EP03【春光のいない春】
平成16年、次男夏樹は高校を卒業し、三男秋実は来年には中学卒業だ。平成10年に開業したほっこり食堂も6年目。3月、営業を終えて、千春は暖簾をしまい息子達のためにお茶を運んでいる。
「でさ、俺もね、フレンチを勉強するんだ。だってどこもかしこもイタリアンだのフレンチだの、もう和食とか中華って、そんなに流行らないと思うんだよね。それに洋食ってお洒落だしね。春にぃは去年出てっちゃったし、俺が父さんの跡を継いで調理人になるよ! まぁね、春にぃと同じフレンチだけどね」
「そうなのね、お洒落好きな夏っちゃんにはよく似合ってると思うわ。秋ちゃんはなにになるの?」
「僕はね、写真やさん! だって写真ならずっとずっとそのまんま残せるでしょ! 僕は、春にぃいなくなってすっごい淋しいし、もっと早くに写真を沢山撮ればよかったなって思ったんだもん。春にぃ優しかったもん! 夏にぃと違ってね! 春にぃって、お父さんみたいだし!」
末っ子の秋実のことを、春光はよく面倒を見ていた。
6つも年が離れているせいか秋実の言う通り父親のように世話をしていた。箸の持ち方、遊び方、時には靴の履き方などまで指南するほど。直ぐ下の夏樹とは喧嘩をするのに、秋実にはなんでも許してしまうことも多かった。
「まぁ、可愛いことを言うのね、ねぇ? お父さん?」
千春は純粋に、今は息子達の夢を健気に思うと同時に褒めてやりたいと思った。
まだまだ子供、世間へ出れば苦労することは目に見えている。冬五郎は、
「どっちも簡単じゃねぇぞ。しっかり勉強して、心込めてがんばれ」
と、父親らしく厳しいことを言う。
「心を込めてって、父さん、それよく言うけどね、先ずは基本だよ、テクニック! 俺はとにかく基本をしっかり勉強するよ!」
しっかり者を気取って夏樹が自信あり気に言った。
「ははは、そうだな、料理は基本だ。まあ、腕あげたら気づくことがあるさ。なんのために調理するのか、誰に食べさせてあげたいのか、ってな」
冬五郎はさり気なく諭した。
「僕は父さんの料理するとこも沢山写真撮るよ」
まだまだ無邪気な秋実が言う。
「おう、頼んだぞ秋実、男前に撮ってくれ」
「ああ、それはどうかなぁ」
一家団欒の時は穏やかに過ぎてゆくが、ここに春光はいない。
昨年、春光は家を出た。
フレンチを学ぶ調理学校へ行きたいと言い出した。学費は自分の貯金とバイトで稼ぐ、迷惑はかけないと言ったまま、家を出たきりハガキが数枚届いただけだ。どうやら春光は神奈川にいる。忙しい千春だが、春光の部屋の掃除くらいはと何度も電話をかけていた。が、調理学校とバイトで留守がちだからという断りのメーッセージが送られてくる。遠くもなく、近くもない、東京は広く県をまたぐと途端に別世界だと思わされる。
春光からの便りは味気のないハガキだが、春光の礼儀正しい性質が見えてくる、神奈川の季節の風景の上に重ねられた律儀な文章。電話やメールでもいいものを、春光はわざわざハガキを送ってよこした。
『みんな元気ですか。俺は元気ですから心配しないでください』
春光のことだ、無茶はすまい、そう思う千春。冬五郎もまたこうしてきっちりしている内は問題など無いのだろうと言う。だが、明るく見送ったわけでもなく、こうした味気のないハガキで安心できるわけでもなかった。
「春ちゃんたら、お父さんにそっくりね」
届いたハガキを冬五郎へ手渡しながらそう言う千春。
冬五郎は、
「ハガキなんて面倒だろうにな。お前に似たのさ」
そう言いながら、ハガキを眺める。
書いてあることなどに関心はない。どうせ春光のことだ、自分のことなど書いてよこすはずがない。ハガキに映る神奈川の風景をぼんやり見ながら、冬五郎はこの土地を選んだ春光の生活ぶりをいつも想像するのだった。
4月、進級入学で祝い事の多い季節。
冬五郎は、いつものように昼の忙しい時間のあと、客席で一服する。といってもタバコを吸うわけでもなく、店の玄関の開け放たれた外の景色をぼんやりと眺めているのだ。そして、ふいと、神棚の横にある招き猫を見やる。
左手をあげた招き猫。春光が家を出てから食堂に飾ってある招き猫。飾ったのは他でもない冬五郎だ。見やって眺める招き猫には、表情もなにも変わりはしないが、心の奥があたたまる懐かしい思い出が見えてくる。