、早くこの場を収めてくれと目で訴えている。
逃げ道は、完全に塞がれた。
断れば、私は家族を壊した罪人として、一生娘に恨まれ、夫に見捨てられ、孤独に生きることになる。 受け入れれば、少なくとも娘は幸せになり、家族の形は保たれる。
私が我慢さえすれば。私の体さえ差し出せば。
母性という名の呪いが、私の喉元を締め上げた。
私は、自分が人間ではなく、ただのシステムの一部に成り下がったことを自覚しながら、乾いた唇を開いた。
「……わかったわ」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「産むわ。……産めば、いいんでしょ」
莉奈が顔を上げ、花が咲いたように笑った。 「ありがとう、ママ! 大好き! やっぱりママは世界一の母親だよ!」
抱きしめてくる娘の体温が、私には氷のように冷たく感じられた。
こうして私は、娘夫婦のための「代理母」になる契約を結ばされたのだった。
お読みいただきありがとうございます。
逃げ道を塞がれ、ついに『代理母』となることを承諾してしまった由美。 「不妊」という切実な告白に、抗う術はありませんでした。
しかし、これが地獄の入り口。 ここから、由美の「人としての尊厳」が奪われていく日々が始まります。 次回、第7話:妊婦はつらいよ。 お腹が大きくなるにつれ、家族の態度はさらに歪んでいきます。 ぜひ続けてお読みください。




