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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 左の東の空が紫の空を稜線の形に白く切り抜いて輝き、右向こうに広がる暗夜は息吹を孕んでそこに何もないことを露わにしつつある。進行方向とその左右二〇車線ばかりが闇だ。降るような星空に太古の夜明けめいた金色の大気。直視し過ぎれば失明しかねない緑色に揺らめく炎の煌めき。名状し難いものは怪異と名指さず、ドラクロワの二丁拳銃のように、不思議のまま留めるべきだ。人生の全部が全部をメタファーで解釈しようとすれば、色んなものが手落ちになるに違いない。ウチに人身御供は絶えてもソトなる神は予告されて到来する悪魔。ソトにあるほど駆け足は早い。そう言えば、あの時、女子の精神年齢は男子より二歳年上だ、なんて俗信を読んだ。女子の足は早い。《静止》期間を考えると私は肉体的に今ちょうど二四歳になった頃合いだから、すると内心において消費の期限が過ぎたことになる。光速度以下に分布する相補されるべき他者を置き去りにした絶対不可知の四次元領域、犯人ならばケーキを食べられるだろうか。辿り着く自信はある。何といっても私は強運の星の下に産まれてきた。望まなければ何もかも上手くいくものだ。死体発見以後の殺人検挙率は約九五パーセント、公訴時効は二五年であることより、二五年間で検挙される確率が一様だとすれば一一年前と一二年前の殺人の両方からそれぞれ逃げ切る確率は約六・五八パーセントである。加えて西南戦争といい太平洋戦争といい、光に対面した方が敗ける定めであれば、両脇を光に遮られて闇を行く私は決して敗けない。なんて。そもそも、私は女子ではないか。馬鹿なことばかり思いつく。失笑して頬を撫でると何の引っ掛かりもない、摩滅、感性の表出は気のせい。間違っている。口元に手を遣るのは雑菌がつくので好ましくない。ハンドルに戻した。なだらかな丘陵を越えていく。プロファイル加工か、段ボールの波打ったところのようだ、と思う。耳元に吐息。あれはフルートと言うんだよ、と教わる。そうなのか。

 じわり、汗が滲む。エアコンを弱める。視線はみんなのもの。対する眼差しは不可視の領域からの承認を行為によって相補せんとする世界対峙的汎魔術、判断して学び取った普通による記憶、ヴェールが一枚分薄い風景。砂時計が空を衝く。L錐体を欠落したような完全な緑。自由の女神。イヴがアダムの肋骨であるのは、シュメール文明に受容された当時、母性の宿る部位が人型を象って抜け落ちる、という記述が、母性を持つ人型を抜け落ちた部位が象る、と誤訳されたことに由来するそうだ。人体と言えば骨格、骨格は舟で例えられるものなので、大事なものが抜け落ちたなら竜骨の組み木部分だろう、ということで、現在でもアダムの母性、がアダムの肋骨、に誤訳されたまま伝えられているらしい。ところで、我が国にも人体から大事なものが抜け落ちた、それは舟で言うところの竜骨の組み木部分である肋骨だ、とする言葉がある。それは越後や安房の人々の県民性を指すものとして今日も使われる、肋骨が一本足りない性格、という言い回しだ。これはそんな大事な木、もとい気さえあくせく必要としない、大らかな気性のことを言う。聖書を多分に背景とする科学は神を目指す営みだ。だが、欠落した、肋骨の一本ない人々は、神ならぬ者である代わりに平穏を得た。

 あの緑が完全であることは、みんなには分からないのだ。棚の上の張り子の達磨は、企図された目玉を先験しないから認識をしない。したがらない。

 ほかほかと襟に蒸気が上ってくる。結露が滴っている。身を乗り出してフロントガラスを拭った。追い風で加速していた。それから、ガラスに触れたのに貼り付く感覚がないのにはっと気付いた。気温確認にドアを開けようか逡巡して、寒暖差にぴーぷーと鳴る鼻息に、気のせいではないらしいと断定した。一枚脱いで洟を拭う。ポリエステルサテンの商品タグが見えて、衝動的に薬指と小指に挟んでくしゅくしゅと弄ぶ。止め時が分からず延々弄りつつ、もう一枚脱いで、鼻詰まりの笛と共に夜は明けていく。口笛を試みる。歯の隙間から木枯らしのような音がした。また失敗だ。

