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「いやいや、だとしても国語の授業中ずっと寝てたんでもなければ一生に一度は悪いことや恋心に触れるでしょ。ロンドン塔に棲んでるんじゃないんだから。それこそ合理主義との両立の証拠になる」
「両立してたなら大人になりたいと思う気持ちもあり得ない。そう思うことは間違ってるけど、思ってしまうからには何か公益に反した害毒に触れているんだって」
「分かんないかなあ、だから前提が違うんだよ。睡賊虜は実存に本質のフィデリティを求めてるから現実性の結構を気にするけど、ボクは実存が不在だろうとどうでもいい、って言ってるの。相互理解を装うんじゃなくて、相互理解出来る自分っていう部分を表出させる。だから天岩戸が開く。誰しも将来の夢を語れる純真無垢な時代があるものでしょう。一番古い記憶は優しいものでしょう。優しさを思い出さないと駄目だよ」
「その優しさっていうのは集団生活に都合のいい性質でしょうに。一〇〇羽の鴉を観測したところで、一〇一羽目の鴉が白くない保証は永遠に出来ない。科学とは再現性で、再現性とは民主主義、敢えて露悪的に言うなら、政治的コンセンサスさえ掌握すれば白も黒になる。ホロコーストでユートピアは作れない。男子が馬鹿だからって女子供まで尻馬に乗っても待ってるのは絶滅戦争一択。だから感性は邪魔だ、アカになれって言ってんの。安定は情熱を殺し、不安は情熱を掻き立てる、だよ」
「プルーストだね。でもそれは取りも直さず清濁併せのんでこそいい大人になれるってことじゃない。滅法貝、だっけ。貝はカタツムリを経てナメクジに進化したワケだけど、貝殻っていうアイデンティティを棄ててでも生存のためなら悪魔をウチに飼う選択をするのはどんな生き物にも出来ることだと思う。コピー・アンド・ペーストは遺伝子の本義だよ。いい大人なら真剣にLimacizationを目指すのはめっぽう自然なこと。漫然とただ在るだけではただの大人、化け物のまま。そうは思わない」
「なんつー残酷なことを訊くのあんたは。そういうあんたはいい大人なの」
「そこはそれ、淘汰圧ちゃんに聞いてみないと。ね、どう思う」
「いい性格してるよホント。昔っから何も変わってない」
「辛辣ぅー。毒吐きダリアめぇー」
くすくすくす。濃度の違う闇が身を捩る。瞼でさらさらと音を奏でる黒髪、故に、天使ではない。天使の瞳は全て青、青、青、天国の青。科学的合理主義のディープ・ブルーだろうと、朱に交われば毒になる。猫に頼って、犬を信じて、兎へ委ねて人は悪魔を飼い馴らす。孤独な子供は芽殖孤虫に殺される。低くエアコンの換気音。彼女との関係は、トクシュと、その係だった。互いの悪魔に密輸を検閲させていた。係だとか、トクシュだとか、そんな名前さえなければお互いもっと違う生き方もあったのではないかと未だに考える。ハンドルに手を伸ばし、転轍。手を引っ込める。申し訳ないことをした。
「へーぇ。ほーぉ。ふーん」
声に出ていたらしい。面白がる表情がくっきりと浮かぶ。ルームミラーの隣にてるてる坊主の魔術的輪郭。白と黒。目を閉じるが何も変わらない。ヘッドレストに凭れて首だけで仰け反った。
「そんな風に思ってたんだあ」
「まあ、あの引っ越しの件の後で、ちょっとね」
みんなのビー玉を探している。
動物の世界了解に苦悩はない。現在への全面的没入とショーペンハウアーが呼んだそれは、エングロスメントの最中でその尤もらしさがデュナミスな現実性事象であると了解出来ない人間においても等しく降りかかる。湾岸戦争のポテンシャルをどれだけエネルゲイアと承認するかは個々人のヴェールへの眼差しに委任される。明晰夢において、不思議だ、とする了解に罪はない。けれど。
