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無駄な美声で歌いながら彼女が作業を進め、コミックソングだなあ、なんて飛ばしていた意識にリンリンだのパカパカだの言っている歌詞が刷り込まれた頃、その袋はやっと外に棄てられた。何だかこちらまでどっと疲れた。
「それでさっきの話だけど」
「ん、ああ、そうだね。まだ続けるの」
「中途半端は気持ち悪いから。ね、袋見せたけどちゃんと見た」
「そういう趣味なの」
「それほどでも。じゃあ水と氷でいいけど、比重と密度の異なる二物質があったらどっちかは浮くよね」
「水と氷は同じ物質だから例えになってないことを除けば、そうだね」
「じゃあ大小便で」
「オーケー水と氷ね」
「言わなきゃいいのに。で、要は相互作用も光学的観測も不可能なものに地球が浸っていて、その存在に座標上押し返されているから、干渉はどちらからもされていないのに浮力がかかっている状態になって動けないでいる。だから太陽に落ちない、って理屈ならイケるんじゃないかと」
「そんな都合のいいものが本当にあればね」
「ある。ねえ、宇宙背景放射って言って分かる」
「高校レベルでなら。要するに弱い放射線でしょ」
「それでいいよ。ビッグバンから精々三〇万年しか経ってない頃に飛び始めたからかなり冷えてエネルギーが減衰してるのね。しかも宇宙は超光速で膨張してるからその波長は空間ごと引き延ばされてて、宇宙論的赤方偏移って言うんだけど、極端に強いドップラー効果が働いて、更に拍車がかかってんの。赤い光だけが夕陽の色になれるのと同じ理屈で、歩幅が大きくて歩数が小さいから、ビッグバンのあった頃からいま・ここって遠いところまでを飛んで来ることが出来る」
「知ってる。資料集にそう書いてあったし」
「嘘だよ、その記述。だってこれ未解決問題だから」
「は」
「GZK限界っていうのがあってね。算定式にもよるんだけど、さっきの理屈に基づいて計算すると宇宙線を一・六億光年以上飛ばすにはそのエネルギーが八ジュールを超えることは出来ない、それ以上のエネルギーを持つ宇宙線は存在しない、ってことになってる。でも観測史上最も高エネルギーだった宇宙線は粒子一個で五〇ジュールもあった。さっきの試算の六倍以上あるから、これは理論がどっか破綻してるだろうってことで、だから、未解決」
「ちなみに五〇ジュールってどのくらい」
「中学生が野球ボール投げてぶつけたくらいの威力」
「粒子一個でそれかぁ、観測上の問題なら一発で分かるくらいデカいね。んー、なら、飛んできたのが意外と近くからだった、宇宙線ではあったけど宇宙背景放射じゃなかった、とか。飛んできた方角を誤認していた、とか。あとは、そういう特殊な天体があった、とかかな。エネルギー保存則のやぶれだって現にこうしてネーターの予言通りになってるくらいだし、天体一つ分くらいなら例外もあるんじゃない」
「一つずついこうか。先ず方角だけど、これはほぼ直進したと見て間違いないよ。エネルギー的に大きい分だけ場の影響が小さくなるから、重力場に落ち込んで歪曲する可能性はトンネル効果を考えるようなものだね。あり得なくもないけど標本数が多過ぎる。次は距離、これも反証がある。例えばアマテラス粒子が飛んできたヘラクレス座の方角、これは活発な天体どころかそもそも天体自体の数が多くない、局所的空洞って呼ばれる領域で、だからこの宇宙線はビッグバン由来。最後にそういう特殊な線源がある可能性、これは、なくはないけど考え難い。って言うのも観測されてきたこういう高エネルギーの宇宙線ってどれも方角が一定じゃなくて、もし毎回出所が違うのなら地球から観測出来る領域の情報だけが例外ってことになる。それじゃ科学にならないでしょう」
「成程ねえ、全部本当ならそりゃ未解決だわ。そういう外力を与える好都合な悪魔を仮定してもエネルギーが高ければそれだけ宇宙空間で冷却され易くなるし。素直に考えるなら高エネルギーで観測不可能なものがエントロピーに大で散逸して、且つGZK限界を満たす、から、相互作用も駄目。いやないでしょそんなもの」
「ボクもそう思うけど、現時点で学術的に正当とされる学説ではそういう物質が仮定されてる。暗黒物質、英語だとダークマターって呼ばれるのがそれだね」
