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青が深まるごと、なお一層のこと青は人間に無限への思慮を促し、純粋さや、遂には超感覚的なものへの憧憬を喚起する。あまりに深く濃い青は空間へと放射拡散、充溢し、却って網膜の画廊に不在だ。地の深み、海の底、星の外、心の内。それらは青く、濃く、故にいずれも暗い。アザミの雑種が白い綿毛をつけて笑い咲いたまま下生えで凍り付いている。鎮咳のため呼吸を浅く保ちながら、灯を入れたランタンを増やすと、魚臭さはまたも強まった。服装のためもあってか思ったほど寒くない。マイナス三〇度くらいか。今度こそ動摩擦力を保ちながら後ろの彼女へ尋ねると、マイナス一三七度だって、と返った。その気温計は壊れているのではないか。そうじゃない、と彼女。暖かいのは寒過ぎるからだと言う。そんなものか。
「じゃあ聞くけど、夕陽はどうして赤いの」
「何それ、小学生みたい。えー、あれでしょ、腰より高く膝を上げて歩く場合、その速度が一定なら、一秒で一歩進むのと一秒で三歩進むのだったら三歩の方がキツいってのと同じ理屈。地球は湾曲してるから、日没の時に遮ってくる大気層の厚みは日中より大きくなる、この例えだとそれだけ歩く距離が伸びるワケだから、一秒で三歩進む人はバテちゃって地上まで着かない。で、この歩数は現実だと光の振動数に対応してるから、届くのは振動数が小さい方の光。光速度不変の原理があるから歩数である振動数が小さいなら歩幅は、つまり波長は、それだけ大きくなる、だからこの光は赤っぽい。これでいい」
「太陽と地球の位置関係の変化は無視出来るほど小さい、が仮定に足りないかな。自転公転の周期でドップラー効果を生じる可能性が潰せないから」
「細かいなあ。そこまで厳密に言うならこの仮定において大気圧は一様安定である、とかも必要になるんじゃない。《静止》してからヘルヘイムの星空が青くなったのはドップラー効果じゃなくて大気が原因でしょ、たぶん」
「だって面白くないんだもん」
「はいはい。で、それが何」
「何が、ってああ、寒く感じない理由ね。それは要するに風がないからだって思う。下降気流の運動エネルギーが大気やその気流自身との摩擦で減速して、生じた熱エネルギーが地表面で反射したり外宇宙に放散したりするから、一旦寒くなると風による熱の移動は難しくなる。風速が五マイル以下だと気温はマイナス五〇度以下、無風ならマイナス七〇度以下である、なんて概算が出来るくらい知られてる有名な話だよ」
「へえ、知らなかった。それで思ったより寒くないんだ。あ、鹿」
「タマちゃん」
「それアザラシ。いやアシカでもないけどね。昨日見つけたの。あの脇からならワルワラまでリヤカー通せるから、ほら、もっとちゃんと押して」
「へーい。ねえ稟溜損、ところでガソリンの件はどうなったの」
「全然ダメ。大陸出られるかも正直微妙。ねえ、今からでもシベリアルートにしない。沿岸部通ってアラスカからアメリカに渡るならギリギリまで陸地通れるし」
「却下。どの道燃料尽きた時点でおしまいだよ、こんな所。だったら等角航路で目指すタイムアタックの方が合理的だ、って散々説明したよね。黒河に乗って北上したら一旦日本に寄って補給して、サンフランシスコ行ってまた補給して、それから目的地に向かう。これだって妥協してるつもりだけど」
「その北上の途で力尽きるって、はあ、どっちにせよ運任せか。ならアメリカ出たらイースター島経由させて。あんたの計算だとあの辺りは気温マイナス一〇度でまだ過ごせる気候でしょ。どうせなら最後一緒に観光したい」
「ユミルじゃそんな余裕なかったもんね。いいよ。折角だし指環交換する」
「ノーサンキュー」
「悪魔」
「あんたイヤリング着けてたっけ」
「踊るのも無理。さっきのハンカチは後で返してね」
