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  作者: 浮沢ゆらぎ
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「もうっ。もうっ」

「はっはっは。愛い奴め。話戻すけど、だからこの計算だとあと四〇日と少しで地球は太陽へ落っこちることになる。ここまではいいよね」

「そーですね」

「わあおテレフォンでショッキング。いい、よく聞いて。例えばだけど、水星の公転周期は知ってる」

「ん、ああ、それなら。えー、地球の四倍早いとか何とか、えっ」

「そう。それならもう水星は太陽に落ちてなきゃおかしい。太陽系自体も別の銀河に落ちて行ってるだろうから精確さはその、あれだけどさ。でも少なからず地球もそれだけのことが起きるような過程にある筈なんだよ。なのにその割にここは平和過ぎる。幾ら何でももう少し何か起きてないと変だよ」

「ちなみにもし自由落下してるなら今どのくらいまで加速してるの」

「え、暗算で」

「そう。暗算で」

「無茶言うねえ。出来るけど。太陽との距離を充分離れていると仮定して、そうするとオーダーが揃うから、充分時間経ってるし自由落下の式にそのまま代入して、だから秒速で、五、うん、一〇の五乗メートルってとこかな。概算だから実際はこの一・二倍から一・八倍くらいすると思う」

「意味分からんくらい早いのは分かった」

「第三宇宙速度が秒速一六キロメートルくらいだよ、確か」

「ボイジャー号より早く落ちてるってこと」

「やっばいよね」

「やっばいね」

「でも、そうはなってない。犯人の側に意図がなきゃこんな奇跡的なことにはならないんじゃない」

「むう」

 一理ある。

 犯人は魔女の時間の中でしか為せない何事かを為そうとしている。そしてそれは、少なくとも地球を含む星の位置の相対分布の固定を条件とする。《静止》を終点としたファイン・チューニングではなく、インテリジェント・デザインの過程としての《静止》。過失犯ではなく故意犯。彼女が言っているのはつまりそういうことだった。

 ヘルヘイムの暗黒をディンゴはがたんがたん、からからぎゃりぎゃりとまるで対流圏に穴を掘るかのようなノッキング音を響かせながら徐行する。黒河の水面はどこまでも穏やかで、曇ったガラス越しの景色は暴風圏期に堆積した木片や土砂が鞣されて凍り付いた緩やかな丘陵地帯のようになっている。水平線に地球の湾曲を見た。地球半径のオーダーを数千キロメートルとおくと、車高のオーダーである数メートル分は無視出来るほど小さいから、三平方の定理より斜辺の長さに相当するここから水平線までの距離は二値の桁差の平方根なので数キロメートル、但し、まだ地球が球であるのなら。タイムライン概念の獲得がヒトを猿から人類へと進化たらしめ、産業革命期の時刻表の発布が統一時概念の獲得を齎したと言うが、日昇と日没はまだ猿だったヒトにおいて黒魔術だっただろうか。たった数キロメートルを隔てる大気のヴェールに神秘的な黄金の香気が満ちては、再び陽が昇ることを尊く思い、震えただろうか。魔女の時間は湾曲の時間だ。地球が球であるがための再生する神秘だ。故に、永遠に陽の昇らない《静止》世界の時間に感傷はない。

 光速度は一定なので空を見れば方角だけは分かる。河口から海に出て、東に進んでサハリンまで行き、海岸線に沿って南進すれば北海道に着く。北緯四三度、東経一四五度地点までそのまま南下、東南東方向の一〇五度へ進路を切り、太平洋を横断して北緯三七・八度、西経一二二・四度地点へ。そうしたら今度は一六〇度、南南東方向のやや南寄りを目指して進み、南緯二七・一度、西経一〇九・三度に向かう。最終目的地である第二のユミルはここから更に進んだ帯域、計算によるとどうも見事に島も何もない海域らしい、南極から続く太平洋のある範囲だ。座標表記するなら南緯四八度、西経一二六度の辺りに該当する。途中で立ち寄る北米大陸近海が推定気温一〇度とかなり温暖なのでディンゴで上陸出来るかすこぶる怪しいのだが、感性を排して悟性だけで次のハビタブル・ゾーンを目指すこれ以外の方法は太平洋周縁をシベリア方面からぐるっと迂回するしかない。《静止》している以上はどうにもならない。自然から蔑ろにされている。ふと、このどうにもならなさに腹の立たない自分を感得する。昨日は鹿を見た。が、一昨日も、その前も、その前も見たのは彼女くらいだ。ユミルの人口は到着時点で一三一人だったと聞いている。アルコラピア・グラハミよろしく適応放散した数少ない彼らから、生き残ったのがいま・ここのたった二人、何を差し出されるでもなく、寧ろ見下されるように、たった五分前にこの二人のためだけに産み落とされた世界で、それで、この穏やかな気持ちは何ということだろう。不思議だ。