けれど、そう思ったのならば、それは駄目だと人は言う。不思議、というのはただの解釈であって、不思議だと思えるのはただ無知だからだ、と。だからそう思うというのは、実は、決めつけでしかも押し付けで即ち偽史で要は嘘吐きなのだ、と。つまりだ。思う、が思った、に変ずるのが肝要なのだ。馬鹿なことを考えればみんなそれと知る。今日のウチが縮退しあるのは、何でもない、みんなとみんなじゃないものとに分かたれたという単にそれだけのことなのだ。トクシュ係とは巫覡なのだ。この関係性にある限り、私達とみんなとの間には情報の非対称性がある。二人してみんなのビー玉を探している。みんなに見られる前に、対称になるために。要らぬ業を負わせてしまった、と思う。代わってやりたい、と思った。
例の引っ越しがあった五年生の年末から年を跨ぎ、もうすぐ二月という時にあの子はやって来た。私にとっての新天地に、季節外れの転校生。どきりとした。あまりにも彼女と似ていたからだ。そっくりな声。そっくりな顔。そっくりな服。何よりその存在感は、彼女がキャンバスに突き立てられたナイフならば、あの子は神木に突き立てられた釘であった。あの子には姉がいなかったが、彼女くらいお金があった。瞬く間にあの子は私よりもクラスに馴染んだ。
それまでもクラスのみんなは決していい子ではなかった。放置されて底の錆びた消火器は、上手く角度と力をかけて蹴り飛ばすとガスを噴射してロケットのように飛んで行く。人気のない教師の頭や股間に点を割り当てて、傘や消火器をぶつけて競う遊びをみんなはフライデーと呼んでいた。それから、深夜の校舎に忍び込んで窓を割る遊びも流行った。あれは卒業と呼んでいた。他にも色々と。命名から推して知るべし、である。端的に言って馬鹿ばかりだった。男女を問わず、殴って、殴られて。そんなクラスだった。
「あん時指切ったのにどうして針呑まねえんだよ嘘吐き。泣くな、腰抜け」
ある時、遊びに誘ったら断られた。今更あんたと遊ぶメリットがない、ということだった。利を求めていたのかと尋ねると、子供じゃないんだから自分で頑張れ、誘われるのを待つな、同い年なら出来ないのはあんたが悪いんだ、と口々に責められた。首を捻って帰った。
「何マジになってんの、やれるものなら呑んでみろって言ったんだボケ。あんたのせいで迷惑してんのこっちは。被害者ぶってんじゃねーよオトコ女」
みんなとの約束はどこか狂ってしまった。
「甘ったれんなよ、あんたを中心に世界が回ってんじゃねえんだ。戦士症候群は小学生までにしろ。いいか、みんな上手くいかねえから工夫して生きてんだ。道具を変える前に自分が変われよ。買い食いするカネがないならバイトでも何でもやって稼げよ、勝手に帰るくらいなら万引きすんだよ。みんな出来ることなんだからあんたもやれば出来るだろ、眼鏡かけてんだから頭良いんだろ、どうしてやらねえんだナメてんのかっ」
まだ子供で、同じ小学生の筈なのに。
「そこまで分かっててどうして気付けねえかなあ。常識だろこれくらい。あんなの冗談だ、冗談。気付けよ堅物。誰があんたなんかに本当のこと教えるかばあああああか」
どうして他人に相談しないんだ。訊けば分かることを尋ねてこないのはあんたの責任だ。あんたが悪いんだ。ノータリンの味噌っ滓に産まれてごめんなさいだろ、早く言え。ふん。いいか、あんたは自意識過剰なんだ。今もほら、見下した目してやがる、両方潰してやろうかコラ。そういう無駄なプライドが駄目なんだ。傲慢なんだよ。脱げ。いいから、脱がないなら茶巾にして便器にしてやる。クソ野郎に尊厳なんかねえってのをタダで教えてやるってんだ逃げるな。押さえつけろ。
