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  作者: 浮沢ゆらぎ
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●表紙

挿絵(By みてみん)

 炎は上に向かって流れる砂時計である。哲学者のガストン・バシュラールはそう自著に記した。地球に惹かれる砂のように、然して惹かれるが故に非ず、時というものそれ自身が何かの使命を帯びて自ら象るがための、流れゆく、漏れゆく、滑りゆく屹立した孤独。では、つまるところそれは何か。私は知らない、誰も私に尋ねない限りにおいては知っているが、もし尋ねる人があって、それに答えんとするならば。

 エントロピーは増大する。万物は流転する。と、人は言うが、熱力学第二法則などと定理を騙って大きな顔をしているその実相は、只の原理に過ぎない。ケルゼンの応報律を物差しにするのに公理では役不足である。過去・現在・未来。果たしてこれらは直列しない。のみならず、古くは唐代の伝奇小説にある枕中記、所謂邯鄲の夢の故事に見られるように、時間感覚は常に等価ではあり得ない。野望も成功も苦悩も失敗も何もかも、過去へ退けば厚みを失うがため、夢から覚めた盧生は褪めた望みに醒めたのである。六祖檀経。セネカ。和泉式部日記。豊臣秀吉でさえ辞世の句で嘆いたことには、ジャネーの言を俟たず、ここ一年のことを全て思い出すのに丸一日も掛からないだろう事実。一分前の思い出より五〇万倍以上古い、一年前の思い出の方が鮮やかなことさえある。要するに、だ。時間は、過去・現在・未来は、語りのコンテクストにおいて意味的に伸縮する性質を有するのである。

 従って、と私は思う。まだ感覚せず、論理的に回想も不能であるところの、未来へのランガージュは一様である筈だ。即ち、分からない、と。それでこそ科学である。それでこそヌミノーゼを排した純然たる論理的整合性の恩恵である。人類は猫や煙ではないので、高所に登ればいずれ下りなくてはならなくなることを学び取れる。しかし偶然の働きを見込むのもまた人類の性で、人格としての整合性こそ欠けているだろうが、ここには未来が論理的にいつも不明であるとの整合性ある思索を見て取れる。偶然と偶然が運良く明瞭に結べば、それは必然、或いは整合した認識、或いは白魔術、或いはサイエンスと、そう呼ばれる。手を払われればそれは陰秘、或いは黒魔術、或いはオカルトだ。そして認識一般は概念・推理・判断の三過程を経て遂げる行為であり、推理に乏しければ直観、判断に乏しければ知覚、論理的整合性の色濃い概念に基づけば知識と分類される。再び高所に登る例を引くならば、予め下りる際のことを考えて登らない選択をするのが知識ある行動で、身に余る高さだと判ってなお登る選択をするのが直観的行動で、ただ高いなあと眺めるのが知覚だ。翻って未来は、傍観も、況して登らないとの選択も不可能である。どれだけ知識ある認識だろうと直観を完全に排することは出来ず、よってオカルトに身を浸さないで生き抜くこともまた出来ない。未来は、分からないのである。科学は黒魔術を内包せざるを得ないのだ。

 が。違う。考えるまでもなく、即ち一切の認識なく、そんな高所に登ることはしない。自力で下りられないところへ自ら登るのは子供か、さもなくば馬鹿である。それが普通だ。

 分からない。

 題意も汲めるし解法も覚えているが、個別具体の式から類型を見出せないのでテストで困る。頻出する型があると知識しても、認識即直観、または目を皿にした知覚が遂げられないために赤点まで突き当たる。すぐそこにある目的地の周辺でうろうろと、悩むばかりで到達しない、才がないという差異、カーナビ人間ともかつて渾名された、私に普通は何も、どうして未だに難しい、分からない。