「クインテッセンスなんて地盤にしても掬われるのは足元だけじゃないの」
「どうかな。憧れから掴み取るものだってあると思う」
「んなワケあるか。理に則って転がる石に苔の気を生やせなくなったら人間はもう永遠に眠れる奴隷でしかいられないモンなの。理系のクセにあんた偏見はテクノロジーだって知らないの」
プトレマイオスモデルにおける惑星は、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の七曜である。メジャースケールはドレミファソラシの七音、カトリックの美徳は四つの枢要徳と三つの対神徳でこれも七つ、狼に喰われる仔山羊は七匹で、海域や大陸は基本的に七つで分類される。これは偶然ではない。天動説にあって土星より遠くに見える恒星を、ただ遠いからと系外に設定したのはミリカン的演繹であるし、メジャースケールにはペンタトニックスケールやピタゴラス音律が対置してある。わざわざ七に合わせてあるのだ。正七角形の作図問題然り、七福神信仰然り、どうやら人類は七や七二や三などある特定の数字へ何らかの正しさを見出してしまう生物学的エラーを抱えているらしい。ちなみに、一二三四五六七と書いて、はじしらず、と俗に読む。これは八犬伝で有名な儒教的徳目において八つ目の徳を失した者は恥を落とすためである。そして八つ全て失した人のことは忘八と呼び、これは性風俗店の客やその経営者を指す言葉であったそうだ。閑話休題。科学は真理には成り代われない。ポール・ファイヤアーベント曰く、科学は神話に近い。この身に血の通う限り、ヒトは、テクノロジーを感性で穢してしまう。全てのサイエンスには命が吹き込まれている。
「偏見の最たるものが魔法ね。ルネサンス期に魔法は失われたから。勿体ない」
「ああ魔法。好きだねえ。実在しなくて残念だったね」
「ちっがーうっ。あんた全っ然分かってないっ。いい、そもそも当時生活魔法って言われてたのは主に薬草学だったの。こういう人に利を齎すものは技術のない他の人にも口伝出来るように整備されて共同体で管理されてたの。つまりサイエンス。白魔術。分かる、ねえっ。でもこれがルネサンス期を経て、口伝の範囲が縮小して、つまり教会勢力と伴走して村落単位が解体していって、そういう話は黒い森伝承、シュヴァルツヴァルトの噂話にまで後退してっ、その結果どうなったと思うっ」
「近い近い近い。え、ええ。んー、分かんない」
「そうッ」
「ひっ」
「ウチとソトで分化して中身が見えなくなった。だから魔法は総じてオカルト、黒魔術、そういう扱いになった。生活魔法って呼び方はそういう意味。その程度の意味なんだよ。質的には村のお婆ちゃんの知恵袋が薬草学体系にあった頃と何にも変わってない。誰かが偏見なく手を差し伸べていればイニシエーションを介さずにサイエンスまで復権出来てたんだよ最初の頃はっ」
「うん。前見て、前」
「けどそうはならなかった。何故か。正解は女呼ばわりして遠ざけたから。馬鹿だよねホント。ここで言う魔女は別に女とは限らないけど、でも大半は女性だよ。手のひらで受けた雪の結晶みたいに、上履きに付いたシャボン玉みたいに、どれだけ優しく触れても壊れる儚い繊細な存在が女性ってものなのに、よりによって鉄槌で叩き潰したんだよルネサンスの目醒めたクソ共はオノレエエエエエッ。子を産めるお腹を蹴飛ばして、子を育むおっぱいが出なくなるまで追い詰めておいて、土葬文化の根付く地にあって火刑にかけて魂の行く末まで損なった。神に成り代わろうったってそれだけで神に弓を引いていい理由にはならない。神に弓引く理由があって、そんな邪神を討滅して、成り代わるならその後にするのが筋でしょう。本当に酷い。惨い。そう思わない」
「うん。ところで」
「よね。そう、それなのに、今となっては魔女はいないモノの象徴になってる。おかしいよこんなの。あんたもセーラームーンは知ってるでしょ、あれは美少女を自称しているし、形だけ能動的なフリしておいて周囲に守られてる奴が主人公だし、漫画版だと男性嫌悪描写モリモリで子供心にも不快なくらいだったからアニメ版ではテコ入れされてるくらいだったしで多方面に馬鹿だけど、あんなのが現代では魔女なんだよ。ルネサンスまでは知恵持つ女性こそ魔女だったのに、現実には居もしない敵を相手に暴れ回るノータリンが今の子供にとっての魔女なんて、本当の魔女の尊厳は未だに傷付けられてるんだよ」