「はあ。分かった。じゃあ犯行動機があるとしよう。その動機から何らかの因縁のある人々を呪われた洋館に招き入れて、《静止》の吹雪で閉じ込めて、尖ったソトの時間へ渡る橋を落として退路を断って、犯人は何かを始めようとしてる。自然現象だとすると細部に矛盾があるから何らかの意図でその矛盾を補ってる、と。でも、なら、それはどうやって。あんたのことだから超自然的な力とは言わないよね」

「ひぅえっ。あ、ああ、うん」

「何その反応。取り敢えず、自由落下が計算通りには始まってないことを、この宇宙にある科学的事象で犯人がどう実現したか、からいこうか。遮蔽物があれば物体の運動を遅らせられるのは、昔、子供の科学で読んだ覚えがあるから小学生だって分かる。それこそ光だって、例えば水の入ったコップの上面から当てた光は屈折減速して側面から出て来るけど、あれは入射光そのものが界面で減速と加速をしているワケじゃなくて、荷電水分子の励起光との合成波になってるからだ、って書いてあった。《静止》直後なら飛んでいた鳥が落下せず空中に留まるようなこともあるのはこっちでも確認してるから、系が均衡していて落下の開始までにある程度のラグが生じる可能性も、まあ分かるよ。でもこの場合は太陽と地球、それも何日も経ってるでしょう。エーテルは《静止》以前から空無なんだから、遠心力がないままなら自由落下を妨げるものがない。おかしい。よね」

「どうかな。既知だけど今までは偶々働いてなかったものが今になって機能し出したと考えれば不思議なことは何もないと思うけど。課題解決のために未発見の何かへそれを解決する性質を仮託して、そんな何かは見つかっていないからこの課題は解決しないんだ、って言うのは詭弁だよ。んぅ、観測選択効果、不都合な真実は見え難くなる、だね。因果的決定論が成立しないのは隠れた変数がまだ見つかっていないせいで秘匿されているからだ、とか、物が燃えるメカニズムがよく分からないのはフロギストンが単離されてないからだ、とか、そういうのと同じだとボクは思うけどなあ」

「へーぇ、あんたらしくもない、あと貧乏ゆすり止めて。あんたのそれこそ詭弁じゃないの、論点は暗数の不在じゃなくて逆行推論の指摘なんだから。検閲官仮説みたいに、枚挙的帰納法を使うつもりで、裸の特異点の証明を援用するのとは話が違うよね、これは。宇宙空間の既知の性質から地球の自由落下を食い止める媒質は見出せそうにないから、アブダクションじゃなくて演繹だと言える根拠を、いや、待った。やめて揺するの」

「ノッキングうう。だだだだだ」

「それもあるけど違うでしょ。何。こっちから言わせたいの。言っとくけど漏らしたら車内でも凍死するんだからね。助けらんないからね」

「正直限界。大の方」

「だから出発する時聞いたのにもうこの酔っ払いお馬鹿。ええと、紙とビニール袋はインパネの、待った。先にシートにタオル敷いて、座面散ったらそこから気化熱で最悪死ぬから。ああそれと安定する姿勢を先に決めて。車体の揺れで臭い付けたら殺す」

「一滴残らずナカに注ぐから体位決めろってこと。流石ヘンタイ」

「はいはい。それでいいからさっさとしろ、うんこマン」

「はーい。ねえ外で直截やっちゃ駄目。めんどくさいんだけど」

「駄目。肛門から腸が冷えたら下痢になるでしょ。排便回数が増えて余計めんどくさいし、体力も体温も奪われるし、濡れて凍傷になるリスクも上がる。不合理」

「だからってこんなペットみたいな。それに短時間とは言え腸内細菌のフローラがアレになるリスクもあるでしょう、車内は乾燥してるけど暖かいんだからさあ。それなら合理的にも縄かなんかを腰に括りつけて牽引してもらいながら外で出した方が」