 五分前に創造された気分と生きてきた。これからもきっとそうだ。いつだって前髪を掴み損ねて、蓋然と無知に翻弄されて、切迫への恐懼、怖いものはいつだって予告されて到来する。大して思い出せることもないのに、未来は鼻先で飛沫と砕ける。森を出て外敵の切迫を察知した猿だけが時を獲て人類と成った。種としてのア・プリオリな感覚であるから、時間線分に死を先駆した。吸って吐いて食って糞して寝て起きて、死んで遺って腐って化ける、そんなタイムラインに切迫された。だから人類は切迫する未来を、退いて薄っぺらになった過去を、予告されて到来するものを怖がる。溝の潰れたレコードのように、死んでも死んでも、己の倒れる先に倒れた己の背を見て脅える。人類は驚異がために成り脅威がために永劫回帰する。先験するから覚悟する。覚悟するから勇気を奮う。人類の素晴らしさとはこの、勇気の素晴らしさにある、らしい。臆病者は千度死ぬ、されど勇者はただ一度のみ。シェイクスピアは死ぬほどの思いを一〇〇〇回もしたようだ。尤もヘミングウェイの記した通り、勇者の負う実の思いの丈は知れないが、I've died for living. たぶん。なのに、

 窓の外から笛の音。

 日焼けたミディアム・ストレート。耳掛け部分に二本の銀色のヘアピン。寝癖ごと後ろで束ねられたデッキブラシのような毛先がヤマアラシに似る。ぱらぱらと若白髪、不揃いに剥げた茶色の下から黒。に縁取られ、或いは覆われて浮かぶ卵型の輪郭は不愛想を煮染めた造作。右手を上げる。そいつが左手を上げる。手を振る。振り返される。水垢の曇りと黴、割れた辺々に覗く硝子、断面が乱反射してきらきらと斑に像を白抜きする。私の姿を前景に、洗面台の鏡に無地のフローリングが映る。カーテンのない窓から差す淫らに冴えた陽光が呼気を掃き清めては鬱陶しく室内を充溢した。腰を下ろして大の字になった。天井。この天井は昨晩、いやそれ以前からきっと、何度となく見た筈なのだ、寝る前に。思い出せない。現前と在るいま・ここの景色、前方へ退く五分間の蓋然、切迫。分からない。やめた。

 人縁を処理するに始め、着メロに随分貢いだ私用の青葱色のピッチは早々に解約、続いて有給と貯金の消化を兼ねた戸籍と持ち物の全国行脚。あるものは棄て、あるものは売り、籍を残した職場に戻っては転職を仄めかすことを忘れずに、やがて準備完了、直ちにドシエを事務課へ届け出て、半年して返還、癇癪して見せ受理させる薄っぺらの辞職願、口座振り込みを確認、IC入りクレカ共々通帳を裁断、厚みのない過去、前夜飲み残しの水道水でふやかして月・水・金。そして漸く、大家である不動産屋に都合のつく師走の今日この日この頃合いを退去予定に設け、私は痺れる。スラブを被覆する黄ばんだ白。ホイッスルの音。鋭い。徒競走の練習だろうか。地の深みに大の字。

 何の未練もなかった。

 趣味、なし。特技、なし。休日は年初に設定したルーティンを終日熟す。不満が蟠ったら料理で気を晴らす。が、美味しいと思ったことはない。好きなこともない。独身。アラサー。ブスではない、と思う。美人では決してない。化粧は出来ない。上手くない。仕事は化粧品の分子設計。だった。今は何者でもない。未だ何の感慨もない。やっとやり遂げた筈なのに。白くないものが見たくて瞼の裏を覗いた。上履きの足跡と、胃液混じりの乾し椎茸と、油揚げと、銀杏切りの人参があった。階下で住人の交わす声を聞く。お前は。お前は非科学的だ。不道徳だ。その考えは間違いだ。今からでも考え直せ。まるで私へ言っているようである。マルデ・ワタシニ・ムカッテ・イッテイル・ミタイ。その通りだよ。お前に言っているんだ。目を閉じればそこが闇でも快晴の午睡に等しい。信仰は人を救わない。盲目にするだけだ。カマトトぶるな気違いめ。手探りにヘッドフォンを求める。オヤ・アイツガ・ヘッドフォンヲ・サガシテイルゾ。そうか、棄てたのだった。目を開けてFrancfrancの掛け時計を、ああ、嗚呼。まったく億劫だ、何もない。

