現実逃避委員会
「図書委員になります」
と言ったとたん教室内がなんとも微妙な空気になったので、あたしは不安になって先生の顔を見た。
この学校では全員何かの委員になる決まりで、今はどの委員会も人が足りてるから転校生は特別に好きなところを選ばせてやるぞー。と新しくあたしの担任になったこの先生が恩着せがましく言ったので、あまり考えることなく答えた、それだけだったのに。
教室の雰囲気に気づいてないのか気にしてないのか、先生はよし決定ー、と手もとの名簿に書き込みをしながら「活動については図書委員のえーと、光倉、南、此花。深見に教えてやるように」と言ってぱん、と音を立てて名簿を閉じた。声も動作もついでに顔も、いちいち大きな先生だと思った。
前の小学校でいちばん仲の良かった美咲は、親の仕事の関係で転校慣れしていた。五年生の終わりに転校してきて仲良くなってから、あたしは美咲がまたすぐ引っ越してしまうのではないかといつも心配していた。この小学校で卒業できそう。そう聞いて安心してたのに、まさか自分のほうが転校するはめになるとは思ってもいなかった。
その美咲が最後にくれたアドバイスがある。
「あたしの経験からいくと、転校して最初に話しかけてくる子、っていうかグループね。そういう子たちとはそのあとあんまり仲良くならないよ」
もちろんこんなの人によるんだろうけど、康子はあたしと同じタイプだから、とも付け加えた。同じタイプというのはつまり、暗いって言われるほどじゃないけどおとなしくて目立たなくて、数人の仲良し(それも女子のグループの中でも地味なほう)で固定メンバーを作って他の子とはあんまり交流がない、ってところだろうか。
美咲はそれでも場数を踏んでいるせいかいろんな子とそつなく話ができていたと思うけど、結局いつもこんな感じで落ち着いてたみたいだった。そう聞いて思い出してみると美咲が転校してきた時、クラスで最初に話しかけていたのは女子のリーダー格だった土居さんたちで、あたしが美咲と口をきいたのは三日目くらいになってからだった気がする。
そして昨日この小学校にやってきて、最初の休み時間に話しかけてきたのが今目の前にいる矢田さん。まだクラス全体の印象もろくにつかめていなくても、矢田さんが土居さんと同じポジションの人だということはすぐにわかった。
「深見さん、本当に図書委員でいいの?今ならまだ変えられるよ、あたしらといっしょに保健委員やろう。先生のとこ行くのついてってあげるから」
ホームルームが終わったとたんあたしの席の前に立った矢田さんに、あたしはとっさに返事ができなかった。大柄で目の細い矢田さんに見下ろされるとその迫力だけで、思わずうなずいてしまいそうになる。
でもあたしは美咲のアドバイスがなくても、矢田さんにべったりついて歩く気にはなれなかった。少し強引だけど悪い人じゃないと思うし、転校したてでいろいろ親切に教えてくれるのはすごくありがたいとも思う、けど。
このまま「矢田さんのグループの子」になってしまうのはやっぱり、嫌なのだ。
「…え、でも、本が好きだから…」
「そういう問題じゃないんだよねえ」
あたしがようやく口にした言葉も、矢田さんはあっさり払い落とす。「仕事がキツイとか面倒ってことじゃなくて、まあ深見さんは知らなくて当然だけど、問題は一緒に活動するメンバー、なわけ」
同じ委員の人のことか。あたしはさっき先生が呼んだ名前を思い出そうとした。ミツクラ、ミナミ、あとえーと、コノハラ?コノハナ?
