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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 やいのやいの。あの頃と地続きのような錯覚。私はあと何日かで二四になる。もう二四の筈のこの子はまだ学生だと言う。訊いてみようか。見遣った彼女の前髪はいやに濡れていて、預かったままのハンカチのことを思い出す。私が当時彼女に贈ったものだ。まだ使ってたの、とも言い出せないまま手渡し、嬉しそうに眉を下げて受け取る彼女の瞳は澱んだライトグレーで、冷たい指先が瞬間触れてはっと視線を逸らした。目を奪われていた。カラコンに違いない。心音を塗り潰すように口を開き指を立てる。三点、どうしても解決しなかったことがある。

「第一に、ぶっつけ本番な点」

「それはボクも分かってる。しょうがないよ、こんな事態だもん」

「第二に、休憩が出来ない点。車体が一旦冷えるとまた今みたいな暖機運転が必要になる。このヒータは取り敢えず積むけど、たぶんここみたいな遮蔽された環境じゃないと役には立たないから、アクセルは基本的に踏みっぱなしにするしかない。それにハンドル握ってる側が寝ると危険だから二人とも寝られない」

「それは、んー、何とかなるんじゃない。最悪方角さえ合ってれば交代で寝ても大丈夫だよ。ラスベガスのドライ・レイクを走るトラックって丸一日移動しないと間に合わないような期日で動いてるから砂漠に入ったらアクセル踏んだまま寝るんだって。衛星放送で言ってた」

「本当、それ。なんか怪しいけど」

「マジマジ。ま、ボク免許持ってないから前後の文脈は覚えてないけどね。そんで、三つ目は」

「ガソリンが足りない」

 ガソリンの凝固点はマイナス一〇〇度くらいである。くらい、というのは誰もその正確なところを言えないためで、それは小学校の家庭科でも習う凝固点降下に原因が求められる。混合液体はそれだけ凍りにくい。事実、マイナス一三七度雰囲気下にあったここワルワラに静置していたガソリンは過冷却でもなく液体であったし、元より粘度が高いためか沈降分離した傍から凍るということもなかった。だがこれが数日以内にムスペルやユミルから持ち込んだものでなかったなら、そして手入れをしていなかったなら、本来の凝固点がマイナス一〇〇度そこそこだとされるガソリンを液体のままこうして見ることは叶わなかっただろう。解凍したガソリンが分離することは実験済みだ。これがディーゼル車なら点火方式が断熱圧縮による自己着火なので分離してもまだ何とかなるが、ディンゴはスパーク着火方式だ。メーカ想定の三〇〇度できちんと、それもノッキングしない絶妙な配合で、点火出来るものでなくては燃料には使えない。よって、道中でガソリンが増えることはあり得ない。いま・ここが最大量だ。

 燃費の問題もある。ここから海まで黒河上を通って行くとして、直線距離でもその長さは約三六〇キロメートルある。仕様上の燃費とタンク容量に対して五割に相当する距離だ。だがヘルヘイムの寒さでは当然そんな燃費は保てないし、最高時速もいいとこ二〇キロメートルだろう。プロが数人がかりで整備しつつ動かす南極観測雪上車でさえ一日の移動距離は八〇キロメートルが限界だそうなので、それに倣えば最低五日間は連続運転可能な量を積まなくてはならない。四回も停車・暖機運転するとバッテリ切れや凍死のリスクが跳ね上がるため運転中に補給しつつ駆け抜ける案もないことはないが、静電気が発生すれば爆発炎上してお陀仏だ。どっちみちギャンブルである。

「それを踏まえて、じゃあここにある分で足りるかって言うと、正直微妙。使い切れるなら足りるんだけどね。車内はもういっぱいだから何かで牽引するとして、でも運ぶためのものがあのリヤカーくらいしかないから燃費はもっと下がるし、外気へ直に曝すことになるからその分が凍って使い物にならなくなる可能性はかなり高い。運転中は補給しないとすると最低一回はガス欠で停まるから、その時に凍ってて補給出来なかったらそこからは歩きになる。オホーツク海を徒歩で移動して、運良く日本まで死なずに着いたところで、凍ってない何らかの移動手段が見つかる保証もない。そもそも何事もなく中継地点の日本に着いたとしてもそこでガソリンが見つからなかったらその先の太平洋はどうしようもない」

