第六話 あの日からずっと
宮城編
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
欣秀の目の前には、衛星写真をプリントした看板が立っている。衛星写真は、相野釜地区と呼ばれた、現在欣秀が立っている場所のもの。豊かな森や田畑、ビニールハウスに、いくつもの屋根がそこには映し出されていて、そこで幾人もの住民が生を営んでいたことが分かる。
そう、営んでいた。
「…ここに、こんなに家があったのかよ……。」
顔を上げ、辺りを見回す欣秀の眼には。何も映らない。せいぜい映るのは、広大な土地に敷かれた芝生と、何本かの植樹。そして慰霊碑だった。
ここは、千年希望の丘。津波によって全てを流された、何もない場所。
第六話
あの日からずっと
複数のプレートにまたがる、地震大国、日本。ときにその規模は、歴史に名を残すほど凄まじいものになる。
東北、太平洋沖でも、かつて大地震があった。それは、岩手・宮城・福島の沿岸部に、深すぎる爪痕を残すことになる。
宮城県岩沼市の沿岸部にある広場―通称・千年希望の丘は、津波によってあらゆる物がなくなった広大な空間を、公園として転化した場所である。公園らしく遊歩道が敷かれているが、歩いていて楽しそうなものは、取り立てて見えない。本当に、何もかもがなくなってしまった吹きっさらしである。
震災ガレキで作られたという丘も、数多の犠牲者が刻まれた刻銘碑も、すべて〝千年後の希望につなげたい〟という想いで作られたの。
だがまだまだ空き地は目立つばかりで、"復興"と簡単に言えど、遅々として進まない現状が、欣秀の胸を締め付ける。霧雨に打たれながら、呆然と立ち尽くすばかりであった。
いい野宿場所を探して、人気のない場所を目指して来ただけなのに、こんな気持ちになるとは思っていなかった。
「もう何年も経つのにな…。」
思えば震災直後は、崩落した高速道路がすぐに復旧したとか、ニュースでは明るい面が多く報道されていたものである。少しでもポジティブな気持ちに、という配慮自体は間違いとはいえないが、結果として人々は、〝日本ならすぐ元に戻せる〟と錯覚してしまったのではないだろうか。
たしかにこの国の技術力は目を見張るものがある。が、何年経とうが未だに手を付けられない場所もある。欣秀自身〝もう復興はだいぶ進んでいるだろう〟と思っていた一人であったので、その日の夜は、自分の認識をテントの中で恥ずかしく思うばかりだった。
~~
次の日の朝は、良く晴れた天気で迎えられる。
「今日は……、海沿いを走ってみよう。」
ロケットⅢは車両重量300㎏近い、超重量級である。ワインディングの多い、山方面は避けたいところ。
もちろん、峠を越えるだけならば問題はないのだが、問題はその入り組んだ道。下手を打って道を間違えたりした場合、細い行き止まりに辿り着くこともままあったりと、大型の二輪車にとっては不安要素が多い。海沿いの開けた道を選択しがちになってしまうのは、自然なことであった。
そんな〝無難な選択をしたい〟、という思いも多分にはあるが。それ以上に欣秀の胸中を占めていたのは、〝被災した地域を見ておきたい〟というものであった。
日本三景が一つ、松島を通り過ぎ、石巻の日和山に上って、石巻港を俯瞰。復興を進める大型クレーンたちに密かにエールを送り、さらに北上をすれば、牡鹿半島へと渡る万石橋に辿り着く。
東西の幅 約 15㎞、南北の長さ約19㎞となかなかに走りがいのある牡鹿半島は、地図で見えるそのギザギザとした輪郭に沿うような、右に左にと曲がりくねったワインディングの宝庫であった。
〝こういうグネグネを避けてきたつもりなのに〟と苦笑する欣秀は、開き直ってそれを楽しむことにする。
アウト側のステップを強く踏みつけながら、腰をシートからイン側にずらして体重移動を行なうリーンインで、コーナリングをクリアしていく。バンクセンサーを削らぬよう、車体を寝かさぬように丁寧に。
なかなかに疲れる動きではあったが、眼下に広がる海はキラキラと波を揺らしており、欣秀はその目を輝かせる。
旅人として復興に寄与できること。それはその土地の良さを知り、楽しむことではないだろうか。
スロットルを開放するたびに唸るロケットⅢの轟音は、不器用な応援歌とばかりに海へと響く。
~~
「うんめぇーーー!!」
それから、旅人として復興に寄与できること。〝観光客〟としてお金を落とすことも、加えておきたい。
欣秀はそんな建前のもと、半島の突端に近い町・鮎川にて、ミンク鯨の刺身定食に舌鼓を打つ。
〝鮎〟川という名前だが、この辺りはクジラ漁で栄えた土地らしく、食堂も兼ねたビジターセンターでは町の歴史を紹介しているほか、クジラの皮や歯を住民が加工したアクセサリーなども販売されている。
ここも津波が襲った土地であり、港湾設備はひととおり機能しつつも、未だ空き地が目立つ状況ではある。だが、離島の網地島が望める堤防には多くの釣り人が並んでおり、欣秀が少し遅い昼食を摂る食堂にも、観光客がそこそこ訪れていた。
(杞憂だったかな…)
行けども行けども、あの丘のような悲壮感ある景色が続くかもしれない。そんな懸念をしていた欣秀であったが、実情は違った。たしかに〝栄えている〟と胸を張って言える地域は見当たらず、それは今後も考えていかねばならない課題である。が、現在はそこに住んでいる人がおり、往来する人もいる。人の命がそこに息づいていれば、課題も自ずと、一つ一つクリアされていくものだろう。