まだひとりも知らない、顔さえわからないというあたしに矢田さんはそっと教室の一角を示した。「あそこで固まってる三人。深見さんにもだんだんわかってくると思うけど、とにかくクラスで浮きまくっ」矢田さんは唐突に口をつぐんだ。あたしたちの視線に気づいたのか、三人のうちのひとりがこちらを見たのだ。
その子はそのまま、あたしたちのところへやってきた。警戒するような矢田さんを無視してあたしに笑いかける。
「あたし光倉多美。図書委員の仕事なんだけど、実は今日さっそくうちのクラスの当番なんだ。今から来られる?」
矢田さんが口を挟まないうちにと、あたしはうなずくと急いで帰り支度を済ませて光倉さんたちと教室を出た。図書委員の三人がどういう理由で「浮きまくっ」ているのか気にならなくもなかったけど、直接口もきかないうちに矢田さんの言葉だけで判断したくはない。
図書委員を希望したのは本が好きだから、というのは嘘じゃない。それに加えて、同じ動機で委員になった子たちとなら仲良くなれるんじゃないかと思ったのも確かだ。別の理由やジャンケンでなったという可能性もあるけれど、少なくとも光倉さんたちはみんな本好きみたいだった。
光倉さんは三人の中ではいちばんよく話す子だった。委員の仕事の説明も他のふたりの紹介も、あたしにしてくれたのは光倉さんだ。パステルカラーでまとめた服装はあたしみたいにお姉ちゃんのお下がりとは違って、自分で着たいものだけを着ているという雰囲気だった。本当は髪色をオレンジにしたいけれど、さすがに親が許してくれないとか。
のんびりした印象の南さんは直毛のロングヘアで、大判の写真集をめくりながらときどき話に加わる。ファンタジー小説を片っ端から読んでいるという此花さんは小柄でショートヘア、見た目が中性的で無口で大人っぽい。
みんな正直言って矢田さんよりずっと話しやすいし、あたしにはどこにもおかしなところはないように思えた。どうしてクラスで浮いているのか、今のところさっぱり理由がわからない。
奥の棚にいた此花さんが顔を出し、南さんに向かって「姫、カウンターにこれの二巻戻ってきてるかな」と声をかける。
「姫ってあだ名?かわいいね」カウンターの南さんにあたしはそう言って、そういえばふたりの下の名前をまだ聞いてなかったことに気づき「あ、それとも本当に名前が姫子とか姫香なの?」とつづけた。
南さんは「そうね、ちょっと違うんだけど」と言いながら近くにあったメモ用紙に“香玖耶”と書いてみせた。
かぐや。
それはたしかに「姫」と呼びたくなるのもわかる。ちなみに此花さんは“夕”というシンプルな名前で、これまた本人によく似合っていた。
「すごーい、凝ってるし、かわいい」あたしはちょっと複雑な気分になりながらも、南さんに言った。戻ってきた此花さんに探し出した本を渡しながら南さんが何か答えようとした時、しばらく黙って文庫本を読んでいた光倉さんが突然声を上げた。
「ホントだよ、いいなあ姫は名前も姫でっ」名前も姫、という意味がよくわからなかったけど、おっとりした南さんのイメージに合っているからだろうか。聞き返す間もなく光倉さんはつづける。「あたしなんて近所のおばさんに『あらぁ、うちのおばあちゃんと同じ名前だわぁ』なんて言われたんだよっ。同級生ならまだしもおばちゃんにだよ?あれは効いたよぅ」
ツインテールを激しく揺らしながら光倉さんは訴えた。たみ、という響きは確かに現代の小学六年生にしては地味だし、今どきの小学生な光倉さんにはなおさらだ。康子というやはり派手さのない、なんなら光倉さん以上に古風な名前を持つあたしにはその気持ちがよくわかったので、光倉さんに同調しようと口を開きかけた時だった。
「まぁでもいいじゃない。本当はアンナはアンナなんだし」
あんなはあんななんだし。
南さんの言葉の後半を、あたしにはとっさに脳内変換することができない。それなのに光倉さんは「まあねっ」なんて納得してるし、此花さんまでうなずいている。
きょとんとしているあたしに、光倉さんはさらっと告げた。「あたし、本名はアンナっていうの」
「は…?」
南さんが使ったメモ用紙を引き寄せ、光倉さんは余白に“杏奈”と書いてくれたけど、さっき光倉さん本人が光倉多美って名乗ったし、作業の説明のとき見せてくれた貸し出しカードも多美になってたし、だいいちつい十秒前まで多美って名前の不満を語ってたはずだ。
「井領栞奈って知ってる?」
いきなり話が飛んだ。こっちはまだ最初の発言にすら、ついて行けてないんですけど。
「女優のさ、ほらっ、二時間ドラマによく出てる」
「ああ…」そういえばサスペンスドラマで捜査をひっかき回す役をやってたり、旅番組で温泉につかって『もう最高です~』なんてふんわりしたコメントをしてるのを見たことがある。三十代後半くらいの、そこそこ売れてる人。
「あの女優の娘が今小学六年生なの」
「はあ」
「母親より名前が先に出るような、上に行ける子になるようにってことで、か行のカンナより前のあ行からつけて、杏奈」
