6
不器用な者ほど自助とは古く親しい友である。毎日消しゴムを失くすならば校内で調達すればよい。嘘を責められたならば強いられる前に針を呑めばよい。自分に期待してはならない、実力の差は努力の差。他人に期待してはならない、苦労の差は人徳の差。ものに期待してはならない、情報の差は直観の差。ないモノに期待してはならない、責任の差は実績の差。Cumple con todos, y fía de pocos. 武器よさらば、老人の知恵とは用心深くなることである。何故かと問えば、何でもない。何物をもアテにしないという発見は、生年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。バイ・太宰治。してみると、《静止》は過日より幾らか素直な世界を現出させたと、感謝の一つも捻り出す気になる。これを仕組んだ誰かへ。
人間原理を除いて合理的に考えると、この宇宙には人間より優れた知的生命体が存在しない公算が高い、という話がある。理由は大別して二つ。第一に、そのような知能の獲得は困難である。ある程度の知能の獲得には、脳という生存非効率な器官が一定以上大きくなくてはならないが、これは基本的にあり得ない。人間サイズかそれより小さい生物ではそうした性淘汰戦略の代償が大き過ぎてほぼ生存出来ないのである。例えば人間の場合、脳の巨大化の代償は消化器官の縮小であった。内臓をごっそり持っていく代わりに尾骨を伸ばしてくれる悪魔がいたとして、どれだけ隷になる女がいるかという話だ。あり得ないと言い切ってよい。では人間より大きければどうかと言えば、確かにある程度の大きさのある生物ならば一定以上の大きさの脳を確保出来るだろうが、しかしこちらも考え難い。例えば、象は高い知能を発揮し得る。だが道具を扱うことはあれど、道具を発明するには遂に至らなかった。単純な話だ。体積の発散速度に堪えて産まれ付いたなら、大きく力があるなら、知能なんかなくても生存競争で勝ち残れるのである。縦しんば突然変異的に知能を獲得したとて、求められる水準は遥かに高い。原人は弓矢を発明出来なかったことを思えば、ある日産まれた象が突然原人より優れた知能を獲得する確率、それも一頭ならず何頭も獲得する確率なんて絶無に等しい。それでも、この広大な宇宙の遠大な時空であればもう一つくらいこの低確率を引き当てた種族がいるかも知れない。が、そこで第二の理由、その知能をどこに向けるのかという問題が立ち塞がる。人類の知能とは端的に言えば科学であり、科学とは再現可能性であり、その最たるものは機械文明である。人間以上の知的生命体ならば、当然、人間以上の機械文明を有しなくてはならない。が、しかし、これがどうにもならない。地球ではかつてリグニンの発明があり、石炭紀があり、そしてジョン・ケージ言うところのmusicに先立つもの、白色腐朽菌の誕生があった。それから数億年を経て、樹木伐採があり、人口爆発に当たって燃料枯渇に瀕し、已むなく石炭を掘ったら地下水に遮られ、ではこの石炭を以て地下水を汲み出せないかと悩んで、それで漸く蒸気機関の発明に至る。この数億年のスパンに関するあらゆる条件が、地球ならざる星で揃うのはどれほど低い確率か知れない。岩石惑星のプレートテクトニクス挙動とそれによるパンゲア大陸の形成が残らず一致する確率だけでもうほぼ望みなしである。天の川銀河の外に銀河が、銀河団が、超銀河団が、と観測範囲を広げられたのがアンドロメダ銀河の天の川銀河との近接にあったこと、水星の近日点移動や皆既日食の観測など、天文学における数多い偶然のことを思うと、銀河系単位での数十億年の合致でさえ見通しが甘いかも知れない。