「あとこの外気でドア閉めたら凍って二度と開かない可能性がある」

「アッハイ」

 べりべりと彼女が服の面ファスナーを開ける。合わせが男女逆になっていたのは改造したからだったらしい。お頭が回るようで。トクシュのくせに。玉葱を剥くように何枚も何枚も下だけを脱いで、モスグリーンのカーゴパンツ、パニエ感のあるパンタレット、白いラインが二本入ったブルマとデニールの高そうなレギンスを下着ごと下ろして、ヘッドレストに片腕を回して、中腰。この子のことだから服に付けるくらいしかねない、なんて思って、もう互いにいい歳だしな、と目を細める。もう片方の手に持っているビニール袋が走行の振動にふるふると揺れる。助手席の窓側にある彼女の右手は暗くて殆ど見えないが、袋の端を抓むぶ厚い手袋の、薬指に力が入っていないのはよく見える。そこにそれはない。知っているから分かる。ぶふっ。ぴち、ぷふぶびゅぶりぴちちちちゅ。

「機能判明だけど駆動のなかった既知物質が地球の自由落下を妨げているのなら素朴に演繹であるとした方がオッカムの剃刀に適うんだとして」

「うるさいな。ちょっとは恥ずかしがれうんこ野郎」

「ええー。生理現象だし仕方ないでしょお」

 ぶっ。ぴちぶぶびゅ。みちぃぴちぶびゅっ。ぶりゅう。

「それともよく聞きたいのカナ蒲楼詮は。ヘンタイいいい」

「あんたもうホントいい加減にして」

 しょおおおおおびゅぷ。ぷ。ぼっじょおおぶみみみびぶりゅりゅ。

「長いなもおおおお金魚の糞かよおおおお」

「確認だけど、既知の自然科学において現時点で学術的に正当とされる学説を援用するのは演繹でいいよね。ハッブル定数は超光速だから、時が停まってからの地球は超ファインマニウム物質だー、ってするのはアブダクションだけど、ハッブル定数は超光速だから、超光速運動していることさえ確認が取れたなら、事象の地平面の四次元系丸ごとでの越境をポプラウスキーの胡桃、別名ホワイトホールの蒸発で解決した、と解釈しても演繹ってことで」

「うるっさいっ。それでいいからもう、黙れっ。シャラップッ。アンモニアは水に溶け易いのっ」

 ぴーよぴーよぴぴぴぴぴ。ぴぴぴ・ぴっぴぴ。

「口笛も禁止っ」

 こちらは運転中なので目も耳も塞げない。両方塞いでも鼻は塞げない。ごうごうとエアコンの排気する通奏低音がどうにか排泄音を誤魔化そうと車内の空気をぐるぐる循環させる。糞便臭が濾し取られて肺を冒して回って濾されて吸って吐いて糞して漂って濾されて吐き出されて。嗅覚は解析精度の高い触覚だ。原因VOCを粘膜に接触させて取り込むことでぉええええええ。不愉快過ぎて数少ない思い出から何か嫌なことを思い出しそうになる。トイレではない。下水か。曇って真っ白な視界に綺麗な景色は望めない。辛うじて遠近と輪郭が分かる程度だ。大して変わり映えしない河面から少し視線を上げると満点の星辰が見え、見えない。おのれフォギング。

 この星空が平和な限り、どうしても時間停止なんて信じられない自分がいる。アインシュタインの十字架も、スターボウも観測されないのだから。連続的時間並進対称性のやぶれに論拠を求める私の方が、普通の妥当な考えの方が、結局は目的地周辺にいるということを確信している。ぷぶっ。じゃっ。ぼちゃっ。けれど、彼女は最後まで裏切らないだろう。かつての親友と話せるなら耳を傾けるのも吝かでない。ぷすー。ぷすん。

 ぶっぶぶももももぶぼぼぽぽちゅみちち。

「はぁ。ねえまだなの」

「もう終わり。今拭いて、うん、終わった」

「口縛ったら先に服着て。で、充分温まったら手袋の一番上だけ交換して。あとドア開けて落とす時はシートベルトして、こっちにもちゃんと開けるって言ってね。準備は何も出来ないけど、その、心構えとして」

「了解でーす。ねえ見て、袋いっぱい」

「そんなもの見せるなっ」

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