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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 最後に革手袋を取る。ふと、左手が彷徨う。探すと、オーバーの下の外套のポケットに支給品の煙草はあった。安心した。《静止》以来慌ただしくてのんびり喫えていなかった。必要もなかった。惰性なのにないと不安になるのは通勤時持ち出すバッグへ常に二冊以上入れていたい心情に似ている。喫わないのは、一番は忙しさからだが、裸火の使用が制限されるためでもあったし、キースではないためでもあった。端的に言って好みじゃない。キースの旨みは秋刀魚のワタに似たざらつき、スタウトのような軽い苦味、リトルシガーの強烈な煙草臭。火が入ると甘味が蒸したじゃが芋のようにほろほろと崩れてスモーキーに変わり、バニラ香とニコチン感が執拗に舌を汚す。どうせ外では喫わない性なので味の薄さはどうでも良かった。寧ろメンソールの雑味がなくて嬉しかったくらいだ。バージニア・スリムを弄ぶ。一度だけ試したことを思う。まあ、総じて悪くない。《静止》以来禁煙状態だったので肺に入れたら少し噎せたが。ただ、キックが弱い、とだけ印象が残った。これならガムを噛んだ方がいい、包装もソフトじゃなくてボックスで、しかも口紅みたいな棒っこ状で、これまた好みじゃない、と。だからそれきりだった。どちらにせよ煙で腹は満たせないのに、不思議なものだと思う。今もしキースがあったなら私は一食分のチーズと一本のキースとを引き換えるだろう。外套の左ポケットに突っ込み直して裾を直すと革手袋を履いた。

 ギルドが拠点とするスーパー、もといユミル市長庁舎のある通りを北上して少し歩くと、そこにも小さな集落がある。広い土地や道路に対してその家屋の作りは小さく質素な木造で、碁笥ばかりある部屋に強いて通されたような居心地の悪さがあった。《静止》以前がどうだったか知らないが、今はユミルの誰もここに棲んでなどいない。碁笥があるなら碁盤もあるために。ここの西には何か大きなプラントがあった。資材置き場や、煙突や、色々だ。誰も立ち入って調べていないので詳しいことは分からない。だが、どうせ動かせないのなら、下手に手を出さない方がいいだろうと、そういうことになっている。私もそう思う。無駄に広い歩道を進み、折れる。ユミルではありふれた、けれどこの辺りでは珍しい煉瓦製の集合住宅が目に入る。

 る・らら・ら、り・ららら、り、り・らら・ら、ら。

 ここには祭壇、正教教会風に言うところの宝座が一階に運び込まれている。どうも当初はロシア正教徒用の痛悔室に充てるつもりだったらしい。だがロシア人の移住者は思ったより少なく、予想に反してカトリック教者ばかりユミルには集まった。司祭も告解室も足りず、やむなく共用とすると、当の正教徒もこちらには寄り付くことがなくなった。ちょっとでも遠いならいいや、ってなったみたい、とは彼女の談である。そうしてここはお墓となった。ぐるりと迂回して中庭に出る。ハミングの声が近付く。ここはフルシチョフカ工法式で壁が薄い。お墓、というのは文字通りの意味だ。元のコムソモリスクの住民は揃って《静止》していてユミル住民の邪魔になっていた。けれどヘルヘイムへ捨てるのは気が引ける。ムスペルならもっと背徳たい。だから、ここにある旧ソ連時代の地下シェルターに彼ら彼女らは避難させられた。場所が足りないので体積は減らされた。

 裏庭には焦げた骨が散乱していた。幾ら日をおいたとしてもまだ死臭くらい漂いそうなものだが、寒いためか何故か無臭だ。開いたままのシェルターの口に私は降りていった。そこはちょうど宝座の真下に当たる。ハミングは一層明瞭になり、下水のような、魚のような臭いがつん、とした。明るい。魚油を差したランタンが並んでいた。いきなり通路が開けて内装が露わになる。鼻歌。リヤカーの縁に腰かけて、背を向けた彼女がそこにいた。

