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そんな難しく考えることはないのよ。大丈夫。前だけ見て生きていればきっと。い、嫌、いや違う。どうして。あれえ、靖煤蒔ちゃん帰ったんじゃないのお。どうして私は、咄嗟に。衝動的に。整合した認識なくして世界は分別し得ないのに、まるで、先生、そうあの先生のように、嫌、い、いや不合理だ、そう先生に、テンプレート通りの陳腐な焦燥に呑まれて。駄目だ。まるで変わっていないじゃないか。疲れてなんかいない。私は合理に、普通に生きるんだ。生きてきたんだずっと昔から、だから学級会から連れ出たんだあの頃あの子と、黴臭い泥と金臭いぬめりと。ごぼごぼごぼ。息が出来ない。押し当てた拳からはあり得ない柔らかさに目を遣るとぬいぐるみが、ああ、ああ。それが所期の目的であったか。音が止んだ。
折よくウィンチは止まり、扉が開いた。円筒形のアーケード、幾筋かのパイロン、店仕舞いする紙芝居屋。一様に西陽に染まっている。琥珀的郷愁は、但し、隙間の向こうに。開き端のところで扉が動きを止めていた。暫く待ってみる。が、動かない。館内放送も聞こえてこない。役立たずめ。手をかけてよいものか、躊躇う。不意に閉まったら挟まれてしまう。ぬいぐるみを足元に置き、靴の先をこじり入れて、それから両手を縁にかけた。ぐうう、と横に圧し遣る。意外と滑らかに開いてほっとする。自然光の中へ。
ひいひいと笛の音が耳を聾する。海へ歩み寄り、水面を見下ろすなりぱたりとそれは止む。リコーダーに似ていたなと再び横断歩道を通ってエレベータホールに戻り例の家族を探す。労なく見つけた。少女の肩をそっと叩く。話しかけ、回り込み、肩を突き、おい、なあ。無視。股間を蹴り上げる。私が二番目に嫌いなのは話に割り込まれること、三番目に嫌いなのは話を無視されることである。も、無言。火処へ執拗に爪先を叩き込む。無音。お頭の良い血筋だことで。何度目かで、ぐらり、揺らいで少女は倒れた。受け身さえ取らず微笑みも崩さず、無視。無視だ。刹那、視界が真っ赤に染まる。ポケットにキースがない。見下しやがって、と、思う、のは価値観へ整合的に準拠する、背徳たい正義は暴力を以て執行される裁き、に任じられたトクシュ係ならばこそ命を引き受けるために偉い、ので見下されるは不当。故、この子を虐げるのは人間疎外に現実性の普通である。踵を振り下ろしてじりじりと踏み躙る。サックス・カラーの星柄に泥を塗り込める。そしてまた作業に戻る。無視が続く限りの社会的義務。ドリブルのような、ばす、ばす、という音だけが海辺に響く。
波の音がしない。
急所一点をひた潰しつつ見回す。この子の両親は寸毫とも手伝う素振りがない。その向こうの歩行者信号は消灯している。雲は、まあ流れているが、それは機影が動いていないから分かることだ。視線を下ろす。自動車も漏れなく停まっている。警笛一つ聞こえない。発動機ごと停止しているらしい。降りてくる人さえいない、違う、誰一人、ぐるりが雲を除いて何一つ動いていない。随分手が込んでいる。フジか。少女に頭を下げて蹴り止め、少し辺りを窺った。アーケードからまさに飛び発ったばかりらしい姿で空中の雀が停まっている。どう見てもナマモノだ。でもそういうことも不可能ではないのだろう、私が知らないだけで。