第2話:過ちの夜
その日は、朝から少し浮き足立っていた。
夫の博が、二泊三日の地方出張に出かけたからだ。
亭主元気で留守がいい、とはよく言ったもので、夕飯の献立を考えなくていい解放感は、主婦にとって何よりの贅沢だ。
「今日は一人でデリバリーでも頼んで、韓流ドラマを一気見しようかしら」
そんな独り言を呟きながら、リビングで伸びをした瞬間だった。
タイミングを見計らったように、スマホが震えた。莉奈からだ。
『パパ、出張なんだって? じゃあ今夜、健太と飲みに行っていい? いいワイン手に入ったの!』
まるで監視されているかのようなタイミングの良さに、私は苦笑する。
でも、断る理由はなかった。 むしろ、一人で過ごす寂しさを埋めてくれる提案に、私は「いいわよ」とスタンプを返した。
◇
夜七時。
莉奈と健太君がやってくると、我が家のリビングは一瞬にして居酒屋のような喧騒に包まれた。
「ママー! これこれ、いいやつ持ってきたよ!」
莉奈がドン、とテーブルに置いたのは、アルコール度数の高い高級赤ワインと、私の好きな日本酒だった。
健太君もコンビニの袋から大量の缶チューハイを取り出す。
「お義母さん、今日はお世話になります! 僕も明日は休み取ったんで、とことん付き合いますよ!」 「あらあら、そんなに飲めるかしら」 「大丈夫だって! ママ、最近更年期かもって言ってたじゃん? お酒飲んで血行良くした方がいいよ!」
莉奈の適当な理屈に笑いながら、宴が始まった。
莉奈は私のグラスが空くたびに、すぐさま次を注いでくる。
「ほらママ、もっと飲んで! 今日はパパいないんだから、羽目外そうよ」 「ちょっと莉奈、そんなに飲ませないでよ……」
抗議するも、すでに私の思考はアルコールで鈍り始めていた。
健太君も早いペースで飲まされているようで、顔を真っ赤にしてソファに沈み込んでいる。
「お義母さん……僕、もう……」 「だらしないなぁ健太は。ほらママ、乾杯!」
カチン、とグラスが鳴る音。
莉奈の笑顔が、万華鏡のように歪んで見えた。
部屋の空調が妙に暑い。
莉奈が焚いたアロマの香りと、料理の匂い、そしてアルコールの臭いが混ざり合い、強烈な睡魔が私を襲った。
「……悪いわ、私、もう限界……」 「えー、もう? しょうがないなぁ。ベッドまで運ぶよ」
身体に力が入らない。 私は莉奈に肩を貸してもらい、フラフラと寝室へ向かった。
廊下の電気が眩しい。 リビングの方から、健太君のいびきが聞こえた気がした。
ああ、あの子も潰れてしまったのか。
「よいしょ……。ママ、ここで寝ててね」
ひんやりとしたシーツの感触。 莉奈が布団を掛けてくれる。
「おやすみ」という声と共に、ドアが閉まる音がした。
闇と静寂。 世界がぐるぐると回っている。
喉が渇いた。水を飲まなきゃ。 そう思って体を起こしようとしたけれど、金縛りにあったように動かない。
――ガチャリ。
ドアが開く音がした気がした。
莉奈だろうか。水を持ってきてくれたのかしら。
「……り、な……?」
声がうまく出ない。
ベッドが沈む感覚。 熱い体温が、すぐ隣に来た。
違う。これは莉奈じゃない。男の人? 博さん? いや、彼は出張中だ。じゃあ、誰?
『……由美さん……』
耳元で、掠れた声が聞こえた気がした。
誰かの名前を呼ぶ声。 熱い吐息が首筋にかかり、ゾクリとした感覚が背骨を駆け上がる。
アルコールのせいで、夢と現実の境界線が曖昧だ。
重い。苦しい。 でも、どこか懐かしい、誰かの肌の感触。
抵抗しようにも、指一本動かせない。
私の理性は、「これは夢だ」と結論づけることで、思考を停止させた。
深い、泥のような闇に落ちていく直前。 強烈な快感と痛みが混ざり合った感覚が、身体の奥を貫いた――。
◇
翌朝。 目覚めは最悪だった。
頭が割れるように痛い。口の中がカラカラに乾いている。
「うう……飲みすぎた……」
重い体を起こすと、腰のあたりに鈍い違和感があった。
なんだろう、この感覚。 パジャマのズボンが少しずれている気がして、慌てて整える。
昨夜の記憶は断片的だ。莉奈に運ばれて、それから……変な夢を見た気がする。 誰かに抱かれる、生々しい夢。
私は首を振って、嫌な想像を振り払った。
リビングに行くと、ソファで健太君が、床のラグの上で莉奈が、雑魚寝していた。 テーブルの上には空のボトルが転がっている。
「……なんだ、二人ともここで寝てたのね」
その光景を見て、私は胸を撫で下ろした。
やっぱり、あんなのはただの夢だ。 欲求不満が見せた幻覚に違いない。
健太君は服を着たままいびきをかいているし、莉奈も幸せそうな顔で寝ている。
「まったく、風邪引くわよ」
私は二人に向けてブランケットを掛け直した。 窓から差し込む朝日は眩しく、平和そのものだった。
昨夜、私の中に「何か」が芽吹いたかもしれないなんて、その時は微塵も疑わなかったのだ。
第2話をお読みいただきありがとうございました。
平和な朝の光景。 しかし、由美の体に残る確かな違和感……。
ここから、彼女たちの人生を狂わせる「地獄」が静かに動き始めます。 次回、第3話:悪夢の陽性反応。 45歳の主婦を襲う、あまりに残酷な現実。 ぜひ続けてお読みください。




