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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 もう憧れない。

「何言ってんだか意味分かんねえよ」

「テキスト・クリティークって知ってますか。さっき自分で言っていましたよね、犯人はこの中にいる、って。どこの中にいると言ったんですか」

「この停まった時間の中以外にあるぅ。常識的に考えてさぁ」

「そう。その常識は誰のものか。社会科で習ったことをちょっと思い出してみて下さい。第一に、時間の流れというアイディアが生まれたのが、樹冠に守られなくなったことで遠くの敵の接近を見て知るようになったサバンナ進出時代。第二に、時間は円環するというアイディアが生まれたのが、星辰の観測され出した猿人時代。第三に、過去・現在・未来として時間を整列させるアイディアが生まれたのが、農耕を志向してナイル川沿岸に居住し出した原始時代。第四に、時間を星辰と対照して、時間をデジタルに認識するアイディアが生まれたのが古代文明時代。第五に、感じた時間の長さと実際の時間の長さとを呼び分けるアイディアを生み出して、感覚より時計の方が正しいと約束することにしたのが、人口の安定増加が始まって国民国家の原始的形態が始まった文明初期の時代。第六に、共通の時間は視覚的に体験されることになったのが、時計塔が公共事業で建設された中世暗黒時代。第七に、時計は制定されるものである、というアイディアが大衆にも広まったのが、他国と交わった征服戦争の時代。第八に、時計が暦と明確に分かたれたのが、錬金術最盛の前近代。第九に、民間でも分単位の時間の需要が生まれたのが、労働の大規模化された産業革命時代。列車とそのダイヤというメディアが誕生して、国民国家やみんなや常識という概念が広まったのもそう。それによって感覚や時計よりも正しい時間なるものの方が正しいと約束することにして、それに合わせるということが一般化したのもそう。車窓を流れる景色と時間経過のイメージを結びつけるっていうアイディアが広まって、世界は時間の流れを漂う舟や流れに佇む島のようなものと捉える向きが強まったのもそう。で、第一〇に、そんな正しい時間が広く単一化されたのは、グリニッジ標準時の制定された近代。最後に、時間のデジタル分割が再定義されてよりその定義に精確な時計が求められたのが、以降の近現代戦争時代」

 突き出した拳から一本ずつ指を立て、祈るように合わせる。

 みんなは私のことなんて忘れている。故に自分など当時から塵芥である。連中は慇懃にして、裏に表に、決して嘲るということがない。面罵はおろか陰口一つの下賜もない。幼年にあれだけ偉かったからには今や天上人にして然れど、却説と腕まくりして巷間へ奮い遊ぶ馬鹿な自分さえ寸毫たりとエリート達の視線に見下されやしない。インテリ共は、戦わない。救いたくない姿のトクシュには無視をひた貫く。虚仮にしやがって。野次の声が左耳でごぼごぼと鳴る。だって、だから。ここのみんなは、みんなじゃない。

「つまり時間に対峙してそれが視点人物の中か外か、なんて考えを持つのは普通じゃないんです。それは旧くない。素朴なものでもない。ある程度成熟した文化圏にあって、しかも人間にあってみんなでない人の、狂った思想からしか出てこない発想です。ここのみんなは、過去の回想の写し姿じゃないかと思ってました。けど、違いました。みんなは皆、いま・ここの私の頭から五分前に産まれた影です。意志なんてない」

 犯人を凝視める。

「《静止》はお膳立てがあまりに好都合で、犯人がいるのは明らかだった。始めは尖った時間、つまりこの《静止》の外から働きかけてるんだと思っていた。相対性理論から光速度不変の原理をおくと、無限大の外力を与えても時間的・空間的にエネルギー上一見して無茶がある。それで、連続的時間並進対称性にやぶれを生じさせるための周期的外力が与えられたなら、という仮説を立てた。これなら可能だから、って飛びついた。そして周期的であるからには、このタッパーウェア宇宙にイタズラ出来る超次元、イコール、尖った時間、にいることを想定するしかなかった」

 唾を飲む。いやに響く。

「でも、これはあの子に否定された。この犯行手順だと、分子一つ一つを手掴みで振動させられる精度と能力があるのに敢えて周期的外力で対称性を突き崩した、なんてことを想定することになる。相手は人知を超えてこそいるけど、《静止》はファイン・チューニングされてるから、確かにこれは変。じゃあ、本当に時間が停まってるのか。犯人がこの湾曲した時間の中にいるならその方が有力だった。けど、これも駄目だった。もしそうなら、犯人はヒトの、それも時間的な長さの次元をボトルネックにした何かを意図していることになる。例えるならチラシの裏に書き殴った数式みたいなもので、犯人にしてみれば続きを書くだけでいいのに、敢えて数式の側が勝手に動き出すのを待ってるようなことになる。勿論、犯人が高次元から何か働きかけてきてもこの時空からは何も観測出来ないけど、観測出来ないからこそ、《静止》っていう明確な分水嶺があったこととこれは矛盾する」