しかしそうですか左様ならとここで引き下がるほどお人好しではない。私は物分かりの悪い傲慢な女なのだから。連続的並進対称性の平衡が遷移曲線における律速段階のプラトーだっただなんて、そんな仮定から出発しては私らしくないだろう。それに、さる歴史小説家も手慰みの落書きで書いたことには、常に別の可能性を探り備えておくべきだ、ラム酒を呑むなら鯨捕りだ、だそうである。英国紳士も偶には鉄刃の如く正気になれるらしい。なれば矢張り、偽真空に留まるための赤の女王、四次元宇宙がガラス転移点を乗り越えたとそう仮定したい。すると逆説的に要請されるのは周期的なエネルギー源の規定だ。先の例えのように電子レンジのような機械で対称性のやぶれを惹起された、というのが一つの回答になる。尤も、太陽由来の大気温熱で自然解凍してもいいし、火照った首筋に当ててもいい。別解は幾らでもあるが、どの回答にも共通するのは、この宇宙の外側に何者かを規定するということだ。宇宙背景放射の先、超光速でなければ観測不能な原初宇宙に由来する物質の領域と、伸展する時空間的インフレーションの辺縁に分布する特異点の、その、更に向こう側。その何者かを指して、存在、とするのがそもそも間違いであるかも知れない絶対不可知の領域。犯人はそこにいる。いるとすれば、そこしかない。誰だったか、ゼロからアップルパイを作るなら先ずは宇宙を創らなきゃね、と言った物理学者がいた筈だ。グレイ・グー・ユニバーサル・アップルパイを焼くオーブン、或いはそのパイシートを解凍する電子レンジ、そのターンテーブルにこの宇宙を置いた巨人、または魔女。悪意かは知り得ないが意図はあったに違いないとのプロファイリング。誰だ。誰だっけ、誰だったか、誰だ。違う、どうでもいいことだ。ああ、でも、気になる。書き順を思い出せない時のように。左手にすべすべとした綿ぐるみのベロアの感触、満身で握り締めて、はっと血の通う己に気付く。スロットルにかけた右手の緊張を解く。握り直す。カール・セーガン、そうだ、思い出した。そして嫌悪した。私にも血が流れている。不合理だ。青い紙が欲しい。
工数の観点で比して不合理な選択を感情は訴求する。幼い頃からそうであった。大きな茶色のマンホールは飛車、小さな水色のマンホールは金将、長方形で橙色のマンホールは竜馬、横断歩道の黒いところと側溝の上は盤外の忌み土。彼らは常々私を監視して、その視線に曝される利きにおいては、息を止めていなくてはならなかった。櫛や鋏や胡桃殻を見たら両手の薬指と小指の間の水掻きに挟んで落ち着くのを待たなくてはならなかったし、下駄箱のある列の左隣を歩く時には上から二段目の列より頭を下げなくてはならなかったし、他にも色々、色々あった。やらなければ罪悪感に圧し潰されて息を吸えなかった。今は違う。死んでからまとめて清算すると決めたから、罪悪は負っても負う命は最早重くない。私は他人の三倍偉い。けれど、それでも、不愉快には違いない。そしてその不愉快を感得するために嫌悪を覚える。悟性だけでいい。感性は要らない。これでは、てんで先生ではないか。
将来の夢は何ですか。自由に書いてください。けれど、きちんと考えてくださいね。皆さんは大人にならなくてはいけませんよ。くすくす、くすくすと、教室に細波が立った。夢見るなんてダセーよな、と。松の取れたばかりというのに、D事件の女の子が両手を焼かれたの食べられたのと、猟奇的話題で上の世代が楽しそうにしていた頃である。あれから十数年の後には同じ舌先でバトル・ロワイアルを批判するのだから世間とはつくづく不合理だ。さておき、私は困った。将来の夢とは、何だ。どうすればいい。要らないノートに描き溜めていた漫画はもう捨てていたが、その悪癖が尾を引いていて、デザイン系の専門学校に進学したいとする指針をまだ捨てかねていた。隣のあの子はどうしているだろう。気になって目の端に捉えると、既に書き終えた様子で暇そうにしていた。そちこちで男子が交わす。野球選手になりたい。警察官になりたい。パイロットがいい。車のエンジニアになる。そんな野卑な、不合理な妄言。俗に五感の記憶は聴覚から薄れて、視覚、触覚、味覚と潰え、最後に嗅覚の記憶が消えると聞くが、怪しいものだ。ある男子が、漫画家になりたい、と言ったことさえこうして覚えている。教室は刹那、しん、として、そしてどっと笑いが起こった。私と彼等は違う。