見える範囲の猫を手懐け子供の一人も漏らさず仕込み、仕掛けが溶けるのを待って。凄い。しかし、遅い。バラシが遅過ぎる。カメラが一向やって来ない。中断した作業が気になり再開するが、どうにも気が漫ろになって爪先の狙いが何度か狂った。テレビとはそういうものなのか、或いはそういうドッキリなのか。合理的にはどれでもない可能性もある。非実在性事象であるならば話は早い。不思議の国のアリス症候群だとか、離人症だとか、そういった名には耳馴染みがある。睡眠障碍由来の急性見当識障碍、とすると大袈裟だが、この症例に卑近なのは時差ボケだ。誰にでもあり得る。そして概ね数分、稀な症例でも数日で終息する。口を開けて待っているだけでよい。問題はこれが能客観測性のある実在性事象である可能性を棄却出来ないことにある。トンデモ本やスペワで仕入れた知識を引っ張り出す。現況を素朴に形容する言葉を、私は一つしか持たない。
時間停止。
現実性の欠片もない文字の並びである。
暫し茫然とする。体感数分。しかし実際のところは、あー、数秒、とも言えないのか。慣れるまで時間が、時間。
「ああ、もうっ」
踏みつけにした踵が鳩尾を捉えた。ごぶ、と胃液が溢れ靴にかかった。汚い。不快感で頭が冴える。こんな事態のための黒魔術的直観だ。科学は骨。合理は芯。だがゴットの推定に反した理不尽に耐えるのは頭蓋骨の中身である。よし。ぱちん、と頬を張る。生き延びてみよう。何の理由もないけれどそう思う。思うついでに図書館へ赴き、着く。一瞬だ。尤も、コンビニで万引きしてきた地図とここまで乗ってきたバイクのメータから逆算するに、旧時代尺度で言うところの二〇分弱だけ寿命を要したが。些細な異同である。
自動ドアが意外と頑丈だったので開いた窓を見つけて入る。大声で中森明菜を歌いながら書架を過ぎる。動くものはここにもない。ライフラインが遮断されていて真っ暗なので現在私の手には燭台が握られていた。ぬいぐるみに蝋燭を何本かねじ込んだだけ、とも言う。垂れ落ちてきた蝋を綿が受けてくれるおかげで案外快適だ。とは言え片手が塞がったので、一冊ずつ目ぼしい本を持ち出しては外と館内とを何度となく往復する手間をかけた。面倒臭かった。それから道中見つけたインテリ層の一軒家へ赴き、割れたガラスで生活に不便しないよう、今度こそ窓ではなく玄関から入った。扉をブチ抜くのに苦戦して自動車を何台かと一軒家を何十棟か余計に燃やしたが、些細な異同である。漸く入った屋内に主婦が居座っていたので庭に穴を掘って埋めると私はやっとひと心地ついた。
テクストは無限遠へ後退していく。読書が身になることは非常に稀であるし、影を踏んで積み上げても出版速度のオーダーは常に読了速度を凌駕していく。無力感を味わうだけだ。読書とは無知を思い知る行い、知的リストカットとでも呼ぶべき行いである。そして、だからこそ読書家は偉い。いま・ここにいる無知な自身を罵り殺して己へ無期限に背負わせ、私は馬鹿です役立たずですと、何の贖いにもならない罰の言葉で生きていく。ならばと、我慢して読み進めた。そうして幾らか寿命を費やした。Von hier und heute geht eine neue Epoche der Weltgeschichte aus, und ihr könnt sagen, ihr seid dabei gewesen.