「…はあ…」
「つまりそれが、あたしっ!」
「はあっ?!」
…どうでもいいけどあたしはさっきから、パターン違いの「はあ」としか言えないでいる。
とりあえず聞いたことを頭の中で整理して、最初に浮かんだ質問をしてみることにした。
「えーと、つまり井領ってのは芸名で、本名が光倉?」
「えっ?井領も栞奈も本名だよ。結婚してるときはもちろん変わったけど、今は離婚してるし」
考えてみたら井領栞奈の本名がなんだったとしても、娘の下の名前が違うことの説明にはならない。
疑問を感じつつも光倉さんの自信満々の口調のせいで『芸能人の娘がクラスにいた!』とちょっと興奮しかけていたあたしは一気に冷静さを取り戻し、その後はおとなしく聞くだけにした。
井領栞奈の実家がこの町にあるのは本当らしい。そして子どもを産む時に里帰りしてきて、光倉さんの母親と同じ病院で同じ日の同じころ、同じ血液型で同じ女の子を産んだのも事実のようだった。母親がその時のことを自分の手柄のように話してくれたという。
「…それでわかっちゃったの。あたしは病院で、取り違えられたんだって」
…どれでわかっちゃったんでしょうか。
あたしの相槌は自分でもわかるほど熱のないものになっていたけど、光倉さんは気にしてないみたいだった。「今思うと、うんと小さいころから家とか家族とか、自分のいる場所に違和感があった気がするんだよねっ。あたしはここにいるべき人間じゃない、みたいな?DNA鑑定すればはっきりするんだけど親は笑って相手にしてくれないし、井領栞奈のほうで調べてもらおうと思ったのにそれも伝わらなかったみたいで」
「つ、伝えようとしたの?」
「うん、去年手紙出した。でもただのファンレターと混ざっちゃったんだろうな、読んでたら連絡くれるはずだもん」
…本物だ…。
もちろん本物の井領栞奈の娘、って意味じゃなくて。自分でもなんの本物と言いたいのかよくわからなかったけど、唐突にそう思った。
そこまで共通点があるなら、取り違えた可能性は確かにゼロとは言えないかもしれない…けど、証拠は全くない。それなのに本当の娘は自分だから手元の娘の鑑定をしろ、なんて女優に手紙を出せるほど思い込めるなんて。
「そういうわけだから、深見さんもよかったらあたしのこと、アンナって呼んでねっ」
「あー…うん」
矢田さんとは別の迫力に気圧されて、あたしは曖昧にうなずいた。相手をあだ名で呼べるようになると普通はぐっと親しくなれた気になるんだけど、これはなんか、違う…。
(光倉さん改め)アンナは嬉しそうに、ずっと黙って聞いていた南さんと此花さんのほうを向いた。
「やっぱり深見さんはいい人だったねっ。他の奴らはみんな無視だったもんね。妬いてんだろうけど」
妬いてるわけじゃないと思う…というか、みんなに堂々とこんなことを言ったのがすごい。
「姫のこともこれから『姫』でいいから」アンナは勝手に決めてから、さらにとんでもないことを言い出した。「ついでだから姫も身の上話、しちゃえば?」
「は」また失語症になりかかったあたしは、南さん、もとい姫の顔を見た。「あのー、もしかして姫、も、誰かと取り違えられたりしたり……しなかったり……」
「そういうわけじゃないの」にっこり笑った姫は持っていた写真集を開くとあたしの前に置いた。開きぐせがついているそのページにはどこかの国の宮殿が写っていたけれど、全然答えになっていない。
「わたし、ここに住んでたの」
…アンナの話を聞きながら頭に浮かんできた単語は『妄想』だったけど、今あたしの脳内で激しく点滅している言葉は『電波』だった。アンナで免疫がついたせいか表面的には平静でいられたので、あたしは姫を刺激しないよう黙って話を聞くことにした。
姫が示した宮殿があったのはヨーロッパの小さな国らしい。王制だったのが革命によって民主政治になりどうのこうの、という説明を難しくて聞き流していたらいきなり「その王朝の最後の姫がわたしなの」と姫はお言いあそばした。
…とりあえず落ち着いて、ツッコミはひとつずつ焦らず丁寧に、と自分に言い聞かせながらあたしはこっそり深呼吸する。
「んーと、まず革命ってのはいつ起こったの?」
「十三年前よ。今でも昨日のことのように思い出せるわ…わたしは十六歳の誕生日を数日後に控えてた。以前は毎年盛大な晩餐会を開いてもらえたけど、政情が不安になって宮廷にも暗いムードが常に漂っていたそのころには、寝る間もないほど多忙でいらしたお父様を見てあきらめるしかなかった」
年齢合わないじゃん!と言いかけたあたしはとっくにタイミングを失っていて、遠い目で語る姫を眺めているしかなかった。そしてあたしのツッコミは次の瞬間、永遠に無意味になった。
「実際はわたしが思っていたよりずっと深刻で、苛酷な状況だったのよね…誕生日を迎える前に国王一族として処刑されるなんて、想像すらしてなかったんだもの」
死んでんじゃん!
