第5話:悪魔の提案
「い、いいことって……莉奈、何を言ってるの?」
私の背筋を、氷のような冷たい汗が伝った。
莉奈は涙で濡れた顔のまま、まるで誕生日のサプライズを思いついた子供のように目を輝かせている。
「だって、おかしいじゃない。せっかく赤ちゃんが来たのに、殺しちゃうなんて」
「おかしいのは貴方よ! これは間違いでできた子なの。健太君との過ちの証拠なのよ!?」
私が叫ぶと、莉奈は悲しそうに眉を下げた。
「過ちでも、命だよ? それにね、よく考えてみて」
莉奈は淡々と、奇妙な論理を語り始める。
「このお腹の子は、健太の子供。つまり、私の子供の半分は健太でしょ?」 「で、もう半分はママ」 「ママは私のお母さんなんだから、遺伝子的には私の弟か妹……ううん、ほとんど私と健太の子供みたいなものじゃない?」
詭弁だ。
あまりに無茶苦茶な論理に、夫の博が口を挟む。
「馬鹿なことを言うな! 理屈はどうあれ、世間が納得するわけがない。由美が産めば、戸籍上は俺たちの子になる。健太君の子を俺の子として育てるのか? そんな欺瞞、耐えられるわけがないだろう!」
博の正論。 しかし、莉奈は待ってましたと言わんばかりに、食い気味に返した。
「だから! 籍なんてどうでもいいの」
「ママが産んで。育ての親は、私たちがやるから」
しんと、部屋が静まり返った。
産むのは私。 育てるのは娘夫婦。
つまり、代理母出産のようなことをしろと言うのか。
「……そ、そんなこと、できるわけ……」
「できるよ! ねえ健太、聞いてる?」
莉奈は、床に正座したまま震えている健太君に向き直った。 そして、聖母のように優しく、しかし逃げ場のない声で語りかける。
「健太はさ、反省してるんだよね? 私と別れたくないんだよね?」
「も、もちろんだよ! 愛してるのは莉奈だけだ!」
「じゃあ、この子を責任持って育ててよ。殺して無かったことにするなんて、そんなの償いにならないよ」
莉奈の言葉は止まらない。
「パパとお母さんにこれ以上迷惑かけないためにも、私たちが引き取るの。それが筋でしょ?」
健太君の瞳が揺れる。
「中絶=人殺し」「引き取る=償い」という極端な二択を突きつけられ、彼は正常な思考力を奪われていた。
彼は縋るように莉奈を見つめ、そして――頷いた。
「……わかった。莉奈がそう言うなら……僕が、一生かけて償うよ。この子を、僕たちの子として大切にする」
「健太君!?」
私が悲鳴を上げるが、莉奈は満足そうに微笑んだ。 これで味方は一人増えた。
「ママ。ママも罪悪感あるんでしょ? 酔ってたとはいえ、娘の夫と寝ちゃったんだもんね」
莉奈の言葉が、私の弱点を的確に突く。
「堕ろしたら、一生夢に出るよ? 『お母さん、どうして殺したの』って」
「でも、産んでくれたら、私はママを許す。この子も幸せになれる。誰も傷つかない」
「……ね? 最高の解決策だと思わない?」
誰も傷つかない? そんなわけがない。
高齢出産の私の体は? 博の世間体は?
反論しようとしたけれど、言葉が詰まった。 腹の底にある小さな命を「殺す」という選択への恐怖。 そして、娘に「許されたい」という卑怯な願望が、私の理性を蝕み始めていた。
「パパもさ、離婚だなんだって騒ぐと、会社での立場悪くなるでしょ?」
莉奈の矛先は今度はパパへ向く。
「ママには病気療養ってことにして実家に隠れてもらえばいいよ。で、生まれたら私たち夫婦の養子にするの。それなら外聞も保てるでしょ?」
博の表情がピクリと動く。
離婚騒動や中絶スキャンダルを表沙汰にするより、極秘裏に出産させて養子に出す方が、確かに「家の恥」は隠せるかもしれない――。
そんな打算が、彼の瞳に透けて見えた。
「……本気、なのか」
「本気よ。だって、家族だもん。みんなで助け合わなきゃ」
莉奈は私の手を取り、自身のお腹ではなく、私のお腹に手を当てた。
その手は温かく、そして恐ろしいほど力が強かった。
「産んでよ、ママ。私のために」
その言葉は、懇願のようでいて。 絶対的な命令のように響いた。
地獄への扉が、ゆっくりと、しかし確実に開かれようとしていた。
第5話をお読みいただきありがとうございました。
娘から突きつけられた、究極の二択。 それは、実の母に『代理母』になれという悪魔の提案でした。
家族という鎖で縛り上げられていく由美。 そして、それぞれの思惑でその提案に乗り始める男たち……。 次回、第6話:逃げ道を塞がれて。 逃げ場を失った由美が下す、運命の決断とは。 ぜひ続けてお読みください。




