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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 立ち上がる。幸福とは、戦って勝ち取り、優越して、見下すことである。戦うからには世界と対峙するのは必至だ。だから、肋骨が幾らあろうが不合理である肉体を、普通な誰もが捨てられないでいる。身体髪膚これ父母より授かる。刺青やピアスは肉親への裏切りだ。血を流すだけであって血を殺すことは出来ない。であれば。ミニ四駆。ベイブレード。遊戯王。ポケモン。みんなの正義は先験的情動に、ウチのルールは個人にそれぞれ縮退していくのならば、唆して戦わせること、それを外野から見下ろして冷笑することを、戦いと呼ぶように取り決めればいい。自己欺瞞だろうがそれが通じるのなら世界はそのように回る。みんなは普通を造る。合理主義者は追従する。従わないのは魔女だけだ。純粋は仇になる。魔女の攻撃力は二〇〇〇と定められ、しかし盤ごと狩られる。紙が立ち上がる。むくむくと背を起こす。

 ずっと疑問だった。どれだけ背負ったかで偉くなるのなら、最も偉大な者とは最も見下された者である。政治家は公僕である。キリストは魔女である。そこまではいい。だが幸福が見下すことであるのなら、見下されることは不幸なのか。不幸なら、偉いことと幸福なこととは背反する。不幸でないなら、誰も幸福など求めない。それでは視線の肌感に沿わない。が、違う。偉いということは、みんなの期待の視線を負うということだ。幸福とは、誇りに満ちた眼差しを以て見下すということだ。これならば両立する。食うつもりもないザリガニを釣り上げて叩き殺すように、育てるつもりもないペットを押し付けられたら義理で飼うこともあるだろう。それは最も賤しいものであるから、何も負わぬところに遣られる。猫と煙は高いところが好きな故に社会のお荷物となり、地の深み、海の底、星の外、心の内においてヴェールを界面に鏡合わせの幸福なみんなから見下される。この島にあったあの水槽の人々はそうして飼われた囚人、ムー大陸時代の人々であったのだろう。立ち上がっていく。目に見えるものが全てではないけれど、目に見えるものは少なくとも認識された世界の一部である。想念が立ち上がる。そう、そうだ、この島がオカルトなんじゃないか。疎水凝集したコンフォメーションの結果がこの泥だらけの火成岩なのではないか。だって、変だ、おかしい、あんなすぐ乾く泥が堆積していたのは。乾いた泥が撥ねた跡はなかった。埋もれた色々なものが表層の風化で露出していることもなかった。《静止》後、それも私が着く直前に浮き上がってきたのだとして、隆起した起伏のない地形が泥を伴うには元々海抜が超局所的に高くなっていたか、水上に上がってから泥へと変じたか、しかないじゃないか。一辺がNの立方体の対角線の長さは次元数Dに対してNとルートDの積である。遺伝子、林檎に密む蛇、非ユークリッド幾何学的高次元フォールディング、その末のこの島であるのなら、折り畳まれているのは断面円の一・二キロメートルオーダーよりもっとずっと巨きな、千の仔孕みし森の黒山羊、巨きい・オオキイ、呪詛を喚く角度。くすっ。ごぽごぽごぽごぼごぼごぼごぼ。くすくすくす。

 陳腐。それのなんかある。嘘はただだ。私普通は疲れてでない。不思議だが、それだけだ。みんなの是非がないのなら普通かは問われない。ない。ない。ない。不都合もない。なら、思考を割くのは不合理である。荷室のバッテリを地面に落とし、跳ね上げておいた後部座席は引き出して戻して、前席のヘッドレストを外して全シートを倒す。エアコンがぼおぼおと呼吸してヴォルフトーンを響かせる。元は跳ね上げられていた席だ。元はヘッドレストの嵌っていた席だ。知らなかったがもう知った天井だ。寝転がって通奏低音を聞きながら、何か忘れているような予感を覚えた。瞼が重く落ちていく。青と隔たりなお明るい。瞼の裏に蠢動する極彩色。ああ、そうか。金縛り。エアコンはここに着いた時に停まったじゃないか。細い視界を縁取ってみんなが見下ろす。嗤い声。嗤い顔。水中。楽しい。目が、閉じた。

