あれから
あの事件が人々の記憶から消えてしまった5年後。
妻と夫は夫婦のままで暮らしている。
この5年で変わったことがあった。
夫婦は同じ部屋で過ごしている。夜も……。
妻が驚く夫の変化を見た。
以前は付き合っている時から離れるまで、ずっと焼きもちを焼く加納海斗を見たことがなかった。
それが、妻の職場の若い男性職員が妻と仲良く話している様子を見ただけなのに、迎えに来た夫は男性職員に「あの! いつもお世話になっております。加納美月の夫です。」と言って妻と男性職員の会話を遮った。
しかも、車の中で「美月さん、貴女は、ああいう若い男がいいんですか?」と敬語で聞いた。
夫が腹を立てている時に敬語になる――妻が知り合って間もない頃から知っている極まれな加納海斗の姿だ。
妻は立腹の夫に「あらっ、いいと思ってもいいの?」と意地悪をした。
夫は青ざめた。
その様子を見て妻は「加納海斗さんの方が、いいに決まってます。」と答えた。
妻は⦅本心よ。⦆と思いながら……。
二人は共に暮らしながら、共に子育てをしながら、新たな絆を結べたのだ。
年が離れてしまったが、陽向の弟が産まれて家族が増えた。
佐々木は麻都香を支えている。
麻都香は記憶を取り戻すと自らの命を絶とうとした。
麻都香を襲った犯人は、今も普通に暮らしている。
それを思うと佐々木は「絶対に許さない!」と幾度も思って来た。
麻都香に寄り添う人生を選択した佐々木は、麻都香の実家で麻都香と暮らしている。
麻都香とは籍が入っているだけで、夫婦ではない。
佐々木は、それでも良いと心底思っている。
いつか、愛される日が来ることを心密かに願いながら……。
峯浩一郎の母親が亡くなった。
最後まで看たのは本妻である。
本宅へ母親が亡くなるまで、峯浩一郎は通い続けた。
母親の残した遺産は、息子である峯浩一郎が作った財産だ。
その遺産相続は、峯浩一郎と愛人であり母親の養女になった早苗が受け取った。
ただ、峯浩一郎が望んでいなかったことが起きた。
母親が僅かだが本妻・佳寿子へ遺産を相続出来るように、弁護士に依頼して公正証書を作成していた。
母親からの言付けだと弁護士は言った。
「悪い姑だった。最後まで看てくれたのは佳寿子さんで、早苗さんじゃない。少ないけれども私からのお礼だと思って受け取って下さい。」――そう伝えて欲しいと懇願していたということだった。
母親が亡くなって2年後、峯浩一郎が倒れた。
脳幹出血だった。そして、1年後に帰らぬ人になった。
本妻である佳寿子は、遺産相続を行った際、佐々木に自分が相続した預貯金から相続分として金銭を渡した。
それに異を唱えたのが早苗だった。
「奥様、宜しいのですか? 本当に子どもかどうか分かりませんのに……認知もされていないのに……。奥様がお金を渡すことで、浩司にも要求が行ったら、如何して下さるのです?」と言った早苗に、佳寿子は「何も案じられなくて宜しくてよ。本当の息子に間違いはありません。今後、このことで、あの子は何も要求しません。断言致しますわ。」と言って早苗を黙らせた。
峯浩一郎が入院している間、病院で噂された。
妻として佳寿子が居る。
しかし、妹であるはずの早苗の態度が妹らしからぬと噂された。
次第に早苗が見舞うことは少なくなっていった。
それでも「私だけが愛されたのだ。」との自負がある早苗を、佳寿子は羨ましく思った。
後日、弔問に訪れた佐々木に佳寿子は本音を言った。
「私もね、最初は愛されてたのよ。
でも、愛人を作って……でもね、私の所に帰って来てくれてたの。
早苗さんだけよ。
帰って来てくれなくなったのは……。
何度も離婚しようと思ったの。
でもね、最後の最後まで妻で居ることを私は選んだの。
それが私の意地。そして、私の峯浩一郎と早苗への復讐。
惨めね……惨めなんだけど、それしかなかったの。」
「これから、どうなさるのですか?」
「息子に支えられて生きてはいけないから……。
この家を出ることにしました。
この家は息子夫婦に好きなようにして貰います。」
「佳寿子さんは?」
「私は……どこかで仕事をするわ。」
「お仕事ですか?」
「この年でも出来るわよ。
一応、元お針子なのですもの。」
「お針子……?」
「洋服を作れますよ。」
「そうなんですか。」
「元々はね、あの人が19歳で、私が18だった。
あの人はお義母さんの洋服を買いたかったのね。
私がたまたま店に見に来てたの。
今、流行ってる洋服を見たくて……。
あの人のお給料では買えなかったのね。
それで、私が縫ったのよ。
生地だけ、あの人が買って……。
だから、縫えるのよ。今も作れるの。」
「……そうなんですね。」
「貴方は貴方の人生を歩んでね。
体には気をつけて……。」
「はい。」
峯浩一郎の妻・佳寿子は、どこかで洋服を作って生きている。
あの事件が無かったら、妻は夫と何も変わらぬ暮らしの中で、子どもを陽向の他に何人か産んでいたのかもしれない。
あの日、帰って来なくなった夫のスマホを大事に持ち続けていた妻が、スマホと離婚届を義父に渡したこともあった。
スマホを持っている間は「帰りを待つ妻」だった。
離婚届と共にスマホを義父に渡した時は「永遠の別れを決めた妻」だった。
テレビで流れる議員の不正利用などのニュースが今まで絶えた年月は短い。
あの事件は、その一つにしか過ぎない。
そして、人々は騒いだニュースを忘れる。
忘れられないのは、関わった人々だけなのだ。
妻はニュースを見る度に、⦅出来るだけ忘れないようにしよう。⦆と思うようになっていた。
それが妻の矜持なのだ。




