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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 喘ぐ喉で横断、隧道を覗き込んだ。潮騒の音ばかりした。兎のぬいぐるみが一つ、ぽつんと落ちている。縫い目がガタガタで顔つきも粗末だ。到底売り物だったとは思えない。これは、あの子の持ち物なのだろうか。抓み上げる。汚らしい。だから、親切に渡してあげようと思った。知らず口角が上がった。

 エレベータに乗ると館内放送で怒られた。自転車を通すには三〇円払わなくてはならないそうだ。丸きり意想外である。手持ちなどないので、地上に戻って、守衛に預けた。落とし物を渡しに行きたいと、蟇めいたその男にぬいぐるみを見せてそう言うと、彼は得心顔でへらりと笑った。矢張り見下されている。はあ、と息を吐いて、見上げた。ポンプの低い汲み出し音。人造的直線道。紺色に塗られた、照明はあるのにどこか薄暗い天井。この上には海があって、釜山港から来た船が日夜往来しているという事実。実感はない。どうにも不思議である。アーチ橋の仕組み、という小四国語で読んだ評論、当時は説明文と呼ばれていた、あれを思い出す。荷重分散を題材とした温故知新に纏わる小話だ。分かっていても不思議だと思ってしまうことというのはあるものだが、しかしそれを錯誤だなんだと、恥じて卑下することはない。知識である認識を以て当該の記憶とすることに、身体性を伴わないというただ一点の蓋然から、純サイエンスではないと言い切るのは横暴だと、板書からはそう読み取った覚えがある。故に中三国語で読んだ、歴史は失われた過去か、という評論文は釈然としなかった。知識即記憶とする西洋的近代思想は人間の本来具えている力を低下させるものである、との論旨を説く啓蒙的文章であったが、知識とは、直観や知覚と並列する認識一般の一である。何かを思い出すことはいま・ここにしかあり得ない、否、何事も存するはいま・ここに限られるのであって、記憶なんてものは初めからない。記憶とは過去であるためだ。忘れてしまうことや知らないことを背徳たく思うのは勝手だが、不思議を不思議と認めなくては、温故知新は為せないだろう。オカルトを併せ呑むだけの潔い正義心あってこその科学的整合的美徳だ。あの頃、小学生時点で、私達は既にそう学んでいた。筈、なのに。歩く。歩く。ちょろちょろちょろちゃぷちゃぷちゃぷ。下から水の音がする。はて、排水は下から行っているのか。どういう構造で何が起きているのかさっぱり見当がつかない、ので、八方水音の反響していないことに奇妙な心持ちになる。不思議だ。リアリティがない。誰も目前を歩いていないためかも知れない。あの子連れはもう抜けたのだろうか。

 理性の光明は幽霊に姿を与えたが、乏しい光は足までをも与えることが敵わなかったように、この世には未だ人知の及ばない四つのものがある。地の深み、海の底、星の外、そして心の内である。これらこそ今日のオカルトだ。想像の埒外を孕むものだ。リアリティを欠く事物だと、断言するに若くはない。但し。この場合のリアリティとは質的に異なる二つの概念を擁している。物理的示準たる実在性と、社会的示準たる現実性とである。ところで、ドナルド・ウィニコットによれば、遊びとは、心と世界との境界に生じるものである。この境界、即ち経験の中間領域において、神なるものは経験されるそうだ。なお、この神とはニューエイジ的形而上学的経験事象及び存在を指すものとする。却説、世界とは善いものである、との感情的コミットメントの体現者たるこの神なるものを、実在しないにも関わらず信仰する自己欺瞞能力は、いなくなった母親が帰ってくると信じる幼児の能力に近しいものである、と彼は説く。神の機能とはライナスの安全毛布である。よって、神とは、感情的に現実的な経験なのだ、と彼はそう論じた。と、すれば、だ。前三者にない世の不思議は遍く胸中のオカルトに因るものであり、従ってそこに見出せないリアリティとは即ち現実性ただそればかりであって、それがこの更地のパラダイムにあって経験される限りにおいてプロットされるのは所詮個々人の肌の上に過ぎない。正義は個人に宿る。故にウチとは個人である。と、明け透けにそう言えるだけ、日本国民は正直だと思う。みなさんはもう飛び込みましたよ。みんなそう言っています。我儘を言わないで下さい。多数決は絶対なんです。碓楯蒙は間違っていると思います。間違っていると。