 唇を舐める。

「それに、説明出来ないことが多過ぎる。《静止》してからも熱運動が続いてるのは、まあ、何かしらの犯行動機があったんだろうってことで百歩譲っていいとする。でも氷菓子が気温と同じになって、でも溶けてない、っていうのは説明がつかない。三態っていうカタチの保存が物理法則に優越してる。そもそもユミルの東西でヘルヘイムとムスペルが生まれたのだって、自転による大気の摩擦がなくなることを考えるとおかしい。順当に考えたらヘルヘイム側が凍り付くのは左も右、ムスペル側だってもっと気温が下がるでしょう。こうなると熱運動が続いてる、と言うよりも、熱運動をさせている、とするのが妥当。生物はデフォルトで睡眠していて覚醒するのは非常の際だけ、みたいな感じだと思えば大体合ってる筈」

 それから、と胸中で付け足す。単純に自分が狂っているだけ、ということもあり得る。でもそれはコギト命題の問題になる。無意味とは言わないまでも、犯人とその犯行および動機を曝くには当たらない。

「で。要するにこういうことになる。先ず、犯人がいるのは魔女の時間のウチではない。次に、《静止》は犯人がこの湾曲した時間において魔女の理屈で犯した事件である。最後に、自分は犯人ではなく、犯人と出逢ってもいない。それから今言ったことから次の三つは棄却される。一つ。犯人なるものはどこにもいない。二つ。犯人は魔女の時間のソト、尖った時間にいる。三つ。犯人は魔女の時間のウチにいる。そうなると言えることは二つ」

 兎の耳のように指を立てる。

「一方は、犯人は魔女の時間のヨソにいるということ。こっちは一旦保留として、もう一方は、魔女の理屈と同じ次元軸・同じ知的レベルで《静止》は決行され、その犯行は今以てなお観測され続けているということ。観測者の候補はあの子かあの怪物、アレしかいなかった。そして少なくともあの子ではない。だって殺しても何も問題に進展がなかったから」

 容疑を外すには論拠が弱いと犯人が言う。一呼吸おいて答える。

「勿論その通り。でも、アレとあの子は同一人物なのを考えると、リマ症候群的な自己犠牲をしたあの子が犯人だとするのはどうも不自然になる」

 糞便は蜂蜜に、ハツカネズミは海亀に、ガチョウは不死鳥に、牡鹿は一角獣になる。中国では兎は不老不死の秘薬の材料となる薬草を挽くものだが、湾曲したこの星の投げかける眼差しに少し角度がつくと、その兎は餅を搗き出す。そして太平洋を挟んだ新大陸では、兎は長髪の女になる。

 糞便の腸内細菌が怪物になるのだとして、そのリスクが一三一倍あったユミルでパニック映画さながらの光景が現れなかったのは何故か。それは、自分のする大小便だけが怪物になるからだ。では、どうして自分の排泄物だけなのか。あの子が幻覚ではなかったことを踏まえて考えると、それは糞便が即ちあの子だったから、つまり、あの時噛み千切って呑んだ彼女の右手薬指がいつまでも腹の中で彼女由来の腸内細菌の母体となっていたから、そして恐らくそれはヘテロジニアスなクラスタではなくホモジニアスな原形質であったためだと思われる。ユミルにいた生存者の中でも他の生存者を食べた経験があったのはきっと自分だけだろうから、違いがあるとすればそれだ。

 死んだ筈の彼女がどうして生きていたのか、そもそもあの彼女と同一人物なのかは分からない。だが、あの子が乗っただけでディンゴがフォギングした、あの子と乗っていたら車体表面が虹色に変色した、というのは明らかに不審である。素直に考えれば、熱湯で落ちない白い汚れ、虹色の酸化被膜、というのは何らかのタンパクだ。燃料が妙に尽きないのだって、何も不思議なことはない、燃やすものがあったからと思えばいい。

 ディンゴはあの怪物を燃料に動いていた。

 そう考えると、あの島へ誘導するような追跡行も、エアコンのように鳴きながら最期まで車体の虹色を使い切ったのも、全てこちらを生かそうとしていたのだと分かる。真意は知れないが《静止》についてアレは無実だ。

「そこでアプローチを変えることにした。アリバイから犯人を絞り込むんじゃなく、トリックから犯人像を炙り出す方向にね。もし犯人がスコラ的プラトン的な意味で無時間的に魔女の時間のヨソへ存在しているのなら、この次元の隔たりを往還する何かが必要になる。その何かが分かればいい。目的地の設定入力が間違ってたことに気付いたら、もうあとは簡単だった。だって始めからその答えは見えてたんだから」

