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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 視界には四角い光が一つ。少し離れたその教室だけが仄明るく、それ以外は真っ暗だ。闇にランタンを寄せるとただの壁だった。びっしりと例の落書きで埋まっている。意味のある繋がりを見出しそうになる。夢なのに。近付いて、光を覗いた。一目に、礼拝室だ、そう直感した。中央に大穴、それを取り囲む六つの祭壇、その向こうにある壁の奥まったところには短い階段のついた石の台座と、趣味の悪い金ぴかの玉座。灯りの届かない隅で何かが動いた、気がした。闇が輪郭を得て、蠢く。立つ。漠然とヒトガタ。矮小な尻尾と有蹄の足。黒い柔毛に覆われた痩身。飛び跳ねてこちらへ迫る毎に黄色い覆面からちらつく裂けたような口と小さな角。半人半獣のバフォメット。

 蹈鞴を踏んで、踵を返して、壁に右肩を押し当てる。背後で扉の開く音。全力で走った。躊躇ったら殺される。大丈夫、どうせ夢だ。でも殺される。死ぬのは嫌だ。苦しいという観測可能事物。右側通行はキープ・レフトにおいて対面歩車分離を予告されて到来するべくあるようにまさに為される。悟性の判明なるために幽霊が足を得たのなら、《静止》大気に幽霊はさながら充満する肉の闇底湖。手にしたランタンを背後目掛けて投げた。気配は減じない。寧ろ膨れ上がるようでさえある。当たらなかったか、効かなかったか、複数匹いるのか。どうでもいい。真っ暗だ。どこも、どこまでも、こんなに頑張ってるのに、前方、正面、てけり・り、てけり・り、てけり・り、と声。右右右みんなオール・ライトに倣え。てけり・り、てけり・り、てけり・り。起きて。てけり・り、てけり・り。起きてってば。てけり・り、

「んあ痛ああっ」

 ごっちん。馬鹿っぽい音が時の停まった冷たい校舎に響く。堪え難いほど寒い。慌てて腕に架けていた上着を着込んでいく。一度冷えてしまうと震えと咳が止まらない。真っ暗な中で背を摩られた。どれほどそうしていたか、私が漸く落ち着き出した頃、彼女はランタンを点け直した。ブーツを失くした私の足に首を覆っていたラビット・ファーを巻き付け、何事かと思ったよ、と笑う。剥き出しの首は骨より白い。瘢痕だけが金鎖の首飾りに隠されつつも赤茶けて目立つ。さむさむ、と長髪に埋まる刹那、縄痕が頸動脈まで一周しているのを見た。四七一一めいたラベンダーの香りを漂わせ、にこりと魔法的に微笑む。瞳はまるで春を待つサントリナ。頬はまるで紅い薔薇。手はまるで白百合の花。どの花も競うて咲いた。

 膝立ちになって見上げる。矢張り小さい。推理が的中しているならその背は一三九センチメートルである。ウールのポンチョコートは表面が凍り付いてはいるが、飛び火したような斑で元地のアースカラーが見えている。色の違う布を何段も裾へ縫い付けて遭難対策にしているので一見するとティアード・スカートを履いているようだ。明度の低いカラフルな服と対照的にツインテールはみどりの黒でベレー帽はぱきっとした白だから、細い体躯とバスター・ブラウン・カラーが相俟ってソプラノリコーダーのようだと思えた。

 彼女は黒板を背に立っていた。この教室が開いていたから覗いてみようと思った。扉を開けたらいきなり滞傳滝が飛び出してきた。トリックを仕掛けられてとても驚いた。まだ一分と経っていないのにどうやったのか。云々。成程、時空が歪んだらしい。怖い話のオチとしては陳腐だが効果的だ。扉から何の気なしに表札を見上げる。五年一組。あの礼拝室と同じく。

 三階は二年と四年。

「どうして二階にあんたがいるの」

 ちょっと下りてみただけ。

「一分も経たないうちに。渡り廊下は二階にないんだからここへ来るには教室棟の階段を使わなきゃいけない。実習棟行って一階まで下りてガラス戸を破って迂回するか、あの場で引き返すか、それしか方法はない。そもそも、凍っていて開かない筈の扉を、どうして開いている、なんて思えたの。それで開けられたのも変。ねえ、答えて」

 返事はない。日光がなくても蛆は湧く。

「三階まで一気に登ったのは、二階の一番手前にあったこの教室の扉が開いた状態で凍っていたから。同行者にはあんたの背中でそれが見えていないと思ったから、だから別行動を促して、真っ先にここまで引き返してきた。出し抜こうとして。何かに気付いて。そうでしょ。何に気付いた」

 違う。消え入りそうな声が呟く。ランタンを引ったくり灯りを寄せると彼女は顔を伏せてすすり泣いた。涙声が震えている。虐めないで。そんなつもりじゃなかった。表情が見えない。覆った指の間から、青白い肌、小虫が蠢き、水疱からの出血を舐め取り、ひび割れた白磁が蝋のように痂皮化する。戸惑い。分裂、破壊。終焉。ぼろぼろぼろぼろ。インドール。スカトール。ゲオスミン。ぴしゃ。一歩。ぴちゃ。二歩。ぱしゃ。三歩、四歩。近付く。何も分からないまま仰向いて動けない姿に。ぐっしょりと濡れてスマートにぴったりしたパンツを眺める。宇宙的色彩をした内側の光が漏出している。困惑の雰囲気へ溜息。気付いたんでしょ。無視。彼女か、どっちだ。