「ああ、まあ、うん。確かに、ヒロイックさを推してる割には超ミニスカだよねえ。ボクが何かの機会で一回点けて見た時も戦ってたけど、なんか、コントっぽかったし」
「ゴレンジャーと合流した系譜に連なる作品だからね、一口に言えばお調子者なんだよ。土台の部分で歪んでるから本義にリアリティが戻らない。ねえ、魔法って聞くとファンタジーだって思うでしょ」
「違うの」
「違うね。まるで違う。巴・坂額と言い、千葉や茨城で家督の長子相続と言うと未だに長女へ譲ることになることと言い、日本は伝統的に女権の強い国だからソトから魔女に見える女性となると軽く有史以前まで遡るんだけど、いわゆる魔法少女ものに絞るなら源流は二つまで絞れるの。一つは、メリー・ポピンズ。スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスってあるでしょ、あれは作中でも魔法の呪文ではなくて、望みを叶えて下さる言葉、つまりただ長くて面白い単語ってだけなんだけど、まあその、ミュージカル映画だよ。で、もう一つはシチュエーションドラマ、舞台組んでコメディやるからそれこそコントで、奥さまは魔女って作品が有名だね。当時はかわいい魔女ジニーっていうのと二大巨頭だったみたい。それで、ええと、理想の自分ならこんなことするんだーっていうポジティブな面はメリー・ポピンズの流れを汲んだコメットさんが、今の自分じゃまだ理想からほど遠いから頑張らなきゃーっていう比較的ネガティブな面は奥さまは魔女の流れを汲んだ魔法使いサリーが、それぞれ担ったってワケ。で、でっ、初めの頃は東映の主導でサリーの、当時は魔女っ子って括り方が主流だったんだけど、このサリーが魔法少女のアーキタイプになったのね。それが」
「ちょっと」
「スタジオぴえろがクリィミーマミを打ち出すと今度は一気にアイドルっぽい子ばっかりになるの。さっきの話で言うコメットさんの、理想の姿に変身する流れに変わったってこと。ミンキーモモとかエスパー魔美とか、もう猫も杓子もアイドルだったでしょうあの頃。世代だったのこの辺りだからあんたも分かるよね。この頃の魔法はだから、経済力を立て替えたものだった。ある意味ファンタジーだけど、夢みたいな話であってあり得ない話じゃなかった筈。そう思うよね」
「いやまあうん、うん。あの」
「ね。でも九〇年代になるとこれがまたがらっと変わるんだよ不思議なことに。萌芽はキューティーハニーの時点でもうあったと言えばその通りだけどさ。この時代の作品は例えば魔物ハンター妖子とか、チックルの流れを汲んでるミラクルガールズとか、ロボットアニメと合流したレイアースとか、あとさっき言ったスーパー戦隊と合流したセーラームーンね。これ何度でも言うけど大っ嫌いなんだけどね、不実で。誠実っていう美徳は現在の態度を過去の自分や未来の自分の眼差しに曝しても恥じることがないって時にその態度を指して言うことだと思うんだけど、その点この主人公は泣き虫で普通の女の子っていう言い訳を残してあるから愛のため闘うとか言ったその舌の根も乾かないうちに泣き言喚いて逃げを打つことも恥じやしない。そこに思想的転向があったなら誠実と言えるけどコイツは始めから自分はどこまで行っても普通って均してるつもりだから何の責任も負おうとしない。そのクセして偉そうにべらべら話しながら拳振り上げて無知な子供の前で正義の味方面するんだよ。最低だよ」
「うん」
「あ」
「どうしたの。聞いてるよ」
「あー、ごめん。話し過ぎた。要するに暗黒物質なんて都合のいい仮定を挟んだらそこからどう積み重ねてもサイエンスにならないって話をしたいだけだから。で、どう思う、暗黒物質は説明に使えないんじゃないって言ったワケだけど」
「まだ話し足りないでしょ。いいよ聞くから」
「いやその、ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい。も、もうやめるから」




