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「ねえ。聞いてるの。大丈夫」
「あ、ああ。ええと、階段の上は後ね、うん。じゃ、別行動にしよう。ボクはこっ、この先みみ見てくるから、塞源窟はあっちの、教室の方をお願い。非常用の発電機か何かが見つかるといいね。扉はたぶん凍って開かないから無理はしないように。集合はここに五分後。アレの声が近付いてきたら時間待たずに合流」
「了解。でもアレ来たら待たずに逃げていいから。囮とかやめてよ、絶対」
「あはは、どーしよっかなー。なんせ未来のことは分からないからねぇ」
彼女が背を向けて渡り廊下へ向かう。帽子から垂らした二つ縛りの髪が揺れ、花の匂いが香る。何気ないその言い回しが妙に耳に残り、何故か、その背を引き留めたいと思った。やめた。感性的だ。踵を返す。
歩みを進める。異常に時計が多いという外はそう見るところがない。暗くなければあっという間に反対側まで着いただろうと思えるほど教室数も少ない。各学年三組、案内図の通りこの階は二年と四年のもので、しかし各学年一クラスは机と椅子が整列していて使われた形跡がないのを見るに実態は恐らく各学年二組である。扉はどこも凍っていて蹴っても開かない。梃子を差すのは合流してからにしよう。階段前のデッドスペースまで何事もなく着いて溜息を吐く。一番近い窓の枠に足を掛け、時計を下ろした。裏返して灯りを寄せる。プラスチックの電池ボックスが内蔵されたよくある市販の時計に見える。この小学校の教育方針がただ病的だっただけ、と結論するのが妥当だろう。ではあの渡り廊下は何なんだ、とも思うが、ユミルにいたような生存者がここを拠点にしていた名残とすればそれで説明はつく。この時計もその過程で集めたものかも知れない。立ち尽くす。すると、謎はこの上の階。
一般的に校長室と保健室はその性質上一階となる。職員室は、学校毎に異なるが、基本的には最初からそう意図されて作られる。外観の小ささを考えると一階は部屋数が足りないので消去法で二階だろう。三階にそうした特別教室が見当たらないのは渡り廊下の食い込み分と捉えられる。配膳室がないので給食はセンター式か弁当式、これも直方体の外観と矛盾がない。他にありがちな施設は体育館、図書室、理科室、図工室、音楽室、プール、視聴覚室、電算室、特殊学級。北海道の臨海過疎地域という立地を考えると電算室やプールは考え難い。保健室に直行出来るよう実習棟の手前に体育館と理科室は配される筈。ここは小学校なので、教室の位置を覚えさせる観点から図工室と音楽室も近くに固めて配置する方が自然だ。棟の端か最上階にあると思われる音楽室と視聴覚室は、実習棟が渡り廊下で教室棟の三階と繋がっているのを加味すると、実習棟の三階にあるのだろう。実習棟の階段周りに一階から理科室、図工室、音楽室と縦に並ぶと推定出来る。残るは特殊学級、でもそれだけで階を占有することはないと思う。階段を見上げる。ならば、この先は矢張り屋上階なのだろうか。私達の母校に屋上前の踊り場なんて死角が一時間でもあったならシケモクの積まれた溜まり場になっている。規制線もなしに階段の解放だなんて、余程手の空いた教員が、いないと、教員。一六時五三分。冬場の放課後とは言え、この時間で既に誰も校内にいないものか。幾ら暗くてもゴミくらいは見える筈なのに、どうして廊下がこんな掃き清められている。児童用の昇降口さえ開放していた小学校で一つ残らずこんなきっちり扉を閉めるものか。宜しい、外観にあった鳥居も何もかも全て《静止》後に生存者がやったのだと仮定しよう。
どうして一枚も割れた窓がないんだ。
牛が太平洋を越えるほどの暴風だ。地軸の移動を経ても一度もあの気象災害に遭わずずっとハビタブル・ゾーンにあった場所なんてない。ヘルヘイム寄りの内陸部だったために被害が軽微だったユミルでさえ使える建物を選別していた。不思議だ、否。おかしい。変だ。そもそもこの道中で三階以上ある建物はあったか。なかった筈だ。高い山や下生えのある崖はあったか。なかった筈だ。じゃあどうして建物のこの周りだけそれらが残っているんだ。うそ寒いものを覚えて一歩引く。ぱきり。何かを踏みつける。さっきまで何もなかったのに。ランタンを構える。嫌だ。しゃがんで、見た。《静止》前の持ち物の処分に際して捨てた筈の私の眼鏡だった。
「なっ、ぇ」
