経理課の同僚
その日は朝から雨だった。
土曜日に「見舞う」という名目で来てくれた夫の同僚たち。
妻は義両親、両親と出迎えた。
1歳3ヶ月の息子は敢えて誰にも預けなかった。
玄関で簡単な挨拶を終えて、3人が妻に通されたリビングに入った。
「どうぞ、お座り下さい。
狭い所で申し訳ございません。」
「いいえ。」
お茶を出した義母に3人は口々に「どうかお構いなく!」と言った。
息子は人見知りをしない子で、3人に挨拶するかのように近づいて行った。
一人歩きが出来るようになって、ヨチヨチ歩いて好きな所へ行く―それが1年経った息子。
言葉も「ママ」と呼べるようになった息子が、スーツ姿の3人に「パパ」と言ったのだ。
「……あ……済みません。
何で? パパなんて……初めて……パパって……喋った……。
済みません。パパじゃないのに……。」
息子を抱き上げてくれた夫の同期の佐々木が「保育園で送迎する父親の姿を見て、『パパ』と呼ばれてるのを聞いて覚えたんでしょうね。」と息子に笑顔を見せながら言った。
そして、「ひーくん、おじさんはパパじゃないよ。」と言い、頬を寄せた。
その姿を見て、妻は泣き出しそうだった。
スーツ姿の夫があの日も……あの最後の日も息子を抱き締めて頬を寄せていた。
その姿を思い出した。
「本当に申し訳ございません。ひーくん、ばぁばの所へいらっしゃい。」と母が呼んでくれた。
抱き下ろす前に、佐々木は息子を「高い高い。」と……息子はキャッキャッと声を上げて大喜びした。
それも、夫を思い起こさせた。
⦅まだ、首が座った頃なのに、「高い高い。」ってして……。
あなた……もう「高い高い。」をあんなに喜ぶのよ。見て欲しい! 見て……。⦆
佐々木から妻の母へと息子を渡そうとした時、「いやぁ―――っ!」と息子は大声で泣いた。
「また後でね。」と佐々木が言っても離れるのを嫌がった。
「ひーくんは、ばぁばと遊びましょうね。」と母が息子を無理やり抱いて、玩具箱のある隣の部屋へ行った。
暫くの間、二人の祖母が泣き止ませようと色々話しかけている。
その声と泣いている息子の声が聞こえていたが、絵本の読み聞かせを始めると泣き止んだようだった。
「あの子が加納君の御自慢の息子さんですね。
大きくなって……。」
「抱っこして下さって、ありがとうございます。」
「いいえ、高い高いは結構、得意なんですよ。
気になさらないで下さいね。」
「ありがとうございます。」
「めっちゃ可愛いですね。」
「本当に! お子さん、加納さんに似てますよね。」
「ええ、ええ。あの子、主人に似てるんです。」
「会いたいだろうな……。」
「………そうでしょうか?」
「会いたいに決まってますよ。」
「捨てたのに?」
「捨てたなんて……帰れない何かがあったんです。
何かに巻き込まれたとしか僕には思えません。
あれから加納君の失踪は、駆け落ちだと社内で噂が広まっています。
もしかしたら、その噂をご家族の皆さんが耳になさったかもしれないと思いまし
て、今日伺った次第です。」
「社内で噂になってるのですか………。」
「はい、でも絶対に違いますよ。」
「そうです。違います。」
「契約社員と、とかいう噂ですが、万が一お聞きになられていたら……と思いまし
た。」
「はい、伺いました。
以前、会社に伺って、お話をお聞きした時に、営業課の同期の方から……。」
「営業課の? 誰ですか?」
「……確か……峯さん?
お義父さん、お名前覚えてらっしゃいますか?」
「覚えてるよ。峯さんに間違いない。」
「峯………。」
経理課の3人は顔を見合わせ頷いた。
「峯は今は専務付きの秘書になっています。」
「秘書さんに…あの、それが何か?」
「それは関係ないです。
お電話を頂戴しました時、加納君の周囲に居た人について知りたいと仰っておら
れました。
それで、知っている限りのことをお伝えしたく思いました。
その噂になっている契約社員さんのこともお伝えしたいと伺った次第です。」
「はい。」
「確かに同時期に我が社との契約を終了した人が居ました。」
「そうですか……それで、その方は……主人と一緒に……?」
「それは、分かりません。
そこまでは……何も分かりません……。」
「……そうですか。」
「ただ、お名前だけはお伝え出来ます。」
「……伺っても宜しいでしょうか?」
「はい。石井朱里さんです。」
「ただ、もう退職されているようです。
今、どうされているかは分かりません。」
「ありがとうございます。お名前が分かっただけでも助かります。」
「お父様にそう言って頂けると、役に立ったようで嬉しいです。」
「役立つ情報です。本当にありがとうございます。」
少し緊張が解けて嬉しそうな3人だった。
「あの! これをお渡ししたかったんです。」
「何でしょうか?」
「これは、実は遅くなったんですけれども……加納さんが選ばれていた品です。
奥様との記念日に……と選ばれてて、会社に届くようにしてらしたんです。
それが届いたんですけれども、退職後ですので、他の部署の同じ苗字の人の所に
行ってたんです。
それで、経理課に届くのに時間が掛かったんです。
退職者に加納という苗字の人が居たと気付いてくれたんです。」
「そうなんですか……私に……主人が……。」
「だから、絶対に駆け落ちなんかじゃないです!」
「先輩はそんな人じゃない! 僕らはそう思っています。」
「加納君を信じてやってください。お願いします。」
「……ありがとうございます。」
話し終えた3人は息子と遊んでくれて、昼食を一緒に摂ってくれた。
3人が帰る時、息子は泣いて嫌がった。
代わる代わるに息子を抱き上げてくれた3人の姿は、妻に夫の最後の日を再び思い起こさせた。




