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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 サハリンが見えてくる。緩やかに右へ進路を取る。どうして私が横からハンドルを回す羽目になってるんだろう、と思う。彼女は寝ていた。

 我が家のサンタクロースは小学生には何も渡さなかった。と言うのも、母はエピクロス的終焉テーゼの信奉者で、どうせいつか死ぬんだから、と事ある毎に私へ教える教育方針を採っていたためだ。贈り物は何もかも無駄だと背中に教わった。自称放任主義のそれに、反抗期を迎えた私は、密かに、死後の世界を否定せずいることにした。実は夢でした、と認識する自我を、ソトから観測出来ないからと物理学主義で否定するのは早計だ。空を飛ぶ理屈はフィクションでも、空を飛ぶリアルが空を飛ぶ理屈のヴァーチャルではないとは言えない。空と海の溶け合う氷上をディンゴが走る。実在性のヴェールに可能世界のヴァーチャルを投影して現実性を投影したリアリティがヴァーチャル・リアリティであるのなら、サイバー・スペースとはいま・ここの、現実世界のヴェールを可能世界のヴァーチャルと見做す眼差しにおいて現実性が承認されたリアリティではないだろうか。サイスの女神像にはこうある。私はかつて在った一切であり、今在る一切であり、将来在る一切である。そして死すべき運命にある者は誰一人、この今に至るまで、私のヴェールを剥いではいない。ひゅうひゅうと掠れた音。口笛は鳴らない。

「んぅ」

「おはよう。体に何か異状は」

「どう、かな。愚者は一を経て一を験すものだから」

「少なくとも顔はルベドしてるようだけど。紅茶飲んだら」

「ブルックスの法則」

「ハンロンの剃刀。だったら対案はあるの」

「ないね。くぁ、はふ。今は、シリウス、そう。宗谷岬の北の海上、ね。変な夢見ちゃった。こんな状況で寝たからかな」

「この揺れでも寝られるくらいならもう寝た方がいいとは思う。どんな夢」

「内緒。ねえ、過去に戻る方法は知ってる」

「いきなり何」

「内緒」

「ったく。テクストでなら簡単、でしょ。現実には無理。出来るとしてもやり直したい過去はないし、やり直したいと思ったとしてもやり直すために全部薄っぺらな白紙にするほどマゾでもない」

「じゃあ受精卵が最初に形成する器官と二番目に形成する器官は何」

「そりゃ、一番が腸で二番が口と肛門、でしょ。卵に穴が開くところから生命は始まる、なんて中学出てれば誰でも知ってる」

「じゃあ目は」

「消化管が揃って、脳と心臓が動き出して、脊髄が通って、四肢が生えて、それからだからずっと後だよ。それがどうかした」

「それなら娑漠暗。視線と眼差しはいつ生まれるの。ふふ、困ってる。どう難しいのか言えたら許してあげる」

「あんた本当に寝起きなの。その二つは、あー、哲学、の、用語じゃなかった。だから短絡的に目の発生と同一視出来ない。かと言って脳の発生に依拠させるのも違うし、サルトル的な客体化で自己を確立する時期を指示するのも何か違う、気がする」

「丙種合格。ボクはね、眼差しが視線から一八〇度外れた世界を夢に見たんだ。目っていうのは個体を変容させるものを観測する器官だから、大抵、口の側に発生する。例外は体側にある種と、口が肛門を兼ねる種くらいだね。肛門の側だけに目がある生物というのは微生物を入れても存在しない。視線を外したところで何を失ったか、そういう喪失に眼差しを向けられたなら、ブラッドベリの回転木馬を逆回転させることは出来るのか。そこのところを夢に見て、それで」

「それで」

「分かった筈なんだけどさあぁ」

 ぷああああああ。彼女が頬を押し当てたハンドルが警笛を鳴らす。取り外すのも面倒だからとそのままにしていたのは彼女だ。五月蠅い。

「視線と眼差しの違いは何」

 ぷぁ。

「興味ある」

「ない」

 ぷああああああ。

「死ぬことをめでたくなるって言うけど。目、出る、で目出たくなる、とも書くよね。で、同じく死の婉曲表現として、眼を落とす、とも書くワケだけど。個人的には三魂七魄の霊魂を球体に見立てて、人体で最も目立つ球体としての眼球が飛び出すからだと思ってた。でも視線と眼差しが一致しない場合があるなら、上や前に出ていく目出たいと、下に出ていく眼落としとでは、意味合いが変わってくるんじゃないかって思う。具体的なことはまだ考えてないけど。どう思う」

「良ーぃ仮説だねえっ」

 溜息を喉で圧し殺す。

「ボクとしては、視線も眼差しも、見えないところからの錯覚、という共通点があると思ってる。ただ、視線、と言う場合はその不可視の領域への不安感が触覚に与える筈の痛痒感を先駆すること、つまり思惟を。眼差し、と言う場合はその不可視の領域からの承認を相補するため差し出すべき苦痛としての快感、つまり行為を。それぞれ志向するものとして分別されるんじゃないかな」

「基本的には他者から与えられる認識を指す語だ、っていう解釈でいい」

「ホーキング博士は言いました。世界は先験される。体系が無矛盾なら実在はどうでもいい」

「それなら、認識が世界を変えるって仮説はどう思う。世界が認識のヴァーチャルとしてのサイバー・スペースだったなら、誰かがフラれたせいで世界が亡びることだってあり得るよね」