 それほど経たぬうちに私は何かを見ていた。山、である。海上なのに。ポイント・ネモ近海から一番近くにいた人類の仕業だとすれば、去年のGBAの発売日に帰ってきているから、日本人が作ったものではない。シルバーブルーメ。山の上なる化け蛤。海抜を調べておくべきだったな、と今更に後悔した。手持ちの情報だけで言うのなら、海嶺が隆起して島のようになった、とするのが妥当な考えだった。左は半解凍の海、右は緑の放射線が降り注ぐ氷原、足元は凍り付いていてハンドリングは効かない、背後には怪物が迫っている。このままあの回転楕円体へと突っ込むより他ない。

 例の如く視点の高さと仰角と水平線までの距離を使って標高を三〇〇メートルと概算。ぼおおおおおおおおおおお。背後でアレが鳴く。ぐんぐんと斜面が近付く。乗り上げた。タイヤが何度か滑って、黒い腐泥を噛んだ。教習所を思い出す急斜面だ。一五度はある。ということは二五パーセント勾配だから、断面円の半径は一二〇〇メートルで、体積は、あー、九億立方メートル、だから九〇〇〇億リットル相当。やっぱ大した量じゃないか。登る。登る。登って、停まった。単純に馬力が不足している。後部座席でどたどたと嬌声。首筋に汗が伝う。ゆっくりと、すぐさま勢いをつけて、今度は後ろ向きに落ち始めた。どうにもならない。放心して、ごしゃごしゃごしゃ、車台から何かの潰れる異音がして意識の手綱を取り戻す。風圧で緩やかに徐行、軟泥に鼻先を突っ込んで、今度こそ停まった。エアコンもバッテリも、何もかも。二度と吹かすことはないだろうし、動かしたくもない。

 ドアを開けてみる。追い風で扉が反り返る、が、吹き飛ぶほどではない。まるで行楽地への往路の休憩所で降りるドラマのワン・シーンのように、饐えた下水臭の漂う泥濘に立って、うん、と背伸びした。急に静かになった後部座席から慎重に目を逸らしつつ向こうを見遣る。アレが、いない。あれだけ執念深かったのに。エチゼンクラゲが上空の暴風で左から右、凍り付いた明るい西から燃え盛る暗い東へと吹っ飛んでいく。ああ、と思い至る。そうか、アレは熱と音に反応するのだった。目はあるが、動きは見ていない。登攀してまで有毒の窒素酸化物を撒き散らすディンゴを追うよりは、あの緑の炎の熱や、周囲の氷の割れる音を追う方が余程楽だったのだろう。つくづく深海生物のようであった。糞便の怪物のクセに。

 却説、この島である。作業環境測定の要領でぐるりを歩測した周長は八八〇〇メートル、目立った地形のない凡庸な楕円で、苦鉄質なのに多孔性で宝石のようなその地質はしかし悪臭を放つぬらぬらした泥があまりに堆積していて定かでない。爪先で掘っても掘ってもすぐ埋まる。木乃伊化した深海魚などが見え隠れする。何か掘り当てる前に断念した。一周してディンゴに戻る頃にはそんな泥も乾き始めて白っぽくなっていたけれど、それだけだ。水筒の白湯を飲んで用を足すとやることがなくなった。周囲は無辺の太平洋である。尻を拭いたぬいぐるみを風下へ投げ捨てる。登ってみるか。また何枚か脱ぐ。汗を吸って冷たい綿も抜く。ニッカポッカとモッズショートとキャスケットに、ラビット・ファー付きのブーツ。しかしあとはほぼ下着にベストだけと言うのが何だか落ち着かない。非常識である。ディンゴが滑り落ちた轍を探して足を掛け、淡々と、意外と労なく登ると、登り詰めたところに窪地のようなものがあった。明らかに人為を感じる形状だ。ここに直方体があったのだとしか思えなかった。きっと《静止》後にどこからか飛来してきたか、《静止》以前に海流の影響で吹き溜まっていたのだろう。開口部の短辺は二五メートル、長辺は黄金比に少し足りないので三〇メートル、深さは恐らく二・〇メートルに少し足りないくらい。水が溜まっている。舐めた。海水だった。上澄みでこれだけ塩辛いなら底の方は相当濃い筈である。薄暗い青の中で目を凝らすと底が見えた。夥しい数の人骨だ。畸形の骨ばかりで布一枚さえ副葬されていない。舌打ちして引き返した。途中で少し転んで尻もちをついた。些細なこと一つだって上手くいかない。