彼等は、普通だ。だから未来予知が出来る。だから、将来の夢とやらを語る能力がある。その頃の私は違った。幾ら考えても何一つ閃かないから、まだ拙い合理的予測を懸命に積み上げて、精一杯射程を伸ばして、それでやっと専門学生になる未来を導出出来た。それでもカバート感作に苛まれるから、合理の防壁で、五分後の私との連続性を絶った。私が死ぬべきだった。子供たる姿を録られるだけ録られて、慰みものにされて殺されるべきだった。私は大人になれないのだから。時間線分に死を先駆。足元でもいいから、前を向いて、疲れなんて感じなくていい、そう先生は。先生。い、嫌だ。私はあんな、偉い、先生には、大人にはならない。私は大人になるんだ。偉くなって、大人にならないと。普通にならないと。おたくのM君になってしまう。
心は要らない。感性も要らない。合理主義こそシナイ契約である。まことに、主なる神はその定められたことを隷なる預言者に示さずには何事も為されない。獅子が吼える。誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる。誰が預言せずにいられようか。中世暗黒時代、神はNo hace Dios a quien desampara. と直説法現在形で語られていた。それが現代では、No hizo Dios a quien desamparase. と直説法過去完了形で語られる。キリスト教者は愚劣である。神はいま・ここでまさに連続的並進対称性を以て私を、我々を創造していると、どうして信じられないのか。それは偏に、感情などという、誤った神を信仰しているために過ぎない。感情は偉いが、神秘主義者の魔女どもはちっとも偉くない。偉くないものは兎小屋で虐げられなくてはならない。生き物係である私にはその責務がある、と左手。繋ぎ直す。ぞくり。瞬間、水底から這い上るような、潜水艦の金属光沢がぬめりのある暗黒を掻き分けて浮上してくるような、そんな音のない声の気配を左耳に覚えた。人間嗤笑的な大音響の咆哮が、話の途中だ、とばかりびりびりと私の背中に投げつけられて、げらげらと見下すようなその鳴き声に、キレるより早く総身が竦んだ。脅えてしまった。道は緩やかにカーブを描いて、しかしアレは弧で減速する私を尻目にその弦を突っ切ってきたらしい。どうしようもない。そして、バックミラーが映し出すアレの姿を、私は視界に入れてしまった。
象を呑み込んだうわばみ。青みがかった玉虫色の小泡。円柱、或いは四角柱をプリミティブとする三次元立体。上面に円、下底でドレープが広がる。半接着性だ。トリプシンをブッ掛けたい。地下鉄。そう地下鉄、突進する鋼鉄の、否。違う、セルロイド人形だ、とろけた。うねり迫るような、身悶えするような、けれど直線的でそして生物的な。体長は不良設定も甚だしい目算でおよそ一・五車線分、幅は大体一車線、体高はこちらの身長程度だから占有体積はほぼ乗用車だ。カリーナEDなどの3ナンバーの体積がほぼ一〇〇〇〇立方メートルだから、アレもきっとそれくらいである。何物にも似ていない、とも言い難い。金曜ロードショーの何度目かの再放送で見た、怪生物・王蟲に似ている。似ている、のだが、似ても似つかない。赤いところが構造色の虹色をしているとか、そんなことじゃなくて絶対的に根本から違う。間違っている。どれぐらい違うかって、セボンスターとセブンスターくらい違う。左手がキースを求めてポケットの辺りを彷徨い、繋いだ手を思い出して、拳を胸元に当てると紐に通した金剛石を模した指環の硬い感触をリサ・マリ越しに覚えた。瞳が揺れる。瞬きもせず凝視する視界の縁がじわじわと白く暈けて、目尻から乾いた涙が溢れる。ミラーから目を離せない。アレは伸縮性の光り輝く円筒。体表に沸き立つ原形質の小泡が青白い蒸気を放つ。眼、のようなものが疣のようにぶつぶつと生えていて、そのすぐ下に髭というか触手というか、うぞうぞと蠢くものが幾筋も伸び、そこから唾棄すべき悪臭と共に狂えるフルートに似た鳴き声を低く呻っている。