欣秀は笑みを浮かべて手を合わせ、「ごちそうさま」と食堂を出る。早朝から一気に駆け抜けてきたとはいえ、岩沼から鮎川まではなかなかの距離。日は傾き始めており、半島を一周し終えるころには、日没であろう時刻である。
「今日は……うん、女川あたりで寝よう。」
タブレットで地図を確認し、欣秀は半島の根本へと舵を切る。県道220号『コバルトライン』で夕陽を眺めながら再びワインディングを楽しみ、昨日とは打って変わった心境で、その日は幕を閉じた。
―翌日―
「今日も、海沿いでいいかなぁ…。」
天気は今日も快晴。春と夏の合間というほどよい陽気に照らされながら、潮風を浴び走る…。そんな走りが病みつきになってしまい、欣秀は本日も海岸線へと引き寄せられていく。
〝たまには山も走らないと修行にならないのでは〟。なんて思いもした欣秀であったが、一度きりの旅。やはり楽しさ爽快さ優先でいいだろう。九十九里での教え、様様であった。
国道398は期待通りの快走路で、いくつもの漁港を横切るたび、深い青をたたえた海と顔を合わせることが出来る。欣秀はそのたびにシールドを上げ、思いっきり深呼吸をして、潮の香りで鼻孔をいっぱいにする。
「いやぁ…! 贅沢だぁ!」
牡鹿半島と異なり、国道らしく急なコーナリングは少ない。のんびり派のライダーやドライバーのツーリングルートとして、道の駅を増やしたりなどしたらそこそこ集客できるかもしれない。そんなことを考えながらアクセルを回し続けていると、海沿いにそびえ立つ影が目立つようになってくる。
「海が……見えないな…。」
真新しい白一色の、巨大な防波堤群。
それが陸地の端、海との境界線に沿うよう長い距離に立ち並んでおり、欣秀の視界を遮る。
「忘れちゃえばいいのに…なんて言ったら、怒られるよなぁ。」
大津波以来、津波への対策は声高く叫ばれてきた。〝前はこれがなかったから家が流された〟〝また津波がきたら、なんとしても食い止めねばならない〟。そんな想いで建てられた無機質な防波堤たちのおかげで、海沿いの景観もまた、味気ないものになりつつある。
無論、人命が最優先であるし、そのためなら景観を損なうことは止むを得ないのかもしれない。しかし果たして、その景観で魅力ある地域になっていけるのだろうか――。これもまた答えの出ない、一つの問題である。
横目で眺めていた防波堤から視線を戻した欣秀の目に、「南三陸町」という標識が映る。
「よくテレビで聞いた地名だよなぁ…。行ってみますか。」
~~
国道398はやがて国道45に合流し、欣秀は南三陸町の志津川港へと辿り着く。志津川もまた甚大な被害を受けた土地であり、道路といったひととおりのインフラは整備されているものの、それを囲む建物は少ない。
簡素な小屋を密集させた『みなみ三陸さんさん商店街』なる場所以外は、人の気配があまりない場所であった。
「うん、やはり美味い!」
福島で得たバイト代にかまけて、欣秀はまた海鮮丼を貪る。
(復興のため、復興のため…)
「兄さん、旅のお人? 魚、おいしい?」
食堂のおばさんが、声をかけてくる。
「いやぁもう、もちろんですよ! こんなんもう、この先では食べられないかも!(金がなくて)
こんな美味しいのを獲ってきてくれる漁師さんがいるなら、この町も安泰ですねー。」
「それは良かったよ。
…昔は、もっとすごいのを釣ってくるのがいたんだけどねぇ。」
「ふーん?」
商店街を出て散策すると、道端に小ぶりなモアイ像が並んでいるのを発見する。
「なぜ、モアイ…?」
なかなかに面白そうな町である。
彼らの視線を追ってみると、沖にポツンと浮かぶ、木々に覆われた大きめの島を発見する。
「なんだろあれ。」
島からは人工の通路が真っ直ぐ伸びており、それが波打ち際へと接続されている。どうやら歩いて島まで渡れるようだ。通路の接続部にある公園の駐車場にロケットⅢを停め、欣秀は一息つく。
「うー、今日も走ったなぁ…!」
まだ昼前だが、心地よい疲労が溜まってきている。目の前の島へ渡る前に、少し休憩をとっておきたいところ。手始めに公衆トイレへ駆け込む欣秀は、すぐそばに真っ白な砂浜が広がっているのに気付く。
「おお…! キレイ!」
海岸道路から一段下がった位置から、波打ち際に向けて丸い砂が敷き詰められている。人工海水浴場『サンオーレそではま』である。300mだから、サン(3)オー(0)レ(0)。
手洗いを済ませた欣秀は、その砂浜へ走り込んで、大の字に倒れ込む。
「ウオー! ふっかふっかしてるぅ!」
人工らしく質のいい砂を使っているからか、白い砂の群れは、欣秀の体をフワッと包み込んでくれる。
「ああ…こうやって芝生とかで寝転ぶ青春、いつかしてみたかったんだよなぁ…! まさか砂浜で叶うとは…!」
お昼すぎ。平日の復興途中の港湾部に、人の気配は僅か。ウミネコの声と、漁業用の大型製氷機の駆動音だけが、欣秀の耳に響く。
太陽の光と、それを反射する砂の暖かさに囲まれ、欣秀の意識はうつらうつらとし始める。
ついにその瞼を下ろしてしまっていると、砂浜に足音が響き始めた。
(ん…? 散歩の人かな?)