 間違っています。

 思うとは主観だ。考えるとは客観だ。主観の眼差しは心理で、客観の眼差しはクオリアに根差す固有の世界だ。後者の合理は前者の心理もとい黒魔術を引き受ける。引き受ける、故に偉い。故にこれは念慮であって妄想ではない。とうに切除したために敢えて過去共々に捨てるも能わなかったが、やり遂げた誇らしい成果だけに疎ましくはないとそう、思う。

「人心は機能面も機構面も暗箱だから陰秘である、今日的パラダイムの視座においてオカルトは現実性を喪失している、なのでコトに当たって不思議だなんだと好き勝手に考えることは否定出来ない、という嘩塙詢ちゃんの意見は、間違っています。先ず三段論法であるところからして駄目です。そう極端に単純化して割り切るのはよくないと思います。それから、とっても不道徳だと思います。あ、この場合の道徳とは、価値ある倫理観であるところの善の観点において社会的コンセンサスを得ていること、です。つまり、道徳は依然リアリティ、この場合は現実性、を失っていないのだから、そこに沿うカタチ以外で自己開示することは法益を守る自由を踏み越えていると主張します。それから」

 話ながあい、と声。くすくすくす。淑淑淑は言葉に詰まってそのまま着座した。続きを忘れたらしい。教壇に立つ級長の張張張が眉根を寄せる。長い髪に指を絡ませ、くるくると回した。溌溌溌さん。普段より気持ち冷ややかに彼女が言った。はあい。叱られたのではなく、板書係として呼ばれたのだと勘違いしたようで、ぺたぺたと進み出る。級長ははあ、と嘆息した。喘息持ちなのでどのみち頼むことになると思えば訂正も出来ない、といった感である。ふ、と天使が通り過ぎた。視線が集中している。あうあうと呻いて囁囁囁ががたりと立った。相変わらず仔犬が如く小さい。そして細い。スヴェルト要らずだ。憶測だよ。淑淑淑くんの意見の続きは、たぶんだけど、

「この世には不思議なことなんて何もないんですよ」

 でしょ、と同意を求めた目でぐるりを見回すも、当人の淑淑淑もぴんときていないのが見て取れた。みるみる顔が赤くなる。あわわと鼻先にスクラップ・ブックを寄せて囁囁囁が口籠る。いいから話せよお。鬱鬱鬱ががなった。その上履きは落ち着きなくバスケットボールを転がしている。いつもながら声ばかり大きくて中身がない、まさにバスケットボールのような頭だが、しかし今回ばかりは上手く作用した。まぐれ当たりもあるものだ。

「あのっ、あのねっ、誰にでも知ってることと知らないこととがあるでしょう。で、知ってることっていうのは、その人の知識に整合しているのね。だからサイエンス。それで、えと、逆に知らないことは整合してない、けど、在るから。世界を歪めるか判断を省くか、そうしてサイエンスに取り込むの。例えば、お化けを見ちゃったら、幻覚だあ、って整合的に捉えるか、そういうモノもいるよねってオカルトに押し込めて諦めるか、ただ知覚したってだけに留めるか、だよね。で、で、頌煌愚ちゃんは、不思議だなあ、って思ったんでしょう。思ったんだよね。在るのにあり得ない、って。なら、それは知覚だよ。幻覚でも、オカルトでもない。だから、不思議に思ったならやるべきは推理じゃなくて判断。説明を試みるんじゃなくて、先ずは説明出来るかそうじゃないかを決めなきゃ。だ、だから」

 間違ってるよ。そう言って萎んだ。茹っている。瞭瞭瞭が退屈そうに香り付き練り消しを弄る手を止めて、議決をお願いしまあす、と言った。キンキンと不愉快に高いソプラノ、いや、男子だからテノールか。雰囲気が冬彦さんだ。つらつらと思う間に黒板には溌溌溌の字でこの学級会の内容が清書されていた。縦書きだった。タテガキ・ダッタ。はっと気付く。行かなきゃ。ほら、この子連れて帰らないと。そう言って立つと、六人が六人とも口々に、トクシュは大変だね、お疲れ様と私を送り出す姿勢になった。ほら行くよ。左に指先を伸ばし彼女の手を取って教室を出る。西陽を背にして扉を抜けた。危うかった。今回は議決を聞くつもりじゃないのだった。毎度ながらリコーダーを忘れたと一旦戻る。教室は無人になっている。そして再び退出した。