「…だからこそ次の人生では庶民でいいから、安全な国で長生きできるよう、お父様とお母様がわたしのために祈ってくれたのかもしれないわ…」
「…そう来ましたか」
あたしのつぶやきは誰にも聞こえなかったらしい。哀しげに目を伏せた姫だけでなく、アンナも此花さんも真顔を崩さない。
アンナは一応リアルタイムの話だったけど、姫は前世キャラだった。一族の処刑の日時に生まれ、生まれ変わった国でも“姫ネーム”がつけられたのは偶然ではない…そうだ。
「ものごころついたときから、いいえ、その前からかもしれない。宮廷での生活を繰り返し夢に見るのよ。この写真を初めて見た時『わたしの家だわ!やっぱり実在してたのね!』って思って、涙が止まらなかった」
あたしたちの生まれたころに革命や処刑があったのなら、いくら小国とはいえ日本でもニュースになっただろうし、そういうのが無意識に刷り込まれたんじゃないかなーとか、同じ日時にその国のいわゆる“姫ネーム”を付けられた子どもは世界中探せば他にもいるんじゃないかなー、っていうか母国語しゃべれるの?なんて反論する気力はもう残っていない。
信じさせようと熱弁をふるわれていたらあたしもムキになって反抗したくなったかもしれないけど、アンナも姫も(自分にとっては)当たり前の事実を淡々と話すだけだったから。
そして、それを淡々と受け入れている存在の意味に改めて気づいたとたん、あたしは此花さんを警戒心いっぱいに見つめた。「此花さんも…あるの?その、本当の名前とか前世の名前とか来世の名前とかソウルネームとか」
「ないない。夕でいいよ」微笑みながら答える此花さん…夕ちゃんは、そんなふうにあたしを安心させておいて、ひとりごとのように付け足したのだった。
「あたしの本当の家や名前は…アンナや姫と違って、こっちの世界では知りようがないから」
「どうだ、もう友だちはできたか?」
夕食の席でお父さんにそう聞かれたあたしは、答えようがなくて唐揚げをゆっくり噛みながら時間稼ぎをした。矢田さんは友だちになったというのとは違うし、矢田さんと一緒にいる子たちともたいした話をしていない。それ以外の子は矢田さんに遠慮してるみたいで、話しかけてくることもないしあたしから話す勇気もなかった。
今のところ親しく口をきいたといえるのは結局あの妄想トリオになるわけだけど…この先友だちとしてやっていけるのか、自信がない。
考えこんだあたしの返事を待たずに、お父さんは勝手に結論を出していた。「なんだ、まだできないのか?まあまだ転校二日目だしな、そのうちできるさ」まだできない、と言っておいてまだ二日目だとフォローらしきものを入れる。どっちみちお父さんは本気でそんなことを気にしているわけじゃないのだ。
お兄ちゃんは高校に入ってから帰りが遅くなっているし、お姉ちゃんは中学から直接塾に行く日だから今日の夕食はお父さんとお母さんとあたしだけで、間を持たせるために適当に話しかけてみたのが丸分かりだった。
「康子は人見知りするから」お父さんがひとりで出してひとりで終えた話題をお母さんが引き取る。「早く慣れないといじめられたりしないか、心配だわ」
「…だったら、なんで聞いてくれなかったの」あたしはうつむいたまま言い返した。
引っ越しが決まり、高校生のお兄ちゃんはもちろん、受験が近いお姉ちゃんも電車でもとの中学に通いつづけると聞いたあたしは自分も転校したくない、と何度も頼んだ。あともう一年足らず、どうせならずっと一緒に過ごしてきた友だちといろんな思い出のある学校を卒業したかったのに。
「その話はもう済んだでしょ」お母さんはうんざりした声になる。「小学生を電車で越境通学させるなんて、私立の子でもあるまいし」
気まずい雰囲気のまま夕食が終わり、あたしは二階に上がった。今まではお姉ちゃんと共有だったけど、この家に越してきてからは自分だけの部屋がもらえた。これだけは素直にうれしい。
たんすの引き出しを開けると柄もののほとんどない、濃い色合いばかりが目に入る。ほぼ全てがお姉ちゃんのお下がり。お姉ちゃんに似合っていたもの、お姉ちゃんが好きだったものでいっぱいだ。
あたしはお姉ちゃんとあまり似ていない。だからお姉ちゃんのお下がりもあまり、似合わない。お姉ちゃんのほうが背も高いから、お下がりはいつも袖や裾が余った。逆じゃなくて助かったわ、とお母さんが笑うのを聞いて、もしあたしとお姉ちゃんがみっつ違いで中学に入れ違いで進学していたら、お姉ちゃんの制服やカバンをあたしに使わせるために引っ越しを延ばしてくれたんじゃないか、なんておかしなことを考えたことがある。
アンナの引き出しの中はきっと、賑やかな色であふれているんだろう。キャンディやマカロンみたいな、蛍光ピンクやレモンイエロー、サックスブルーにエメラルドグリーン。
想像したところで思いはまた三人の“身の上話”に引き戻された。
取り違えられた女優の娘、滅亡した王朝の姫の生まれ変わり、そして…妖精の、取り替え子。
最後の砦だと思っていた夕ちゃんは、実は大トリを飾ってくれたのだった。
『チェンジリングだよ。妖精が自分の子と人間の子をこっそり取り替えちゃうの。外国の言い伝えだけどお母さんの田舎にもよく似た話が伝わってて、あたしはその田舎で生まれたんだ』
それから毎年夏休みや冬休みには里帰りしているというから、きっとそのたびにおばあちゃんが昔話をしてくれたり、だから夕ちゃんも妖精の子かもしれないぞー、なんて悪ノリした親戚のおじさんあたりに言われたりしたんだろう。そしてそれを真に受けて…というのはあたしの想像。夕ちゃんはアンナや姫ほど詳しく話そうとしなかったし、もちろんあたしも追求しなかった。芸能人に外国人(しかも王族)ときてついに人外まで登場されては、あたしの頭の許容量も限界だったのだ。
本当はお父さんとお母さんの子どもじゃないのかも…って考えること自体は珍しくないと思う。前世の記憶なんてのも物語ではよく出てくるし、女の子はとくに一度は考えたことがあるんじゃないだろうか。それを本気で信じ込めるかどうかはまた別の話だと思うけど。
いっそあたしも『宇宙人の子』とでも言って対抗すればよかったかな?
