第三話 抜刀
茨城編
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
「そろそろ…いい頃合いかねぇ。」
田畑と、そこで働く農家の家しか見えない千葉県九十九里町某所。その一角にある宮島池は、今まさに夕陽を映し出し、赤々と染まろうとしているところだった。
公園となっているそのほとりをうろついていた欣秀は、隅にある草地にバックパックを置き、その中からスタッフサックを引きずり出す。
「傾斜は…特になしかな。」
しゃがみこんで地面を見つめ、前後左右の傾斜を把握すると、欣秀はスタッフサックに入っていたナイロンとポリエステルの大きな布を、バサリとそこへ広げる。
その布の四隅へペグを突き刺し、足でグイグイと押し込んで布を固定。続いて分割されたポールをショックコードで組み立て、布の中央にあるスリーブに通し、角にあるグロメットへ差し込んだ。
対角線となる方へもう一本ポールを差し込み、残るそれぞれのグロメットへと差し込めば、ポールの靭力で布は立ち上がり、ドーム状の空間が生まれる。
偏った形に曲がるポールを引っ張り、テントの形を整え。さらに布のポールグリップをポールに引っ掛ければ、ドームはよりピンと張られた形となり、先ほどまで何もなかった草地に、人が寝られるテントが出来上がった。
「やっぱ、スリーブ式と吊り下げ式の合いの子は、組み立てやすいなぁ。」
アメリカの新進ブランドで購入したコンパクトテントは、アウトドアに精通していない欣秀でも、ものの数分で設営できる逸品であった。
「高かったからな…。でもやっぱコレにしてよかったわ。」
決して旅の予算は潤沢ではなかったが。貧乏であればなおさら、長く使う物には金をかけるべきである。
下手に安い物に手を出すと、すぐ壊れてまた買い直して…という事態に陥ってしまいがちで、かえって高くつくからだ。
インナーテントの中にバックパックや長羽織、帯と、それに引っ提げられたホルスターバッグ、ロケットⅢのラゲッジスペースに載せていたキャンプバッグなどを入れると、テントの上にフライシートを重ね、ひとまず、野宿の準備は整う。
一息ついて辺りを見回すと、公園はもう斜陽のおかげで薄赤く染まっている。散歩している人は一人、二人ぐらいで、池を泳ぐカモの、「グァグァ」という声だけがこだましていた。
「…あの散歩してる爺さんらは…帰る家があるんだよな…。」
池のほとりに腰を下ろすと、どこかのスピーカーから『夕焼け小焼け』が流れ始める。田舎でよく聞ける、時間を知らせるための町内放送だ。
さすがにまだ赤とんぼが見られる季節ではないが、その安らぐようで、切ない、寂しくなるような旋律は、欣秀の胸をグッと締め付ける。
「……この感じ、慣れる日は来るのかなぁ…。」
公園や道の駅でテントを張るのは、グレーな行為である。かといって今どきのキャンプ場はしっかりお金をとっていくのがほとんどなので、決して裕福な身ではない欣秀は、こうして人気のなくなった草地にテントを張らねば、夜を越せなかった。
それは、人気のない場所に毎夜いなくてはいけないということで、風の音や鳥に、虫の声しか聞こえない暗闇は、耐え難い孤独感を味わわせるのに十分すぎた。
神奈川で一人暮らしをしていたときから、恋人はもちろん飲みに行く友人もいない身。〝孤独〟なんて慣れたものだと思っていた欣秀だったが、やはりアパートの一室で車や雑踏を聞きながら寝る夜と、布一枚の屋根しかない野外の夜は、桁違いである。
夜の帳が下りると、欣秀はテントに潜り込んで、キャンプバッグから調理道具を取り出す。ガスボンベを繋いだストーブを前室に置き、その上に水を入れた鍋型クッカーを置いて、ストーブを点火させる。薄暗がりの中に、青い炎が揺らめき始める。
