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「興味深い。間接的にではあるけど、政治的イデオロギーから善悪を決定するようなパラダイム・シフトが生じた事例として、こんな近い時代に採集出来るのは面白いと思わない。日本政府が何かを悪魔化しようとすればそれが出来ることの証拠でもあるんだから。多摩の悪魔ちゃん騒動が批難されたのだって、弱者と規定する命名であることが虐待と容易く連関する倫理的観点において到底許し難いものである、って点であって、法的手続き上には何の問題もなかったじゃない。あの届出を受理しちゃった役所がポンコツだったんだから」
「中国の忌み名避けとか、ハゼ科で論文書く時の菊タブーとか、文献調査がめんどくさくなるイメージが強いから面白いとは言いたくないね。幼名にナントカ丸って名前が多いのは丸イコール便器で七つまではカミのウチが反映されてた、くらいが興味の限界。だったらおじゃる丸はどんな意味だよ、って思うと、なんだかね」
「うんこで御座いますって意味じゃないの」
「少しは恥じらえ」
「とまあ、悪魔化はパラダイムに帰属する部分もある。そこは否定出来ない。けど、それで善悪を一〇〇パーセント分別するのもボクは違うと思ってる。それがまさに、パラダイム、であることだね。子供が大人になることはあってもその逆はない、いや、あるとしても、子供と大人は違うパラダイムと規定されてるんだから、矢っ張りイデオロギーからコミュニティから色々と違うんだよ。そこを乗り越える以上は絶対に橋の下へ捨てる工程がある。儀礼的な死がある。けどだからって子供相手に大人が必ず悪魔視をするかって言ったら、流石に皆が皆そうじゃないっていうことは分かるでしょ」
「善人が大人ってところは正しいけど、善人の称号は自己愛確立を承認する科学的合理主義者のロマンチシズムな態度に由来するのではなくて、人身御供の捕虜としてソトへ排他放逐されるような悪人ではない人であるというポーズに由来している、っていうのがあんたの主張なのね」
「それもちょっと違う。善人は称号じゃなくて態度って立場だから、大事なのは、そのポーズを前提として、じゃあ何をしたらボクらは善人なのか」
「さいで」
「ウチにあってウチのいじめをなくそうと努めている人こそ大人だと思う」
喘ぐ。
「テクストは必ず文学史上の一分布を占める。そして文明社会のテクストは模倣の、黒白の魔術の、連鎖の渦中にある魔導書。魔導書は必ずテクストに文学史を遠望するから、文明社会で文学史を目にしないことはあり得ない。視線によって擦り切れるほど家畜化された文学史という風景は、だから狐が攻撃性を失くして脳と頭が小さくなるように、ある種の畸景になる。大きく二軸。タナトスと、エロス。罪と罰と、赤と黒。ボクらは学校のお勉強体系でこの二軸だけは学べない。学問による解明を拒絶する陥穽であるというところにまさにこの二つは主題たる所以がある」
「犯罪心理学や恋愛心理学なんてものもあるけどね」
「心理学は詐欺セミナーだから。体験したそのただ一人でなくては獲得すること能わない、というのがこの二つの特殊性で、それは画一化一般化を志向する科学的合理主義や近代学校教育とは相反するし、相反しないのであれば本分を為してないっ。ウィトゲンシュタインも孔子も、世界の限界は言葉の限界なんだから、分からないものについては何も言うべきじゃないって言ってる。それをさあ、五〇億年生きてきた人体をさあ、価々数万年しか生きてない大脳新皮質の、ほんのちょっぴりの自我でさあ、ハッ。学究。ちょっと穴掘っただけでパンデミック起こして死ぬかも知れない程度の、ウォーレス進化学的知性のコンタクト用ヒューマノイド・インターフェースって自覚さえない無能が、学究ぅ。まさか蒐煙業は詐欺師の片棒担がないだろうけど、あんな、目障りな。不愉快だから二度と心理学なんて口にしないで」
「は、はい。善処します」
