第1話:『仲良し母娘』の裏側
本作は全10話の短編連作となっております。 本日、全話を一気に公開(完結まで掲載)いたしました。
仲の良い母娘の、どこにでもある日常。 しかし、その裏側に潜んでいたのは、あまりに身勝手で残酷な「願い」でした。
母性という名の呪縛に囚われた主人公が、どのような結末を迎えるのか。 もしよろしければ、最後までお付き合いいただければ幸いです。
※本作には一部、精神的な苦痛や不快感を伴う描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
ルンバが部屋の隅の埃を吸い込む低い音だけが、広すぎるリビングに響いている。
食洗機は朝食の皿を洗い終え、乾燥の工程に入っていた。
私、佐伯由美の四十五歳という年齢は、人生の折り返し地点と言われる。 けれど、正直なところ「余生」のような感覚に近かった。
夫の博は仕事人間で、平日は寝に帰ってくるだけ。 一人娘の莉奈は三年前に結婚し、近所のマンションへ越していった。
普通なら「空の巣症候群」になってもおかしくないシチュエーションだ。
けれど、私には孤独を感じる暇なんてなかった。
『ママ~、今日の夕飯なに? ハンバーグなら行こうかなって健太と話してるんだけど』
スマートフォンに届いたLINEの通知を見て、私は自然と口元が緩む。
娘の莉奈だ。
彼女たちの新居はここから徒歩十分。 スープの冷めない距離どころか、アイスクリームが溶けない距離に住んでいる。
「はいはい、ハンバーグね。ひき肉、まだあったかしら」
私は急いで冷蔵庫を開けた。
孤独ではない。 むしろ、娘が家にいた頃よりも忙しいくらいだ。
――この時の私は、それを「幸せ」だと信じて疑わなかった。
◇
「うわー、いい匂い! やっぱママのご飯最高!」
玄関を開けるなり、莉奈は甘ったるい声を出して私に抱き着いてきた。
ふわりと、華やかな香水の匂いが鼻をくすぐる。
家事をしない娘の手は、ジェルネイルで綺麗に飾られ、ささくれ一つない。
「お邪魔します、お義母さん。いつもすみません」 「いいのよ健太君。どうせ私一人じゃ作りすぎちゃうし、博さんも遅いから」
娘婿の健太君は、申し訳なさそうに頭を下げる。 彼は優良企業に勤める好青年で、莉奈には勿体ないくらいの優男だ。
リビングに入ると、莉奈は慣れた手つきでソファに寝転がり、テレビのリモコンを手に取った。 健太君が「手伝いますよ」とキッチンに来ようとするが、私はそれを手で制する。
「いいのよ、座ってて。仕事帰りでお疲れでしょう?」 「でも……」 「健太、座ってなよ。ママの台所に入ると逆に邪魔になるからさ」
莉奈がスナック菓子をつまみながら口を挟む。 私は苦笑しながら、熱々の煮込みハンバーグを皿に盛り付けた。
料理、配膳、飲み物の用意。 すべて私が一人で行う。
莉奈は「いただきまーす」と言うまで、スマホから目を離さなかった。
食卓を囲み、和やかな空気が流れる。 話題は自然と、二人の将来の話になった。
「そういえば、そろそろ孫の顔が見たいなぁなんて、お義母さん思ってたりしません?」
ビールで少し顔を赤くした健太君が、冗談めかして言った。 私の心臓が少し跳ねる。
「そうねぇ。莉奈も二十五だし、そろそろ考えてもいい頃じゃない?」
「えー、やだぁ」
莉奈はハンバーグを頬張りながら、露骨に顔をしかめた。
「だって、妊娠したらお酒飲めないし、つわりとか超しんどいんでしょ? それに何より、痛いのが無理」
「何言ってるの。みんなそれを乗り越えてお母さんになるのよ」
「それはママの時代の話でしょ? 今は令和だよ? あーあ、赤ちゃんは欲しいけどさぁ――」
ケラケラと笑いながら、莉奈はとんでもないことを口にする。
「妊娠と出産だけ誰か代わってくんないかなー」
その瞳に、悪気は一切ない。 まるで「雨が降っててダルいから、誰か代わりにコンビニ行ってきて」と言うような軽さだ。
「莉奈ったら。そんな魔法みたいなこと、できるわけないでしょ」
「わかってるってば。でもさ、お腹大きくなったら妊娠線できるし、産んだらおっぱい垂れるし。健太だって、私がオバサン体型になったら嫌でしょ?」
「えっ、い、いや、僕は莉奈が元気ならそれで……」
健太君がしどろもどろになっているのを見て、莉奈は満足そうに笑った。 「子供は可愛いけど、私の自由と美貌が失われるのはNG。今の生活が楽しすぎるんだもん。ね、ママもそう思うでしょ? 私が苦しむの見たくないよね?」
同意を求められ、私は曖昧に「まあ、そうね」と頷くしかなかった。
娘のわがままは今に始まったことではない。 そうやって甘える莉奈を、可愛いと思ってしまう自分がいるのも事実だったから。
――もし、神様か何かがいて。 私の体を使って莉奈の願いを叶えられるとしたら、私は迷わず手を挙げていたかもしれない。
そんな馬鹿げた母性が、まさかあんな形で利用されることになるとは、この時の私は知る由もなかった。
「あー、お腹いっぱい! ママ、洗い物は食洗機入れといてね。帰ろ、健太」
嵐のように食べて、喋って、莉奈は帰っていった。
静まり返ったリビングには、莉奈が残していった甘い香水の匂いと、食べ散らかされた食器だけが残っている。
私はため息を一つついて、食器を片付け始めた。 身体は少し疲れていたけれど、心は満たされていた。
私には、まだ役割がある。 必要とされている。
その事実が、専業主婦としての私のアイデンティティを支えていた。
そう、これは『仲良し母娘』の日常。 どこにでもある、幸せな光景のはずだった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございました。
幸せを信じて疑わない母・由美。 そして、美貌と自由を何よりも優先する娘・莉奈。
莉奈が口にした「誰か代わってくんないかな」という言葉。 これが冗談ではなく、彼女の「本気」だったとしたら……。
続く第2話では、この家族の運命を決定づける「過ちの夜」が描かれます。 【第2話:過ちの夜】 すでに全話投稿済みですので、ぜひそのまま次のお話へお進みください。