〝キャンプ〟というと大自然に囲まれた中、チェアを置いて焚火を熾して酒をあおり、野外メシに舌鼓を打つ…というイメージを彷彿する人もいるかもしれないが、本来のキャンプは至極地味なものである。
欣秀のように毎晩キャンプをする者にとっては、チェアやテーブルを展開・撤去するのは手間でしかなく、そもそもそれでくつろぐ暇があるのなら、就寝時間にあてたほうがマシだからだ。
灰や薪、臭いの処理が必要な焚火なんて、面倒な行為はもってのほか。なんなら、ランタンだっていらなかった。月夜でなくても案外夜目というのは利くし、どうしても明かりが必要な作業がしたい場合は、タブレットの画面を光らせておけば十分なのである。
15分熱湯に浸けたレトルトご飯を引き揚げ、その上にパックの納豆を載せる、加熱するのに使った熱湯には、味噌汁の素がぶち込まれる。水を含め、どれもコンビニで買える材料だ。
「…いただきます。」
マイ箸を取り出すと、欣秀はそれらを胃に流し込み始める。時間にして5分で完食できる、腹八分目…にすら届かないような量だが、ひとまず活動するには十分な量。包丁を握ったことがない欣秀にとって、〝キャンプ飯〟なんていうのは縁のないものだった。
「…寝よう。」
2ℓペットボトルに残った水で食器洗いと歯磨きを済ませ、シュラフを広げてその中に潜り込む。時刻は20時半。モバイルバッテリーに貯めてある電力も限られているから、さっさと寝てしまうに越したことはない。
最低限生きるための食事と、最低限死なない寝床。それさえあれば、十分だ。そう、頭ではわかっているつもりの欣秀だったが、胸中に募る想いは、寂しさ侘しさ一辺倒だ。
アパートに居た頃は、こんな時間に横になっていることなんてあっただろうか。普段だったら、ネットサーフィンでもしながら、テレビゲームのコントローラーを弄っている時間ではないだろうか。暖房が効いた、雨風を凌げる部屋に居られたこと。冷蔵庫を覗けば、すぐ味のついた飲み物が見つけられたこと。それらすべてが、どれだけ幸せだったか。噛みしめずにはいられない。
もっとも、そんなことを今になって痛感したからといって、何がどうなるわけでもない。早く意識が途切れることを祈り寝返りを打ったとき。枕元に置いてあった、携帯電話が鳴動する。
二つ折りの携帯を開き、欣秀は発信者を確認する。そこには…別段嬉しいわけでもないが、この孤独感を紛らわすには、ちょうどいい名前が映し出されていた。
「もしもし。」
『おー! よっちゃーん! あははつながった~! 元気してたー?』
スピーカーにピタリと当てた耳が痛むほどの、弾むような高い声がテント内に響きわたる。
「元気してますよ。なんとか。」
『ほんと~? ちゃんと食べてるー? 野菜摂ってるー?』
「毎朝、野菜ジュース飲んでますね。」
『えージュースぅ~? 本物食べないとダメだよー! 多分ー!』
「24時間分の野菜って書いてあるから、多分だいじょぶだよ。」
電話を寄越してくれたのは、欣秀の姉である磐城絵俐。明るく、どこか気の抜けるような笑い声が、向こうから届いてくる。
『あはははは! じゃだいじょぶかもね! ねね、今どこにいるのー?』
「今…は、千葉県だね。千葉県の九十九里っていうところ。」
『あー聞いたことあるかも! っていうかまだ千葉なんだぁ(笑)。まだ全然近いね!』
「うるさいなー。今年いっぱいかけるつもりなんだから。のんびりいくよ、のんびり。」
1年もこんな想いで旅を続けられるかどうかは、今の欣秀にはわからなかったが。
『1年かぁ。長いねぇ…。スゴいねぇ。お金、大丈夫なの? あの、巻き上げた賠償金ってやつで足りるの?』
「失礼な言い方だなぁ。和解金って言ってよね。…んー、多分足りるんじゃないかなぁ。」
『もしもの時は、遠慮なく言ってよー? 少しは力になるからさー。』
「いいって。姉さんに迷惑かけられない。」
