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バブルが始まった。家族三人での思い出に、当時もう閉業間際だったスペワへ揃って出かけた。自衛隊員で単身国内を異動し通しだった父とのそれは短い同棲生活の終わりを飾った。本当にあと半年いなくてよかったの、と父が訊く。いいんだ、と答えた。もう何も、欲しくない。
肌色の月光に燃えるドラム缶の中から古着を掻き出して日記を抜き取り、一枚、また一枚とページを捲っては黒鉛を塗っていく。そして私をやめた。記録的に暑い夏だった。二人は引っ越してすぐに熱帯夜で迎えられた。幾晩かしたある夜、膝までざぶざぶと浸りながら河口目がけて歩いていると、濡れた材木の隙間にあの子の姿を認め、手を差し伸べた。あの子の身体はゆらゆらと水面を漂い、水飛沫を上げてふわりと浮き上がると、ずしりと肩へ圧し掛かった。乾いた髪が鼻の頭をくすぐった。リヤカーへそっと下ろし、ゴミ袋で埋め隠してやるとゆっくり北上した。蛭藻、慈姑、子水葱、布袋葵。夕立が海面から糸を手繰るように立ち昇り、水平線が遠くなっていく毎に踏みしめる足へ力が漲り、路面は静かに、素早く前方へと繰り出されていく。
溺れると搤えるは同じ画数だ。金魚の糞は見ることが適わなかった。さぞ優美なことだっただろう。帯広まで一二六キロメートル、と書かれた青看板を眺めながらニッパーで縄を結んでいく。踝に二本、首に一本。そして欄干から吊り下げた。左手首で秒針が左回りに一〇周して、世界が仄明るい光輝で刻々と満たされていった。再び縄を引く。蛙のように反射でちょっとだけ暴れる。無心で差し出した手のひらに遥か下の水面から鉄パイプが飛び出してきて、的確に掴み取ると、すっぽりと馴染んだ。未だいやいやと藻掻いている。それで、仕方なく二つ三つ腕を振るって痣を治してやった。引き上げて、がっちりと絡ませた縄を解く。道中で首に嵌めておいたハングマンズ・スリップノットがネクタイのようなのに、紫だったのが緑に変色しつつある痣だらけの身体の方は裸なのが不思議なおかしみを誘った。再度リヤカーに乗せて、竹帚とゴミ袋を載せると一路ホクホーまで向かった。
せっせと服を着せてやっているとこの子は目を醒ました。元は白かった英字プリントのカットソーで、うう、ううと耳障りに呻く。夜は段々と白み、濃青は紺青へ、やがて葡萄色へと変じていくだろう。星々を眺めながら思い出す度不定期に殴っておく。残照が仄かに見えだした。そろそろ人目につくだろう。おもむろに靴下を嵌めて、まだ赤い痣へと鉄パイプを滅多打ちに振り下ろした。みるみる傷は塞がり骨格が正されていく。
「は。キモ」
にやにやした笑みが掃除用具を片付ける背から投げつけられる。ついでに石ころが足元から背中を伝ってあの子の手の中へ飛んでいく。握手を求める手を払うと、真っ直ぐに、あの子は敷地外へと去って行った。竹帚と、ゴミ袋と、真っ白い軍手を取り出して空のリヤカーを引き、片道四時間の道へ雑草を植えながら学校に向かった。校門で急に喉の渇きを覚えた。唇の血で潤した。遊具の蝶番でパイプの両端を直し、中に詰められたちくちくと痛いガラス砂を手のひらに吸い出すと、焼却炉まで行って脇に積まれた古いパイプ椅子の一脚に差し込んだ。後日、この椅子は男子のチャンバラに使われて教室へ並ぶこととなる。それから、体育倉庫まで回り込んで鍵を開け、リヤカーを戻した。彼女が去年の冬にいなくなってから、兎小屋のいっぴきのうさぎの世話はクラスの持ち回りになっていた。持ち回りということになっていた。小さな鍵を胸元で握り締める。日記に書いてあったからにはやり遂げねばならない。とくんとくんと胸元に下げた指環から彼女の体温を感じる。あの子の姿が思い浮かぶ。掻き消えて、優しい彼女の姿がその下から現れ出て来る。肩を怒らせて扉を閉め、鍵をかけた。