ごぼっ。左耳に水音。ごぼごぼ。何かが浮上する音。沈んでいく音ではないと何故か確信のある幻聴。きい、い、いい、いいん。視界の端からじわじわと白く暈けていく。くすくすくす。天井から無数の、不合理、マトモニ・ナラナイト、異常に軟らかな関節、枯れない紅葉、突き落とされる、ひいひいとリコーダーの、タスケテ、昼休みの練習、ナマエヲ・ツケナイデ。くすくすくす。水底のように、うわんうわんと、胡麻のような黒い粒々したものが、澱んだ、響いて、センセイ、先生、ちゃぷちゃぷちゃぷ。ガクチカヲ・オシエテ・クダサイ、ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ。ぴしゃ。濡れた何かが這い下りてくる。段上の暗がりから。ぴちゃ。ぱしゃ。足音。二人、三人、四人五人六人。鳴いている。生白い腕のようなものを盲滅法にばたばたと振り回し、ぴぴ・ぴ・ぴぴぴぴ・ぴぴ、と歯軋りの音で哄笑し交わして。ヒガイモウソウ。怖いというのは嘘吐きだ。だって、私は怖くないから。あんたが何かを怖がったなら、その何かは怖いという現象だ。あんた一人のための怖いじゃない。普通は、誰かが何かを感じたなら、誰もがその何かを感じられるものだ。あんたのその怖いって言葉は、嘘だ。被害妄想だ。嘘吐きは。ぺた、ぺた。ぴちゃ。みんな言ってるよ。アンタ・ナンカ・死んじゃえ。大人に・ナレヨ。気持ち悪い。あんたはビョーキだ。あんたのあれは病気なんて大層なものじゃない。あんたが駄目な子なだけ。ソプラノ。毛穴が開く。疲れた。疲れていない。フアンガル・ナンテ・生意気、情熱的、感性は、許さない。歯の根が合わない。二、三歩と下がる。ぺたん、と内股に腰が抜けて首が下がる。音が止む。途端に視界が快復し、零下一〇〇度を下回る外宇宙的な寒気に立ち戻る。足を引き寄せて縮こまる。
未知に知識を照応する無知は反正義の罪悪、無限遠へ後退する文学史のタナトス、第三の衝撃。不合理を訴求する遺伝子依拠で肉体的先祖伝来の旧態イデオロギーなる感性主義パラダイムは子供の理屈、陳腐、猿真似のヴァーチャル、ロリコン犯罪者のMくん、魔女の時間の信奉者、名状許されざる怪物。普通は当然、当然は必然、必然なる白い認識は知識。善なる認識は黒い鴉を白くする社会的政治的コンセンサス、即ち戦い勝ち取って背負い偉くなり優越して見下す幸福。東洋の共産主義的計画性の科学は不整合な蓋然の黒魔術。東海岸の民主主義的再現性の科学は整合ある必然の白魔術。知らないのは分からないから。標本数が足りない。必然は到来するものを予告する。恐怖とはサイエンス。直列する魔女の時間は感性主義的、オカルトは蓋然、ならば怖いとは嘘吐きの言葉。私という人は嘘吐きではあり得ない。
後れ毛が逆立つ。ばくばくと心音が下腹に響いて嘔吐感が湧く。巨きな、それはそれは巨きな、ああ、あ、駄目だ。無理だ。爪先を凝視めたまま立ち上がる。名状し難い恐怖が目前の階段を降り切った気配を感じる。自分をもう誤魔化せない。Don't ever antagonize the Horn. くすくすくす。逃げよう。どこへ。教室は開かない。階段は塞がれた。なら、反対側の階段で下るしかない。感覚で左へステップを踏み、柱に頭がぶつかる。イタイノ・痛いの・トンデイケ。ヒダリアシカラ・歩かないから・ソウナルンダ・馬鹿め。嫌だ。こんなのは嫌だ。廊下に飛び出す。振り返るのが恐ろしい。前なんか見たくない。天井が怖い。停まった時計。画用紙いっぱいに暗紅色のサンギーヌで描かれた幾つもの幼い顔。ずらりと並ぶ半紙に希望の二字。窓からは中庭と、そこに植わる記念樹と、兎小屋、そして浮き上がるようにしてくっきりと白く、あまりにも真っ白く、百葉箱が見える。どうして。ドウシテ・アンタハ・あれが記念樹だと、兎小屋だと・シッテイル。忘れたか。オモイダシタカ。窓が途切れる。嫌々視軸を前に遣り、声の限り、おおい、と叫ぶ。曼殊沙華。彼女がいない。違う。あの渡り廊下の窓は少し外側に迫り出しているから、ヒビを隠すように置かれた消火器のあるあの窪みのところに立つと馬鹿な先公が来るまで目を盗めるんだ。あの踵と踝の曲線は彼女だ。間違いない。私の声を無視しただけ。それだけだ。
うきうきと跳ねたくなるような花の匂い。ラベンダーの香り。花言葉は、期待。背中が見える。駆け寄った。廊下を。走っては・イケマセン。