「それで足りない、と」

「そう」

 うーんと唸って彼女は動かなくなった。頃合いだろうと運転席に近付き鍵を回す。何度目かでエンジンが低く呻き、回り出した。目一杯暑く設定しておいたエアコンが動き出す。からからから。風車の回るような異音がする。彼女に声をかけてヒータを回収し、言った通りリヤカーを括りつけてガソリンを満載させ、使うか分からないものは吟味して手早く棄て他は全部詰め込んだ。トイレは平気、と尋ねる。んー、と生返事が返る。尋ね直すか。酔っているから何にせよか。じゃあ、いいか。幌を上げて彼女の右の席に戻り、ランタンを消す。ヘッドライトは節約のため遮断してあるので光源は星明かりだけだ。思ったより眩しいのは幸いだった。ガラスは、曇っているが。アクセルをベタ踏みした。クリープよりちょっと遅い程度の速度でディンゴは発進した。異音に合わせて車体が揺れる。むむむむと彼女はまだ眉を寄せていたが、ひどい視界と今にも酔いそうなそれに私がやっと慣れた頃、ふうと細く息を吐いてだらりと足を投げ出した。

「ボクに未来予知が出来ればよかったんだけどな。考えても詮無い事だけど。時間が停まったらガソリンがどう燃えるか厳密に考証した専門家なんて世界中探しても、あ、そもそも前代未聞だからいるワケもないか」

「《静止》が時間停止だなんて無邪気に考えてるのはあんたくらいだよ」

 ピロポノスは天地開闢以前に先ず時間在りきとしてアリストテレスの永遠論を反駁した。対するシンプリキオスは世界こそ先ず均質永遠に在り、重ねて永遠なる神が世界への目を開かせたのだと論陣を張った。時間は世界に内在するか外在するか。タイムライン概念はビッグバン以前の無時間次元に不適か否か。これはそういう議論であった。コギト命題に連なる観測者は前者を支持した。過去・現在・未来が語りのコンテクストにおいて意味的に伸縮するのは、重力に結びつく我ら左右相称動物の情動獲得と、その進化が幼体における時間感覚の発露を要請したために転倒遡及して生じた原始的パラダイムに依拠するためである。旧いだけあってこの神は偉い。あなたがその醜いモノに対する嫌悪を克服し、あまつさえそれを愛するようになれば、その醜いモノも何らかの美しいものに変容する。どんな呪いも愛情には勝てない。愛情それ自体が最も強い魔術であり、それ以外の魔術はどんなものでも愛情には及ばない。しかしその愛情も敵わない力が一つだけある。それは何だろう。火でもなく、水でもない。空気でもない。大地でもなければその中に埋まっている鉱石でもない。時間である。

 しかし単一時間系列のイデオロギーの信奉者は、その創発、超越、シンボル機能の無根拠なることに知っていて眼差しを与えない咎を受けている。整合した認識において観測可能物は第一に想起される。第二に確率的分布が生じ、第三に知覚され、それから第四に知識との照合を以て概念・推理・判断の篩にかける。そうして第五に、漸く実在可能物としてオカルトかサイエンスか、現象か物自体か、分別が行われる。旧態的パラダイムの帰属者達はこの知識との照合の段においてそれらを荒唐無稽な妄想だと断じ、投棄してしまう。異世界との対峙あっての合理主義だ。洞穴の龍が果たして法螺なのか、ガレージの竜なのかは、曝くまで断定してはならない。