 こうして

 こうして出逢ったのだから

「あんたがボクの存在を信じてくれるのなら」

 ボクもあんたの存在を信じるとしよう

 こうして

 私は

 たぶん、今目醒めた。

 自分の体を気体のようにして貴女に娶わせ、永遠に初婚の夜を続けさせようと、私は自分の体を霊の炎で焼き尽くす。そうしてあの聖なる名状し難い神秘、塵埃に隠された洞穴の深みの底の底、のたくる混沌の更なる最下へと降りていく。憂いの微風に皮膜を広げ、深みの奥へ、遠くへ、内側へ。

 公正世界信念は信仰に見返りを求める。こんな可哀想なアテクシにどうかお慈悲を下さいと卑屈な視線で神を虐げる。ないモノに縋るのは馬鹿の証拠だ。ロリコンアニメに齧りつく低学歴の屑だ。信仰は目を閉ざす。そこが闇でも快晴の午睡と錯覚させる。九五ヶ条の薄っぺらな綺麗事で洟をかむ。頬に冷たく天板の感触。額に熱。前髪の起伏。振り上げた左肩に痺れ。暗くないものが見たくて重い瞼を上げた。上履きの足跡と、胃液混じりの乾し椎茸と、油揚げと、銀杏切りの人参があった。捻じれた鳩が転々とプラム・プディングのように斑。米粒が引かれた椅子で半分を押し広げられ綿埃をくっつけている。柄杓と石灯篭。左頬がぺたりと最後の夏の名残で湿る。涎を手首で拭った。右手の小指球が黒鉛で汚れていた。

 むっくりと起き上がる。澱んだ血流が直り、ちかちかと視界が霞んで戻る。眼鏡を外した輪郭の危うい色彩は緩やかに傾き出した陽光で無闇に明るく、胸元に覚えるは細い金の鎖と家の鍵の存在感。首を回す。くきくきと軽い音が響く。デモテープが回り出す。自分は。自分は、そう、ビョーキではない。自分は周囲に恵まれて幸福である。普通に生きてさえいればどんな夢だって叶えられるトクシュな才能がある。足りないのは努力である。工夫である。我慢である。なぞり書きや塗り絵が嫌いな子供だった。上手く出来ず苛立った。折り鶴を一人だけ折れない小学生だった。悲しくて笑った。中学時代、雰囲気がキモいから人前で笑うなと怒られた。イキがるなと嗤われた。プリクラを撮りたかった。独り身の浪人生ではエリアへの入場さえ拒否された。親子ほど歳の離れた男にしなを作る同級生が何組も出て来たので泣き声を殺したまま立ち去った。大学に合格した後日赴くとどこからか特定されたらしい氏名を貼り出された上で入店禁止になっていた。誰が悪いというのではないが、強いて挙げるなら、どれも自分が悪いのだ。自分に期待してはならない、実力の差は努力の差。他人に期待してはならない、苦労の差は人徳の差。ものに期待してはならない、情報の差は直観の差。ないモノに期待してはならない、責任の差は実績の差。眼鏡をかけ、眉間に力を込めて目を馴らす。がやがやと喧騒。等間隔で並ぶ机と椅子。体から兎小屋の飼い葉の乾いた臭い。吸って吐く。慌てるな。吸って吐く。

 吸って吐く。

 えいと目を落とす。濃いキャメルのドルマンチュニック。ネクタイのように錆色のスカーフ。足を包む厚いフェイクタイツと、プリーツ入りの紺のキュロット。指先が前髪でヘアピンに突き当たった。こんな格好で人前に、当時ならなお、出るワケがない。夢だ。確信して呼吸を再開した。