絵俐は、美術大学卒業後、イラストレーターとしてフリーで生計を立てている"できた"姉である。どちらかといえば固くなりがちな欣秀に対し、彼女は緊張とは無縁といった性格。物事をなんやかんやで円滑に進められる人だから、欣秀にとっては尊敬しつつも、意地を張りたくなる相手であった。
『そっか。強くなったんだねぇ~~、よっちゃんも。エラいエラい。』
「それほどでも。」
つい先ほどまで寂しいだのなんだのと悶えていた欣秀には、耳が痛い言葉だった。
『お父さんからは、なんか言われた?』
「…いや、何も。」
『…そっか。お母さんのことは、ひとまず気にしないでね?』
「そういうわけにはいかないって。」
『ダメダメ、まだ不慣れな旅なんでしょ? 集中しなさい集中! 他人の心配してる場合じゃないんだから。』
「…うん、ありがと。」
『ふふ。今は、もう寝てたの?』
「うん。テントん中。夜になったら、やることなんもないからね。」
『ふーん? ほんとかなー? なんか全然眠そうじゃないんだけど…。年頃の男の子が毎晩やってそうなことをしてたんじゃ』
「野宿してる中でそんなんできるか! 今寝ようと思ってたの! たった今!」
『あははは! ごめんごめん。じゃ、邪魔しちゃったね。…切るね?』
「…うん。」
『………寂しい?』
「っ。」
冗談のつもりで尋ねてきたのかもしれないが。今、まさに直面している感情を表した一言に、不意に息を呑む。その様子を電話越しに慮ったのか、絵俐は黙って返答を待っている。
「…少し。」
『……あはははは! なーんだよホームシックかよぉ! カッコわりーんだ!』
「な! 少しだって! すーこーし!」
『いいっていいって! お~よしよし! 今晩は姉様のウィスパーボイスで、寝落ちを見届けてあげるからね~!』
「あんたの声は一番ウィスパーから程遠いよ! もう切るよ! 寝るから!」
『ゴメンゴメン! あはは。
ねえ、よっちゃん。』
「なに!」
『…寂しくなったら、いつでも電話かけておいで? 姉ちゃん、いつでも時間作ってあげっから。』
あくまで変わらない、気の抜けるような声音。だが先ほどまでの能天気さはなく、心をなだめるような、穏やかな響きである。欣秀の意表を突いた、囁き声だった。
「………うん。」
『よろしい。じゃ、おやすみね。いい夢見なよ~。』
「おやすみー。」
言い終わると間もなく、スピーカーからはツー、ツーという電子音だけが聞こえてくる。
(ウィスパーボイス、できんじゃないか……。)
してやられたという、ちょっぴり悔しい心持ちで寝返りを打つ欣秀の表情は、少しばかり緩んでいる。
ほどなくして、テントの中には静かな寝息が反復し始めた。
第三話
抜刀
〝「師匠、師匠! 私が今学んでいる拳法って、両手を大きく使いますよね! だったら、 この剣豪のスタイル、取り入れられるんじゃないかな~~って思うんですけど…。」
「…んー、両方同じサイズの細剣なんかなら、いいんだろうが…あと苗刀とか…。そいつのはちょいと、厳しいんじゃないか?」
「そうですかぁ……。」
「あ~いや、別に真っ向から否定するワケじゃあねぇよ。武術は試行し発展させていくもの。お前がやってみてーんなら、その道を切り拓いてみりゃぁいいじゃねぇか。」
「そんな、流派を作るみたいなこと。私には無理ですよ。」
「んなもんはやってみないとわからんぞ? ま、それで戦って死んだら、〝ホレ見ろ〟って笑ってやっけどな。」
「ひっど~~………。」〟
午前6時、欣秀は起床する。およそ9時間も寝れば体は自然と目覚めてしまうもので、何より天幕に差し込む陽光が瞼をくすぐるのが、ここ最近の睡眠時間を徹底的にコントロールしてくれている。
前室のスライダーを開け、今度は朝日で輝く池を欣秀は目の当たりにする。
(久々に、姉ちゃんと話したからか…懐かしい夢を見たな)
