EP06【父のように】
店をあとにして春光はあの神社へ向かった。最後に父と訪れた神社だ。
今でも覚えている、あの日の強い想い。偶然見つけた招き猫。父にせがんで必死になって手に入れた招き猫。何度も何度も願った。
『お父さんのことを沢山の人達が守ってくれますように』
祭りの提灯の、揺れざわめく色とりどりの光が抱いた白い招き猫を照らし、まるで喜んでくれているようだった。自分の必死さを讃えてくれているように。だからきっと叶えてくれる、だから強く強く願った、大好きな父のことを。
父は、春光にとって憧れだ。強く優しく、シェフという仕事を務める立派な人。多忙な父がいない食事は寂しかった、が、その度に父の表彰式の写真やトロフィー、あの光るような天津飯を思い出しては慰めにした。そうだ、自分は立派な人の長男なんだ、
『自分もきっと父のようになる』
父のようになることは、ヒーローになるのと同じ意味だと感じた。母から聴く父の話は、どんな物語より心が踊った。
『お父さんはね、沢山の人達から選ばれてシェフになったとてもすごい人なのよ』
そんなすごい人が父親だということが嬉しくて仕方がなかった。
『自分もきっと父のようになる』
優しくて立派な父。憧れの存在。大好きな父。自分達のために、自分達を護るために働いてくれる父。だから願った、
『どうか、招き猫さん、お父さんのことを沢山の人達が守ってくれますように』
と。
それなのに。
父がシェフを引退し食堂を開いてから、春光は、憧れの姿を見失ってしまった。同級生には『ほっこり食堂のシェフ』などと冷やかされ、卒業文集で書いた父のようなシェフになるという自分のページを何度も破ろうとした。他店とは違い早めに閉店する店、家族が集い夕食を共にする場所、弟達は賑やかにくつろいでいるが自分には。
なにも友人達とて馬鹿にしていたわけではない、だが、あの豪奢なホテルで白く鈍く輝きを放っていたシェフの衣装を纏う父の姿を、その姿を知る自分にとってこの食堂での時間はまるで違う、そう感じていた。
余りもので作られた天津飯の、薄桃色のかまぼこの、形が不ぞろいでることのなんともいえない敗北感にも似たわびしさを春光は、吐き出すことも飲み込んでしまうこともできず居心地悪くその場を去ることしか考えられなかった。思春期の傷つきやすい小さなプライドは守ろうと思う前にはしぼみ、消え入りそうだった。
今、春光の胸も頭も、様々な想いが交差している。思わず言葉が溢れてくる。
「オヤジ、ごめんよ」
神社には、あの日の賑わいはない。
あの心躍る景色、父の優し過ぎたまなざし、そして、あの招き猫。あの時、本当は、自分のことも母のことも他のことは願ってなどいなかった。唯一願ったのは、
『お父さんのことを沢山の人達が守ってくれますように』
ただ、父があまりにも喜び、優すぎる目で見つめ返してきたのが、父のことだけを願ったというのが、春光は幼心にくすぐったく恥ずかしくなった。だから他のことも願ったと言ってしまった、あの日の甘酸っぱい記憶。
家を出てたった2年で挫折しかけた春光。
だが帰れなかった。厳しい生活、バイトに明け暮れながらも学校へ通い、毎日教材の残り物で空腹をしのいでいた日々。だが、辛かったのはそんなことではなく、自立して知った父の苦労と、父の苦労を知らず父への尊敬の念を失ってしまったことだった。
華々しいシェフの姿、調理の世界。だが現実的には華々しさばかりなどではなかった。競争、妬み、限られた地位を巡って学校内ですら殺伐としていた。春光は、自分が産まれた頃は父はまだホテルで修行中だったと聞かされていた。だから、悔やんでもたった2年で帰るわけにはいかないと踏ん張った。あの招き猫を手に入れた年、父はやっとシェフに選ばれたのだから。
せめて6年。
自分が産まれて父がシェフになるまでの6年、せめて父が頑張ってくれたこの6年間という年月は一時でも父に対して失望を感じたことを恥じ、一度進んだ道を諦めてはならない、と。大好きだった父を、自分は悲しませたに違いないのだから。
何度も手を付けなかった夕食。たまりきれず父の作った料理に優劣をつけてしまった自分、それを咎めもせずに叱りもせずに受け流した父の姿を思い出す度に、春光は後悔と歯がゆさに震えた。調理人であり、親であり、敬うべき姿そのものの父への無礼を春光は思い知ったのだった。
また、春光は同じ男として、26歳という年齢で一つのけじめをつけたかった。冬五郎は千春と結婚した時26歳だったと言っていたからだ。幼い頃、父がよく言っていた。
「お父さんが一番強くなくちゃいけなんだよ。お母さんと結婚した時に約束したんだ。絶対守るからねって。男はね、誰かを護れるくらい強くならなきゃだめなんだ。だから、お前もお母さんを護れるくらい強くなるんだよ」
自分が憧れる人は強い、強くて立派な人だ、春光の瞳に映る父の姿はいつもたくましく自慢だった。
中学に入学した時、冬五郎は言った。
「物事の始まりは大事なんだ。男ならケジメをつけるもんさ。お父さんが一番覚悟を決めたのは26だ、お母さんと結婚した年さ」
父冬五郎は初めて家庭をもって、自分のことだではなく母を護るためにどんな苦労だって辛抱しただろう。
父の言葉は、いつもどれも、春光にとって心を震わせる言葉だった。そして、その言葉の数々はいつも春光の心の芯で熱くこだましていた。
春光は家を出てからの6年後、父が家庭をもった26歳に父の跡を継ぎたいと、それを目指して両親を頼らず頑張ってきた。そして少なからず、大好きな父を喜ばせたいと考えていたのだった。
「オヤジごめんよ。俺さ、そんなつもりはなかったんだ、うまくいかないから跡を継ぎたいって、そんなこと考えたことなかったよ。オヤジにもう一度、ホテルのシェフのようにお洒落な店に立って欲しかっただけなんだ。俺が立派なフレンチ作って洒落た店にたくさんの人達が集まって、そこに、そこに、オヤジを立たせてやりたかったんだ。たださ、ただ、オヤジが言った、一番覚悟を決めた年だって言った、オヤジが結婚して家族をもった26歳で、俺は、オヤジのことをもう一度目指したかっただけなんだよ」
悔し涙が頬を伝う。
『自分もきっと父のようになる』
目指す夢は、いつまでも遠くに感じられる。