EP01【猫は右手をあげている】
平成29年2月、冬五郎の長男春光が土産を持って中国から一時帰国した。
春光34歳、冬五郎は63歳。幼い頃から父を尊敬し憧れていた春光は、父冬五郎がシェフに就任した時と同じ年齢のこの34歳でほっこり食堂を継ぐことになっていた。
父が高級ホテルのシェフという座を降り地元で食堂を営み始めた頃は、あまりの環境の変化に戸惑い反発した時期もあった。それまで、偶然父がシェフだと知った友人やその家族達から羨望され、近所でも皆に父のことで羨ましがられることがくすぐったく甘く、子供心に嬉しいものだったからだ。ところが、平成10年春光が15歳になった頃父はシェフを引退し食堂を開いた。多感な時期、周囲から様々なことを言われることもあって春光は、父が引退してしまったことをひどく残念に感じていた。また、食堂は商店街の玄関とも言える場所にあり、夕食は家族と共に食堂でとっていた。食堂へ出入りする春光の姿は目立ち、そのことを同級生達が冷やかすこともあったので、店に出入りすること自体春光にとっては恥ずかしいことでもあった。
だが、そんな思い出ももう遠い過去。
一時はフレンチの勉強をしていた春光は、母千春からある話を聞き、幼い頃描いた父の姿、尊敬する父のように34歳で父の跡を継ぐ決意をした。そして、25歳の時に決意した通り、27歳から中国へ向かい日本と中国を行き来しながら中華の修行をしているのだ。父冬五郎が修行した土地で見つけたというその土産は、右手をあげた金色の招き猫だった。
「オヤジ、オヤジが残したたわいない話がこんなものを作らせてたんだよ。ほら、見て。中国の人はうまく真似るもんだね! 招き猫だよ!」
「おお、あぁ、あの時か! 確かに俺が話したことのある招き猫そっくりだ。なんだ、王さんも皆、そんなの迷信だと笑ってたくせになあ」
「ハハハ、そうだろ? そうなんだよ、信じちゃいないんだ。でもね、王さんの親父さんの友達がさ、オヤジは帰国してからシェフになっただろ? 大成功したからにはご利益があるかもなんてさ、商売好きな人で大量に作らせたんだって。だけど、直ぐに売れなくなってさ、残り物だったんだけど王さんが引き取ってて、俺、買ってきちゃった」
「うちにはもうこいつがいるのになぁ、やきもち焼かないもんかな」
ほっこり食堂には既に、春光が幼い頃に『ねこサン』と名付けた招き猫が飾られていた。
春光が家を出てからここにいる。冬五郎は毎日この招き猫に話しかけ愛着もあったので、なんとなくそんな言葉が出た。
「大丈夫だよ! 『ねこサン』は昔から家族同然だし、うちにいるのは秋実と同じ年なんだよ? それにあげてるのは人を招く意味の左手だろ。こいつはお金を招く意味の右手をあげてて、それぞれ役割が違うよ。『猫』って名前までつけて大切にしてたんだ。それにおふくろから聞いたよ、『ねこサン』をここで飾ってるわけを。だからさ、今度は俺がオヤジのため、あ、いや、この店のためにこの『猫』を飾りたいんだ」
「そういうことか。千春のやつ、よけいなことを話しちまって」
「ああ、そういうのなしだよ、おふくろを叱ったりしないでくれよ。俺、知ってよかったって、ほんと感謝してんだ」
「わかったよ、叱ったりはしないさ。ただ余計な気遣いをさせちまったと思ってな」
「なに言ってんだよ! 俺はさんざん二人を困らせたし期待を裏切ったんだ。ちょっとぐらい親孝行みたいなことさせてくれよ。ていうか、店孝行になるか、ははは」
冬五郎は返事をしなかった、いや、できないでいた。
春光の言葉が嬉しくて仕方ない、それと同時に春光へ辛い思いをさせた、また一からきつい修行までやり直させているのは自分のせいかもしれないという思いがあったからだ。
人は幸福であればそれだけ、心を痛める想いも強くなるのだろうか。