ぺたぺたとまるで裸足でアスファルトを踏むような足音に、風も雪もないだけで八甲田山第五連隊雪中行軍を超える過酷さだと言うのに、ふっと知らず緩む頬を覚える。転んだら数秒で四肢が貼り付いて芯まで凍るのだと奥歯を噛み、要らなくなった防毒マスクをずり下ろしてマフラーに鼻を埋めた。腰でリヤカーを引きつつ、ランタンを掲げる手を少し高くする。動揺に火が消える。舌打ちしてジッポのフリントを叩いた。
法螺貝は日本最大級の巻貝である。先史時代から貝塚を多数形成してきた日中韓三ヶ国において、貝が穴を掘るということは、イオンが旧ジャスコであることよりも生活と密接した常識であった。洞穴は、掘ら穴であった。そしてヒトは夜目の利かない昼行性動物だ。自然、奥深い旧くからの洞穴はエントオプティックに信仰の対象となり、山霧や蜃気楼や嘉暮れ郷はその洞穴に棲まう海千山千の法螺貝、或いは法螺貝の長じて化生した龍の息吹であるとする俗説が東アジア一帯に生じた。非科学的な、しかし不合理でもない、伝説。The only way of discovering the limits of the possible is to venture a little way past them into the impossible. 後年の科学主義者はその荒唐無稽さを嗤い、大袈裟な作り話を指して法螺と称することで報いた。伝説は嘘と名指された。ウチでの結果が嘘ならばそれは嘘吐きなのだ。幌を潜る。サンダーバード二号の格納庫のようなそこを、ワルワラの奥を、ランタンの光が曝いて照らす。《静止》しても動ける忠実な犬が待ての姿勢で座っている。
「今更なんだけど、大丈夫かな、これ。あの三菱の車だよね」
「ディンゴはリコールされてないだろうしイケるんじゃ、ない、かなあ」
「わあ不穏。まあ、もうとてもメーカ純正品とは呼べないけど」
「既に見た目からして違うもんねえ。毛皮もっこもこで可愛くない。サモエドみたいで」
「ゾンビ犬の間違いでしょ。でもどうするの、これ。この前あんたに外装任せた時はこんな燃え易い見た目じゃなかった気がするんだけど」
「あの時はまだヒータ使うつもりじゃなくって。そうだなあ。遠くから温めていくしかないかなあ。金属疲労も怖いけど、あ、そう言えば改造中ワイパー折っちゃったの言い忘れてた。なんかマズいかな」
「別に。他に言ってないことは」
「ええー。駆動系は4WD仕様だったから結局イジらなかったし、被覆出来そうな金属があとは燃料キャップくらいしかなかったから樹脂製に差し替えて紙噛ませたくらいで他は特に、あー、窓もそのままだよ」
「フロントガラスは」
「ぴっかぴかにしといたよ。曇りガラスよりは見える。と、いいな」
「そこは頑張ってよ。ユミル着いた翌朝ギルドに差し押さえられたその直後にあんたが半日持ち出して、何だか知らないけどそこで駄目にしたのが原因なんだから」
「おかげでギルドが投棄してたんだからいーじゃん。それにムスペルちょっと行ってきただけでこんなフォギングする方が変なんだよ。一〇〇度雰囲気で二四時間静置しても結露くらいしか曇らないのが一般的なんでしょ、ガラスって。だいたい擦ってもこれ全然落ちないし、何だったらお湯かけても割れなかっ、あっ」
「あんたホント何やってんの。そこそのヒータ置いて」
「やったことはマズいけどわざとじゃないんだよ。ほい、っと」
「わざとなら殺してた」
「怖っ。あー、うー、そう言う蒲楼詮は。難航してたみたいだけど、どうにかなったの」
ならない。
自動車には大別して三種の液体が使われる。冷却水、油脂、そして燃料だ。
