第3話:悪夢の陽性反応
「うっ……」
朝食の味噌汁の湯気が立ち上った瞬間、強烈な吐き気が胃の腑からせり上がってきた。
私は口元を押さえ、キッチンのシンクにへたり込んだ。
「はぁ、はぁ……何これ……」
胃の中身を戻すほどではないが、船酔いのような不快感がずっと続いている。
あの日、莉奈たちと飲み明かしてから、もう一ヶ月が経とうとしていた。
最初は、ただの夏バテか、少し遅れてきた更年期障害の症状だと思っていた。
四十五歳。身体の曲がり角だ。ホルモンバランスが崩れてもおかしくない。
けれど、この吐き気には覚えがあった。
二十六年前、莉奈を妊娠した時の、あの感覚と酷似しているのだ。
「まさか……そんなわけ、ない」
私は震える手でスマートフォンのカレンダーアプリを開いた。
生理予定日のマークを確認する。
……来ていない。
予定日から二週間も過ぎている。
不順になることはあっても、ここまで遅れたことはない。
嫌な汗が背中を伝う。
否定したい。全力で否定したい。
けれど、主婦としての勘が、最悪の可能性を告げていた。
私は逃げるように家を飛び出し、少し離れたドラッグストアへ向かった。
近所の店では知り合いに見られるかもしれない。
帽子を目深に被り、まるで犯罪者のようにコソコソと妊娠検査薬をカゴに入れ、セルフレジで精算を済ませた。
◇
自宅のトイレ。
個室の鍵を閉めても、心臓の音はうるさいほど響いている。
検査の手順は簡単だ。
それなのに、手が震えてスティックを落としそうになる。
――判定終了まで、一分。
その一分が、永遠のように長く感じられた。
神様、お願いします。
ただの閉経前の不順であって。病気でもいい。癌でもいい。
だから、妊娠だけはしていませんように。
祈るような気持ちで、判定窓を見る。
「……嘘」
そこには、くっきりとした鮮やかな赤線が浮かび上がっていた。
陽性。
妊娠している。
私は便座に崩れ落ちた。
思考が真っ白になるどころか、冷徹な計算が脳内を駆け巡る。
誰の子?
夫の博?
いや、ありえない。
博とはもう半年以上、夫婦の営みがない。寝室も別だ。
じゃあ、どうして?
その時、封印していた一ヶ月前の記憶が、フラッシュバックした。
泥酔した夜。
闇の中で感じた、熱い吐息。
博ではない、若々しい肌の弾力。
そして、翌朝感じた下半身の違和感と、リビングで寝ていた健太君。
「あ……ああ……」
声にならない悲鳴が漏れる。
あの「夢」は、夢じゃなかった。
私は、あの日、誰かに抱かれたのだ。
そして、状況的に可能な男性は、世界にたった一人しかいない。
娘の、夫。
「どうしよう、どうしよう……」
涙が溢れて止まらない。
娘の夫の子を妊娠したなんて、誰が信じてくれる?
莉奈になんて言えばいい?
健太君は?
家庭崩壊なんて言葉では生温い。これは地獄だ。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音がした。
いつも通りの時間に、いつも通りに帰宅した夫の足音。
「ただいまー。由美、飯まだか?」
博の呑気な声が聞こえる。
私は検査薬を握りしめたまま、トイレの中で立ち尽くした。
隠せない。
堕ろすにしても、同意書がいる。
いずれお腹は大きくなる。
嘘をついて誤魔化せる段階ではない。
私は顔を洗って涙を拭うと、死刑台に向かう囚人のような足取りで、リビングのドアを開けた。
平穏な日常は、今日で終わる。
「……あなた、話があるの」
「ん? なんだ改まって。飯なら簡単なものでいいぞ」
スーツを脱ごうとする夫の背中に、私は震える声で告げた。
「赤ちゃんが……できたみたいなの」
夫の動きが止まる。
振り返った彼の顔は、驚きと、そして明らかな「不審」に歪んでいた。
突きつけられた陽性反応。
そして、その父親が「誰か」に感づき始める夫……。
ついに地獄の家族会議が始まります。
次回、第4話:地獄の家族会議。
被害者であるはずの莉奈が見せる、一瞬の「違和感」をお見逃しなく。