 思い出の中で私はあの子の低い視点に立っていたから、彼女の方が背が低いのは当時と変わらない筈なのに、あの子と彼女が初めは結びつかなかった。歌が好きで、勉強が得意で、当時既にファッション誌を購読していて、お喋り好きだけどちっとも面白くなくて、窓際に座る私の左隣の席で。トクシュで。今日はルパン三世の気分らしい、二つ縛りにしたみどりの黒髪がハミングに合わせて左右に揺れる。左側頭部を留めているのはバレッタ風のチャイナ・ホワイト。右側は、見えない。たぶん目立たない黒のヘアゴムだ。首元をもこもこと真っ白く覆うラビット・ファー、同じだけ白いブラウスの肩は小さく、黒いベロア地のダッフル・コートを膝に置いて、アーガイル・チェックの茶色いロングスカートからすらりと伸びた足がぱたぱたと危なっかしく揺れては、不意に仰け反り、姿勢が戻る。繰り返し。そして時々、壁に向かって何か投げつけるように手を振った。ゆら、ゆらん、るるる、ゆらり。ゆら、ららり・ら、ぐん、ゆら、ゆら・ららら、ぐら。ばたん。

「んあ痛ああっ」

「馬っ鹿じゃないの」

「はぇ。なんだ、来たなら言ってよ。ハロー、媺瑚禍。はい握手」

 出会いざま握手を求めてくるのはいつものことである。毎度ながらラッキーを吸い取られる気分だ。そのまま引き起こした。胸はないが腰はきゅっと括れた典型的なA体型である。兎の糞のように黒く大きなブラウスのボタンは彼女自身付け替えたものだそうだ。首から細い金の鎖で下げている逆さの全称記号のペンダントと言い、いったいどんなセンスなのやら。

「ねえ馬鹿って言った」

「気のせいでしょ。ところであんた何投げてたの」

「爪」

「つめ」

「そう爪。ほら、よく伸びろお、って念じて投げるといいって言うし」

「それ歯だよ。伸びたから切ったんじゃないの、爪」

「まあね。溜めてたの。量があればギルドも堆肥用で回収してくれるかなって、でも、もう要らないから」

「キッモ。切った爪を溜めるって発想からして相当ヘンタイじゃない」

「それほどでも。本物のヘンタイに較べたらボクなんてヒヨコに手が生えたようなものだよ」

「え、何そのクリーチャー」

「うっさいなこの腐れ担々麺サクサクショコラ風味。いいから本題行くよ」

「そうだ、どうして今日はこっちなワケ。なんか骨も外に出てたし。いつも通りワルワラ集合じゃ駄目だったの」

 ボクもまだそうしてたかったんだけど、と彼女。時間切れだよ。

「南の国立公園から蜂蜜を運んできてたプーおじさんを捕まえてね、すっかり気落ちしてたから枕並べて話聞いたんだよ。で、結論から言えば笛の音が聞こえた、ってことらしくてさ」

「確かなことなの」

「どうだろう。幻聴かもね。でも、もしカーニバル・デイが迫っているのなら逃げるのは早い方がいい。信念とは、ある人がそれに則って行動する用意のある考えであーる、ってね。ボク達もそう決めてたからには動かなきゃ。マニフェスト・ディスティニーだよ」

「一理ある、かな。ところでそれは誰の名言なの」

「アレクサンダー・ベイン。ファックスを発明した人」

「ああ、出任せじゃないんだ」

「失礼だなマッタク。でさ、こっちに呼んだのは、あー、って言うか」

 要はこれね、と彼女は足元の箱を蹴った。リヤカーの周りにはひと抱えもありそうな金属製の箱が幾つも転がっている。三〇か四〇か、或いはもっとあるかも知れない。そのおじさんとやらに運び込ませたのだと言った。死を覚悟して悲壮な決意を固めていた奴を相手に随分な情けをかけたものだ。何かと訊くと、バッテリ式のヒータだと答えた。驚いた。ここ数日間二人して散々探し回ったのだ。ある所にはある、ということか。大容量バッテリは既にうんざりするほど調達済みなので、これでほぼ所期の持ち物は揃ったことになる。と、ふと思いついたことを尋ねる。あんたも運ぶよね。

「いやあ、あはは。流石にこのまま行ったら凍死しちゃうよ。脳味噌凍っちゃうからせめて帽子はないとね。ほら、ギルドに見られたら共有財にされちゃうかもだから、おじさん使って運び込む途中で書き置きするのが精々で。だから、その、ね。それにどっちかがこれ見張ってなきゃいけなかったんだから、一人で運ばなきゃいけない人が出るなら力持ちな方がいいでしょ。ほら合理的。あは、あはははは」

