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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 そもそもアレは何なんだ。腸内細菌なら嫌気性で、取りも直さず地球の生物であるからには暖色系の筈で、だからあの体表の青はバイオフィルムの構造色と推定出来る。それはまあ、いい。でもあのデカさと、あの感覚器は一体何なんだ。多細胞生物は生殖細胞からの発達過程で各部位に使途を分化させているが、その使途は遺伝子に刻まれている。《静止》下でも効率よく視認出来るように深海魚のような筒状に突き出した目を持つ、なんて意図の先立った進化は不可能である。虚空から生まれたのでもあるまいし。が、だとしても、では生存競争も何もない《静止》世界でどうして巨大化したのか、これもまた理解が及ばない。表面積が増大すると次元数の一つ大きな体積と質量の増大率が発散してしまって自重を支えられなくなるから、ある一定以上の大きさになるのは不利益が大きい。虚空から生まれたのでもないことには。まるで、子供を怖がらせるためだけに創られたお伽話の狼のようだ。巨きな眼。巨きな耳。巨きな鼻。巨きな、巨きな口。お前を喰べるためさ。そんな馬鹿な。考えろ。土竜はウズラに、ミミズは百足に、アサリは蟹に、山芋は鰻に。貝を覆う人の我が前なるをば措き、観測こそ悟性、観測者はその奴僕、刺すような痛みのある毒舌、傷付いた目の多才なる臣。三国時代の志怪小説に曰く、天から授かれば気は形を伴う。形あれば性質を有し、性質は時を経て変形する。これが自然の摂理というもので、そこから外れたものというのは気が逆さに通ったもののことだ。春分には鷹が鳩に変じ、秋分には鳩が鷹に変じる。節気は気が乱れ易い。だから鬼遣らいがある。最初と最後に宝船がある。考えろ。考えろ。正しく恐れろ。狼に花束は要らない。猟銃を咥えさせて鉛玉を食わせろ。かんが、え、違う、不要だ。見ていても仕方ないじゃないか。逃げ、集中、震え、迫る、逃げな、停まる。アレが這い寄ってくる、鳴き声をタンギングさせて、てけり・り、てけり・り、てけり・り、と旧い記憶を呼び覚ますように、ああ、あ、来る、やって来る、逃げないと、来る、来た、のに、ばたばたと喘ぐ足を動かすと、爪先が蹴る、跨っていたものを、ああ、喰われる、ひしとしがみ付く、空吹かし、あ、そう、そうだスロットル。を。思い切り空けた。後ろ髪を掠めて再び距離が開いた。風が轟々と吹いて、逃した獲物目掛けたアレの怒声を薄めた。まだ目を離せない。めりめりと体表を裂いてアレから生白い何かが隆起する。触肢、偽足、呼び方は何でもいいが、生えた。ヒトの四肢によく似ている。四つん這い、と言うのは当たらないか。見るからに六本以上ある。王蟲というよりカオナシだ。それが地面を掴んで、そして、アレは。

 駄目だ。私は思って漸く目を逸らした。瞬き一つ。アレはもう人知が及ばない。時速二〇、偽足のために少し早くなった、二五キロメートルくらいある、と。それだけ分かれば充分だ。これ以上知ってもどうにもならない。

 気温は約三八度。まさにいま・ここがアレにとってのハビタブル・ゾーンなのだろう。となると、私の目的地とアレの避難先は方角が同じということになる。憂鬱だ、メラス・コレだけに。増殖能があるからウイルスやウイロイドではない。タンパクを生合成しているようだからオベリスクでもない。機能を分化させているから細菌クラスタですらない。進化の系統樹が違う。考えられるのはブリストル・スケール・セブン、つまり、アレの大部分は排泄物や老廃物による培地。生物細胞である。

 仕事柄、私は幸か不幸かバイオミメティック・ケミストリー、特に実験動物の細胞培養に明るい。鶏の心筋細胞の培養が成功したのは一九一二年のフランス、それから約二〇年後のイギリスで当時のチャーチル首相が食肉培養の促進を呼びかけ、一九九五年にはアメリカ食品医薬品局が公的に培養食肉の商業向け製造を承認した。だが食べるほどの量を作ったという話は未だ聞かない。食肉細胞の培養には一〇〇グラム当たり数千万円の費用を要するのである。そこで我が国ではおたく、もとい在野の研究者が何とかコストダウンを実現出来ないか試みている、らしい。貧乏臭い。が、新卒で入社したばかりの頃に先輩と行った展示会ではおしぼりを温める機械が注目されていて、それでいてこれが意外とイロモノではなかったのが却ってムカついたのを今でも私は覚えている。体内を再現するには気温三八度と湿度一〇〇パーセントを維持し、且つ生体反応で塩基性に傾くのを防ぐため二酸化炭素濃度を五から一〇パーセントの任意の値で操作出来る設備が必要になる。これを恒温槽、またはインキュベータと言う。私の職場ではサーモ・フィッシャ製の純正品を使っていたが、件の展示会で聞いた話ではかなり安上がりに自作れるらしい。漁港などで用いられる発泡スチロールの箱に爬虫類飼育向けのパネルシート状ヒータを敷き詰め、キッチン用の適当なラックを組んだら、重曹とクエン酸を混和したボトルと温度計を入れる、と。確かに理屈は通っている。腹立たしい。閑話休題、すると《静止》後の地球ではこの条件を満たす地域が地上のかなり広範囲に現れることも想像に難くない。死細胞は培養出来ないので、アレの悪臭は培養で増殖させた細胞の代謝による自己腐敗が原因であり、実際のところはほぼ私の食べていたものと同一である、とも推定出来る。