そんなことを考えてひとりでちょっと笑ったあと、あたしはため息をついた。
翌日の朝矢田さんが「どうだった?」と声をひそめて話しかけてきて、セリフそのものは質問なのにあたしが答える前から『あたしの言ったとおりだったでしょ』って顔をしてるのを見たら、あたしは思わず「別に、みんな親切だったよ」と笑みを浮かべてしまった。
たしかに矢田さんの言ったとおりクラスで浮くのが当然の三人だったし、昨日はそれでかなり引いたのに、矢田さんのわけ知り顔が不愉快でつい、こう言ってしまったのだ。
矢田さんへの反発から委員を変わることもせず三人と過ごすときが増えると、あたしが覚悟していたほど三人とのつきあいは疲れるものじゃなかった。いつもいつもああいう話をしてるのかと思ったけど最初の日以降はとくに話題になることもなく(考えてみたら実際に家庭環境が複雑な子だって、しょっちゅうそんなことばっかりしゃべってはいないだろう)、普通に話している分にはみんな単なる本好きで、あたしと気の合う女の子たちだった。
矢田さんははじめ「気をつけないと電波うつされるよ」なんてバカにしたような顔で言ってたけど、あたしが本格的に三人に溶け込んでしまうと近づかなくなった。他の子も同様だったので結局当番以外のときでも三人と行動するようになり、半月も経たないうちにあたしは「浮きまくり」の一員に加わっていたのだった。
前の学校同様、この学校でも図書室の人気はあまりないらしかった。たまに貸し出しや返却の手続きを頼まれたり棚の整頓をする以外は仕事もなく、閉館時刻までそれぞれ好きな本を読みふけっているらしい。
アンナが持っていた厚みのある本をカウンターに置き、「ふう」と軽く伸びをする。
「読み終わったの?どうだった?」
それは海外の古典的名作のシリーズで、気になってはいたけど難しそうで手が出なかったあたしはさっそく聞いてみた。
「うーん、外国のお話って登場人物がごっちゃになるし、よくわかんないところも結構あったけど…」アンナはそこまで言って目を輝かせた。「でもママが今度出る舞台の原作なんだもん、読んでおかないとねっ」
「あーそうなんだー」わざわざ話題にすることはなくても、こんなふうに関係ないはずの話題がつながってしまうことはある。はじめは地雷を踏んだような気分になったけれど、最近はこんな感じでささっと流すことにしていた。
もちろんアンナの言う『ママ』は井領栞奈のことで、実際に光倉家にいるのは『お母さん』と区別して呼んでいる。姫や夕ちゃんにしてもそれぞれ話す上でのルールがあって、そういう言葉の使い分けもあたしはすでにマスターしつつあった。
「康子ちゃんは、今居る場所と魂の在る場所が一致しているのかしら?」
ゆったりした口調でいきなり困った発言をするのは姫だ。見ると世界史の本を開いたまま(どんな項目を開けているのかは聞くまでもなかった)目を潤ませている。ノスタルジーモードとか嘆きの姫スイッチ、とかあたしがこっそり名付けている状態になっているらしい。
「えーと、あたしは前世の記憶もないし」と答えたところで顔を上げた夕ちゃんと目が合う。「…異界の記憶も、ないし」
「たとえば家族の中で自分だけ違うところって、ない?」
「…えーと、あたし以外は全員ラーメンは味噌派、とか?ちなみにあたしは醤油だよ」
あたしが冗談のつもりでそう言って笑っても、姫は真面目な顔でうなずいている。いつのまにか夕ちゃんとアンナまであたしに注目していた。
うわ、どうしよこの空気…と内心焦りながらも、あたしは思いつくままに話し続けた。
「家族はみんなわりと大柄だけどあたしだけチビでひょろひょろしてるし、あたしだけ癖毛だし…みんながサッカー見てる時にあたしだけ本読んでるし…煮魚が好きなのはあたしだけだし」
みんなは焼くほうが好きで、お母さんはあたしだけのためにそんな手間はかけてられないと言ってめったに作ってはくれない。
大好きなのに。
あたしだけのわがままで引っ越しをやめられるわけがない、そう言ってあっさり転校させられた。
生まれてから今まででいちばんってくらい、真剣にお願いしたのに。
あたしだけ、あたしだけ、あたしだけ。
たいして考えなくても言葉はいくらでもあふれてきた。普段は気づいてもいなかったような些細なことがほとんどだったけれど、こんなにもあたしだけが違っている点が見つかることに自分でも驚いてしまう。
「…お兄ちゃんとお姉ちゃんの名前、シノブとマドカっていうの」あたしはプリントの裏に漢字を書いた。
“志之武”。“眞都華”。
「読みは普通だけど、字がめちゃくちゃ凝ってるでしょ?シノブにマドカなんて、その気になればひと文字で書けるような名前だよ。それをみっつに分解した上、漢字もすごく選んでる。姫の名前を初めて見たとき、いい勝負だと思ったもん。…それなのに、あたしだけ」
康子。お父さんの名前ともお母さんの名前ともリンクしていない、お兄ちゃんの名前ともお姉ちゃんの名前とも共通点がない、ぱっと考えてひょいとつけたような、名前。
自分で書いた文字を見つめながら、あたしは三人の視線を痛いほど感じていた。何を予想、というより期待されているのかは明らかで、あたしはその期待どおりの言葉を、まるではじめから決まっていたセリフを言うみたいに、言った。
