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雷鳴。立て続けの稲光に室内から影が退去して、戻る。低く仄白い天井。私の映る鏡を壁に投げると溌溌溌は腕を広げてその軌道に留まった。半透明の身体を突き抜けて、割れた。いいんだよ、と彼女は言った。幽霊は、幽霊じゃないか、妄想は見えざるピンクのユニコーン、裝圓瑶がよく引き合いにしてるカール・セーガン風に言うならガレージの竜だから。いま・ここに存在しないオトモダチが欲しいんだよね、分かる分かる、いいよ。いずれ訪れるものから告げられることは宇宙的先験にあって想像の埒外だもんね。都合のいい言葉で話してあげる。うちってば妄想だから。ぬいぐるみの首筋に爪を立て、ただ握り締めてじっと堪える。ビョーキ、違う、体質がこのところ悪化している。心なしかこのぬいぐるみは大きくなった。未就学の小児ほどずっしりしている。初めからこうだったとは思えない。だが厳然として在る。感性は信用ならない。案ずるより産むが易し。やめてくれ。人事を尽くして天命を待つ。堪える。胃がきりきりと痛い。堪える。ドブ臭いのはみんなが息をしているせいだ。
幸福とは戦って勝ち取ることである。だから戦えない・戦わない・勝てない・勝たない相手は嫌いだ。一方で、他人がいなければ幸せになることは出来ないのだから、他人を求めずにはいられない。このヤマアラシ的自己矛盾の濃淡こそが固有の感性、つまり気質であり自他の分別である。あの子より偉い私はあの子より今や幸福で当然だ。だが当時のあの子は私と同じだけ偉かったのに、何となればトクシュであったのに、傲慢にも、戦わずして私へ何かを勝ち取っていた。否。きっと私の知らない戦いがあっただけだ。私の知人は、数人のどうでもいい連中を除いて皆、進学先を決して言わなかった。何人抜きした何人目のカレと幸せになるから、云々、と。嘘だ。嘘に決まっている。だが、私の得た情報では、彼女らは進学せず幸せになったのだ。私が嘘を吐かないためには、過去において、彼女らは何事かにおいて私へ勝利し優越していなくてはならない。それが合理的な考え方というものである。あの子もそう。世間の有象無象もそう。私には何も教えてくれず、にこにこと握手を求める一方で目立たないところばかり殴りつけて、情報の優位によって常に私を負かせている。私は知らないことをみんなは知っている。だから名指す。名付ける。本を読まないから無知なんだ。知らないのはお前だけだ。みんなは偉い子なのにお前はどうして。偉い子。偉い、私は。私はいま・ここで偉いのに。遡及して幸福で然るべきなのに。
幸福とは、戦って勝ち取り、優越して、見下すことである。やれば出来るのに。頭はいいのに。考え過ぎだから。喉元で罵声を留める。堪える。いきなり虚空へ叫ぶのは常人の行いではない。植物のような平穏を騙って、無害げな見せかけで私からこそこそと勝利を奪っておきながら、それでいて私の売った勝負は鼻で嗤っておきながら、どうして戦わないの、殴り返してこないから退屈だ、なんて。見下しやがって。私より賤しいクセに。偉くないクセに。幸せになるだけの他人の重みを満たしていないクセに。堪える。つらい、違う、不合理だ。ただの思索である。私はサザエさんが、ちびまる子ちゃんが、こち亀が嫌いだ。一所懸命な人を嗤うな。視聴者を、私を嗤う人にするな。私は一所懸命に楽しい人だ。楽しい人なのに。エリートは嫌いだ。恥を知らない。
耳を掻く。右の耳垢も、左の耳垢もぽろぽろと乾いている。バファリンを切らしているので徴がないのは有難い。ヌレタク・ナイナア。自動ドアをこじ開ける。ワア・オトコノコ・ミタイ。うっかり開け過ぎた。ぱん、と気圧差に負けたガラスが内側に吹き込んで、ナニヤッテルノ・バカネ。けれど、声は止まなかった。鼻を鳴らす。口を開いたところで雨風が入るだけだ。