冷却水は、色々考えたが全て抜くことにした。何度か実験して分かったのは、エチレングリコールではクーラント濃度六〇パーセント以上だと粘度が高まり過ぎて却って凍ってしまうし、かといって溶質を低分子量モノオールにすると今度は揮発してしまう、ということだ。エチレングリコールより融点が低く、エタノールより揮発性が低く、且つ親水性で非電解質のアーティクルとなると、もう思いつくのは液体水素くらいしか残っていない。そしてそんなものをエンジンに封入することは量的にも材料工学的にも不可能だった。冷却水なしにエンジンを回して疲労破壊しないか、重大インシデントが起きないかは全くの未知数である。
油脂、これはバッテリの電解液とポンプ繰り出し用のエンジンオイルのことだが、こちらも匙を投げている。前者については量さえあればよいものなので容易かった。凍ったらバッテリ自体が使い物にならなくなるため、寧ろ重たいバッテリをここまで搬入する方が大変だったくらいだ。頭が痛かったのは後者、エンジンオイルである。このパールホワイトの日本車はSAE粘度の仕様が五W―二〇、つまりどう甘めに見積もっても外気温がマイナス一〇度を下回った時点でエンジンが回転しなくなる。南極観測雪上車でさえマイナス五〇度環境下で丸一日かけて行う暖機運転を、マイナス一〇〇度を下回るヘルヘイムの極低温環境下で、最低でも発車時の一回は行う必要がある。昨日までは壁と天井のあるワルワラなら一回限り可能な方法を考えてはいた。考えただけだが。先ず真っ黒い布を用意して内側にアルミ箔を貼り、これで車体をパラバルーンのように覆う。二人の一方は必ず外側にいるようにしてホースマスクを装着し、中に入って目張りを済ませる。次に、予め用意した生石灰と水を随時中へ投入していき生成熱を発生させる。ワルワラを閉鎖系として、ディンゴの体積を一〇〇〇〇立方メートルと見積もり、温めなくてはならない空間をその見積もりから二〇〇〇〇立方メートルと見ると、理想気体の状態方程式および単位物質量当たりの生成熱から必要量は弾き出せる。生成熱は理科年表より六五・二キロジュールだから、必要な生石灰は一・〇トン、水は〇・四トンだ。但し、生石灰の溶解度は五〇倍量の水にも溶け切らないほど低い。小学校の清掃用具入れにあったトタンバケツ、あれは五号なので容積判明だが、あれを一人一分当たり三杯かけるという想定をしたとして、二人で反応終結まで休みなく作業しても内部がマイナス一〇度以上になるには一〇時間弱を要する。尤も実際は熱的開放系もいいところだし、この概算では簡便のためヘルヘイムの気温をかなり高く見積もっているからこれでも足りない。そもそも液体の水を〇・四トンなんて、どうやってこの極低温雰囲気に維持すると言うのか。下手の考え何とやらである。
しかし、これでさえ燃料の問題と較べたら屁でもなかった。
「これ以上は置けないんじゃない。早くヒータ点けようよ」
「風がないんなら外にも置いてみる。この辺り全部よく乾いてるから上手くすれば燃えてくれないかな」
「いやあ、どうだろう。寒過ぎて点かなそうだし、循環してないからすぐ窒息消火すると思うな。その分バッテリ無駄になるからボクは反対」
「あんたが言うなら間違いないか」
二人してヒータを点けていく。首を絞められた人のような苦悶の音が暫くして、少し飽きてきた頃、点く。そんなことを繰り返す。ウラジオストク時間一七時五三分で冷たく《静止》した丸みのある時計仕掛けのオレンジ色。
「うをををを、あったかあ。なんかあれだね、達磨ストーブ思い出すね、こうしてると」
「あー、えへ、懐かしいね。席が一番後ろだから朝は日差しが当たらないーって言って、休み時間なる度に前まで温まりに行って、いつだったかあんたが転んで蹴っ飛ばしてから二人とも接近禁止になって」
「コケてないよ。ボクは四次元から突き飛ばされたんだ、ってあの時にも何度も言ったでしょ」
「まだ言うか。って言うか四次元って。古っ。最近あんま聞かないよ、四次元。あれはあの頃の流行りでしょう。当時もだけどそんな言い回しばっかりするからあんたは誰にも信用されないんだよ」