「あたし、本当の子どもじゃないのかな?」
…矢田さんの言う『電波をうつされる』って、こういうことなんでしょうか。
保護者会から帰ってきたお母さんに呼ばれて居間に行くと、お母さんはなんともいえない表情でお菓子とジュースを並べていた。いつもはわざわざおやつを準備したり呼んだりしない。戸棚にしまってあるお菓子を探して勝手に食べるだけなのに。
「矢田さんって子のお母さんと今日、お話したんだけどね」
そう切り出したものの、お母さんはなんだか言いにくそうだった。矢田さんのお母さんはやっぱり女の子の保護者のリーダー格らしい。矢田さんのところは間違いなく本当の親子なんだろうなあ、とあたしはぼんやり考えた。
「あんたが仲良くしてる子たちがちょっと、その…問題のある子たちで、あんたが変に影響されないか心配だって言われたんだけど」
クッキーのかけらを落とさず食べることに注意を向けていたあたしは、あやうく聞き流すところだった。
「問題?」
たしかに問題は大ありだろうし、影響も受けて…るんだろうけど。
「この前遊びに来た子たちでしょ?かわいらしい名前の子たちだと思ってたけど、本当は全然違う名前なんだってね」
姫は本名のほうがすごいと思うけど。って今はそれどころじゃない。「そんなの、ただのあだ名じゃん」
「それはいいけど…あの子たち、虚言癖があるって有名らしいじゃないの。クラスの誰にも相手にされてないって…」
「矢田さんのお母さんがそう言ったの?」あたしの声に怒りを感じ取ったのか、お母さんはどんどん早口になった。「ほかのお母さんたちも言ってたわよ。芸能人の隠し子だって嘘ついたり、昔はお姫様みたいな生活してたって見栄張ったり、とにかくみんなからバカにされてるんですって?そんな子たちといっしょにいたら、あんたまで爪弾きにされるんじゃないの?」
アンナと姫の話は、どう伝わったのかそんなふうに解釈されているらしい。あたしはちょっと感心しかけたけど、それ以上に怒りが抑えられなくなっていた。
「この前みんなが来たときは『いっぱい友だちができて良かったじゃない』なんて言ってたくせに。お母さんは自分の目で見た印象より、アンナたちを直接知らないおばさんたちの言うこと信じるの?」
「だってあのときはまだ、そんな子たちだなんて知らなかったんだからしょうがないでしょう」
アンナの挨拶がはきはきしていて気持ちがいいだの姫の言葉遣いは礼儀正しいだの、夕ちゃんを落ち着いたいい子だのと誉めたことも全部忘れたみたいに、お母さんは「とにかくもっと他の子とも遊ぶようにしてみたら」なんて三人を遠ざけようと必死になっている。
あたしはお母さんを無視して居間を出て、ついでにそのまま家を飛び出した。
みんな悪いことなんてしてないし、誰にも迷惑はかけてない。お母さんにつきあいを禁じられる理由なんてない。あたしのお願いも聞いてくれないお母さんに。
…本当に、本当の子どもじゃなければいいのに。
アンナたちにはああ言っても、あたしは本気で自分が養子かもなんて考えたわけじゃなかった。今だって考えてはいない。ただ、そのほうがいいと思ってしまっただけだ。
それなら気持ちをわかってもらえなくても、他人なんだから期待するほうが間違ってるんだ、って、あきらめることができるから。
とりあえずうちからいちばん近い姫の家に行って事情を話したら、のんびりした姫らしくない勢いで、あたし以上に怒りだしてしまった。
「昔に姫だったのはただの事実で、見栄なんかじゃないわ!」って、怒りのポイントは全然違ってたけど。
なぜかアンナや夕ちゃんまで呼び出して、あたしたちはよく行く図書館の、敷地内にある公園のベンチに集合した。
「…本当のお母さんがどこかにいるなら、会いに行きたいなあ。でもあたしはみんなみたいにどこの国とか誰とか、手がかりがなんにもないし」
あたしのつぶやきはただの現実逃避で、それは自分でもわかってた。だけど本気でそう願っていて、それを笑わずに聞いてくれるのはこの三人だけだった。
「わたしは国がわかってても遠すぎて行けないわ。…行ったところでわたしが生きていたころの面影はないでしょうし、お父様やお母様だってどこに転生したのか見当もつかない」姫がため息をつく。
そういえばみんなのお母さんは保護者会でなにか言われたりしてないのかな、と気になったけど、当人たちの親にはさすがに誰もなにも言えないのかもしれない。
「あたしのママは近くにいるけど」アンナにもため息は伝染する。「実家がこの町にあるったって詳しい住所なんかわかんないし。テレビ局で待つにしてもスケジュールの調べかた知らないし」
「…あたし、会いに行ってみようかな」
夕ちゃんがあんまり静かに口を開いたので、あたしは一瞬何を言い出したのか理解できない。「えっ、ええっ?誰に?井領栞奈に?」
「そうじゃなくて」夕ちゃんがおとなびた笑みを浮かべる。「あたしのお母さんがもしかしたらいるかもしれないところに、行ってみようかなって」
夕ちゃんの母親というのは自己申告によると…妖精、のはずだけど?