 ぴぴぴ・ぴっぴぴと彼女は口笛を吹く。凄く上手だった。

 鼠糞様斑点のある石材のバリケードをどうにか退かした。筋肉痛で半泣きになりながら一度停めてしまったリヤカーに近付き、タイヤ下に噛ませた布を引き抜いてすかさず押した。駄目だった。散々格闘しておいて結局は蹴りの撃力に頼った。何度か狙いが逸れてヒータやランタンを蹴ったが私は最善を尽くしただけだ。手を出してから文句を出せ。幸いだったのは誰にも見咎められなかったことである。何人か会った人々は揃って目を逸らして行ってしまった。そんなに手伝うのが嫌か。それとも愚か者同盟連中の仕事だと思われたか。更地のパラダイムを自己欺瞞してそれこそ正義だと思い込むギルド連中と一緒にするのは私の善に反する不正義だ。正義のない奴はみんな死ね。こちとらじっとしていても暑い身だ。黄昏の街にてリヤカーを引いて汗みずくで歩く。するうち、門衛の声に行き遭った。あの子の笑い声が混じる。ずんずん進む。あんのアマ。ロシア語と中国語のピジンがユミルの公用語だ。私はどちらも話せないし聞き取れない。けど、分かる。これは酒盛りしている声だ。

「ちょっと」

「わあお、汗だく。お疲れ様だね。ああ、この人は気にしないで。もうツブれてるから」

「知ってるよ、そういう手筈だったもんね。でもあんたの頬が赤いのはおかしいでしょ」

「何のことやら。東洋人なんだから肌が赤っぽくてもよくない」

「よくない。軽い低体温症で肌が白くなるのが当たり前なの。って言うかさっきまであんたの顔色そんな赤くなかったじゃん。そもそもそんなもの飲むなお馬鹿」

 酒で抑制を解いて軽い人間工学的手品で信用を刷り込み、論理で煙に巻いて自己暗示を誘発、否定の意志表明を縛ったら命令を吹き込んで賛同させる。催眠療法の悪用だ。だが足掛けになる酒は密造するしかなかった。ユミルのすぐ西にはジャポニカ米の穀倉地帯があるものの、黒河を越えると環境が一気に苛烈になるため行くに行けず、ではどうするかと。曰く、ポリッシュを一瓶ヘルヘイムで凍らせて、その上澄みにコップ一杯辺り砂糖を大匙一、塩を小匙一加える。副作用は飲み過ぎると顔が紫になって死ぬらしいこと。らしいって何なんだ。

「だって気になったんだもん。他人が食べているものの味が気になるのはしょうがないでしょ、地震の後でテレビに齧りついてその震度を知りたくなるのと同じだよ。野次馬って言うほど前のめりでも、興味本位って言うほどダメ元でもなくって、ただやれそうだからやった。それだけ。ほら、人は多様性に学び同一性で安心する、とか言うでしょ。だからこれもまた学びだよ。生涯現役だよウン」

「あんたはホントにまだ現役学生でしょうに。その理屈だと《静止》でS極とN極が合一するのも安心ってことになるけどいいの」

「ボクの言葉は量子論なの。知らなかった」

 そう言うとにこりと微笑んだ。あの頃から嘘や建前を言わない彼女のことだ、本心らしいのが悪質である。私と同じく着膨れた身体から濡れ鴉のツインテールが伸び、金文字で時計盤のあしらわれた白いベレー帽が天使の輪を隠していた。旋毛に当たる部分にはまるで長針と短針のように二本の青いリボンが縫い留められている。本当に、いったいどこで見つけてくるのだか。左隣に立ってどこからか出したイチゴ模様のハンカチで私の額を拭う手を払い、後ろから押してくれと告げる。不承不承といった様子で、それでも私の手にハンカチを押し付けて、彼女が視界を外れた。こんなフェミニンなものを持っているが、あの子は昔も今も餃子が大好きで、どこからか香味野菜を調達しては何とかペリメニを作れないかと試行錯誤していたことを私は知っている。手首で生え際を拭う。中国人から借りた鉄板を加熱した時の鍋掴み代わりに細かな刺繍のされたこのハンカチを使い、それでも熱くて餡を入れていたボウルに落として葱まみれにしていたことも知っている。右隣で手伝わされたから一部始終見ている。嗅いでみる。完全な無臭。

「ヘンタイ」

 耳元で囁かれた。振り向いて脛を蹴り飛ばした。リヤカーが停まった。

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