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  作者: 浮沢ゆらぎ
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 揺れる。

 弁当のシュリンク包装を剥ぐようなくしゃくしゃとした音で目が覚めた。半身を起こす。濃い霧に遮られていたが、紛れもなく海上であった。揺れる。波間がちかちかと虹色に蛍光して、その度に薄い何かが圧壊するくしゃりという音がする。水面の少し下を握りこぶし大のパミスが浮いている。時折、どこからか流れてきた子供用のプラスチック製のシャベルや、きれいな縞模様のある黒くて丸い瑪瑙が混ざる。霧の向こうから飛んで来る綿毛が空中を漂っている。生き延びたのだという実感が抱いた子の重くなるようにむらむらと湧いて、ぞっとした。不思議でならない。風切り音は依然凄まじく、けれど、凪いでいる。綿毛混じりの天上は新月なのもあってか満点の星空。眼鏡がないのが惜しい。冬の大三角を見る。赤緯マイナス一七度のシリウスが南東に仰角約三〇度、つまり北緯約四三度。国内の沿岸部なら釧路の辺りが一番近いが、流石に太平洋まで流されたとは思えない。オラーコジン上のどこか、たぶんロシア近海だろう。ゆっくりと舟は北へ流されていく。

 再び舟底に寝そべると肺腑を押されて背が反った。リュックを忘れていた。紐を解いて抱えると臍の下で体温を感じた。仰向けになってイギリスのことを考える。石炭層や市街地といった軟らかい表土の露出している欧州諸国が根こそぎ風化したら安定陸塊に突き当たる筈だ。冷却しないだけ水星より過酷なことを加味しても、風化によるハビタブル・ゾーンの移動は暫く落ち着いてくれる。さっさと滅びろ。祈る。それから、蒸し暑くなって服を一枚脱いだ。相対湿度一〇〇パーセント時のヒューミデックスが危険域に達する気温は二六・二度、未だ湿度は高いが暑さは危険域を外れとうに温んでいる。踝のベルトを緩めるとごぷりと海水が溢れて萎み、腿に貼り付いた。顔に降りかかる綿毛を舐めたら、案の定塩辛い。塩と愛は同じ画数だ。そして愛は嫁や福や楽とも同じ画数である。嫌や罪や裸とも。

 オーロラを眺めてヴァン・アレン帯に想い馳せていたら舟が停まった。鋸のように切り立った断崖。多少迂回すれば入り江があるかも分からないが、海上でまたあの暴風圏に捕まったら今度こそ死ぬ。登るより手立てがない。風雨に曝されて泥になっている斜面を見つけ、腰まで浸りながら無心で足を動かした。崖の上は森林ばかりで無人であった。しかし轍があった。林業用か、フォトスポットなのだろう。辿れば街がある。二時間くらい歩いただろうか、途中で人気のない車道に合流して、その先に果たして街はあった。白くて四角くて窓の小さいアパートが先ず目についた。鍵を壊して押し入る。キリル文字。取り敢えずロシア圏なのは確定した。少し進む。ぼちぼち車が増えてきたが、二輪車はない。港湾が近いからかトラックが多くて、歩道は狭く、適当に奪っても使えないのは察した。監獄のようないやに大きなクリーム色の建物を見つけた。敷地に入ると、ショッピングモールだった。この国の建物はこんなのばっかりなのか。駐車場に直行する。あるわあるわ。でもバイクは少ない。冬のせいである。VEPSA、と肩に刺青した男がそのうちの一際派手で大きな一台に手を掛けていた。右手に断ち切ったチェーン、左手に物々しい工具、という恰好でなければ高価そうで気が咎めたかも知れない。割り込んで鍵穴に差し込まれた針金を抓んで回した。一発で動き出した。ひゅう。口笛を吹く。鳴らないけど。

 泥だらけ塩まみれになった服を着替え、拝借したチーズの塊と空のポリタンクを両手に戻ると件のバイクはすっかり暖まっていた。圧力鍋にほぐして緩く圧し固めたネズミ花火とバッテリの電解液と砂糖を入れて即製のパイプ爆弾を作り、アスファルトの一角を吹き飛ばす。園芸コーナーからスコップを持ち出してその穴を横に広げ、塹壕のような段差を作る。持ち主の乗っている車を一台見繕い、前輪から段差に落ちる。サイフォン・ポンプを園芸用ホースで延長し、一方にポリタンクを配して、燃料口に差し込んだ。静電気で火花が散ったら火だるまになるが、その時はその時だ。後悔は死んでからでも出来る。どぽどぽどぽ。口から溢れたので密栓。そうして持ってきたタンク三つが満杯になった。エンジンを停め、給油して、再点火する。刺青なんて、煩わしい血肉でも絶つには寂し過ぎる。満量入っているタンク一つを括りつけ、半端にガソリンの余ったタンクを刺青野郎にあげた。出発した。