キャラクタ化した人は人間にあってリアルな世界に属さない。月五〇〇円も貰っていたが、不良になりたくなかったので何度でも誘いは断り、私用でも一切使わなかった。腹が減ったら水を飲んで誤魔化した。そうして距離のパトスを捧げていたら、中卒で働く言い訳にするつもりだった高校から人事評価だけで合格を貰った。理系科目なんてもう見たくもなかったが折角だからと三年間を勉強だけに費やしたら、九九もそらで言えなかった九年分の遅れは取り戻せたが、友達は一人も作れていなかった。それでもあと三年分の遅れは如何ともし難く、時爵的に一年浪人して高校分の遅れを取り戻すため再び勉強に専念したら、同窓生からの数少ない年賀状は遂に絶えた。指先がD判定に引っ掛かった遠くの地方大を受け、今度こそ実力で合格した。地元の人間しか行かないとされる閉鎖的な風土に一人引っ越して、コネも何もないまま、誇張でも何でもなく独房より狭い部屋と幾ら掃除しても翌朝にはゲロとヤニの臭いに汚染される共用キッチン、ねばねばした液体を噴く共用トイレとシャワーに囲まれた学生寮で過ごした。教育学部の強い大学だったのでただでさえ理系の私には肩身が狭く、加入出来たサークルは文芸部で、しかも揃って創作意欲のない飲みサーで、当然のように誰とも親しく交わることはなかった。部誌の埋め草として重宝され、欲をかいて、ナメられたままでたまるかとクラブを立ち上げた。学内に不足していた就職支援を主催する非公認サークル。近隣企業とは友好な関係を結べた。だが、入ってくるのは就活有利になりそうだからと名を貸すだけの連中ばかりで連絡先どころか顔さえ出さず、幾つ大きなイベントをこなそうと、それは私個人の功績にはならなかった。卒業までは回したが、引き継ぐ相手もいなかったので、きっと今頃は解散している。三年の研究室選定も難航した。行く先々で教授陣からは有難いお小言を戴いた。どうもクラブの活動が就職を睨んだものと誤解されたようで、偉そうなその頭が主旨を理解することは終ぞなかった。晩夏、教務課から私に通達された配属先は、学生が軒並み蒸発する陸の孤島だった。教授はいつも部屋の奥でカップ麺を啜りながらパソコンを眺めていた。私は蒸発前に研究へ着手した時期のある、十数年前の先輩のテーマを紙束の中から発掘して、文献調査から実験手順確立までを一人きりでこなし続けた。インフルエンザの流行で研究棟が閉鎖されたが、教授は私に鍵を預けたまま大学にさえ来なくなっていたので、週七で泊まり込んでも、テーマがある細胞の培養研究からその増殖反応自体の開発研究になっても、古過ぎる機材が火柱を噴いても、その機材の修理中にベンゼン槽へうっかり引火させても、それでドラフトチャンバーが変形するほど大爆発しても、何の問題にもならなかった。コネがないので学会発表は出来なかったが、ガクチカと引き換えに院試の勉強だけは捗った。就活の傍ら受けた院試の末、国内でもそこそこの理系大学の大学院に合格した。が、教授推薦の署名がなかったので進学は出来なかった。学会発表もしていない理系は無価値だと面接で詰られながら日中は就活を進め、公務員志望でないのは上昇志向が足りないと民間企業面接中に罵られ、終電で研究室に赴くとリクルートスーツの上に白衣を着込み、始発で帰って仮眠を取って就活に行く。四桁枚近くエントリーして最終面接に残ったのはたった三社、それも覚えのない会社ばかりで、三社が三社とも学内発表の日取りと丸被りだった。私は就活を優先した。教授陣には責められつつも合格通知は一社だけ勝ち取れた。が、就職後一月足らずで私は希望していた研究開発課の分子設計職から異動となった。人員補充のためとのことだった。異動先は分析化学を扱う、先輩も上司もオフィスに顔を出さないほどの閑職だった。一人きりの資料室でキングジムを並べ替えては中のMSDSを読んで時間を潰した。タイム・イズ・マネー。みんな仕事で即戦力になろうとつらい思いをして働いているのに。半年した一一月、会社都合でまた異動となった。半端な時期だけあり実態さえない閑職だった。それで、痕跡を消し始めて、だから。だから、今は。今は。今の私は何者なんだろう。何者になれたのだろう。何を負い、何を終えたのか。存在の重みは。みんなに占める引力は。難しい顔をして、苦しそうな言い回しで、頭のいいフリをして、誰にでも出来る、誰でも知っている、普通の、ありふれた、誰にでも分かることを喚く、私というキャラクタは。愛は虚数。いま・ここが在する世界のリアリティは誰が創発する。ここはいつのどこだ。私は、私とは一体、