現実の世界で顔見知りにまた会えるのは、一体どのぐらい先なのだろうか。そんなため息をつきながら、今日もシュラフから這い出て。
「すう………はぁ…。」
一度深呼吸をすると、テントに戻って着込んでいたインナーを脱ぎ、シュラフを圧縮させて撤収の準備を始める。
世界が明るくなる、朝。暗闇に震える欣秀にとっては、当たり前にやってくる朝すら、希望に感じられた。いつもだったら通勤電車が動き出す憂鬱な時間だが、今となっては活動を開始できる、興奮の時間である。
自然と手も早まり、テントの中の荷物はあっという間に全て取り出され、フロアの結露も拭き取られると、あれよあれよという間に、テントはまた両手に乗る袋に収まる。
「行くぞ、相棒。」
武術の朝練は、体力維持と筋肉再生の関係上、二日に一度と決めている。今日はお休みの日。荷物をロケットⅢに載せると、欣秀はすぐさまエンジンをかけた。
よく晴れた朝はいつだって気持ちいいものだが、今日の欣秀の気分はより高揚している。公園から東へ10分も走れば見えてくる、あるものがその理由だ。
県道沿いに進み、景色は田畑一色から、やがて民家や飲食店の立ち並ぶ小規模な市街地へと変わっていく。それらの飲食店は、進むにつれ魚介類系ののぼりを上げている比率が多くなる。向かい風が強くなってゆく道を突き進むと、やがて高い松が群生する場所にぶち当たり。それに沿って走ると、広めの駐車場が見えてきて。
「きっとこの、堤防の先が…。」
砂が散らばっている駐車場にロケットⅢを停めた欣秀は、ヘルメットを外すとバイクにロックすらせず、高く積まれた砂の堤防を真っ直ぐ駆け上がる。バランスを崩し、手を付きそうになりながらもそれを上り切ると、その口を情けなく緩ませ、叫ぶのだった。
「海だーーーーーー!!!」
~・~・~
九十九里からひたすら北上すると、見えてくるのは犬吠埼。離島やどこかの山頂を除けば、日本で最も早く日の出を拝める、関東最東端に位置する岬である。イギリス人によって設計された真っ白な灯台の裏手に回ってみれば、島ひとつ見えない太平洋の水平線が眼前に広がる。
置かれていた碑によると、ここはかつて源 義経が頼朝から逃れ奥州へ向かう際、愛犬を置いて行ってしまった場所なのだという。愛犬は主人を想い、ここで七日七晩吠え続けたそうだ―故に、犬吠埼。
「…悲しすぎるワオーーーーン!!」
周りに人がいないのをいいことに、犬よろしく太平洋へと吠えてみた欣秀。〝旅の恥は掻き捨て〟というものも、だいぶわきまえてきた。逸話は悲しいが、本日は清々しい青天。その叫びは、遠く大陸まで届いた…気もする。
~~
犬吠埼から海岸線を周り、銚子の漁港に差し掛かれば。河口を真一文字に横切る、赤い橋桁が見えてくる。
「この銚子大橋を渡れば…。」
橋の手前でロケットⅢを停め、欣秀は記念撮影を始める。土地の境界なんてものは、所詮人間が勝手に決めたものだが。やはり県境を越える瞬間というものは、心が躍る。
サイドスタンドを払い、信号明けと共に橋梁へと走り込む。中間あたりで、頭上を県の移り変わりを示す標識が通り過ぎる。
「茨城だーーーー!!!」
大橋から、そのまま国道124号を快走。片側二車線の幅広道路は、絶景が望めるアップダウンがあるわけでもなく、巨大な市街地を抜ける訳でもない、のぺっとした道である。
なので、九十九里からの勢いのまま欣秀はスロットルを開け続け、ロケットⅢはストレスなくその足を回し続ける。開けた道であるがゆえに寒風が体にこたえるのと、路面に凸凹が多いのだけは苦心モノであったが―。概ね、欣秀自身も快活な乗車時間を過ごす。
本日もひたちなかあたりまで、一気に距離を稼いでしまおうか…と考えていた時。標識に示されたある名前が、欣秀の目を引いた。
「この先、鹿島神宮…かぁ。…たしか、日本三大神宮の一つだったけ?」