 幹線道のある北東に進むと道幅が段々広くなって、遂にまっさらな所に出た。ラウンドアバウトだ、始めて見た。ちょっと興奮した。が、よく見ると結節点に空地の設けられた只の丁字路だった。国土の規模感が窺える。このまま道なりに直進すれば沿岸部を辿って徐々に北上していけるだろうが、補給には期待出来ない。西へ一旦進路を変えた。どんどん暑くなる。しかし結果的には正解だった。キリル文字が読めなくてもウラジオストクくらいは何となくで読める。連邦道路に乗り出すとハバロフスクまでは一本で着いた。かなり暗くなってきたが、まだ気温三五度くらいはある。いい加減に残り燃料も通行量も絶えてきたので四輪に乗り換えた。右ハンドル。なんと日本車だった。まだまだ北上する。チーズに飽きて、白樺ばかりの景色に飽きて、徐行すれすれの速度で薄闇の中を黒河沿いにひた進むのにもいよいよ飽きた頃、途端に空気が一変した。久方ぶりの市街地だ。金色の黄昏に黒のコントラストで浮き上がる街角。誰かが歩いている。それも、何人も。手を振る相手に唖然としつつも振り返す。漠然と、着いた、とだけ思った。

 それから、煤けた天井。天井、ここは、ああ。えいやっと身を起こす。ここに来てからこちら、いやにぼんやりすることが増えた。風邪のひき始めかも知れない。日課の運動と、持ち物の整備点検とを終えると、食事をしに出掛けた。時計係の鳴らす七時の鐘の音が聞こえた。市長庁舎と主教教区の向かい合う南北縦貫舗道を渡り、中国人露天商が広げた品々でごった返すバザール、噴水、公園、広場を抜けて、覇気のない人々の歩く流れに乗った。自治ギルドの配給はコムソモリスク駅前のバス・ロータリーで行うのが慣例である。但し、配給、というのはあくまで比喩だ。みんなこの時間になると朝食にするというだけで、食糧自体は常にバス車内から思うさま取っていいことになっている。あるのはチーズの塊と塩の塊、幾つかの種類の缶詰、丸のままのカボチャ、そして常温の氷とアイスキャンデーだけ。各自で煮炊きするのは自由だが、裸火の使用は神経を使うので、調理は誰かがいる時間帯でするのが暗黙の了解だった。道行く人の八割はアジア系、恐らく中国人で、残りはたぶんロシア人。中国人は肉やら野菜やらをどこからか調達し、ロシア人は何故か魚の塩漬けを嬉々として作っては口にしている。宗教的なものだろう。《静止》の影響でどんな病気になるかも分からないのに、果敢なことだ。私は今日もチーズとカボチャを取った。中国人に釜を借りてカボチャを蒸し、自前の水筒に汲んだ海水の上澄み、もとい真水で唇を湿らす。こんなもの共でもこうして潰してアルミのトレイに流し入れると少しは文明的に見える。周囲を見れば、誰もが思い思いに腰を下ろして食事にありついていた。カトラリーの音が僅かにする他、何も聞こえない。心なしか人数がまた減っている。日に日にひどくなる。

 七時、一二時、一九時に鐘が鳴る。だから私が深夜時間にここへ到着してからもう一四日目ということになる。以前の暦なら丁度ユールの日だ。ベツレヘムやバビロンよりも、メンフィスや人類よりも旧い、死と豊饒と魔女の大挙する日。ウェット・フードを機械的に口へ運ぶ。ギルドはこの街をユミルと呼ぶことに決めた。誰に対して言うつもりなのか知らないが。地軸や風化浸食を加味して経緯を特定すると、地球上でハビタブルなのはここと南太平洋到達不能極の辺り、あとは南極大陸の南米側くらいのものだ。人間はここしかいない。二一世紀にもなって冷暗所に糞尿を隔離保存しているのもどうせここだけだ。シードバンクから種を運ぶ計画が進んでいるものの、目に光のないここの連中には荷が重い。そもそも《静止》していて発芽しないと思う。