 後部トランクのバッテリの隙間に詰めていた服から適当に見繕って身につけた。不揃いな下着、要らぬ毛を隠す二〇〇デニールのタイツ、濃いキャメルのドルマンチュニックにプリーツ入りの紺のキュロット。腰の通し穴にフェイクレザーのウォレットチェーンを下げてナスカンで留める。錆色のスカーフをネクタイ結びにして、ついでに上下を包むシフォン地の手触りを確かめた。溜息が出た。愛嬌は魔法だ。赤焼けたうねり髪にヘアピンを二本差す。化粧はただの女を可愛く、魔法少女に変身させる。擦るように胸元を撫でる。授乳期間でもないのに胸が張る生物種の筈なのに、万年発情期なだけで中学生以来寧ろ萎んだ貧相なそれを手のひらに感じる。就活期、あなたの過去を教えて下さいと言ってきた面接官がいた。若い女だった。私はその日最後の志望者だったそうで、二時間近く拘束された。それで行くつもりだった面接を一つお祈りされた。根掘り葉掘り、一番古い記憶まで引っ張り出して、確かテレビ台の前でカーテンに頬を撫でられながらレゴ・デュプロで遊んでいたら何かあって怒鳴られた、母がブロックを蹴倒してきて怖かった、なんて話までした。女は、一番古い記憶はいつかそこへ帰っていく優しい世界の記憶だから、恥ずかしがって言っていないもっと古い記憶がある筈だ。あなたの人間性の根幹を知りたいから嘘を吐くな、という趣旨のことを言ってなお拘束してきた。綺麗な顔だった。あれは何人か味見してきた顔だ。それから一八時まで退室を試みては押し戻され、定時退社を促すアナウンスが流れ出すと、女はそんなんじゃ社会に出てもまともな大人にはなれないよ、と憎々しげに吐き捨てて手を離した。尻に膝を貰った。翌週になってお祈りの通知が届いた。人類より在るに然りと死せる者に望まれ現に空白として実在する、善人面したてめえへの、ふん、まったく。望んで世界が終わるものか。カラオケの採点のように、明日は絶対にやって来る。

 あの不思議な曇りも光沢もなくなった車体からガソリンを抜き、適当に掘った穴へ流し込んで火を点ける。アルミのトレイに粒の残った豆のペーストをごとりと積み重ねて火にくべる。溶けたところで煤を吹いてスプーンで掬った。一帯が青いせいで錠剤のようなそれが赤いか青いかもよく分からない。爆弾のコードだったら困るが、色ならば何ということもないことの筈だ。にも関わらず、口にするものが青いというだけで何だか見放された気分になるのは不思議である。貝原益軒はネバネバしているからと納豆を嫌ったそうだ。理由になっているようでなっていない、否、万言を尽くしたって結局は感性なのだ。やりたいようにやる正直な命は大人が人間に培っているべきではない。眠くなったので車上に寝そべって星を眺め、風が強くて寝るに適さないな、と車中に引っ込む。ごうごうとエアコンが動いている。いやに静かな後部座席にちらと気が向いて、追い出した。どっかりと凭れて天井を見上げた。疲れていない。水は幾らでもある。寝る場所にも困らない。食糧は、まだ一週間分くらいある。だが人類の黄昏にすべきこととなると規範がないのでどうするやら見当もつかない。小学生になったら立派なお兄さんお姉さんになれるよ、期待してるね、と言われた時だってこれほどではなかった。取り敢えず体を鍛えて、奉仕活動に参加し、ノリを合わせ、物腰柔らかにしていればキャラは作れた。秘密や約束や決まりを厳守するという他評を確立して悩み相談を請け負うところまでは上手くいっていた。順調に負うものは増えていたのだ。目的地周辺で崩壊したのだが。何になりたかったんだっけ。希望が。未来が。明るさが。若さが。喜びが。将来の夢が。好きなことが。一つだってあっただろうか。なりたいもの、なんて、そんなもの。

 牛乳を垂らしたストローの紙包装が伸び上がっていくようにその思い付きは突然と立ち上がった。

 ザリガニだ。

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