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閃いた契機は食糧問題である。これがSFならば空気酸化を免れ得なかった、等の理屈で登場人物たる私を追い込んだことだろうが、幸いなことに《静止》以来全ての食糧は腐敗さえ止めていた。不便したのは寧ろ排泄で、合理的には駅前のロータリーなんかの無価値に開けた場所をそれと決めればいいものを、長年培った道徳観念に阻まれ結局人目を偲んで致すが常だった。何故だかとても屈辱的だった。側溝のグレーチングを開けてすることも考えたが、何となく忌避感があって止した。後になって正しい判断だと分かったので、あれは未来から遡及してきた思念だったのだろう。閃いたのは、青果店の奥でトイレ代わりに手頃な段ボール箱を見つけた場面だ。ふと目の端に動くものを感じ、下着を下ろして屈んでいた私は腰を抜かした。びちびちと湿った。臭い。その場で全裸になり追剥で得た高価そうなそのブラウスで床を拭う。零したら拭かなくてはならない。ひとしきり終えて、さて何だったのだろうと目を遣った。犬がいた。が、動かない。その頃には既に暑くなり出していたので私は額の汗を拭った。つ、と雫が瞼を滑り、そして、睫毛に乗った。沁みない。そこでやっと、ああ、眇めていたのだな、と気付いた。何かの拍子で左目を閉じたのだろう。通常の社会生活者ならばすぐさま気付く。だが動くもののないこの《静止》世界では片目の視界がなくとも何らの不便もしない。就職拒否のアダルト・チルドレンは実家に引き籠りなのでこういうことがあるらしいとラジオで聴いた覚えがある。この犬が動いたように思えたのは、開けていた左目の眼輪筋が弛緩した際、無意識で代わりの右目を開けたことに由来する視差だったのだ。汚れ損、臭い損だった。しかしふと、思った。どうしてこの大便が臭いのか。
《静止》以来水様下痢が続いていた。便通が変化した場合、それが長期に渡るならば機能的異常の疑いがあるが、急激に変化したのならば示唆されるのは器質的異常である。四週間以上の軟便は慢性下痢、それ未満での発症は急性下痢と呼び分けられ、後者の原因としては病原体、毒素、薬物が主に挙げられる。臨床所見において最も頻度の高い原因はウイルス性腸炎、次いで病原性大腸菌などによる細菌感染だ。しかし殊にこの場合は、食糧が腐敗しないことから言って、そうした解剖学的異常を認められるディスペプシアではないとするのが自然である。消去法で機能性腸疾患だろう。とすると、中学程度の保健体育の知識では、認知度の最も高いそれであるところの過敏性腸症候群くらいしか思い当たるものはない。要するに曖昧な憂慮不快感のせいである。《静止》という明確な不安要因があるのでいかにもそれらしい。簡単な理屈だ。それが、難しい問題に裏返った。人体はホメオスタシスに要する化合物の幾つかを生合成出来ない。これを必須栄養素、或いはビタミンと呼ぶ。《静止》以後の私は玄米と、不足分のビタミンB群を補うための豚肉ばかりを食べていた。ライフラインが全滅していて複雑な調理は出来ないので、煮ればいいだけのこれらは食べるのが楽だったというのが大きい。しかし事ここに至って考えてみれば、玄米中の非水溶性食物繊維は炊いた後でも全体の約二パーセント強を占める。排便量はそれだけ多くなくてはおかしい。加えてこの糞便臭。人糞の悪臭はインドールやスカトールなどのアミンに由来するが、これらは食物中のアミノ酸から生じている。アミノ酸の塊である食肉が糞便を臭くするのはそのためだ。しかしこうしたアミンは大腸で生じるものである。人体における栄養吸収は主に小腸の絨毛内毛細血管が担っているのだから、黒胆汁は左も右、膵液や胆汁がそんなところまで活性を保つ道理はない。そもそも大腸まで消化されず残存する食物はそう多くない。では何故大腸でアミンが生じるのか。典型例は、食物繊維が、腸内細菌の働きで発酵している、というものだ。
腸内細菌。