「ねえねえ、それって夕ちゃんの田舎のことっ?」身を乗り出したアンナに夕ちゃんはうなずく。「昔話の舞台になった場所があるの。深い森だからうっかり入ると迷って出てこられないって噂で、とくに子どもは妖精にさらわれちゃうから、って今でも誰も近づかないの」
「そこに違いないわ。夕ちゃんのお母さんはきっとそこにいるのよ」姫がなぜか大きくうなずきながら断言。さらにアンナが興奮気味に「子どもをさらうのは別口かもしれないけどねっ。もしその妖精が先にさらいに出てきたら、夕ちゃんのお母さんについて聞きこみすればいいんだよっ」とつづけてぴょんと立ち上がる。
あれ、なんかこの展開って。
「よしっ、みんなで行ってみようっ!」
どうしてそうなるの?と思わなくはなかったし、昨日のあたしなら実際にそう言ってみんなを止めただろうし、止められなかったとしてもあたしは参加しなかったはずだ。
でも今は止めるどころか、あたしはアンナの提案にまっさきに賛成していた。子どもだけでそんな遠出をするなんて許してもらえるわけがなくて、結局は黙って出てくることになるはずで、それはプチ家出も同然のことだとわかっていても。
決行は翌日の土曜日。即断即決即実行、のあたしたちはお年玉の残りや貯金箱の中身をかき集めてそれぞれ電車代を作り、朝から駅前で落ち合った。
夕ちゃんはいつも親に連れられて里帰りしているはずなのに、ちゃんと自分で路線や乗り継ぎを覚えていた。たくさん乗り換えが必要だし、今から出発しても到着は午後になるよと言われたけど、あたしたちはここまで来てためらったりしない。もし帰りの電車がなくなっても、夕ちゃんのおばあちゃんが泊めてくれるという保険があったせいもあるけど。
急行で大きな駅まで出て、特急に乗って終点でローカル線に乗り換えてさらに本数の少ないバスに揺られて、あたしたちは長い旅をした。持ち寄ったお菓子を食べたり、時々うたた寝をしてみたり、さすがにだんだん疲れてはきたけどあたしたちはずっとわくわくしていた。親も先生もいない、友だちだけでする旅行。道のりが長ければ長いほど、家からそれだけ離れて遠くに来ていることを実感できた。たまに子どもだけで行動していることを不審な顔で見る人もいたけれど、夕ちゃんの自信ありげな指示にしたがって全員で堂々と動いていれば誰も声をかけてこなかった。
夕ちゃんの田舎の村にたどり着いたのは、結局夕方近くになったころだった。迷いこそしなかったけど乗り継ぎの連絡がうまくいかず時間をロスしたり、極端に本数の少ないバスを待っていたせいだ。
「おばあちゃんちはあっち」バス停に降り立ったところで夕ちゃんが指をさして教えてくれる。「でも先に行っちゃうと暗くなって、今日はもう外に出してもらえないかもしれない。このへん日が沈むと本当に真っ暗になるから」
「じゃあこのまま森に直行っ」アンナの言葉に全員がうなずく。明日にしようなんてのんびりしてたら、今夜のうちに夕ちゃんのおばあちゃんに親に連絡してしまうかもしれない。そして夜通し車を飛ばして来た親たちに、すぐに連れ戻されてしまうかも。
村の奥に見える山に入るということで、あたしたちは田んぼのあいだの細い道を選んで歩いた。中央の大きな道を通ると誰かに見られて怪しまれるかもしれない。
山の斜面に建つ古い神社の脇を抜け、ゆるい山道をしばらく進むと小さな川にぶつかった。浅いしたいした幅もないから、石づたいに飛び移って簡単に渡れそうだ。
「ここが“境界”。あたしもここまでしか来たことないの。川を越えたらもう、妖精の領域なんだって…」
あたしたちは黙って向こう岸を眺めた。ここまで来るのに意外に時間がかかり、あたりはもう夕焼け色に染まっている。
はりきって目指してきた場所なのに、着いてみると神々しさもおどろおどろしさもなかった。単に今通ってきた風景のつづき、にしか見えない。
「そういえば夕ちゃん、毎年来てるんだよね?今まで来てみようと思ったことなかったの?」
「あるけど、怖かったから」
「森に入るのが?」
「そうじゃなくて…もしも本当のお母さんに会えたとしても、お母さんが取り替えた人間の子をすごくかわいがってたら、あたしは邪魔なだけかもしれないって」
そう言われるまで考えもしなかったけど、取り替えられたということは向こう側に本物の此花夕がいることになるのだ。