 魔女を排して素朴に考えたなら時間は世界に外在する可能性が見えてくる筈だ。マントルが心、地殻が世界、モホロビチッチ不連続面がヌミノーゼをヴェールに投影する中間領域としての遊びに相当するならば、外宇宙の何ものか、暗黒霊液や小惑星か何かが従来的単一時間系列としてクオリアならぬ実体として実在することは、確率的分布において棄却されない。加えてウチのルールはソトへ絶対的に優越する。何故ならソトからの来訪者が儀礼的にでもそのパラダイムを失効した履歴を有しないならば、ウチの合理性は容易く破綻するためである。ウチなる科学の観点から見たならば、確かに、《静止》とはネーターの定理をt対称性に適用したもの、連続的時間並進対称性のやぶれが自発した事象に過ぎない。だが合理的に見たのなら、ここには宇宙背景放射と魔女のパラダイムのソト側に広がるまだ死んでいない時間、湾曲なく尖った時間を一つ以上見出せる。《静止》事象にはそれに先立つ動機があって、それを仕組んだ犯人がその尖った時間において存在している。犯人の犯行がこの四次元宇宙では加熱や冷却に相当するものであることを含め、私はそんなことを彼女へと話した。彼女は可笑しそうに頭を揺らし、指先を顳顬に当ててまるでヘッドフォンを着けているかのように聞いていたが、私が話し終えるとまるで、それだけ、とでも言いたげな表情をして、違うね、と呟いた。間違ってる。

「動機があるだろうってのは賛成だけど、ボクが思うに、犯人とボク達は同じ時間を経験してるよ。犯人はこの中にいる。それに、そう難しく考えることもないんじゃないかな。犯人は時間を停めた。でも犯人はその動機のために、ボク達みたいな動ける人間を残した。これでも矛盾はなくない」

「ないけど。ならあんたは何の役どころなの。さっと停めて目的済ませてさっと戻すか、戻さないまでも全部停めた方が人知を超えた奴っぽくない。自分にそんな価値があると本気で思ってんの」

「さあ、そんなことは知らないよ。ただボクは従円と周転円を描くよりも真ん中におっきな仮定を一つおいた方が賢いんじゃない、って言ってるだけ」

「加速度は位置の時間微分なんだから、ってニュートンの運動方程式を持ち出して、時間が停まってるなら動けるのは妙でしょ、って主張するのはそう馬鹿馬鹿しくもない考えだと思うけど」

「まあ、ね。突き詰めるとどうして無いのではなく在るのかって話になるし。でも対称性のやぶれによる相転移って考えは戴けないね。太陽がそっくりそのまま残ってるっていうのは矢っ張り出来過ぎてないかな」

「そこはほら、ファイン・チューニングでも多世界解釈でも」

「それはズルでしょ。いや、だとしてもおかしいんだよ、現状は。ねぇ滉牒嵯、地球がもう公転してないのなら、地球は太陽に向かって自由落下し始めてるとは思わない。ちょっと何日で落ちるかここで計算してみてよ」

「え、暗算で」

「そう。暗算で」

「ムリムリムリ。万有引力の法則でしょ、使うのって。高校物理の範囲だけどこの場で解くのは出来ないよ。あんたも出来ないこと言わないでよ」

「出来るよ」

「うっそつけええ。太陽の質量なんて知らないし、太陽の半径も、万有引力定数も、あ、あと一天文単位も、覚えてないよそんなのいちいちっ。って言うか三角関数のシータの中身ってどう求めればいいの。せめて関数電卓ちょうだい、膝で計算するから」

「なんでさ。要らないよ何も。えーと、六五日くらいだよ」

「デタラメ言ってる」

「言ってない。事前に計算もしてない。ケプラーの第三法則で求めただけ。高校物理で習ったよね。あれの両辺の平方根とると二パイが出て来て、遠日点の三乗が根号の中に入るでしょ。で、遠日点は軌道長半径の二倍。ここで地球の現在地を遠日点の位置に仮定してやって、太陽表面をゼロとおく分布と見做すと、往復軌道の往路だけなんだから所要時間は半分になる。あとは〇・五の三乗と平方根を半分にしてやれば、軌道周期に対して自由落下が要する時間の係数だけは出るよね。で、地球の公転周期が三六五・二五ぐらいで、係数は〇・五の三乗の平方根の半分だから四とルート二、つまり約五・六。三六五割るところの五以上六未満だから、解はおよそ六五になる。ほら出せた。こんなの高校の範囲だよ」

「ぐ、ぅう、ううううううう」

「どうどう」

「うああああああ」

「ホントに変わらないよねえ。目的地周辺でうろうろしててさあ」

「むおおおおおおおお」

「きちんと前を見て実際の交通規制に従って走行してくださーい」

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