こちらに近づくようすでもないし、まぁ構うことはない。と寝込もうとする欣秀だったが、小刻みに聞こえていた砂の音は、唐突にザクリ、ザクリという大きな音に変わり始める。
「……なんだなんだ?」
すかさず体を起こしてみると、目の前の波打ち際で、シャベルで砂浜を掘り起こしている男の姿が目に入った。
(……大人の落とし穴づくりかな…)
欣秀がポカンと眺めていると、すぐに後ろから怒鳴り声が張り上げられる。
「コラ!! タカノの旦那!! アンタまたそんなことしてんのかい!!」
道路際を散歩していたおばさんが、小走りで砂浜を駆け、男性のもとに駆け寄り、さらに怒鳴り始める。
「前もこーいうことしちゃいかんって、言ったばかりじゃねぇの!」
「…ほっといてくれ。」
「ほっとくわけにいかねえよぉ! こういうことされっと、イメージが悪くなるって、何回言わせりゃ気が済むんだぁ!」
…何やら口論しているようである。よく言えば仲裁のため、悪く言えば興味本位で、欣秀は二人に駆け寄る。随分と野次馬根性になったものである。
「ちょっとちょっと、どーしたんですか。」
「…あんた誰だ。」
男は、細いながらもギロリとした目つきで、欣秀を睨む。おじさん…と呼ぶかどうかといった歳なのに、白髪の混じった短髪と、しわの入った顔のおかげで、どこか歴戦の戦士のような威圧感をまとっている。
「いえ、私はしがない、旅人ですけど…。」
欣秀は思わずたじろいでしまったが、男がシャベルを握っていない方の手に持っている物を見て、すぐに疑念一色の顔になる。
(人形…?)
男は、ウサギをデフォルメした人形を抱えていた。それはボロボロに汚れ、ところどころ糸がほつれている。
「ホラ見い、観光客さんだってよ! アンタがそんなことしてたら、印象悪いでしょう!?」
おばさんに一喝された男は、意外にも素直に欣秀に頭を下げ、「すまなかった」と呟く。
「いえいえ。そんな、別になんとも思ってませんから! ちょっとパワフルな砂のお城づくりかなーなんて思っただけで…!」
「あらそうですか? ごめんなさいねぇ~。……とにかくタカノさん、もう、二度とこういうことしないでくださいね!」
男はなにも返事をしない。おばさんは「フン」と踵を返し、砂浜から去っていく。
「……悪かったな、助けてもらって。」
「えっいえいえ! 別にそんなつもりじゃ…。」
「いや。あのばあさんは、いつもグチグチグチグチと話が長い。アンタが居てくれたおかげで、助かったよ。」
実際、別にどちらの側につきたかった訳でもないのだが、結果的には男の都合が良い形に落ち着いたらしい。
欣秀はあらためて、男の姿を見る。鋭い目つきに似合う、そこそこ筋肉のついた体つきだった。中年に見えるが、背も欣秀より高い。かといって荒々しい出で立ちという訳ではなく、Tシャツにジーンズという、いたって普通の大人の服装であった。
それだけに、その両手に持ったものが気になる。
「ああ……わかるよ、これが、気になんだろ?」
「ああ、いえ!」
欣秀の視線に気づき、男はシャベルと人形を持ち上げる。
「これはまぁ…、つまらん理由だ。
旅行者のアンタは、なんでこんなとこにいるんだい。こんな何もねぇ港町に。」
たしかに何もない…と言われればそうかもしれないが、小規模ながらも商店街や市場を復活させつつあるのを欣秀は見てきたので、(そう卑下にならずとも)と苦笑いを浮かべる。何より、気になるものもある。
「何もない、なんてことはないですよ。ホラ、あの島、何なんですか? ちょっとこれから行ってみようと思ったんですけど…。」
「ああ…アラシマ様か。」
男は沖に浮かぶ島をぼうっと眺め始める。欣秀が「えぇっと…」と様子を伺おうとした時。
「よかったら、案内してやろうか。さっき助けてもらった礼だ。」
「えっ、いいんですか!」
正直なところ、薄汚れた人形を抱える成人男性なんて、危険人物である可能性が大である。欣秀も若干身構え気味だったのだが、男の身なりはキチリとしているし、会話も普通にできる。何より礼儀を重んじているような振る舞いが、欣秀の警戒心を解いていた。
高野と名乗るその男性と共に、海上に設けられた通路を渡る。100mあるかないかほどの通路を渡り切り、島の入口へ。そこには、朱塗りが眩しい大鳥居が建てられていた。
「…ここは荒島神社っていってな。昔チリ地震があった時にぶっこわされた、どっかの石碑をここに持って来て、弁天様と一緒にして創られた場所らしい。」
「外国の地震なのに、こっちにも影響あったんです?」
「海は繋がってるんだ。津波が来たんだよ。
そこら辺に、モアイ像。あるだろ。あれは、一緒に復興をしたチリとの交流で、贈られたもんなんだとよ。」
「へぇ~。」
鳥居の前で一礼してから、高野は島を上っていく石段へと進む。欣秀も一礼をしてから、あとを追う。急こう配の石段を上り切ると、道は唐突に土になる。てっきり神社らしく参道が整備されていると思った欣秀の額に、汗がにじみ始める。
「もう、そんな季節か…。」
道は島の表面をつづら折りに上るような急坂で、不整地は整備されるどころか段々と狭くなり、枝や葉が体に当たるなど獣道の様相を呈してくる。
高野はシャベルこそ置いてきたものの、片手には人形を抱えたままで、片腕しか使えない。にもかかわらず、その脚は止まることなく、樹を掴みながら器用にも道を上り続けていく。バックパックを背負っているとはいえ、息を切らし始めた欣秀は、そのスタミナに驚くばかりであった。