陸に上がったポリプのような半年間であった。青と緑のコンテナばかり牽引するJR貨物の僅かな起伏に小さな爪先を引っかけて腰を下ろし、地元ほどには寒くない師走の日本各地を観光にはならない角度で眺めながら、耳には水路のせせらぎが、瞳には潤んだ愛が蘇ろうとしていた。愛すると溺れるは同じ画数だ。指先に指環が光った。日記はやめようと決めた。
博多湾近くでの減速に合わせて樹上へ下車すると彼女の家まで直行した。人通りの絶えた路地脇の下水路に立ち寄り彼女を水中から引き上げ、右手の薬指に唇を寄せると、セボンスターの指環ごとその傷をぶちりと癒した。乳歯も一本戻ってきた。ミントカレーの羊肉に似た味。凝視め合う。じわり、じわりと瞳に光が灯り、濡れ鴉が自分を見ようと頑張ってくれている。けれど、真っ暗、気付けば全身ずぶ濡れで、荒い息に咳込みながら見る眼差しの先には背を向けて澱んだ青を走ってくる彼女の姿があった。眼前。きいいいいい。彼女が奇声をあげる。死ねよ。ウザい。意味分かんない。彼女は泣いていた。自分も泣いていた。拳の一発一発を無抵抗に叩きつけられては温もりを感じた。
「あんなの嘘に決まってんでしょっ」
どこで間違えたんだ、と思った。間違えるのは自分の役目だ。何かの間違いだ。世界に光輝と本物の赤が氾濫した。舗道へ戻る彼女を追って、二言三言、話した。会いに来たよ、とか何とか、害のない言葉を。そして別れた。お互いに笑顔で去った。長い寄り道の果てに着いた彼女の家は留守だった。郵便番号はあの先公が運よく落としたものから控えたが、教員ぐるみのドッキリにまた嵌められたという疑念が消えず、息苦しさに町内の表札をぐるぐると眺めまわして、昼前になってヒッチハイクで帰った。
それから二月も経たない、一〇月一一日の二三時過ぎ。噛み砕いた尻がぎざぎざになった鉛筆をぐりぐりと走らせて、みんなは荷造り後のお別れ会に呼ばれていたらしい、その場にいた人は望めば全員彼女の新住所を教わることが出来て、だから年賀状だって書けるらしい、という記述を日記の空欄から抹消した。雫を紙面から吸い上げた睫毛がぱちぱちと瞬いて、薄情な子だね、人の気持ちが分からないなんて最低だよ、といった言葉を母の口に戻していくと、ぱっと布団の中へ身を躍らせ、細く開かれた寝室の扉は閉まり、母の姿は消えた。闇と微睡みの中にしょっぱくも温かな彼女の肖像が揺らめいて浮かんだ。
六時間と少しして、貸しっぱなしにしていたスタンダールのアルマンスがポストに入っているのを見て、本当に彼女は行ってしまったのだとまた泣いた。何だか泣かされてばっかりだ。いつもにやにやと嗤っている幼馴染達もこの時ばかりは神妙な顔つきで、元気出せよ、またすぐ会えるって、と肩を叩いた。切れた息でとぼとぼと彼女の家の前を通り過ぎる。遠目になって、言葉にならない声が溢れた。彼女を乗せた車がやって来たのだ。追いかける自分よりちょっと遅いスピードで、音もなく滑らかにその車は玄関前に辿り着き、停まった。幼馴染らは私達を二人きりにしようというのか、離れた所に立っていた。彼女が降りてきた。こんなにも貴く美しく優しいものは生涯見られないだろうと思えた。
「来てくれたらいつだって歓迎するよ。だから泣かないで。会えるようになったらすぐにでも会うつもりだから。きっと連絡する」
「また会えるかな」
「あんたも忘れていいんだよ。未来のことは分からないからね」
「離れても友達でいてね」
ニュー・ムーンに逢いましょう。
粉々になっている廊下の窓から身を乗り出して新月の中庭へと飛び降り、足の痺れを押して右手を突き出し壁沿いに校庭まで出る。てけり・り、てけり・り。嬉しそうなタンギングですぐ後ろまで迫っていた気配が、校庭の中ほどで急減速した。よく分からないが好機だと走り出て、住宅地まで下り、トンネルを抜けて坂道を駆け下りる。ひょっとしてあれはアレが痛がっていたのではないか、なんて思う余裕さえ出来る。感覚器官の生成に統合情報論的判断を下すため各部位で積極的な吻合を促して神経叢を形成していたのなら、それは臓器が裏返しに外側へ露出しているようなものだ。男根にガラス片が刺さりまくったらそりゃ痛いだろう。星空の下で目を凝らしてディンゴを探す。よく見知った風景はランタンを置き去りにしてしまった闇の中でもよく見える。見つけてどうする。何度目かのそんな思いを振り捨てる。校庭は偶々砂地が露出していたが、《静止》以来海と陸の境界なんてあってないようなものだ。アレの足が次いつ鈍るかなんて分からない。
