EP04【ねこサンは左手をあげている】
平成元年、千春は三男の出産を迎えていた。
34歳といえば高齢出産となる。千春は一人入院し、姉妹に留守を任せていた。春光は6歳、夏樹は4歳、冬五郎はシェフ就任が決定し、中継ぎもあって少しは時間の余裕をもらえていた。兄弟にせがまれ、冬五郎は母親のいない分に少しでもかまってやろうと春光と夏樹を連れて商店街の縁日へでかけた。元来悪さをする子供達でもなく暴れまわる風でもないので、のんびり和やかに夜店をまわる。と、ふいに、
「お父さん! あれなに」
春光がそう言うなり駆け出す、
「おい! 離れるなよ! こら!」
慌てて夏樹を抱き上げ春光を追う。
行くと春光が輪投げの夜店の前でしゃがんでいる。
「猫が手をあげてるよ? 立ってるの? 座ってるの?」
幼子には不思議な姿なのだろう、そこには、左手をあげた招き猫が置かれてあった。
「ねこぉ! ねこぉ」
夏樹が触れようとする手を抑えながら、冬五郎は春光へ答えた。
「それは招き猫さ。縁起物といってね、お家を守ってくれたり、お仕事がうまくいくようにとか、沢山の人を呼んで皆が仲良く幸せになるよう守ってくれるんだよ」
冬五郎は左手をあげた招き猫について、大雑把に、わかりやすいように答えてやった。
「すっごいね! 神様なの?」
「はは! 神様ではないね。作られた理由はあるんだけど、春光にはまだわかんねぇかな」
招き猫の由来は、幼子には理解できまい。
「ふうん。かわいいなぁ。お母さんや赤ちゃんも守ってくれるのかなぁ。沢山の人も呼ぶの? お父さんのお仕事も助けてくれるの?」
「なんだ春光、それ欲しいのか?」
今まで、おもちゃをせがむような子ではなかった、なのに、何故か執心している様子。
「うん! 欲しいよ! だって守ってくれるんでしょ!」
「ああ、でもこれ売り物じゃないな」
ここは輪投げの出店だ。
輪投げで招き猫を当てなければもらえない、冬五郎は兄弟達に輪投げをさせることにした。幸い、何故か、この招き猫は最前列だ。今時のゲームやプラモデルはもっと後方に。
「この距離なら、いけるかな」
冬五郎は兄弟達に輪投げの方法を指南しながらその様子を見守った。
夏樹は招き猫などは関係なく、ただ輪を投げてははしゃいでいる。が、春光は真剣そのもの。よほど招き猫が気に入ったと見えて口を一文字に噛み、必死だ。だが、なかなかうまく輪がかからない。
「お父さんがとってやろうか?」
見かねた冬五郎の言葉に、
「ダメ! 僕が頑張るの! 僕はお父さんみたいになるから、お父さんみたいに自分で頑張る!」
冬五郎はうかつに手を出したことを後悔し、
「よし! 頼んだぞ! 春光! お父さん達を守ってくれるこの招き猫をとってくれよ!」
と励ました。
少々高額になってしまったが、3度目でやっと招き猫がとれた。なんとか招き猫の左手にかかり、本当なら輪の半分がかからないといけないルールだったが、春光があまりにも無心に励んでいたので店の主がよしとしてくれた。
「でかしたぞ! 春光!」
「やったぁ! お父さんのこと守ってあげられる!」
春光は大声で叫んだ。
「ぼくもぉ!」
「夏樹も守ってくれるよ」
そう答えたのは冬五郎。
春光はさも大事そうに店の主から招き猫を受取り、更に大事そうに抱き、なにかをつぶやくのに必死だからだ。
「どうした? なにを言ってるんだ?」
冬五郎が春光へ尋ねると、
「お父さんはシェフになるでしょ。色んな人がお父さんのお手伝いをする人になるって、お母さんから聞いたんだ。だからね、その人達がちゃんと、お父さんのことを沢山の人達が守ってくれますようにってお願いしてるの」
そう言いながら春光は、小さな両手で、しっかりと招き猫を抱き、自分の腕の中の招き猫を見つめている。
「春光」
冬五郎はほっこりと、心の芯があたたまる気がした。
「ありがとな、春光」
いつになく優しい冬五郎の声に、春光は慌てたように話し出す。
「あ! それからね、次は僕がお父さんになることお願いした!」
「そっか、あれ? かぁさん達は?」
冬五郎は笑いながら尋ねた。
「その次だよ! だってお父さん言ってたじゃない。いちばん強くならなきゃいけないのはお父さんだって。お母さん達は弱いから強いお父さんが頑張れば守れるんだって! だからね、お父さんのことを一番応援しなきゃって思ったんだ!」
「はは、そっか! ありがとな」
春光は帰りまで他の夜店には目もくれず、たいそう大事そうに招き猫を抱いていた。
りんご飴よりも綿菓子よりも、春光には招き猫がなによりも心を満たしてくれるようだった。
冬五郎には、あの日の思い出が鮮やかすぎるほど蘇ってくる。
招き猫の左手ギリギリにかかった輪、それを今までに見たこともないような嬉しそうな表情で見ていた春光の姿。以来、春光はリビングに招き猫を飾り、何度も手を合わせては話しかけていると千春から聞いていた。
あれから14年、1年前家を出る時春光はその招き猫を立ち止まり眺めた。冬五郎はきっと、春光は招き猫を持って出るだろう、と、そう思ったが。春光はなにかを振り切るように招き猫から視線を外し、そのまま振り返りもせずに玄関へ向かった。
置き去りの招き猫。冬五郎はこの招き猫を見る度に幼かったあの日の、春光の笑顔を思い出すのだった。