島のてっぺん近くまで上ると、唐突に石段が現れ始める。振り返って見ると、健在な頃は、ちょうどその石段の途切れた先が、大鳥居の方へとつながっていたのだろう…と思える位置取りとなっていた。
「…津波でな。この島もいろいろと壊されたんだ。さっきの鳥居も、最近になって再建されたばっかだ。」
その途切れた石段を上り切ると、傾斜は終わり平坦な道となる。とはいえやはり舗装されている訳ではなく、木々は好き放題に伸びて、足場はやや悪い。だがタブノキやスギといった木々のおかげで日光は遮られており、幾分か涼しい。周囲に浮かび上がる幾本もの木漏れ日の柱は、来た甲斐があったと思わせる、神々しさを醸し出している。
最奥部。島の頂点にある、深緑に囲まれた朱塗りの社に辿り着く。
「昔から、漁師に信仰されてきた神サマらしい。」
高野は二礼二拍手を始める。欣秀もそれにならって手を合わせ、頭を垂れる。
(旅が無事に続きますように…)
軽く願掛けをして目を開けた欣秀だったが、高野は未だ目を閉じて何事かを祈っていた。
10秒ほど経ち、やっと高野は目を開けると、一礼をして、「さて、帰るか」と足を運び始める。
(案内っていう案内は、なかったな…)
欣秀は心の中で苦笑いしつつ、その後を追った。
~~
社から離れ、先ほどの崩落した石段までたどり着くと、高野は急に足を止める。
「ここに来るのは…、あの日以来だな……。」
「…高野さん?」
高野は呆然と立ち尽くし、石段の上から志津川の港をじっと見つめ続ける。
(やっぱ変な人だったかな…)
欣秀が頭を掻き始めると、高野はボソリと口を開いた。
「……あの時、俺はここに居たんだ。」
「…? あの時―…」
一瞬何のことかと戸惑う欣秀だったが、それがいったい何を指すのか。すぐに察しがついた。
高野は、目をそらさないまま、言葉を紡ぎ始める。
「……俺はあの時、いつも通り漁に出てたんだ。妙に魚が獲れなくてな、昼過ぎまでねばってみたが、ダメだった。なんだか気が乗らんから、今日は帰ってメシでも食おうと、港に戻ってきたんだ。
あんときは確か幼稚園が休みで、家内も娘も家に居た。その顔を見て一息つこうと思ってな。そんな時だった。地震が起きたのは。」
高野の顔が、ピクリ、ピクリと引きつり始める。欣秀は、黙って耳を貸す。
「立っているのがやっとって揺れが収まった後、津波が来る。そう思った。家族を、助けに行かなきゃいけねぇ、と思った。だが俺はあろうことか海に一番ちけぇとこにいて、山の麓の家まで行くのには、時間がかかった。俺が行く前に、津波が来ちまう。
あいつらなら、きっとだいじょぶだ。俺はそう思った。このあたりのやつらはチリ地震があったから、津波の恐さをよく知ってる。きっと逃げてくれてると。だから、俺は俺の身を守ろうと思ったんだ。そんで、いちかバチか、この荒島に逃げ込んだ。
早く、早く。高波が来る前に…って、無我夢中で島を駆け上った。…恐ろしい時間だったさ。異様に辺りが静かでよ。いつもうるせぇウミネコも、鳴いていねぇみたいだった。
そんでここまで登ってきたあとすぐ、あの津波はきた。ザァザァって、いつも漁に出てる時しか聞こえねえ音が、陸で聞こえやがる。それが、妙に恐ろしかった。
あいつらは俺たちの町に一瞬で流れ込んで、全て飲み込んでいきやがった。世話んなった魚市場も、よく飲みに行った居酒屋も、娘と遊んだ公園も、俺の家も、全部、全部だ。
震えることもできねぇまま立ち尽くしてたら、いつの間にか波は引いてやがった。残っていたのは、ガレキと木屑ばかりでな。
俺は思ったよ、〝ここはどこだよ〟って。」
高野は依然として港から目を離さなかったが、その瞼は震え始めている。
「…それが落ち着いて―」
話を続けようとした高野だったが、急に膝の力が抜けたように、ヘタリと石段に座り込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
欣秀が駆け寄ろうとするが、それを遮るように高野は口を動かし続ける。
「それが落ち着いて、俺はガレキんなかを走って、避難所に行ったんだ。すごいもんだった。女子供の鳴き声がうるさくてな。サイレンだのなんだのって電子音が鳴りまくってて、頭がおかしくなりそうだった。
どうか、娘もここで泣いていてくれ。泣いていてくれていい、俺がすぐ抱き締めて、泣き止ませてやるから。…そう思って探したんだけどな。見つかんなかった。家内も。次の日も、その次の日も、その次の次も…。そんで一週間ぐらいの後、家内が見つかってな、それが動かなくてな…!」
「高野さん!」
高野はとっさに顔に手を当て、その表情を隠す。その肩は、ふるふると震えはじめている。
「もう、もういいです。止めてください。」
欣秀は思わずその肩を掴み、声を上げる。
「…あはは…すまんな、旅人さん…。」
手を離した高野の顔は、切ない苦笑いを浮かべていた。
「…わりぃな。俺にはもう、こんな話するダチもいなくてよ…。通りすがりの旅人にならいいやって、思っちまった…。」
人は時として、募っていたトラウマを吐き出すことで、その心を軽くする。だが欣秀が聞いていた話は、あまりにも壮絶すぎた。欣秀は話してくれた高野に対し、何かしら声をかけねば…と思ったが、何も言えない。
「すみません、私…。」