森を出て外敵の切迫を察知した猿だけが人類と成った。時間線分に死を先駆先験し、永劫回帰と腹を括って、ために恐怖とは予告されて到来するものであると定立した。情動の獲得は時間感覚に由来した、と。間違いではなかろう。だが全てそうではあるまい。機械論的唯物観はたかが純白魔術だ。前世紀まで、思い遣りの心は非科学的概念であったと言う。利他精神の否定を、キリスト教的性悪論世界観を多分に反映している、と嘲るのは容易い。しかしサイエンスからオカルトを排せんと試みたその行いは、明治維新以来の我が国において珍しくもない態度ではなかったか。哺乳類や鳥類、そして鰐などの一部の生物種には、共通して思い遣りの心がある。それは子育てという、共感理解を要する本能を有するためだとする説が支配的である。進化線分の時間的突端で、本能が思い遣りを要請したから、適者生存原理はタイムラインを遡ってその本能に群肝の心という特大のオカルトを刻み込んだ。これも同じことではないか。恐怖を先験したから、遡って時間感覚が発露した。否、神が何をも差し置いて真っ先に光を創造したように、暗黒霊液の混沌を漂う我らが対称性バリオン群もまた、プランク時空間の伸展に先駆けて宇宙的情動を具したのだと仮定しても、そこに何らの不具合はない。発生が旧い。だから、感情的理解は時間的事実に優越する。だから、怖がるのは死んでからでいい。
土笛の音に似た喘鳴が辺り一帯の夕景を震わせている。
脳裏が痒い。動くものに興奮するようなので隠れられればそれで済むのだが、拙いことに、県道六四号三次美土里線は、中国縦貫自動車道と暫く併走する区間がある。まさにその区間であった。市街地までこちらの音を追跡されることになる。あまり山中に分け入るのもどうかと国道四三三号を選ばなかったのは失敗だったか。ぱきぱきと右に広がる木立を薙ぎ倒し、音源たるアレの気配は愈々濃くなる。途端、衝動的に眼窩へ指を突っ込んで脳味噌を掻き出したくなる。合理から外れた悪臭と鳴き声を後頭部に浴びせられ、ありきたりな言い回しだが背筋が凍った。振り返って距離を測る暇はない。下唇を薄く噛み切り、脅えに弛緩した右手へ体重を乗せてスロットルを全開する。あちらは精々が時速二〇キロメートル。ドジらなければ逃げ切れる。怖がるのは。風を切る。
目的地を鳥取砂丘に決定してから随分になる。道程に海岸線を避ける都合上、山陰道で一気に北上する案は初めから捨てていた。陰陽連絡線を辿る手もアレの危険があって使えない。必然、中国山地を一般道で東西縦貫するルートだけが残る。地図と首っ引きだったらとうに死んでいただろう。転籍の全国行脚をした経験が《静止》に際して役立つとは思わなかった。本籍地も代々鳥取だったと思えば、合理的に決定したに過ぎないとは言え、何かの縁を感じずにはいられない。が、気のせいである。鳥取県東部なんて浦富海岸だの白兎海岸だの、砂ばっかりだ。武士だったらしい私のご先祖様は、同じ因幡国でももっと人間の住むエリアにいたことだろう。私がスギ花粉症なのもきっとその頃からの遺伝である。
あの瞬間、エレベータを降りたあの《静止》事象以来、目に入る他人は誰一人動いていなかった。しかし他人の痕跡が絶無だったかと言えばそうでもない。私はここにいました。と、そう、駅の掲示板に書かれていたのを見た。落書きにしては妙な文言であった。山口県を出る前の、まだアレに出遭う前のことだ。おや、と思ったのはうっかり島根県内を北上する道を選んだ頃で、アレとの何度目かの遭遇を経て南下する最中、黒のラッカースプレーで陸橋の麓に。陰茎のようなキルロイ・ワズ・ヒア。あの掲示板の伝言の横にも、そう言えばあの絵が描かれていた。何故描き残したのか。あんなところを通るなんて、書いた人は徒歩で移動しているのか。そもそも日本で、それもWWⅡ以後に記すのは違和感がある。不思議だ、と思った。それからも、ある所では石材屋のトタンに、ある所ではアレの目を盗んだ路地裏の換気扇に、ある所では事故死したばかりで在り続けている老人の背に、あの陰茎のような絵は思い思いの画材で書き残されていた。誰か、他に動ける人がいるのだ。恐らくはその一人きりだろうけれど、少なくとも、この事象を観測しているのは私限りではないのだと、そう思うと心強く、裏返しに寂しくなって、その度にひどく自分を責めた。不合理である。間違っている。どうして。どうしても何もあるか、とあの声に背く。何しろ生き延びるにはアレから逃げなくてはならない。バックミラーを内向きに折る。不眠の隈で髑髏の浮いた顔が映った。
電気・ガス・水道が途絶して久しい。石油を用いる機械類も徐々にノッキングが激しくなっている。時の流れが停まったという直観は、ある側面においては、正しいのだろうと思う。だが、不充分だ。私の存在が何よりの反例である。そして不本意ながら、アレと出遭ったことで、私はある一つの仮説に基づきこのエン・エルゴン・ェイアな《静止》世界を生きることにした。それ故のこの無茶苦茶な強行軍であった。