しおかぜメモリー
朝の登校のために玄関を出る中学3年生男子の相沢。
自宅の玄関を出て扉を開けると一匹の白い野良猫が
自宅の大きめのポストの上で丸くなって寝ている。
この白猫はよくここで寝ている。飼い猫ではなく野良猫。
相沢が近寄っても、撫でても全然怒らない。
いつものように猫を撫でてから学校へと歩く。
相沢は思春期で様々な変化に悩んでいる。
学校の成績、進路、容姿、友人関係、体のことなど悩みが多い。
そういった日頃からのストレスは時として暴力や暴言という形で
自分だけでなく周りへの攻撃として現れてしまう時がある。
中学校の教室
数人の男子生徒たちが女子生徒たちをからかっていた。
その中に先ほどの相沢がいた。
「あははは、だからお前はダメなんだよ!この出来損ないが!」
「ちょっと、相沢君。そんな言い方ダメだよ。酷いこと言わないでよ。
言われたほうが傷付くでしょう?」
「うるさい!鳥井ってまじでうざいな。いつも口うるさいんだよ。」
「どうしてそんな酷いこと言うの?相手の気持ち考えてよ!」
「こいつはもう死刑確定だ。あはは!」
相沢のクラス担任の新井先生は30代の若い男性教師。
最近の相沢の乱暴な言動は先生の耳にも入っていた。
職員室でファイルの整理をしていた時、鳥井さんが息せき切って
駆けてきた。
「新井先生!相沢君がクラスの男子とケンカしちゃって、
今、保健室で手当てを受けてるので来てもらえませんか?」
「はい、わかりました。すぐに行きましょう」
鳥井さんに続いて保健室に入る新井先生。
相沢は1人で椅子に座ってスマートフォンをいじっていた。
その左頬には大きめのバンドエイドが張られていて髪の毛も崩れている。
酷い殴り合いをしたようだ。新井先生の姿を見てバツが悪そうにする。
「なんで先生を呼んできたんだよ!おせっかいだなあ」
「おせっかいはないでしょう?傷の手当は私がしてあげたんだからね」
鳥井さんは頬を膨らませ腰に両手を当てて怒ったふりをした。
校舎の外からはトンビの鳴き声が聞こえてきた。外にはまだ陽がある。
この学校は海からとても近いところにあり、学校の窓を開けていたら
潮風が入ってくる。
天気の良い日などは教室の窓を全て開けていると海から抜ける風が
とても気持ちが良い。
「じゃあ、私はもう帰るからね。先生、失礼します」
片手に鞄を提げて保健室を出ていく鳥井さん。
「あ・・、じゃあ俺も帰ります」
慌てて立ち上がろうとする相沢。新井先生は彼に声をかけてみる。
「相沢君、帰るならこれから先生と近くの浜辺まで一緒に歩かないか?
スマホをしまって少し話をしましょう」
新井先生からの突然の誘い。
「え・・。浜辺ですか?、あ、はい・・。わかりました」
言葉数少なに答える相沢。訝しげな様子である。
リュックを提げて相沢は新井先生と校舎を出て浜辺まで歩く。
教室の窓辺からは海が見える。とても綺麗な光景である。
学校の校舎から浜辺までは大人の歩幅で歩いても5分程度の距離。
新井先生が後ろで手を組みながらゆったりしたペースで前を歩いて、
相沢は少し遅れて先生の後ろをついて歩く。
「これから自分は怒られるのだろうか?喧嘩なんかしたからな。なんで自分だけ呼ばれたのか?気が重いな・・・」
相沢はそんなことを考えながら先生の後姿を見る。
後姿や雰囲気からは新井先生が怒っているのか、どうなのかよくわからない。
浜辺につくと新井先生と相沢は横に並んで腰を下ろす。
先生と相沢の間には人一人分の隙間がある。
「話って何ですか?」
相沢は手で顔を触ったり頭を掻いたりと落ち着かない様子だ。
「緊張しなくてもいいよ。楽に話しましょう」
固くなっている生徒にそう声をかける。
「君は兄弟はいるのか?」
「はい、姉が一人います。といっても、もう家は出てますけど」
「そうか、お姉さんがいるのか。」
「なぜそんなことを聞くのか?」と相手の心を読もうと顔色をうかがう相沢。
目の動き、表情、仕草から読み取ろうとするが難しい。
「先生には3歳年の離れた弟がいたんだ。年が近いこともあって
子供のころは毎日兄弟で遊んだし、些細なことでよく喧嘩もした。
2人でテレビゲームなんかもしていたな。小さなころは仲もよかった。
いつも同じ部屋で布団を並べて寝ていたよ。どれもいい思い出だけどな。」
新井先生はそこまで話すと一呼吸置いた。
「そ、そうなんですか・・・」
言葉の意図がわからずに曖昧に返事をする相沢。先生の声のトーンからして
怒りの感情は感じられない。それを確認すると少しホッとする。
相沢は手持ち無沙汰で右の手のひらで浜辺の砂を意味もなく触っていた。
手で砂をすくっては落とすという意味もない作業を繰り返す。
「でも先生が18歳のころに色々あってね、弟は亡くなってしまったんだ。」
新井先生は目線のすぐ先の海を見つめながら言った。
ゆっくりと波が寄せては返す動きを繰り返している。2人の上空をトンビが
鳴いている。
亡くなった
という予期せぬ言葉が相沢の胸に入ってきた時、ドクンと心が跳ねた。
自分の喉の奥がキュッと閉まる感じがした。
「ごめんな、突然こんなこと言って。驚くよな。でもどうしても相沢君に
聞いてほしいんだ」
新井先生は遠くを見ながら言葉をつづけた。
「弟が亡くなる直前のころは、一緒の家に住んでいてもお互いほとんど話も
しなくて、先生が高校生で弟は中学生で、ちょっと難しい
時期なのかもしれないけれど」
2人は共に海辺の波を眺めていた。
穏やかな波の音と海からの気持ちの良い風が体を包む。
「家族とか兄弟、友人ってとても大切な存在だよな。
いつもそばにいてくれて言葉を交わしあえる存在。
すごく大切な人達のはずなんだけれど、毎日毎日一緒にいるとそこにいることが当たり前に感じてしまう時がある。
身体の一部みたいな気がして、いてくれて当たり前、いなくなるわけがない。時としてその存在が鬱陶しいとさえ感じた時さえもあった。罰当たりだよな?君はそんなことを感じたことないかな?」
相沢の砂をいじる手が止まる。先生の声のトーンが少し低くなった気がした。
右隣の少しだけ離れたところに座る新井先生を視界の隅に入れる。
「家族や友人たち、大切な存在なのに・・・。鬱陶しい・・・。
う~ん」
考えてみる相沢。
「でもね、毎日そこにいてくれて当たり前と思っていた存在を、ある日突然失くしてしまったとき、当時の先生には大きな悲しみと共に弟に対する強い後悔が襲ってきたんだ」
「・・・・・・・・。はい」
胸の辺りが少しざわつくのを感じる相沢。
「大きな悲しみと強い後悔。そこにいた弟がいなくなってしまった。
こんなことがあるのだろうか?