ミトコンドリアや消化酵素はまだ人体の一部と言い張れたが、流石に腸内細菌まで私の一部だと言うのは無理がある。生物は死ぬと腸内細菌によって自ら腐敗し始めると聞く。本質的に別個の生き物なのだろう。と、すると、《静止》世界での他の動ける人、もとい生存者を仮定した場合、それは即ちその生存者の腸内細菌の生存をも意味する。そして生存者たる生物は何も人類に限らない。平凡原理から言って、この仮定における四大オカルトである地の深み、海の底、星の外、心の内において、前二者には少なくとも生存者がいる筈だ。そしてその生体内細菌も。で、コープの法則からして、身体の小さな生物はそれだけ寿命が短い。
地中と海中で細菌クラスタが急速な進化をしている、最悪なことにそれは恐らく糞便臭がする、との仮説がここに立った。その裏付けが、アレだ。自分のひり出した大小便に追われているようなものである。
「糞ッ」
冗談じゃない。
白虹、永遠の西陽を貫いて眩く、ぱらぱらと舞う綿毛は恐らく海洋由来のミネラル。ぼおお、ぼお、おおおおお。こぽこぽと籠って聞こえの悪い左耳にも、あの笛に似た鳴き声は否応なく飛び込んで来る。背負い、架され、贖うために人は偉く、背負わせ、墜ち、掲げる正義もないものはそのために賤しい。アレは、偉くない。捕まるのは真っ平だ。キプリアヌスの疫病に対するキリスト教のように、或いはゼンメルワイス論文に対するウィルヒョウのように、はたまたコペルニクスの新奇なモデルに対するプトレマイオスの精美なモデルのように、私は権威の信奉者である。最も偉大なるものは最も背負ったものだ。だから私は水晶宮を、悟性を最も信奉する。その神託によれば、オカルトにも現象と物自体の別はあり、遍く現象は観測者効果を以て確率的分布を有する。有意水準を設けない限り万物に外れ値はなく、故に認識可能物は実在可能物である。推理に乏しい認識、即ち直観で、思い描ける出来事は全て起こり得る。筈だ。尤も、一〇一羽目の鴉は白いかも知れない。だから四大オカルトに敢えて曝され暴くことを私はしない。そんなに経験したいならアレに食われてクンバカしやがれ。私は地上の楽園へ行く。ふと、そのための、選んだ目的地が正しかったのか不安が過ぎる。不安は感性。否定した。眠い。疲れた。違う。例えば誰かの足に私が躓いて、私が血を流したならば、それは痛いという現象、観測可能事物である。その誰かもまた痛い現象に連なる一人であり、私一人の占有事ではないのだから、私は、勿論その誰かもだが、痛がってはならない。痛がるのは被害妄想だ。憂慮不快も、眠気も、疲れも、何事だろうと感じてはならない、し、感じないのが、普通人である。右手のスロットルに縋る。変わらぬ暑熱を観測する。
いま・ここは依然なる第二種条件付不安定、停滞前線下なのも同じくだが、巻層雲がもったりと厚みを増しつつあるのが気にかかる。西の風。幹が揺れているから、風力はおよそ九、大強風。降水量と降雪深度は共にゼロ。ひっきりなしの黄砂で濁った視程は思ったより全天日射量を和らげてくれているが、オゾンの傘がまだ残っているかは頗る怪しい。湿度は冬場にしては高い。気温は、夏場だとしても高い。四〇度は優に超えている。素肌でいると火傷するので、夏物のパーカーとデニムにウインドブレーカーを羽織っただけの、複合不況極まれりな恰好ばかりこうして強いられていた。好きなだけ分捕れた《静止》当初が恋しい。剥ぎ取っただけ自身の生存とそれ故の偉さを示威出来た。
《静止》以来の世界はまるで時間が停まったようだ。私を見下す人類はどこにもいない。それなのに、数少ない動けるものである天候から、私は虚仮にされている。ふつふつと憎しみが湧く。どいつもこいつも。
光の相対速度は一定不変である。よって光速度たる時速三〇万キロメートルは無限大であり、時空直交座標上における光子ビームは時間軸方向に分布しない。そしてこれは座標上の万物に適用される。換言すれば、事物の有するスカラーは全て同値であり、空間軸方向に運動するならばどんな事物も時間軸方向には分布しない。逆もまた然り、だ。だが、この空間軸方向光速度運動系についても光の相対速度は一定不変であり、系からの脱出光を系外から観測した場合も観測者の速度に関わらず相対速度は三〇万キロメートル毎時である。何故か。それは観測者と当該系との間の空間がゼロになるまで歪曲圧縮されるためである、と説明される。これを特殊相対性理論と呼び、また、加速効果と重力効果の交換法則であるとまで一般化したそれを一般相対性理論、或いは等価原理と呼ぶ。従って、一般相対性理論に則れば、時間を停めることは理屈上可能である。無限大の外力で無限大に加速すればよい。外力は仮定するとして、問題は二つ。第一に、その無限大に加速する系とはこの四次元宇宙である。私は系中に在るのだから、私がいま・ここで観測していることとはエネルギー的に矛盾している。第二に、超次元には空間軸をプロット出来ない。交換法則が適用出来ない以上、加速効果か重力効果かのどちらかしか生じ得ない。