「考えなければ猿と同じ。ド低能のトクシュが生意気。そう思うなら、そのトクシュの話がどんなに一見難しく思えても相互の理解へと歩み寄るのが人間・社会の礼儀じゃない。今みたいに無視するんじゃなく、或いはさえぎ」

「は。キモ」

 あの子だった。

 服を脱がせるのは諦める。こんな寒いのに濡れたくない。紐を探すも縄跳びの一本さえ見当たらない。飾りベルトでは長さが足りない。面倒だが、手でやることにした。既に仔犬のように温和しくただ震えることしか出来なくなっている。よりによって犬か。苦笑する。うんと幼い頃なら犬派だった。近所で飼われていた老犬と昼寝する方が人間と遊ぶよりよほど面白かった。

 嘘コクという名目でマジに告白された、同性愛的で気色悪い、という話が出回った。発信源であるこの子は重ねて言った。でもコイツが可哀想だからデートしてやることにした。次の半ドン明け、隣町のショッピングセンターに待ち合わせた。そんな約束の覚えはなかったが行くよりなかった。当日、日暮れまで待ちぼうけを食らった。帰り道でクラスメイト達に捕まり、チワワをけしかけられて闘犬ごっこと相成った。嗤われるから、笑われたいと、精一杯お道化て敗けた。みんなは笑った。それだけだった。全身を咬まれ、見えないところに幾つか痣を増やして帰った。あの老犬は今日の午後に息を引き取ったとその飼い主に知らされた。程なくして飼い主も老衰で死んだ。

 防災頭巾をぽん、と胸に乗せてその上に座り、首に両手を合わせる。涙の一粒もない顔に初めて曖昧ながら表情が浮かぶ。嘲笑。力を込めると苦悶に変わった。指を這わせる。窒息させて苦しめても反撃の恐れがある。致命傷が目的なのだから狙うのは甲状舌骨筋と迷走神経、経験上ここを押し込むと頸椎損傷が早く合理的だ。体重をかける。途端、ごぽ、と気泡のようなものを吐いて、みどり児のように四肢を縮める。ごぽ。ごぽ。ごぽ。気息は一〇秒と経たず小さく細くなり、絶えた。手のひらにシナモンを折るような音。死んだかな。心停止から脳障碍の開始までが約三分、生存退院率が五割を切るのが約五・五分と言うから、まだかな、面倒だな。とっくに飽きている。六〇〇秒数える。前はこれで死んだ。数えた。目を覗き込む。濁った灰色。靴を脱がせて履く。二三・〇センチメートル。不思議な符合だ。自分に弟妹の一人もいればこんな贈り物もあっただろう。血縁という肉の呪詛のために期待よりも愛よりも高確率で裏切れない、抱き締めて体温のある弟妹がいたのなら。そんな望みはロリコンか。いやブラコン、シスコンという方が当たっているか。左も右現実には一人っ子である。手袋を脱がせて胸の前で組ませる。首からセボンスターを外し、残った方の薬指に嵌め、茶色いシミのあるハンカチで顔を覆った。焼香代わりにバージニア・スリムへ火を移し、臍の下と左足の付け根に押した。私と、自分と。意味ありげな笹紅色の明滅。見回すと辺りは嵐が過ぎ去った後のような有様である。事実そうだったのだろう、今まで見えてなかっただけで。大量の土砂とねじ切れた人々のブリザーブド・フラワーのトンネルを抜ける。鯨の鬚が巨きくて邪魔くさかった。

 廊下に出た。いつも通りの眺めのいい左。視線を下げる。ほっそりと形よく尖った白魚の指に金剛石の指環、死相を隠すイチゴ模様のハンカチーフ、胸元を飾る細い金の鎖とその先に光る緋色のA。小さく肩をすくめる。この子がどっちなのかはどうあれ、幻覚だということは始めから分かっていた。この子が、犯人、だということも。もう、終わった。なのに。

 どうして死体が消えてなくならないのだろう。

 校庭から笛の音が聞こえる。悪魔の声が、てけり・り、てけり・り、てけり・り、てけ。ああ、窓に。圧し込まれ、窓枠が歪み、ガラスが落ちてがしゃんと割れる。青っぽい玉虫色の明滅。ぴぴぴ・ぴっぴぴ。気付かれた。

 五分前に創造された気分と生きてきた。

 それは一人の聴衆もいない無響室で四分三三秒を一生奏で続けろと命じられたようなものだ。私は扉の前に立ち尽くしている。座り込むことも、入ることも許されない。五分には少し足りない薄っぺらな時間が過ぎ去って、また一曲終わったな、と思う。数えない。二回前と一回前の演奏は別物だが、二つの演奏、と括るだけの抽象化は成され得ない。あと何回、ではなくあと何度、と自問する。そして思いだけをまだ扉を開けていた頃に蹲らせる。

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