 アーチ・カルバートというか、否、沈埋されたワケではないのだし、いやしかし水底トンネルを暗渠と名指すのは如何なものか。四度の傾斜に吹くこの音響は地上の言葉では語り難い。不思議だなあ。敢えて声に出した。くすくすくす。たちまち脳裏に大きな窓と小さな机の夕景が去来したので不参加を決め込んだ。オヤ・ムシスル・ツモリカイ。ムダナ・アガキ・ダネエ。リコーダーはぬいぐるみ。ちゃぷちゃぷちゃぷ。まったく代わり映えしない景色である。あの日の再現であるからには代わることもないのだろうが、仮にも心象風景だろうに。胃液過多でむかむかする。エリート共め、今頃その優秀な額突き合わせて何をしているやら。成人式も同窓会もお呼びが漏れていて消息を知らない。まったく。まったくいつもながら大上段から偉ぶってフザけ通しやがって。不思議を不思議と思って何が悪い。今日、思うことは考えることだ。私の世界では整合しないけれど、あなたの世界ではどう整合しますかと、問いかけることのどこが間違いだ。異世界との対峙あっての合理主義じゃないか。私に対峙しない世界はみんな死んでしまえ。ちゃぷちゃぷちゃぷ。水音。転校。何も知りません。反響。隧道が傾斜を反転させる。はっと立ち止まった。一歩、二歩。退がる。逡巡。見たい。けれど、嫌だ。ゆっくりと、その瞬間を引き延ばして、いや。予告されて訪れる。えい、と振り返り壁の方を見た。噛み殺されるユダはいなかった。祠があった。

 ひょっとしたら祠ではないのかも知れない。そこはそれ、私の語彙の難である。一番それらしいのは百葉箱だ。白塗りをされた小さい木製の箱に切妻屋根と高い脚がついている。当たり前のようにそこに在る。蛍光灯の明滅。そっと後ろを覗き込む。石造りの格子戸があった。さっと左右を見回し、背中をぴったりと壁面につけて、それから戸の奥へ視軸を遣った。お札とか、木像とか、そういうものは見当たらない。紫の布が丸めて置かれている。その上に、球、恐らくは翡翠の、握りこぶし大の球体が安置されている。暗くてよく見えない。格子に手をかけて乗り出す。ごぼごぼ。ちゃぷちゃぷちゃぷ。いやに耳につく。表面に、掠れた、何か、ぬいぐるみが箱の側面で擦れる、目を凝らす、文字が書かれて、首筋を冷たい風が撫でる、書かれるというより刻まれている。喘いだ喉に唾液を押し込む。漢字に似た、そう、梵字のような。読み方を教わる。発音が難しそうだ。とぅ。■■■■■■■。呟いた。途端、全身の毛穴が開いて、ぶわ、と髪が膨らんだ。例えるならそれは鯨。巨きな水棲の脅威。恐怖が予告されて到来するものの記述を企図する語であることは、恐怖という語が恐怖の指示として使用されることにおいて定められている機能、即ち恐怖の二字の意味内容を体現するものではない。が、恐怖内容と恐怖機能とは等しくないのだからと、敢えて汎臨界的導入を強いられるには当たらない、と私は思う。それは残酷で、そしてお節介だ。来る。澱みの奥深くからぐんぐんと、動きの儘ならないこちらとは好対照の、嗤笑的にぱっくりと開いた口に紫の唇、びっしりと臼歯。ちゃぷちゃぷちゃぷ。ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ。逃げなきゃ。逃げよう。それでは今日の学級会を。間に合わなくなる前に。走り出した。荒い息遣い。自らの音が不思議に遠い。くすくすくす。きい、いん。真っ白。ソンナ・コワガル・コト・ナイノニ。ヒガイモウソウ。ホトンドビョーキ。嫌だ嫌だ死にたくない。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ、はあ、はあ、はあ、嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ、嫌だ、嫌だ、助けて、ナンデソンナ、ヒドイ、ナンデ、タスケテ。ちゃぷちゃぷちゃぷ、はあ、はあ、くすくすくす。エレベータに飛び乗って地上階を連打。扉の向こうは変わらぬ無人。来る。来る。嫌だ嫌だ嫌だ。早く閉まれ早く閉まれ早く早く早く。陳腐。

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