 ん、じゃあひょっとしてアレは美味しいのか。

 停まっている車の間を縫って進む。内側直筋を引き込みつつ毛様体を緩めて複視、イオドプシンを選択的に遮断。暈けた鼻先から一五度逸れたミラーに意識だけを遣る。大分引き離しつつあるが油断ならない距離だ。笛に似た大きな鳴き声。糞便由来らしい鼻の取れそうな臭い。ヒトの解剖死体に電流を流して動かしているかのような人倫に反する外見。この後のことを考えると、あんな見た目でも食えるならいいか、と。ぼこっ。背中、と呼んでいいのか分からないが、アレの肌の一部が隆起して見る間に突起を作り出した。船の舳先かミジンコの角のようだ。突起は人型をしていた。女の、いやいや。目を伏せてメータを見る。ばくばくと心音が五月蠅い。あの触角が何も話し出さなかったのは幸いだった。吐き散らすのは変わらず笛に似た鳴き声ばかり。それにしても誰を模したのか。さっき追い越した車の、そしてアレの肉に呑まれたばかりの車の、運転席にちらと見かけた女か。それとも、私か。疑似餌のつもりだろうか。尤もそれならデビルマンのジンメンより生命への理解が浅いが。どうでもいいか。どうせ生存に有利か調べただけに違いない。そんなことより、女の肉体はヒトと同じ成分で再現した筈である。なら、培養細胞には私由来のヒト細胞もあることになる。原理的には垢と同じだ。ううむ。食い気はなくなった。

 三次市を通過。クリープ沈下したピン接合のヒンジを踏んで、ばす、と前輪がパンクした。ゴムが瞬間に溶けて貼り付いたのだろう。急減速、アレはまだ付いて来る。看板が見えた。直進で庄原、右折で春田と、日本ピラミッド。う、胡散臭い。でも観光地なら市街地が近いかも知れない。ピンチカットしつつよろよろと右折。そしてすぐに後悔した。建物がなくなった。ギザのド真ん中に建てるなよ気が利かないな。遮蔽物がないと逃げ切れないだろう。どこが五全総だ、ここの連中はみんなテレワークでもしているってのかナメやがって。ふん、おかげで暫くアレと併走だ。脳裏に焼き付く忌まわしい姿を思い切り睨めつける。I・A・アイアランドの著作を思わせる稚拙な造作。仮にも地球の生物ならもっと真面目に命を生きろと、首をへし折りたくなった。

 ところで。当時のチャーチル英首相が食肉培養の話題をエッセイに記したのは、彼の親友であるフレデリック・エドウィン・スミス英領インド国務長官の最晩年の著作に由来する。二〇三〇年の世界、と題されたこの遺作は大半がゴースト・ライティングに拠るもので、しかも後年に突然変異研究で著名になるあのホールデンからの盗用を当時から大部分に指摘されているのだが、それでも細胞培養研究の歴史における不可欠のメルクマールとして私の業界では七〇年近く読み継がれている古典だ。問題の箇所は一つだけ。彼は核爆弾を満載した無人ドローン戦闘航空機を、人工光合成で作ったバイオ燃料で撃ち合うという一〇〇年後の戦争形態を指摘した。この人工光合成に関わる記述が際立って錯乱しているのはアルコールによる譫妄が最も重篤だった執筆初期に本人が口述筆記させたためというのが定説だ。問題の箇所とはこの人工光合成の理論、の記述があるべきところの、落書きである。

 同じ頃、と言ってもスミスが亡くなった翌一九三一年一月中旬のことだが、当時最先端の短波記録によって南極の地下から発掘された一連の生物群があった。これは病的なまでの犬好きで知られる地質学者のダイアー教授を含むグループの功績で、ピーバディ生物群と呼ばれている。古生物学会では未だ研究されていた筈だ。素晴らしいことにその殆どは完全な標本であり、また既知のどの生物にも分類されないことから、ビニ本なんかでは宇宙人だと言われている。だが細胞生物学会が注目している標本は、不完全な方だ。

 スミスの落書きとそっくりなのである。

 奇妙に生々しいその肉塊の挿絵は後年になってピーバディ生物群の不完全な標本の復元図に採用された。アニメージュ内のインタビューで公式に認められた王蟲のモデルの一つでもある。その落書きが、アレによく似ている。大英博物館所蔵のとある詩集に則り名付けられた、科学的思考の出来ない馬鹿共の妄言に曰く宇宙人のペットである、あの肉の怪物に。その名は口の端に上すも悍ましき。ああ。違う。下唇を噛んで思考を逸らす。

 怪物、でいいだろう。アンタゴニストで、民営郵便喇叭で、イラショラル・ビリーフで、アロンソ・キハーノで。もうたくさん、それで、充分だ。シュレミールじゃない。疲れてない。アレなんて。呟く。

 名付けてくれるな。

「は。キモ」

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