 目を閉じ直して数少ない思い出を辿ると、大抵、手を引いていたことが脳裏に浮かぶ。鼻高々で嫌味な当時の私。何故かあの子のちょっと低い視点から、見上げるように思うことさえある。余程恥じたせいか。教室とは不似合いな、校則違反のセボンスターの指環。胸元に手を遣る。Calvin Kleinに硬い感触。今は、ここに下げている。冷静に数えればもう一〇年強も前のことである。太平洋を臨む南向きの窓。達磨ストーブ。等間隔に並んだ机は今にして思えば児童向けにしても過小だ。誰かの体操着袋が踏まれて足型を付けられているが、踏まれた数は教壇の下に半ば入り込んだプリントほどではない。どうして教卓を直に置かないのだろう。友達に訊いてみようか。見回す。疎ら。放課後だからこんなものである。それに今日は日直だったから、職員室から戻って自席に就いたばかりの私と団子になって残っている子達とではちょっと距離を隔てている。五、六人か。ひいふう、六人だ。ふと一人が前に歩み出て、言った。それでは今日の学級会を始めます。級長だけあってよく通る声だった。ぱちぱちと拍手が上がった。私もそうした。白魚の指に玩具の指環。尖った小指。安普請の薄い扉が叩かれる。不動産屋だ。むくりと起きてライフラインを停止、保証金返金額の通知を聞き、鍵を返却。手順を消化遂行する。最後に部屋を一瞥して、厚手のレースアップ式ワーク・シューズをもたもたと不器用に履き、出た。小春日和である。施錠する不動産屋に会釈する。二度と会わないだろうに、旋毛目掛けて何やら言っていた。何か、そう、新天地がどうとか。はあ。曖昧に応え、背を向けて辞去した。何のことやら。インテリはこれだから嫌いだ。馬鹿にしやがって。

 時間は川に例えられる。水は交わる朱を薄め、流れは新たな水を迎える。

 師走の空に雲が浮いている。きっと漂っている。青い。その向こうの暗がりを光の散乱が隠している。未来は今から過去になる。空はどこまで空だろう。昼はどこから夜だろう。

 大型ディスカウント店でまとめ買いした三枚九八〇円の紺のポロシャツ。フロント・プリントの灰のスウェット・パーカー。折り目で半ば裂けている男ものの古いロールアップ・デニム。母校で指定品だった人工皮革のダッフル・コート。靴だけは妹に贈られたものなので高価いが、履き潰していて皺が戻らないし、底も随分磨り減っている。冗漫に歩きながら習慣で指先がポケットを探る。キースと生き別れた名残である。かさり。プロテイン・バーを一本、今晩のために入れていたと思い出す。奥まで突き遣った。装身具を除けば所持品はこれだけだ。これだけ、でいい。年齢五分の私には最も相応しい。分相応だから足るを知る。フォスターの法則に就いてこそ矮躯なる己が魂に殉じ得る。ベンサムのユートピアに拒まれた、それでいてノージックの経験機械からも逃げ出した私のような人類の、幸福へ至るチャートの一片である。達成感はまだないけれど、後追いで来ることだろう。気長に待つつもりだ。何と言っても私の生きてきた痕跡は、猿にハムレットを書かせるよりは容易いだろうが、行うは難しでそう易々と復元出来るものではないと思う。世界は終わった。命令されても不服を態度にしない、朝令暮改にも怒れない、無視されても不貞腐れず、眼前の人のつらさを察して休憩を促すを役目にした、カーナビのようなアイツは死んだ。普通に未来予知出来ない不良品だから、棄ててやったのだ。ステテヤッタノダア。くすくすくす。ほら、舜虞彁も笑っているよ。左に座る彼女を指して言った。級長はぽりぽりと頭を掻いて、咳込みながら板書の一部を消した。ひどい誤字だったらしい。私の席は窓際の隅だから、放課後になると西陽が逆光になって板書が読み難い。級長は何と書いたのだろう。思い巡らすうち、前方のグループの笑い声が止んだからか、彼女もはっと笑い止めた。

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