「いや、何も言わんでいい。聞いてくれただけでありがてぇよ。むしろ謝んなくちゃいけねぇのは、湿っぽい話をした俺の方だ。
案内なんて体のいいこと言って、あんたを利用しちまったんだな。」
申し訳なさげに頭を掻き、穏やかな顔となった高野は、抱えていたウサギの人形に視線を落とす。
「…娘はな、まだ見つかってねぇんだ。…わかるよ、もう死んでる。でもな、せめて体だけは見つけてやって、供養してやりたくてな…。娘がいつも大事に抱えてたこの人形を持ってたら、どこかで声をかけてくれるんじゃねえか――なんて、思っちまうのよ。」
どこかで眠っているかもしれない、娘を見つけたい。その一心で、高野はシャベルを持ち掘り続けているのだろう。今日の砂浜だけでなく、あらゆる場所を。それはあまりにも途方がなく―悲しく、永い時間であった。
「言われなくてもわかってるさ。頭が狂った奴にしか見えねぇってな。…実際、狂ってるのかもしれん。
でもな、今でも思っちまうのよ。あの時、無理にでも家に行ってりゃ…あいつらを助けに行ってりゃ、あいつらは今でも生きてたんじゃねぇかって。なんでその手を、掴みに行ってやれなかったんだろうって。
…もう、そんな後悔はしたくねぇ。精一杯、娘を探してやりたい。せめてあいつの顔をもう一回見てから、死にてぇのよ。」
微笑む高野の顔は、出逢った時の険しさが嘘のように柔らかかったが。その瞳には、止めがたい硬い決意が宿っていた。
~~
「…時に旅人さん、あんた今晩の宿は決まってんのかい。」
港への海上通路を歩くころには、高野の調子は戻っていた。それどころか欣秀を信頼し始めたのか、往時より柔和な態度となっている。
「いえ、私は宿じゃなくて、野宿で過ごしてるんで…。」
「ほー、ワイルドだねぇ。だが今日はせっかくの縁だ、ウチに泊ってきな。」
「……えっ! いいんですか!?」
日本一周の途中で、親切な人に助けてもらいました! …なんてエピソードはゴロゴロと転がっているものだが、欣秀はそんなことが自分にも起こるとは、思っていなかった。
行くところ行くところで浴びせられるのは、その奇異な恰好に対する遠回しの視線のみ。他人の厚意とやらを受け取れるのは、万に一度ぐらいであると考えていた。
「いいともよ。情けねぇ姿見しちまった詫びだ。今日はゆっくり、休みな。」
「ありがとうございます!!」
欣秀は90度超えの角度で、深々と頭を下げる。
「…さて、するとお客様に、メシをもてなさねぇとな。ちと早い晩飯にはなっちまうが、ちょいと付き合ってくれるかい? 旅人さん。」
高野は砂浜公園に停めておいた軽自動車から、釣り道具を取り出し始める。投げ竿に、水汲みバッカン、フィッシュグリップにクーラーボックスと、小ぶりのツールケース。
欣秀はクーラーボックスと水汲みバッカンを持たせられ、高野に促されて付近の防波堤まで歩いてくる。
「漁師はもう止めたんだが、やっぱ釣りは止められなくてな。ま、息抜きってやつよ。」
高野はロープの付いた水汲みバッカンを海に落とし、海水を入れて引き揚げる。それを脇に置いた後、投げ竿の道糸に重りと針を取り付け、天秤仕掛けを施した。
次にツールボックスを開け、エサを取り出す。
「うええ…気持ち悪い。」
ウネウネとのたうち回る虫―イソメを、針に引っ掛ける。
「なんでぇ、虫苦手なのかい。そんなんで野宿できんのかい。」
「野宿の時は、そういうもんだって慣れているので―…。」
ハハと笑った高野は、慣れた手つきでキャステイングを始める。数メートル先の水面に、ポチャリと波紋が広がる。
「…釣れますかねぇ。」
「フ。まぁ、見てな。」
高野は上下へ小刻みに竿を動かしながら、探るようにリールを巻く。欣秀は釣りをしたことがないが、その動きは習熟者のそれであるとわかるほど精緻な動きであった。
高野は笑みを浮かべるでも眉をひそめるでもなく、平静とした顔で手元を動かす。さながら海中の針がどのように動いているかが、手に取るようにわかる…といった様子である。着底した重りを、海底を叩くようにして動かしながら、巻き取る。
数十秒経った後。その動かなかった眉が、不意にピクリと動く。瞬間、竿が大きくしなり始めた。すぐさま高野はリールを巻き始め、ギュイギュイという音が鳴り始める。
「おお、やったやった!」
飛び跳ねて喜ぶ欣秀を横目に、高野は未だ冷静なまま道糸の動きを探り、時に動きを止め、時に激しくリールを動かし、ゆっくりと獲物を手繰り寄せる。
数分間の格闘の後、茶金に輝く30㎝ほどの魚が海から飛び出した。
「…よし。」
「おぉ~一発で!」
竿を立て、糸の先で暴れる魚を高野は手に取る。
「…ツイてるな、アイナメだ。旅人、あとで塩焼きにして、食わしてやるよ。」
「か、かっっけぇ~~~! ありがとうございます!」
高野はニッと笑い、針をアイナメの口から外そうとする…が、手間取った。
「…っと。けっこう飲み込んじまってる。」
高野はその太い指をアイナメの喉奥に突っ込み、針を外す。アイナメはバタバタと激しく暴れ、針と共に少しばかりのの血を吐き出した。
「ううっ…。」
欣秀は思わず、目をそらす。
「なんだ旅人、こういうのも苦手か。」
「うっ…はい。どうも生き物が苦しそうにしてるのは…。そうやって殺したのを食べて生きてるんだっていう理屈はわかるんですけどね…。どうも、いけないことをしているように感じちゃって。」
欣秀は幼少時から、虫も殺せないような性格であった。その程度たるや、食卓に出されたカニの足を折ることにさえ、抵抗を感じるほどである。