なんで自分はもっと良くしてやらなかったんだろうか?
もっと話したり、遊んだり笑いかけたり。大人になった今ならいろいろと助けてやれるのにな、なんて。今でもそんなことを考える時が先生にもあるんだ」
新井先生は相沢を責めているわけではなさそうだ。
しかし、先生の口から出てくる言葉にはとても相沢の心に触れるものがある。胸がざわつく。15歳の瞳に映っている海の波のように、大きな感情が寄せたり返したりを繰り返している。
「誰にだって大切な存在がいるはずなんだ。そして君のことをとても大切にしている人達がいるはず。両親や兄弟、友人、周りの人たち。
私も弟のことがあってからそんなことを考えるようになった。
そういうことを考えてみる時間はすごく大切だと思う。」
その会話の後、2人とも何も話さずに浜辺で海を眺めていた。
その日の夜、相沢は自室で浜辺での新井先生の言葉を頭の中で反芻している。反響するといったほうがいいか。
気持ちを紛らわすために漫画を読んでみても、音楽を聴いてみても
内容がちっとも頭に入ってこない。
今日はもう寝ようと思い部屋の照明を消して、布団に潜り込んで目をつむる。
自分にとっての大事な存在。自分を大切に思ってくれる人達。
当たり前のようにそこにいる存在との別れ。
大きな悲しみと強い後悔。
「そこにいて当たり前と思っている存在、かけがえのない人、
自分だったら誰だろう?」
そんなことを繰り返し頭の中で考えている。
夕方の新井先生の言葉が頭から離れない。ゴロゴロと何度も布団で寝返りを
打つ相沢。
そうこうしている内にいつの間にか眠りに落ちていた。
次の日、朝早く目が覚めた。珍しいこともあるものだ。
まだ頭がぼーっとしているが、何故か2度寝はしたくない心境だった。
新聞を取りに行こうと思い立ち、パジャマ姿のまま玄関のドアを開けた。
まだ薄暗い明け方であるが、ポストの上にまたいつもの白い野良猫が寝そべっている。近寄っていき白猫の頭を撫でてやる。嫌がるそぶりは見せず大あくびをする白猫。堂々とした奴だ。
「お前、本当にここが好きだなんだな・・・。そうだ!」
ふと何かを思いついた相沢。
タタッと自宅へ駆けていき冷蔵庫の中から瓶に入った牛乳を1本取り出してトレイに移して表で寝ている白い野良猫の鼻先に出してやる。いつも撫でさせてくれるお礼だ。
「ほれっ、腹減ってるだろう?飲んでいいぞ」
白い野良猫はクンクンと牛乳の匂いを嗅ぎ、ぴちゃぴちゃと飲み始めた。
そして牛乳を全部飲み干して満足げな白い野良猫。
飲み終えたらお礼も言わずに立ち去る白い野良猫。
でも相沢はなぜかすごく気分が良くなった。
その数時間後、2度寝もできなかった相沢は早めに学校へと登校した。
クラスの教室では鳥井さんが窓を開けて回っている。
この女子はいつも登校が早い。相沢は鳥井さんの後ろ姿を見つけると
頭を搔き何やら少し逡巡しているようだ。
そして、
「鳥井さん・・。おはよう!」
元気よくクラスメートに挨拶をした。キョトンとする鳥井さん。
「お・・・おはよう。どうしたの?相沢君。びっくりしたあ!」
相沢は顔が赤くなるのを感じた。
「朝の挨拶だろう?普通だし、そんなの!」
彼の変化に鳥井さんは少しだけ首をかしげてみせる。
新井先生との会話が相沢の心に何かの影響を与えたのだろうか?
若い男性教師と悩める中学生男子の浜辺での一幕。
きっとこの男子生徒の心には強く残るであろう新井先生の言葉。
しおかぜの記憶。
相沢君の大人の表情を窺うシーンや教師からの言葉で揺れ動く思春期の繊細な心の中をできるだけ丁寧に描写しました。白猫に牛乳をやるところやクラスメートの鳥井さんに最後は朝の挨拶をするところなど彼にも先生の言葉で何かしら感じることがあったのでしょうか?
ちなみにこの作品の中にはノンフィクションのエピソードも一部含まれています。自分の書いたエッセイ野良猫に関するエッセイに載せてあります。
↓
https://ncode.syosetu.com/n2310ik/
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