「ふううううううう。で、文学史っていうナラティヴはどこへ向かうのか。芸術とは自己欺瞞を惹起するテクストで、自己欺瞞とは幻覚・妄想・自己暗示で、そうした自己欺瞞へ、我、という枠を与えてウチでの承認を密輸するのは、徒に唯物主義的パラダイムのイデオロギーを乱す、悪事にも見える。テクストはテクノロジーだから実在性のヴァーチャルで、現実性の根拠もテクノロジーだから、ポル・ポトまではいかなくても、一九八四年的な検閲は合理的に考えれば許されてもいい。特に小説は生産性がない。資源の無駄。それでも人間は時間が停まるまで小説を作って刷るのをやめられなかった」
「それだけ死んだ方がいい馬鹿が多かっただけでしょ」
「その通り。ヒトは馬鹿だから、無知の涙を自ら拭うのにも馴らされた飼い犬の手がないと何も出来ない。生贄を求めてやまないこの人間社会という祭壇に捧げられた人身御供を神の見えざる手から奪還し、集団生活のパラダイムを悪魔化するには、悟性なんて馬鹿に任せちゃいられない。感性も併せ持たないと生きてちゃいけない。ヤコブ・ベーメの採集した話にこんなのがあって、ある人は悪魔に、どうしてお前は天国を出たのだと尋ねました。悪魔は応えて言いました、俺は創造者になりたかったのだ」
「そいつどうして悪魔なの」
「悪魔だから創造者になりたがるだけでなれないんだよ。ジャック・マリタン流で説明するなら、プルーストのような作品が書かれるべきものとして書かれるためには、聖アウグスティヌスの如き内側の光が必要であるから、ってところかな。悪魔は罪悪や恋愛を探究出来ない。その探究の所産であるところの芸術であるのなら、その感性的部分はいじめに走ろうとするチンケな悟性を破壊しようと必ず志向する。文学史を内包したパラダイムでは、悟性と感性は互いを睨む二匹の悪魔で居続ける。二匹の悪魔を一つの身で相乗りさせ続ける不断の意志の堅持、これが善人で、大人だとボクは思う。在り方の問題だから、その結果が何を齎すのかは問わない」
転轍。
「空っぽで薄っぺらな自分をそれでも愛そうとするのが合理主義者でしょ」
「悟性で割り切れないことでも泥臭く感性で組み付くのが合理主義者だよ」
「納得いかないね。じゃあその理屈が正しいとするよ、悪魔は魔導書でソトから召喚される、結構。悪魔なんて零落したソトなる神が招き入れられてなければ人身御供もなかっただろうってのもこの際不問にする。でもその密輸はそもそも相互理解にならないんじゃない。赤い彗星はまだユートレニング、同じ人類種としてウチにある関係性だけど、あんたが言ってる悪魔はソラリスの海でしょう。侵犯させたヴァーレルセとの友好なんて無理。出来たらノーベル平和賞だよ」
「受賞しない方が平和な賞じゃんそれ。いいよ、要らないよ」
「大体、文学史は馴れててもそこから喚起したムラートはまだ馴れてないでしょう。儀礼的死もいつもいつも確実じゃない以上、イニシエーションでパッシングされたら害毒なんだよ。東洋の黒紫だけじゃく西洋の青緑までハーフ・アンド・ハーフで相乗りさせるなんて無茶。リミテッド・アニメーションで背景を簡略化しないとキャラクタが埋没するのと一緒」
「その例えはピンとこないな」
「じゃあ生物学で。生息域の狭い生き物、オタマジャクシとかアリジゴクとかの一部には、老廃物からアンモニアを外して体内に蓄積するよう進化した種がいて、これは遺伝子情報のヴァーチャルである肉体の担う文学史が自浄統御されている例と言える。人類も悪魔を飼うんじゃなくて頭下げるか敬して遠ざけるかした方が真摯じゃないかな」
「生息域が細菌やウイルスと競合してるから悪魔と共存してるよね」
「ああ言えば上祐。なら、黄表紙はどうする。妖怪変化はどう読字するの」
発光生物研究の分野はその国の博物学の程度を推し量るパラメタである。何故なら、発光器官は収斂進化による獲得であるため、酵素などの共有特性を有さず、従って研究に際して幅広い動物門への通暁を要するためだ。生物発光に酸素が必要であると突き止めたのがボイル=シャルルの法則で有名なあのボイルであるというところからも、この研究の視野の広さが窺えるというものである。そして何を隠そう我が国はこの研究分野で最先端を走る国の一つだ。日本の発光生物研究は歴史が非常に長い。蛍に親しむ風土のためもあるだろう。しかし博物学という近代学問として確立させたのは間違いなくある一人の男の功績である。