ぼおおおおおおおおおおおおおおお。
あっ。あの半分突っ込んでるの、そうか。間に合うか。鳴き声が結構近かった。こちらの物音に興奮している。駆け寄ってナンバーを確認。思い切り扉を引いて、あっさり開いた。麦茶の入ってない薬缶を振り上げたような肩透かし。暖機運転もなしに挿しっぱなしの鍵を回し直す。ぶるん、と震えて動く。ベルトもせずドライブ・ギアに入れてアクセルを全開、納屋を文字通りの粉微塵に粉砕して、ディンゴは急発進した。視界良好。何故かフォギングが全面で消えている。車体に妖しく引っ付いていたあの不気味な光沢も、ボンネットを見る限りはどうやらない。燃料ゲージを見ると満タンだった。
てけり・り、てけり・り、てけり・り。
健気なことにまだ付いて来ようというのだ。ニホンオオカミは標的が手傷を負って確実に仕留められるほど弱るまで決して強襲せず追跡に専念する習性であったと日本各地の送り狼伝説に伝えられる生来の猟犬である。このディンゴもそう、テクノロジーの白魔術に湾曲した魔女の番犬というのみならず、本来的には尖った時間の猟犬である。無響室にエアコンが呻く。笛に似た大音声でアレが吼える。これからずっと歌声は途切れない。ハンドルを撫でてミラーを覗いた。ビスマス結晶とゴンズイとスカッドとオペラ歌手のキメラを出不精に育てたならこうも肥るだろうかという怪物だ。アレに前後の概念があるかは怪しいが、頭頂部としか言い表せない先端近くの上部から、にょ、と原形質の白い角がジャクソンカメレオンのようにして二本、間抜けに生えて動きに合わせ揺れている。ふるん。ふるん。あんなもの、何の理由にもならないけど。生き延びたいと思う気持ちと同じだけ強く、アレを許してやろうと、その意味も分からないまま思う。鳴き声のリズムに合わせて口を窄め、ひゅ、ひゅい、と無駄な努力をしてみる。鳴らない。
座りの悪い尻の下に手を突っ込んで助手席へ投げ、ベルトを締める。目を遣ると兎のぬいぐるみだった。額から指のように食み出た綿が黒っぽくて何となく忌まわしい。逃げるように右を見る。結露。何か描かれている。安全運転義務違反、なんて言葉を脳裡に浮かべつつ、ルームランプを点け、乗り出したり、顎を引いたりしてみる。元、す。人、で、です。ムは元、です。私は。私は元気です。萎えた陰茎のようなキルロイ・ワズ・ヒア。
指環の硬い感触がぐいぐいと引かれる左掌に食い込むのに眉を顰める。得意気に颯颯と歩きながら、自分の機嫌を取れないのは人間の屑だ、と彼女は言う。お風呂に入るもよし、布団でお昼寝するもよし、外に出て体を動かすのもよし、幾らでもやれることはあるのに、誰かから何かしてもらおうだなんて甘えたこと考えるのは駄目だよ。もっと頑張らないと。この前のテストだってさ、先生に鬱鬱鬱が怒られてたでしょ、四〇点だなんて、いつも勉強してないからそんな点数なんだぞー、って。あんな風にみんなから笑われたくないでしょう。白いブラウス。紺のプリーツスカート。黒のソックス。階段を昇り切り、自信満々で扉を開ける。上履きのソールに挟まった湿った綿埃がぬるりとして気持ち悪い。太平洋を臨む南向きの窓。達磨ストーブ。等間隔に並んだ机。踏み入った途端にみんなの声は密やかに小さく、それからわざとらしく元に戻った。そのテスト、私、七点だったんだ。なんて。とても言えない。モーガンの公準。くすくす笑いと嘲りの眼差し。だって、改まって言うまでもなくみんな知っているだろうから、そうでなければ。張張張が壇に上がって、それでは今日の学級会を始めます。大いに分かり合いましょう。みんな思い思いに過ごしている。溌溌溌が板書をしている。キャッチボールに使われているあの筆箱は自分のものだ。みんなが楽しいの中にいる。私も楽しいである。天井を見上げた。ルームランプ。ヘルヘイム。