「いけないこと、か。まぁ、そういう考えもあるだろうな。だが俺からしてみりゃ、正しいことだとか正義だとか、そんなもんはこの世の中にねぇよ。
あるのは、互いに譲れねぇ信念だけ。いざ土壇場になったら、その気持ちの強え方が勝つ。勝った方が世間様の言う、正しいってことになる。それだけのことさ。」
また〝甘い〟と言われたような気がして。欣秀はバツが悪そうに苦笑した。
その後、何投かして今度はクロソイを釣り上げると、「そんなに食えんだろ」と後片付けをして、二人はそれぞれ車とバイクに乗り、高野の住むアパートへと移動する。
男の一人暮らし…ということで欣秀は多少身構えていたが、高野の1Kは清々しいほど片付いていた。というより、物が少なかった。日用品のほか、目立つものは本が何冊か詰まった棚と、いくつかの観葉植物と、釣り道具のみ。ゴミ袋などは転がっていないその様子から、高野は心を病んでこそいるものの、生真面目な性格であることが伺える。
(なぜかわかんないけど、無骨な人ほど部屋を片付けるんだよな~)
「すぐに用意すっから、好きにしててくれ。」
言われ、欣秀は座卓そばの座布団に腰を落とす。初めての体験にはじめこそ落ち着きを見せない欣秀だったが、3分も経つと〝じゃあ遠慮なく〟、と革ケースから練習刀を取り出し、専用のクロスで刀身に付いた指紋や汚れを拭き取り始める。図太い旅人だった。
本差・脇差ともにひととおり汚れを落とし、拵えにガタがきていないか、刀身が歪んでいないかを確認していると、高野がキッチンから戻ってくる。
「できたぞー―って、おお。」
むき出しの刀身に少々驚きつつも、高野は先ほど釣り上げた魚の塩焼きをテーブルの上に置く。
「そういや、刀の修行をしてるとか言ってたな。」
「はい。あ、安心してください! 斬れないんで…。」
「ふ、別に襲われるたぁ思ってねえよ。ただ今時分、珍しいヤツだと思ってな。」
高野はそれから白飯と缶ビールを二人分持って来て、二人は手を合わせる。
「「いただきます」」
アイナメとクロソイの塩焼きは、簡素な料理ながらも絶品であった。特にアイナメの皮は、欣秀が今まで食べた、どんな魚とも異なる旨味を噛むたびに滲ませ、食欲を夢中にさせる。
「…しかし、武術を学んでいるヤツが、釣られた魚も見られない…か。言っちゃ悪いが、お笑い草だねぇ。」
「あ~~! 笑いましたね! 高野さんも、俺が甘いって笑うんだ~! もーひどいなぁ~~も~。」
欣秀は元々酒に強くないのに加え、旅に出てからというもの一滴たりともアルコールを摂取していなかったため、数分で挙動がおかしくなり始めている。
「わかります、わかりますよ~。どーせわたしゃ、誰だってやっつけられない、甘ったれですよ~! だって! しょうがないじゃないですか~! なんか…、なんかを殴ったりするの、気持ち悪いんですもん~~!」
欣秀は頭を右に左にと振りながら、だらしのない口調で愚痴を垂れる。高野もまたそんな様子を、ハハハと声を上げて笑いながら見る。
「聞いてくださいよォ~! ゴミ処理のアルバイトのときだってね!〝お前は力が弱いなぁ〟…ですって! そ~んなことないんですよぉ!? ちょっといつもは気が引けてるだけで、その気になれば、力は出せるんです! なーんのために、あんなバカでかいバイク乗って、重いバックパックしょってると思ってるんですかぁ~!」
「ああ、ああ。わかるよ。あんなデケェバイク動かすの、難儀だろうなぁ。」
「ありがとうございます! ……うぅ。でも、わかりますよ。言ってるだけじゃダメなんですよね。力があろうがなかろうが、使わないと意味ないんですよね……。」
泥酔した欣秀の眼には、あろうことか涙まで浮かび上がっている。
「…まァ、いいんじゃねぇか。別に、いざって時に自分を守れりゃいーんだろ、武術ってのは。余計な殺生をせず。無駄な恨みを買わずっていうのは、立派なもんじゃねぇか。」
「うう…高野さァん…! ありがとうございまずぅう…! 高野さんはカッコいい男でいいですよねぇ! 体力もあるし、釣りも上手いし、人を励ますこともできるしぃ…! あ~私もカッコよくなりたいな~ぁ!」
「…カッコいい…か。」
「俺も釣り、始めてみましょっかね~! 最近流行ってるらしーじゃないですか! アウトドアチェアとかパラソルとか置いちゃったりして、オッシャレ~に釣りするの! そんで埠頭で焼肉とかするんでしょ? 肌とか焼くんでしょ?」
「おい、俺はそんなモンじゃねーからな、ほんとに。」
「そいでそいで、なぜか露出度の高いギャルとかもいつの間にか寄ってくんでしょー? あ”~、いいですねぇ! 釣り人は! 武術家なんて見てくださいよ! 汗臭くなるばっかで、電車じゃ白い目で見られて! あーあ! なんかカッコよさそうだと思って始めたのはいいけど――」
「おい、おい。やめとけ。そろそろ、いろんな人から怒られるかもしれんからな?」
しわくちゃな顔で垂れ流す欣秀のグチ、ひいては鳴き声は暫く続いたが、やがて1時間も経つ頃には、寝息へと変わった。
~~
(あれ…いつの間に寝ちゃってたんだろ)
灯りの落とされた部屋で、欣秀は虚ろに目を覚ます。
「っ!」
体を起こそうとしたものの、酒の強い頭痛に苛まれ、それは叶わなかった。
グタッと身体を伸ばしていると、部屋の隅から物音が聞こえる。
(高野さん…起きてるのか?)