うるっさいなあインテリ野郎。やれば出来るクセして、ああ、聞こえねえよ。左に右もう訊いてくんな。口を開くな同じ空気を吸うな。嫌がらせをやめろ。やめろっ。近付くなっ。当てつけか、鬱陶しい。ビョーキが伝染る。あんた、なんで早く死なねえんだ。
「ある意味あんた幸運だったよ。詳しくは言わないけど、クラス全員が男の腐ったのみたいでさ。んで、中身以外全部あんたそっくりな奴がいたんだけど、そいつがもうすっごく幅利かせててさ。居心地悪かったなぁあれは」
「へえ、大変そう。で、その子はちゃんと友達作れてたの」
「まあ人気ではあったよ」
挨拶代わりに男子から胸を揉まれ、偶に股や尻を撫でられる、というのは以前からあった。筆箱やノートを異性のトイレに投げ込まれる、というのも。私もやっていたから、お互い様だ。ただ、あの子が引っ越してきたばかりの頃、私は年末から長引いていた風邪から急性中耳炎を患い、放課後になると膿の吸引のため通院をしていた。日中はそれから生涯付き纏うことになった鈍麻した聴覚に馴染みつつ洟をかみ、陽が傾くと真っ直ぐ帰って旧型の掃除機みたいなホースで耳を吸われる日々。トクシュ係の必要のないクラスで、あの子と接点を作る最初の週を私はそうして過ごした。だから、そうした悪戯も初週の私の周りでは鳴りを潜めていた。
それで何か勘違いしたのだろう。翌週になって快復した私にあの子は突然話しかけてきた。放課後、草野球のレフトを守りながら、どきどきして正対した。ハンカチを貸して。言われて、私は渋った。後で使いたいし、今日のは気に入ってるものだから駄目。他を当たって。すると、心が狭い、情がない、とねちねち責められ出した。女々しい。守備へ専念するよう背を向けると、耳元で、何もしてないのに、と大声が炸裂した。尻もちをついて、これは暴力だ、と叫んだ。何を言ってるんだこの子は。思わずじっと凝視めた私の後頭部にへろへろのフライが直撃した。三失点。私はチームにひどく詰られた。翌朝、一限の前に教卓前で私は先生に怒鳴られた。ハンカチを返してやりなさい、と。意味が分からない。反論は、遮られた。振り向くと涙を浮かべてあの子はにやにやと嗤った。合点した。そういう悪戯か。それで、放課後を待ってまだ濡れていたハンカチをタオルで挟んで乾かすと、アイロンと糊をかけてあの子の家まで走った。外壁がまだぴかぴかと白かった。インターフォンで出て来たいかにも裕福そうで優しそうなお母さんに案内されて、あの子にハンカチを渡した。ごめんなさい、と。あの子は蔑んだ目で見下ろして、貰ってやる、と言った。
翌日は悪天だった。頭がぎゅう、っとして、胸はじんじんと腫れるようだった。心臓の辺りにぷくぷくと期待が気配した。下駄箱を抜ける。黒板消しと帚の罠を避けて扉を潜る。さっと横合いから胸を揉まれた。ごそり。男子の背が逃げ去っていく。襟から下着へ手を入れて、引っ張り出した。かぴかぴに乾いた、洟をかんで捨てたティッシュだった。鉛筆の削り滓が付いていた。成程、また新しい悪戯を考えたな。椅子で殴られたい奴は誰だ。彼女のように微笑んで、クラスを見回す。目が合わない。誰も、見ない。
「初週の放課後に遊んだ連中とは友達になったみたいだけど、ちょっと運が悪くて。相互理解を進めようにも取り付く島がないと言うか」
「ああ、分かる。分かるよその気持ち。ボクも心当たりあるもん」
「あんたのはその、トクシュだからじゃない」
「それもあるけど、ボクって果物アレルギーでしょ。覚えてる」
「ああ、事実上のリンゴアレルギー。生食さえしなければ大丈夫だからって給食のジャム食べたら問題にされたあれか。嘘じゃないことの証明させられてたね、そう言えば。何だっけ。帰りの会の後の」
「分かり合う会」
「それだ」