 犯人から目を外す。教室には八人の影。自分と、みんなと。自分の席は教室最後列左隅の一つ右、その左側の窓に近付いて正対した先刻、教室の様子が自分自身の右側へと広がって、そこに六人の姿が映っていた。自分のすぐ後ろの姿は見えなかった。右の奥を見遣る。犯人へと再び眼差しを向ける。

 嗤っている。

 人工皮革から頬を離す。なぞった指先に寝痕の窪みを感じる。息苦しいルーフライニングから目を背けたままドアを潜る。頭上から降り注ぐ視線が変わらない。見ない。黛色の遠景に緑の炎。それは風でもない。雨でもない。その全ては愛欲の悩みに纏わる暗い恐れだ。宵闇に寂しく震えて崩れていく肉體の柱だ。目を落とす。様相が一変していた。建物がある。石畳がある。どうやら街灯らしいものもある。そして広い。ずっと向こうまで巨大な都市が広がっている。全容こそ不快な刺激臭のする青い煙に滲んで見えないが、町一つ国一つといった規模ではあり得ない。大陸であるという確信がある。但し、そのどれもが明らかに高次のものであった。例えば、dは二次元平面に時間軸を与えることでpにする回転操作を行うことが出来る。同じく三次元空間において時間軸があれば、dはbやqにする反転操作を行うことが出来る。ならばより高次の存在はより高次の軸を経由して我々の観測し得る万物のある観点を、言わば裏返すことが出来る筈である。感覚的には平面なのに、真っ直ぐ目で追った壁がいつの間にか床になっている。そうした非ユークリッド幾何学的外形を持つコンパクト・ケーラー多様体が蛸のように氾濫していてうっかりホモロジー群で解析すると酔ってしまいそうだ。蛸と愛は同じ画数である。噛みつくように指を含んだ。ちょっぴり落ち着いた。

 人影は、たぶんない。犯人の気配だけが羊水のように満ちている。口笛を吹こうとして、やめる。憧れというご都合主義は実在性の論理に従属しない。但し、理想論はフィクションであってヴァーチャルではない。理想が叶うのはヴァーチャルに投影した己の影とその現実性であって、実在性でリアルな己自身は理想通りにならない。特に、悪魔と契約したファウスト博士のような、悪魔を扱う創作者は、その悪魔の欺瞞を自ら祓ってしまう。故に創作者は創作物で幸せになれない。悪魔の魔術にかかることが出来るのは、テレビの仕組みを知らない魔女だけである。ちゅぱ、と指を引き抜く。右手の薬指がてらてらと光る。きっと、もうじき全てが終わる。予告されてそれは到来する。震えている。左手を添えて抑える。怖がるのは死んでからでも出来る。ソトなる感情的理解はウチなる時間的事実に優越する。タイムラインの終焉の後だろうと、恐怖することは優越してなし得るのだから。宇宙的恐怖は旧く、故に《静止》を、また生死さえも問わない。どんなご都合主義も現実性を得て起こり得るリアルである。膝を抱えて座り込んだ。空いた手が思わずキースを求めて、溜息を吐く。吸って、吐いて、吸う。

「犯行動機は分からない」

 尤も推定は出来る。あの温度勾配と大気循環は地球を変形させる。通常ならアイマスクのような形状になるだろう。でも自転も公転も停まっていること、何より犯人が貴方であることを考えると、その終着形である現状の地球は歪んだ円錐になっているに違いない。角笛のように。

 嗤うと愛は同じ一三画である。一三は未来に角を足した数。

「でも犯行手順については分かってる。ブラックホールの中と外みたいに次元軸のプロットが違うせいで関与が難しいのなら、無次元量であればいい。高校で習ったネイピア数、中学校で習った円周率、無次元量にも色々あるけど、この場合は小学校で習った角度がそれだと考える。事実この島だって着いた時には折り畳まれてた。この時空で目にする、大気と接触した星明かりの放散パターンや、ヘッドライトを浴びた眼鏡が透過する光の放散パターンや、その他諸々の角度全てに、《静止》とその持続に至る観測行為が意味的に隠されている。角度は宇宙的情動に当たる先験された知識だから」

 地下室の宇宙に音楽が響く。頭上の鋼の扉を見下す。犯人より偉くなる。

 終わるのは怖い。犯人、吼えることも這い寄ることもない、ただ白痴の、門にして鍵なる魔王、それは予告されて到来する。

 だから予告してみせよう。この世界という文学から、文字という角度にて、眼差しの、視線の零度で、今これを読んでいる貴方へ。犯人へ。読者は作者の共犯である。

「君はじつに馬鹿だな」

 笛の音が聞こえる。

 僕は筆を擱いた。

●裏表紙

挿絵(By みてみん)

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