貝原益軒。福岡が誇る偉人。本草綱目への批判的研究から本草学を自家薬籠中のものとし、我が国に相応しいものへとローカライズしたことで、近代日本の博物学の礎をたった一人で築き上げた人物だ。その彼が著した書、本草綱目によれば、天地開闢の折、存在していたのは気、唯一それだけであったとされる。中国語で气とは息が喉で屈曲して吐き出されてくる様、及び万物生成の根源的活動力を指す。古代イスラエルのルーアッハも、新約聖書のプネウマも、自身の気息が天地浩然の気を養っているのだとする孟子の表現も、気象現象と呼吸との間に何らかのモデルを見出した点で同じだ。今日でもスピリチュアルな言説で霊的な、と表現することがあるのだって、この霊の字に雨、即ち水蒸気との関連を見出せるためのものだ。また云という字には靄々したもの、という意味があり、故に雲と魂にはこの云の字が用いられている。気の旧字体が氣、气に米と表すのでさえ、米を蒸かす際の蒸気を単に含意するためであった。万物は水蒸気の循環において同一であり、その根源においてすら同一なる気であったと、本草綱目は記す。ならばヤゴがトンボとなるように、あるものがそっくりな別のものへ変じるのは何ら不思議なことではない。麦が蝶に、人肌の湿気が虱に、日光が蛆に、改鋳の石が牡蠣になることは天然自然の道理だ。そっくり、つまり、ヴァーチャルなのだから。これが自然発生説である。
ところで、並外れた程度のこと。因縁によって創られたもの。これはどちらも、滅法、或いは滅法界と表される。両者は元々仏教用語で、変わらない真理、つまり自然法則の意を持つ同義語である。そこからこの二語は物事の道理、涅槃の境地、その過程で死ぬこと、果ては単なる死やそれくらい極端なことをも指すように語義が拡大していき、その宗教的背景を喪失して今日に至る。めっぽう強い、めっぽう弱い、と実力差甚だしいことを表現する際にしか聞かれないが、閑話休題。自然発生説、という今や法螺にも等しい理屈を下敷きにしたこんなフィクションがある。
「江戸時代後期の絵巻物に滅法貝っていう化け物が紹介されてて、まあ説明文も何もないから当時のチラ裏の一つと捉えられなくもないんだけど、なーんか意味深なんだよね、コイツ。馬鹿デカい二枚貝なんだけど、尻尾と尾鰭がついていて、殻の上の方にはヒトみたいな目がついてるの」
「尾鰭のついた噂、誰も見たことはないのに巨きいとだけ知られている、穴に潜む怪もとい貝、龍ならぬヒトに化生、はいはい。確かに意味ありげだね。レクチュールは問題なく出来てるようだけど」
「いいや出来てないね。黄表紙も化け物小屋も、主客間での約束において差別の体裁を取る体制だったんだから、この化け物も一応は事実として報道された筈なの。その背景にあるパラダイムも、妖怪という説明装置のコンテクストも喪失してるから、本来読み取れていただろう当時のこの化け物への了解はとっくに分からなくなってる。だから絵解きするしかないの。って言うか、あんたの人間観はあらゆる他者間でこれを生じることになるでしょ。感性を承認した時点で相互理解は諦めざるを得ない。それでも罪悪と恋愛の探究を定義に据えるなら、大人になるっていうことはイニシエーションじゃなくて変身と捉えられる」
「そう。だから本郷猛は学生だった。改造手術は悪なる自然としての幼児退行への通過儀礼的な死だったけど、脳改造手術を前にして脱出したから、却って罪悪と恋愛を希求する孤独相の変身ヒーローに成長した」
「ジャリ番のヒーローに、ね。罪悪と恋愛のコンテクストは密輸じゃ受け渡せない。滅法貝の尾鰭、魔女っ子の黒魔術、そういったものがロストテクノロジーになるのなら、この世に大人はいないってことになるでしょ。流石にそれは実態に合わない。どこかに大人はいる。だから普通がある。懐中時計を持った兎はルイス・キャロルの体験のヴァーチャルを装ったフィクションである、って直観でなしに証明出来ないようじゃ小説は自己欺瞞の芸術にならない。で、その証明っていうのは小説一般に行われなきゃいけない。一般化が必要なんだから、科学的合理主義は大人になるのに少なくとも不可欠。これは絶対だよ」