 空は薄い金青で、いっぱいにオーロラが広がっている。西方の残照が謎めいて黄色い。偏光に大気組成の変化を感じた。黄昏だ。人類文明はもうすぐ終わるのだ。かり、かりと私の握るスプーンがトレイの底を掻く。カロリーだけは摂取したので取り敢えず自室へ戻ることにした。駅前で掲示板の白墨を盗み、齧りながら歩く。それにしても。呟く。基礎代謝の低い女が肉体労働した方が消費カロリーを節約出来る、だから女が探索に回るべきだ、と通訳越しに聞いた頃が懐かしい。あれは三日と経たず立ち消えになった。ぼそぼそと不味いだけあって煙に焼けた呟き声は少女のように清らかなものへと癒え、漂白される。私の探索したのはヘルヘイム、ユミルの東に広がる外宇宙雰囲気気温の大陸だ。下降気流で低く堆積した土壌が折り重なっては凍り付いており、狂気染みた山脈地帯が形成されている。尤もユミルへすぐ戻れる距離圏は殆ど針葉樹林なので、行っても遭難以外にやれることはない。ちなみに反対の西部はムスペルと言う。こっちはこっちで熱運動が《静止》するという人知を超えた異常気象のおかげで電離に似た現象が発生しており、ごっそり抉られた擂鉢状の大穴からは冷たい緑の電磁光線がめらめらと噴出しているということだ。余った滓を手首に塗る。肌が卵殻のように白くなる。腰に下げていた今週分の直結式小型半面形マスクを装着する。唾液の臭い。段々息苦しくなる。酸素濃度が低下しているからだ。思う。

 割り当てられた郵便ポストへ無造作に突っ込まれた回覧板を引き抜く。手書きの中国語とロシア語で何か書かれている。挿絵を見る限りハザードマップのようだが、さっぱり読み取れない。隣室分に入れ直してかんかんと階段を昇り、部屋へと向かう。開ける。鍵を支ェられないが元通り閉める。辞める前に住んでいたところより僅かながら広い。やるせなくなった。惰性で指先が照明のスイッチを探り当て、天井、勿論点きやしない。がりがりと髪を掻く。爪に頭垢が黄色く詰まり、右手でほじって床に落とす。握って、開く。どこか寂しい。煙草か。左ポケットに手が伸びる。けれど、止した。種火の処分が面倒だ。気怠い。何もしたくない。眠くないが寝ていたい。しかし今日も何事かは為すべきだ。進歩のない子は大人になれない。大人じゃなければまともじゃない。掻き毟った髪から、からん、と銀のヘアピンが一本落ちた。元は金色だった方のだ。水の出ない洗面台へ向かった。鏡には口紅で一言、お墓、と書き残されていた。息を吐き切って、吸い直す。そうか。

 頭皮を揉み、ありったけの水で頭垢を流す。毛先を整え、白髪を抓み、けれど隠せる量ではないので諦めて、赤焼けたミディアム・ストレート。脱ぎ捨てて曝す尖った肩が肌寒い。韓国人の中年野郎がどこからか持って来ていたのを何枚か譲らせたワコールのノンワイヤーを当て、ネル地の端切れを肋骨にぐるぐると巻き、鎖骨のストラップを合わせて首からセボンスターを下げる。色気のない毛糸のパンティにウールのチョッキ、中に綿とパッドを詰めて、広瀬少佐に倣いマフラーを抱っこ紐のように十文字に巻きつけたら、モッズショートにリボン・カフス付きのニッカポッカ、オックスフォード・バッグスを重ねて着込む。もう暑い。靴下を四枚重ねで履き込み、ポーラテックを上下に合わせ、その上から綿入りの外套を纏い、まだ着られそうなので更にぶ暑いウールのオーバーに上下を通して襟を立てた。裁断したブラウスを巻いて爪先から膝までをきっちりと覆い、出発以来ずっと履き続けているブーツ、それからパタンを履いて、ゲイターを被せる。耳掛け部分にぱちりと二本の銀色のヘアピン、出所が違うものなので長い方を根本の側にして、崩れぬよう耳付きのキャスケットを慎重に乗せ、そしてウシャンカで押さえる。眉と口が埋もれていてニカブのようだ。毛糸の手袋を履いた。

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