ポストのある交差点を渡り、クラス表示板、きちんと手を洗いましょうと衛生係の描いた貼り紙が蛇口に並ぶ。石鹸のわざとらしいシトラス香と屎尿、泥の臭い。くすくすくす。車道から歩道へ戻る。再び北上。敷地を通り抜けようとするトラックの列を潜り、コンビニ裏のフェンスを越えて住宅街まで下る。イイコ・イイコ。ひどい風雨なのにペットを散歩させている人なんかの気配は絶えず、シャベルノ・ガマンシテ・エライ。それでいて辺りが真っ暗なのは、父親に遺書を見せられた時を思わせた。チャペック言うところのセビーリャが微笑んでいるように、鳥取市中ノ郷は、自責を強いる顔つきをしている。次の免許更新まではこの写りで、どうしようもない。旧校舎側に建つ体育館と結ぶ渡り廊下の窓、しね、と平仮名で落書きされたその向こうにずらり、卒業式を祝うためOBらが乗ってきたマフラーの短いバイク達を見下ろす。ハシッテハ・イケマセン。老朽化と地震でヒビが入っているから。遠く目を遣れば西陽に光る水平線の上を黒煙がたなびいて、雨。車道から歩道に戻る。風向から北を判断して、方角を修正。イチニ・イチニ・ジョウズ・ジョウズ。くすくすくすくす。
近付くにつれ、メタンチオールか何かが燃えているのか、焼けた葱のような妙に美味そうな匂いがした。そして見えた。西へと真っ直ぐに、目の前の通りを猛然と黒煙が吹き抜けている。《静止》以来何度もみた光景だ。これだけアンコントローラブルであるからには、原発だって只では済まないだろう。漏れなく象の足だ。だから一応、道中で風下を通ることは避けたつもりである。右折。擁壁の排水パイプに足をかけ、背を屈めて下駄箱を抜ける。外の雪で靴下がすっかり冷たい。嵐に目を凝らすとナントカ樹脂工業という文字が見えた。回り込んだ。塗料用ミネラル・スピリットが見る間に水と二酸化炭素へと分解されていく横を抜け、放送室の隣の防火扉が開いているのは反省室が使われているから、スーパーを見かけて逃げ込んだ。今や外出は短時間でも消耗する危険行為だ。でも、やらないと。
回復がてら食糧を探す。マンビキ。マンビキ。ワルイコ。人間は多く右利きで、心筋は左側が厚く、歩行は右側通行だ。左回りの方が歩き易い、つまり購買意欲が惹起されるので、色鮮やかな季節感で売れ易い野菜類は入口の右側を占める。すると右奥はそれ以外の生鮮食品、自動的に大豆加工食品と魚介類になるから、バックヤードの利便性を考えると精肉売り場はその隣の左奥である。この三角形の内角はドレッシング、クック・ドゥなんかの合わせ調味料、常に一定量が売れる醤油などが配置される。ドコデ・ソダテカタ・マチガエタカナア・ナサケナイ。酒類、弁当や総菜、パン類はレジ前だから左の手前。パン売り場はスーパーから半独立にあるので角を占める。よって酒類はパンの正面の棚を占める。冷凍食品と総菜類、あと卵は、だから精肉と酒類の間。アイスもここ。従ってジュースやヨーグルトなどはその近く。お菓子コーナーは、その横にある筈。
別に甘いものが好きなのではない。寧ろ嫌いだ。小学生になるまでふりかけと米しか口にしようとしなかったくらい、らしい。覚えていないが。それでも生きるためには食べる必要がある。この気温と湿度でうっすら加熱調理されている以上、雑菌も《静止》しているとは言え、弁当なんかの既製品を口にするのはリスクが大きい。かと言ってライフラインのない現状で生鮮食品は調理の術がないし、人肌ほどに温められた刺身や果物は一度挑んだら充分だった。意外なことに、そして残念ながら、フリーズドライ食品類も湿気でやられていて食に適さない。乾物も焼き菓子も駄目。こうなると候補は本当に限られてくる。一通り試した結論は、チーズと羊羹、これだ。肥りそうで嫌にな、