前者ならば、系は無限大のベクトル量で超次元を運動する。真空系中を運動する電磁波においてその光子が電子質量に対し一定以上のエネルギーを有するならば、ディラックの空孔原理より、光子周囲に生成された電子・陽電子対による真空偏極は誘電体のように働き、電気双極子を発生させる。するとこの電磁波による電場は自ら生じた電気双極子の電場によってマスクされる。これを真空遮蔽と言う。乱暴に言えば、過大なエネルギーを有した光は飛んで行けない、ということだ。ビッグバン直後、まだ熱かったこの四次元宇宙でも、光子の窮めて激しい運動は自ら起こした真空遮蔽によって遠く飛んで行くことが敵わなかった。膨張やコンプトン散乱や、その他様々なイベントを経て四次元宇宙がすっかり冷えた頃、宇宙が晴れ上がった頃には、光子の運動方向はバラバラになっていた。この原始時代からの光を宇宙背景放射と呼ぶ。宇宙背景放射を幾ら辿ってもビッグバンのあった地点を特定出来ないのはまさに過去の真空遮蔽のためだ。それが、系丸ごとで起きる。つまり、無限大のベクトル量で超次元を運動したならば、系の運動は無限大のエネルギーでマスクされる。自己矛盾である。
かと言って後者ならば質量が無限大に発散して重力崩壊する。私が参考書片手に首っ引きで試算したところによれば、質量約五〇キログラムである私個人が光速度まで加速した場合、発生するブラックホールの規模は超太陽系スケールである。しかもそこから五秒以内に天の川銀河全体を呑み込む。それが、これまた系丸ごとで起きる。四次元宇宙が形そのまま特異点になる。何が何やら、だ。マレー・ゲルマン曰く、量子力学は真に理解している者が一人もいないにも関わらず、呼吸や光合成などで使い方だけは知られているという、謎めいて混乱した学問領域である。またファインマンに曰く、相対性理論は誰にでも理解出来るが、量子力学を分かっているという奴は嘘吐きである。まったくその通りだ、と思う。少なくとも量子力学的にはいま・ここが質点になっていないのはおかしい。
ふう、と息を吐く。要するに、時間は停まってなどいない、というのが私の見解である。
事物は対称性のやぶれを伴って相転移する。例えば、液体の水が有する連続的並進対称性、もとい不規則に水分子が飛び交っている状態を突き崩すと、水分子が規則的に配列した状態、即ち氷になる。《静止》の場合、崩されたのは連続的時間並進対称性だったと私は考える。そしてそれは有限量の外力を周期的に与え続ければ可能である。四次元宇宙に無限大の外力を与えて無限大に加速させるのに較べれば遥かに手間がかからない。但し、外力が加わり続けるため四次元宇宙全体が過熱になることは考えられる。それでも、駆動の周波数が四次元宇宙内のどのエネルギーにおいてもスケールが大であるならば、加熱の伝播が遅れて小康状態になることはあり得る。また、ただ単に不純物に励起がトラップされているだけというのもあり得るだろう。電子レンジで温めたのに中身が冷たいままだった、というのと同じ理屈である。《静止》以来の世界で私が動けるのも、大気が流動するのも、太陽光線が地上に届くのもそう。電子レンジでの解凍が半端に失敗したために過ぎない。恒星一つが完全な形ですり抜ける確率がどの程度だったのか、それは、電子レンジの性能が分からないので何とも言えないけれど。左も右、だとすれば、《静止》から回復することもまたあり得ないと導出出来る。解凍した冷凍食品が常温下で再び凍り付くことはないように、この世界の事物はほぼ離散的時間並進対称性を獲得して不可逆である。《静止》は、既に過去である。生き延びたいならば現状に甘んじて自助するしかないのだ。