「跨稚葦もいきなりだね。ボクが寝てる間に考えたの」

「暗黒物質のアイディアそれ自体を棄却させることが出来なかった腹いせ」

「腹いせ。腹いせかあ、いいね。うん、じゃあさっきの、眼差しが視線から外れた人、一八〇度だと極端だから一度でいいや、一度ズレてる人の認識で仮定すると、先ず相対性理論から時空平面は質量にたいしてイイね・マジ・簡単簡単、だから沈み込んで歪む。次に、遍く現実世界は時空平面上を光速で等速直線運動するから、この平面上に沿って二次元的に観測する限りにおいて視線は歪曲される。けれどその次で、任意のある分布においてこの平面図を虚軸方向に展開、この仮定での眼差しを意識、すると、眼差しは視線に対して立ち上がる、つまり湾曲した時間を脱出する。端的に言えば、視線に則る視覚情報は知覚だったのに、そこからその視覚に眼差しを意識するだけで情報の性質が記憶になる、ってことになる。もっと言えば、他人を見るだけで記憶を覗ける。ただ、この覗き行為はあくまで認識の一環としての記憶だから、自分の記憶を引っ張り出すのと同じでヴェールに投影された実在性でしかない。その嘘に現実性を承認する誰か、たぶんこの場合だと記憶を覗かれた本人の自供がないと、あと本人の記憶への認識が観測者のそれと合致しないと、認識のヴァーチャルは実現しない。おお。見切り発車の割に結論が出たね」

「要するにサイバー・スペースはリアルのごっこ遊びで、互いが取り決めた約束事を承認していなければ世界変革も出来ない、ってことか。つまらないビジネス書が貨幣経済について語ることみたい」

 自他不二、という言葉がある。禅における他者とは自己ではない全てのことなので、その区別が失せるとは、字義だけで言えば自我の散逸を指す。ところが臨在録での扱いはもっと安っぽい。観世音菩薩の仏性が宿るのはどこか特定の部位といったものでなく全身である、だから知恵ならぬ智慧があれば自他は分かり合える、千手千眼があれば脈絡のない行動に見えるほど自在に実践出来る。智目行足到清涼池。実に安い。何といってもこのエピソードにおけるこれは、県知事へ説法する臨在が、麻谷という別の和尚とグルになってやって見せたことなのだから。説法を受けて教わることで満足せず、日々の実践を心掛けて修行へ励め、と伝える見立てにおいて、その実践が修行の窮極的な階梯においても不可能であることを示すという自己矛盾。安っぽい紹介のせいで読んでいて却って落ち込む。

「相互理解のあり得る世界に生きているって自覚があれば世界を変えることが出来るってことだよ。レイプされて産まれた子だって、世界に望まれて産まれてきたんだから、そんな世界を理解した時点でその子も世界を変える力を手に出来る。世界を変えられないのはその子の頭が悪いからだよ」

「失礼な。あんたにとって馬鹿なのはそんな面罵されるほど悪なワケ。確かに友達少なかったけど、例え皆無だったとしても他人へ理解を示さなかったことがすぐさま世界参与の手立てを絶つことだとは、え、何」

「本気で言ってんの」

「あんたねえ、タダ飯食らいだってそこに摂食と排泄があるなら社会参画でしょう。引きこもりの存在さえ否定するつもり」

「いやいや。いやいやいや。そうじゃなくて、えっ、いたでしょ、友達。寧ろボクなんかより余程クラスの輪の中心だったじゃない」

「トクシュと一緒にされても。それに、話盛り上げたことはあった」

「いーや全く。クソつまんねー話しかしないし頭も体も弱かったし常に五割は憂鬱そうだったし。やれ眩暈だやれ立ち眩みだ、ってしょっちゅう貧血起こしてたのに保健室行かないし、何だったら花壇の草むしりやってたよね、自分から。カースト最底辺の穢多非人って自覚あったんじゃないの」

「泣かせる気なの、ねえ。事実そうだったけど。だったら友達少ないの分かるでしょ、同じ穴の狢なんだから」

「それだよ」

「どれだよ」

「だから、その狢がいっぱいいたでしょう。何だか知らないけど、ほら、学校中の悩み相談を自主的に請け負ってたあの時期。あれでピラミッドからあぶれてトクシュになりかけてた子達が大勢こう、持ち直して、って言うか、普通になって、陰に陽に脇を固めて派閥みたいな感じになってたの。ネアカとネクラの、なんて言うか、真空地帯ってゆーか」

「非武装地帯の間違いじゃない」

「そう。だから一番みんなと対等に話せてたのは詫禎蓉なの。友達が少なかっただなんてそんなの嘘だよ。嘘吐きいいいぃ」

「その理屈だとその悩み相談の噂を広めたあんたも相当友達が多かったんじゃない。同年代ってだけの素人のガキに話す程度で解決する問題ばかりじゃないだろうし、あんたの気のせいでしょ。ほら、物事に関わったって気分が物事を上手く進展させたと思い込ませる、っていうあのバイアス。最近だとモンスターボールの揺れに合わせてボタンを目押しすると捕まえ易くなるっていうのが有名なあれ」

「もん、ボール、え、何それ」

「知っときなさいよポケモンくらい」

 それに、と胸中で呟く。もし友達がいたのなら、年賀状も、成人式の招待状も、同窓会の連絡も、何一つ届かないなんてことはなかった筈だ。尤もそれを言ったところで虚しいだけだし、伝えたい相手だって《静止》していて聞く耳を持たないだろうから、口にはしないことにした。

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