 掛け時計が昼休み終了五分前を告げていた。男子達が校庭から駆け込んで来る頃合いである。不貞寝していたのは何事だろうと思いつつ、背面黒板と連絡帳からいま・ここがいつであるかを割り出した。一九八九年九月、夏休み明けになって何故かいきなりテストが半月前倒しになったと告知され、みんなでドリルのページを繰っては付け焼刃に励んだあの五年生初秋のテストの翌週月曜日。五分、使い切った。

 合理主義者は体験において宇宙的情動による先験がない。従って思考という記号接地もあり得ない。判例がなければ体験は等しく認識して終わりだ。が、この場合、先験はあった。それなのに。白い追憶。

 席替えの日。それも、彼女がいた最後の席替えの日だ。

 席に就いて頭を抱えた。優しい人にばかり恵まれる幸運な星の下で産まれた。だから、愛想を尽かされると何の摩擦もなく人が離れていく。高校時代もそう。浪人時代もそう。文芸部も、立ち上げたクラブも、就活の新卒採用面接も、就職後もそう。周りに誰もいなかったのは、五分間の使い方、それが生き方だからだ。必修だからと興味もないのに教授の出した高価いだけの参考書を買って大教室の最前列中央に陣取り、板書を写して眠気に耐えて、滞留する寒気に膝を擦り合わせて、考査に臨んでみれば内容が講義と無関係で。あの数百人は入るだろう大教室にあってどうして自分が毎度あの席を占められたか、何故いつも寒い思いをするくらい人がいなかったのか。気付けた筈だ、過去問が全てだと。過去問の手に入らない留学生と聴講生しか出席していなかったのだと。早い段階で情報は出揃っていたのに目的地周辺でうろうろして結局出遅れる。頭が足りない。

 きい、と、ぴゃあ、とを足して割らない怪鳥的歓声。頭を下げて机に伏せる。あのさ、と、じゃあさ、と、でもさ、を相互に撃ち合う密林のような会話の応酬。頭上で投げ交わされる名もないゴミには手製の落下傘のようなものが取り付けられて、五・三、新記録、と男子が叫ぶ。仰け反った椅子から別の男子が後ろ向きに倒れ、赤土のフローリング、非難めいたオイ、という怒声が女子のけたたましい嗤い声を引き連れて響いた。悪いことはいつ、何を於いても正されるべきだ、とでも言いたげに。ぽづん。消しゴムが飛んできて額に当たる。勢い余って強く弾いただけらしく、慌てた様子の子がやって来て謝罪の一言もなく持ち去った。三昧に外遊びばかりしていそうな口呼吸の面長。カリメロのような髪型の向こうに、青春なんて早く終われと視線の呪詛がかかった段上の額縁と、入れられたばかりの月間標語、掠れて消え残る白墨、扉へこれ見よがしに挟まれた黒板消し、その扉の覗き窓の死角に置かれた濡れ雑巾。誰もがあの方角に首を向けない。成程。立ち上がる。

 若禿の実習生上がりが現れるや否や入り端に黒板消しを掴み取り、足を取られてすっ転んだ。脱兎のオズワルドが陽気に変貌するようなホームコメディ。げらげらと嗤い声が爆発した。確か、無断でバックレた件のヒス女の代打でこの秋からいきなり正規雇用になった奴、だ。覚えがある。造作は悪くないのにどことなく容貌が同年代に見えるということで、半年どころか半月と保たずこの調子であった。そこで拳や癪の一つも出せばいよいよ蔑まれただろうが、かといって挽回するだけの技量もなく、やめてよお、なんてああしてへらへらと諂うから誰も慕わないのだと言うことに寸毫とも気付いた様子がない。プライドが傷付きました、という表情を隠す様子さえなく、只一人立っているというだけで、座りなさい、とこちらを名指しで命じ、彼は教卓に手を突いた。大人しく席に就いた。先生に咎められてまでするべきことなどこの世にはない。

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