何故か、言葉が聞こえるので。欣秀は、静かに耳をそばだててみる。
「…ああ、そうだな…。
久々に、まともに人と話した気がするよ。
酒も、久々にな…。
サヤカも、生きてたら。そのうち、一緒に呑めたりしたんだろうか。
………ああ。
会いてえよ。
そっちにいきてえさ…。」
「………。」
―翌日―
「…すみません。後片付けも手伝えず…。」
「ん? いいさ、いいさ。客さんはラクにしててくれ。面白いもんも見れたしな。」
「面白いもん? …すみません、アイナメが美味しかったことぐらいしか、憶えてなくて…。」
10時と、いつもより大幅に遅れて起床した欣秀は、シャワーを貸して頂いて酒の匂いを落とし、歯磨きなどを済ませ身支度を整える。
「旅人さんよ、もうこんな時間だ。せっかくだからまた、港で昼飯を食ってから出発したらどうだい。」
「いいんですか? ありがとうございます!」
予定のない旅である。欣秀に断る理由はなかった。
「なに、またすぐに釣り上げてやるさ。」
竿と人形、アウトドアコンロを持った高野の軽自動車に続き、二人は昨日の釣り場を訪れる。
「今日はサビキでやってみるか…。」
高野はまた慣れた手つきで、釣り竿に仕掛けを施し始める。欣秀も作業を手伝い、水汲みバッカンに海水を汲む。
道糸にコマセ袋と重りが付けられたあたりで、二人にとある人影が近づく。
「高野さん。」
声の主は、杖をついた壮年の女性であった。その横には、昨日高野が口論をしていたおばさんの姿もある。
(ああ…またなんか面倒なことになるんだろうな)
欣秀は委縮しつつ、その様子を見守る。
「…会長さんか。おはようございます。」
高野もその厄介毎を察してはいるものの、竿を置いてその老人に体を向ける。どうやらお偉いヒトのようである。
会長と呼ばれた老人は、「おはよう」と返しつつ高野の目をまっすぐに見据える。足腰こそ弱ってはいるが、その眼差しは高野と同様鋭いものだ。
「なぁおめ、町会でも話上がってるんだが、まだ娘さん探してるのがい?」
「…ええ。」
「難儀なごどだなぁ。」
娘さんの話が飛び出て戦慄する欣秀だったが、高野の態度は平静としたものだった。
「…構わんでくれ。」
「悪いどもな、ほいな訳にはいがねぁーんだ。前も言っだげど、志津川は今、一生懸命復興してる。店もだぐさん作って、だぐさんのお客さんを呼ぶようみんな頑張ってんだ。ほいな時にあいな不気味なごどされるど、印象悪ぐなるんだっちゃ」
「…愛娘を探すのは、不気味なことかい。」
「……言いだぐはねぁー、不気味だな。気持ぢはわがる。んでも、そろそろ高野さん、前さ進まねぁーがい。もう、あの日がらずっと、おめ進んでねぁーでねぇが。」
「そのとおりだ。あの日からずっと、俺は進みたくねぇんだ、娘を見つけるまでは。あんたらの頑張りはわかるが、これは俺の問題だ。放っといてくれ。」
両者の眉間に、皴が寄り始める。
「おめのだめ思っても言ってるんだっちゃ。志津川イチの漁上手ど言われだ、おめはどごさ行っちまったんだい。娘さんもぎっと、落ぢぶれだおめの姿なんか見だぐねぁーよ。」
「…あんたに娘の気持ちがわかるっていうのか。わかるわけはねぇ。あの日のことを忘れてヘラヘラ笑ってるあんたらにゃ、わかるわけはねぇ!」
「馬鹿言うな! おら達だってな、みんな悲しい目に遭ってるんだ。忘れだ奴なんか一人もいねぁー。それでも頑張ってるのに、おめって人は―!」
「これ以上の話はムダだ。行ってくれ。俺が気に食わねぇんだったら、、力づくでもなんでもつまみだせばいいだろう。俺を気遣う奴なんざ、もういねぇんだから。」
「おめは…!」
老人の顔が歪むと、その手に持っていた杖が高野の頬へと振るわれる。瞬間、乾いた音が響く。
「ちょっと!」
「手ぇ出すな!」
老人を抑えようとする欣秀だったが、高野がそれを一喝する。その目で、「あんたには関係のないことだ」と訴えている。
「力づぐでなんとがでぎるんだら、そうしてるさ!!」
老人はさらに杖で高野の腕をはたく。その衝撃で、高野が握っていた人形が地面に落ちる。
それに気付いた老人は、高野が拾い上げる間髪も入れずに人形を奪い取り―
「こいなもんいづまでもたがいでっから、ダメなんだぁ!!」
老人は人形を、海へと放り投げた。
防波堤から離れた海に、ポチャリと音を立てて人形が浮かぶ。殴られても平静だった高野の目が、大きく開かれた。
欣秀も想定外な老人の行為に、一瞬何の反応もできなかったが、すぐさま海に飛び込もうとする。しかしそれを、高野の腕がさえぎった。
「やめろ!」
「でも―!」
欣秀の目の前で、人形はみるみるうちに海水を吸い、その身を海底へと沈めていく。
「会長、もう…。」
さすがにいけないことをしたと思ったのか、老人のそばにいたおばさんが会長を促す。老人は苦々しい顔をするばかりで、何も言わずその場を去ってしまった。
へたりと地面に手を付き、人形が沈んでいった海面を眺めていた欣秀は、次第に歯を食いしばり始める。
「高野さん……! ごめんなさいっ……!」
「……なんでお前が謝んだ。」
「私が間に入ってれば―!」