「そんなふうに思ったのはね…あたしがこっちの世界で、人間のお母さんにすごくかわいがってもらってるから。だから本物の夕もそうなんじゃないかって…。逆にもし妖精のお母さんがあたしを取り返したくなったりしたら、もうこっちには戻れなくなっちゃうかもしれない。それも困るんだ…こっちのお母さんも好きだし、それにこっちには、友だちがいるから」夕ちゃんはあたしたちの顔を見回した。
「あたしも、夕ちゃんがこっちに帰ってこないのは困るっ!」
「…そうね。今日のところは、引き返しましょうか」
「うん。なんにも考えずにみんなと来ちゃったけど、あたしのせいでみんなが別口の妖精にさらわれても大変だし」
「本格的に暗くなってきたし、なんかさらに別の、怖いモノも出そうだしね」
「やめてよ、そういうこと言うのっ!」
昨日からとんでもないハイテンションでここまで突き進んできたあたしたちは、“境界”の直前まで来て急に気が抜けて、そろって息をついた。
帰り道は薄闇が怖くて、全員で手をつないで歩いた。お互いの表情もはっきりわからない中、アンナや姫が時々ぽつりとつぶやく声だけが聞こえる。
「…あたしだって、ママに会いたいのは別に、今のお母さんが嫌いだからじゃないもん」
「どこかで転生している両親も、それぞれ現世で生まれた子どもを大事にしてるわよね…」
夕ちゃんの話でふたりとも、何か感じるところがあったみたいだ。
あたしは?どうなんだろう。さっきまでは妖精にさらわれるならそれも構わない、と思ってた。でもそれはあたしがみんなのように、本気で妖精を…それだけじゃなくて自分の家の子じゃないってことも信じてないからだったかもしれない。自分が家族からはみ出しているのが悲しいのは、お父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんもみんな、好きだから。会えなくなるのはやっぱり、嫌だから。
もちろん、この三人の友だちとも。
それからあたしたちは夕ちゃんのおばあちゃんの家に行ってとても驚かれ、みんなの家に連絡が行ってものすごく怒られて、次の日迎えにきたそれぞれの親に改めて怒られた。
ここに来た理由を聞かれてもあたしたちは本当の理由は言わず、ただみんなで旅行してみたかったということで通した。そして、素直にひたすら謝った。
…井領栞奈の娘の杏奈が芸能界デビューして、誰が見ても母親そっくりだったこととか、処刑されたことになってた某国の姫が実はひそかに亡命していて今でも生きていることがわかったりとか、そういう出来事はもっとずっと後に起こったこと。
でもその前からアンナと姫は、取り違えや生まれ変わりの話を持ち出すことがなくなっていた。
大人からすれば、ようやく妄想だったことを自覚したと思ったかもしれない。口にしなくなったのがそういう理由じゃないことを知ったら、まだ治っていないのかと呆れるかもしれない。だけど自分たちできちんと納得して折り合いを付けられたんだから、それで周りに心配をかけなくなったんだから、どんな理由だって構わないとあたしは思っている。
あたしはとくに何も変わってない、たぶん。ただ日常をよく観察していると、家族でひとりだけ違っているところ、というのはあたしにあるのと同じくらいお父さんにもお母さんにもお兄ちゃんにもお姉ちゃんにもあることに気づいた。自分のことしか見てなかったから、わからなかっただけだった。
ちなみにあたしの名前だけど、あたしは生まれたときに超虚弱児で、無事に育つかどうかも危うかったらしい。とにかく健康にさえなってくれれば他に何も望まない、という意味で康子、とつけられたそうだ。実は上のふたりで気合いを入れすぎて、親戚一同から「覚えにくい」「漢字を間違える」「“参上”とか“見参”とか付けたくなる(?)」というクレームがあったことも原因のひとつみたいだけど。
とくに変わりがない、というなら夕ちゃんもそうだ。もともとアンナや姫ほど本当の親の話もしなかったし、それ以外のときだって普段から無口だ。
ただこの前遅れて図書室に行ったとき、扉を開けてすぐ目に入ってきた、窓際に立つ夕ちゃんのうしろ姿が。
陽の光が反射することでかろうじて輪郭がわかる、それほど透きとおっていて薄いのに一瞬かすかに虹色に輝いた背中のあれは…
羽、だったんだろうか?
夕ちゃんが振り向いて微笑んだときには、もう見えなくなっていたけど。
…あたしはその時、あのまま“境界”を越えて森に入っていたらどうなってたのかな、とふと思った。
これも新種の妄想…なのかな?
読んでいただき、どうもありがとうございました!