何か違和感がある。
転がってきた缶蹴りのペットボトルを投げて返す。ヘタクソ。ノーコン。何だ、何におかしさを感じたんだ私は。おかしいと言えば全ておかしいのだから目星がつかない。U・S・Jの地球儀がエナンチオであることを誰も咎めだてしないように。《静止》はペンギン崩壊の検証よりきっぱりとt対称性がcp対称性と同程度かそれ以上にやぶれを持つと明らかにした。カフェオレから牛乳が自然に分離しても、エントロピー増大則へ直ちに反すると言えなくなった。最早常識は通用しない。海もそう。ガソリンもそう。熱的振動は運動ポテンシャルを保存されているが、熱的状態は振動を記憶していないから保存されず、ゆっくりと分離する。と、はたと気付いて冷凍食品の棚を見る。溶けているだろう、と今まで碌に見もしなかったが、予感は的中した。ロックアイスがキューブ形を保っていた。触れる。温い。昇温しても三態が保存されている。氷菓子の包装を剥いて、齧った。ソーダ味。冷たくないのに凍っている。不思議だ。
おかしい。間違っている。
動悸が激しくなる。新しい発見だった、冷凍食品に広く用いられている小麦粉はそのままだと食べられないのであまり択は増えないけれど、枝豆ならいける筈、貴重な蛋白源だ、有意義だった、それなのに。下級生が走り過ぎていく。理科準備室の薄暗く埃っぽい室内で幼い男女の影が折り重なっている。雷がぱっと二人の裸身を曝し、私と目が合う。首を振る。これのせいだ。吸って、吐く。この件について、私は何も間違えていない。ただ事実に気付いて、受容しただけなのだから。ただの被害妄想だ。深呼吸。合理的にいこう。袋に手を伸ばした。
脳に糖が、筋肉に蛋白質が行き届くなり、第三セクターが遊覧船を売却した、という報道をどこかで耳にしたのを思い出して、海の見える旅館に着くと、目当てだった小舟は拍子抜けするほどあっさり見つかった。従業員通用口脇の非常扉の横にあったのはシーズンではないからと仕舞い込んでいたものと見える。すくな丸、と書かれていた。旧事記か。ロビー正面のガラス戸まで連絡していたが、この風で戸を全開すると今度こそ大怪我をする。それで、苦労して南側のエントランス前まで押し歩いた。私の体重ほどしかなかったので助かった、いや冷静に考えれば私の体重ほどもある物を運ぶのに大きく迂回させられたのだから面倒極まりないのだが、時間だけは有限とは言えたっぷりあるので始めた時は何とも思っていなかった。運び終えて、どっと疲れた。ふらふらとロビーまで戻り椅子に身を沈めた。
どうも寝入っていたらしい。肩胛骨の痛みでとろとろと目を覚ました。マッサージ・チェアだった。電源がなければこんなものは瘤つきの重い箱である。立とうとした。立てなかった。深く座り過ぎていた。はあ、と尻で膝行る。りんりんりん。動き止めた。電話だ。鳴っている。受付からである。りんりんりん。りんりんりん。当然、誰も取らない。座っていて動けないのだから。前屈みの不自然な姿勢がつらくなってきて、私だけが立ち上がる。りんりんりん。一向に止まない。五月蠅い。カウンタを乗り越え従業員用通路に入ると音源らしい内線があった。すっかりアバンダン・コールだ。可哀想に。赤く点滅するランプに手を伸ばし受話器を取った。正面の壁にキルロイ・ワズ・ヒア。電話口からは物音一つしない。内線のランプも、まるではじめから点いてなんかいなかったかのように沈黙している。ごぼっ。水音。電話の音声では、ない。ごぼごぼごぼ。左耳から。まったく肉体とは不合理である。背筋が冷たい。
ちりっ。後れ毛が、何でもないのに逆立った。不思議だ。くすくすくすくすくす。クルゾ。クルゾ・ホラ・キタゾ。ロビーを、見た。