高野が口許に血を滲ませることもなかったし、人形が投げられることもなかった。
「いい。お前には関係ないことだ。…お前は優しい。こんなところでケンカしたり、恨みを買う必要なんかねぇんだよ。」
〝あの老人の言い分もわかる気がする〟。そう思案してしまった自分の心の迷いが、恩人の大切な思い出を海底に沈めてしまった。
下手なことをして、両者に睨まれたくない。なんて小心な考えが、自らの足を止めてしまった。
そう、自分ながらに思い知った欣秀は、どうしようもない後悔の念に苛まれる。なぜ高野の制止を振り切り、間に割って入れなかったのか。なぜ自分が杖ではたかれるぐらい、反論をして、老人の恨みを買ってやれなかったのか。
「…いいさ。頭のどっかでは、このままじゃいけねぇと思ってたんだ。」
高野の声は、震えもせずはっきりと耳に届く。もしかしたら、高野はそこまで気にしていないのかもしれない。そう、幾ばくかの安堵を感じて、欣秀は顔を上げた―が。
高野の顔には、何もなかった。楽しさなんてものはもちろん、悲しみも、悔しさも、何もない。口は横一文字に紡がれ、瞳は1ミリたりとも動かない。まるで人体模型のような顔が、そこにはあった。
〝せめてあいつの顔をもう一回見てから、死にてぇのよ―〟
そんな高野の言葉が、欣秀の脳裏に反芻する。欣秀はもう、居ても経ってもいられなくなり、立ち上がって高野の両肩を強く掴んだ。
「高野さんっっ!!」
高野は何も浮かべない顔のまま、瞳だけを動かし欣秀を見る。それを見た欣秀の瞳は、たちまち潤みだす。
「ダメですからね!? 思わないでくださいね!?[r] 価値がないとか、そんな…!」
何を話せばいいのか、わからない。
だけど、言葉を紡がなくてはいけない。
「あのっ…! 私…! 私はっ…! あなたに助けられました!
釣りなんて初めて近くで見たし、アイナメは美味しかったし、お酒もいただいたし…!」
相応しい言葉かどうかなんて、関係ない。
今はただ、なんでもいい。声をかけてあげたい。
今の欣秀には、それしかできなかった。
「えっと…だから! 高野さんは、私の恩人です!!
娘さん想いで、カッコいい…! 私は…! 何もできませんけど!
…どうしようもなく、何もできませんけど…!
でも! 私! もう、高野さんの友達ですから!!」
悔しさから、欣秀はしゃくり上げてしまう。
こっちが泣いてどうすんだ。と、欣秀は食いしばる。
「友達ですからね!? 友達として、その…! あなたに生きていてほしいですから!!
また、会いたいなって思いますから!
だからね!? ぜっっっっったいに、死んでもいいとか、思わないでくださいね!!?」
そこまで言い切ると、欣秀は崩れ落ち、膝をついて項垂れる。
「そんなこと…思わないでくださいよ……―」
高野は、何も悪くない。きっとあの老人たちも、悪くない。悪いのは、あの津波なのだ。恨みようのない、天災なのだ。なのに、どうしてこんなにも、人が人を悲しませなくてはいけないのか。欣秀はどうしようもなくやるせなくなり、涙を流す。
「…ふふ。馬鹿、旅人。」
その頭上に、笑い声がかけられる。先ほどまで聞いていた味気ない声とは違う、暖かみを帯びた、柔らかい声。高野は腰を落とし、欣秀の肩に手を置く。
「ありがとうな。安心しな、死にゃしねぇよ。」
目を腫らし顔を上げる欣秀に、高野は気恥ずかしいような笑みを向ける。
「まったく情けなく泣きやがって。そんなんじゃ、カッコいい男になんかいつまで経ってもなれねぇぞ?」
「…だってぇ……!」
「…まぁ、でもダチか…。」
高野は立ち上がると、置かれていた竿を手に取り、仕掛けを続ける。
「ダチができたんじゃあ、おいそれとは死ねねぇな。またそいつと、酒を呑む楽しみができちまったからなぁ。」
目元を拭った欣秀は、あらためて高野の姿を見上げてみる。そこには、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべる、海の男の姿があった。その顔は柔和ながらも、目つきは鋭い。
「旅人。日本一周し終わったら、またここに来な。そんときゃ、美味い沖の魚を食わせてやる。」
「…え、じゃあ漁師、またやるんですか……!?」
「さぁな。でも―。」
仕掛けの終えた竿を、高野はまるで刀のように両手で構え、その穂先を海へと向ける。
「娘以来だ。…カッコいいなんて、言われたのはな。
…見返してやるさ。あのバアさんどもをな。そんで、家内と娘に見えるぐらいの、大漁旗をまた掲げてやる。」
高野は竿を振りかぶり、水平線へと一直線に穂先を振り下ろす。シュルルと音を上げながら、遠く、遠く、空の向こうへと、重りは滑翔していく。それが反射する鈍い光に、欣秀は目を細める。
「…それまでは、絶対に死んでやらんさ。だからダチよ。お前も、死なずに進み続けろよ。」
その日、昼前の志津川港には、思わず口が緩む、焼き魚の香りが漂った。
それを鼻にした観光客は皆、港の食堂へと足を運んだという。
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