これから東北へ向かうにあたり、由緒ある場で旅の祈願を済ませておくのも悪くはないか。ちょうど走り疲れも感じ始めていたところで、国道から参道入り口方面へと、ハンドルが切られた。
~~
土産物などが揃う商店街を抜けた先、木製の大鳥居脇の駐車場にロケットⅢを停め、欣秀は身支度を整える。欣秀自身は神社仏閣に疎いのだが、そんな彼ですら知っている名高い神宮である。それなりの混雑も予想されたが、案外駐車場は空いていた。
杉の木の大鳥居で一礼してから、丁寧に敷かれた石畳の参道に、欣秀は歩を進ませる。
鹿島神宮は、天照大御神の命により、見事国獲りを成就した武甕槌神大神を祀っている神宮。皇室のほか、藤原氏に源頼朝、徳川家も祈願をしたという、戦勝・武芸に縁がある場といえる。曲がりなりにも武者修行をしている欣秀にとって、参拝しておいて損はない神域である。
―のだが。
「おおー! 真っ赤な門! すげー! なんて木なんだアレ!?」
欣秀はそういった御由緒など露も知らず、絢爛に彩られた朱塗りの楼門や、樹齢何百年という神木が成し得た、奇々怪々な木々の形に感嘆するのに忙しい。
天然記念物に指定されている、スギやヒノキ、サカキやモミといった樹木で構成された樹叢。そこらの山野を散歩しただけでは見られないような、それこそ、神の息がかかっているかの如く背を伸ばす木々達は、欣秀のように深い造詣を持つものでなくとも、その心を震わせ楽しませてくれる。
「なんっって長い剣なんだぁ…!」
目で楽しませてくれるその極めつけは、社務所の中に安置された、『平成の大直刀』である。刀身250㎝に達するその巨剣は、武甕槌神大神の佩刀・韴霊剣を模したもの。それを見て初めて、欣秀は武に縁のある場だと知る。
「巫女さん巫女さん、そのタケミカヅチ神サマという方は、どちらに祀られているんですか?」
「社務所すぐそばにあります本殿と、参道の奥にございます奥殿に祀られております。奥殿は、荒魂様となりますね。」
荒魂というのは、和魂と並ぶ神道の考え方の一つであり、神の荒々しい一面を表している。
もちろんやはり欣秀にそんな知識はなく。
「荒い魂…! なんか強そうだ!」
直感的な理由で、そちらへ向かってみることにした。
~~
「んー…けっこう長いなぁ。」
奥参道の長さは、約300m。幅広の直線路であるはずなのだが、参道の脇に木々が生い茂っているおかげで、先が見えない。名高い神社に立ち入った試しのない欣秀にとっては、もはや神社というより、国立公園を歩いている気分であった。
ジャリジャリと砂利を踏みつけ、時折パシャパシャと写真を撮りながら歩き続けていると、ようやく奥殿の黒い影が見えてくる。
「けっこう…小さいんだな。」
控えめなサイズの社の周りに、囲いと鳥居が設けられた構成の奥殿。屋根などはところどころ苔むしているが、その合間から僅かに金の装飾が輝いているのが、ただの古ぼけた建造物ではないことを主張している。
(二礼二拍手一礼。お賽銭は…ゴメンナサイ)
今後の旅が無事に進むことと、武芸の上達を欣秀は祈願した。
「さて、ここで参道は行き止まりか…な?」
言いきりかけると、奥殿の裏手に向かって、細い道が続いているのに気付く。
(そっちにも行けんのかな…?)
時間の縛りがない旅である。スタミナも余り気味なので、もう少し探検してみることにした。
参道から社務所を経て、奥参道を進むほど人気はなくなっていったが。この細道の先には、まったく人影が見えない。不安を感じない道…といえば嘘になるが、人混みを好まない欣秀にとっては、それがかえって魅力的に映る。
「獣道ってわけじゃないんだ、行ってみよう。」
人が二人、すれ違えるかどうかという道幅。狭くなったぶん草木はより体へとその手を伸ばしてきて、ところによってはそれと肌が触れ合う。が、奥へ行くほど薄暗くなるような道ではないので、不思議と欣秀の胸中に不安はない。
木漏れ日に照らされながら再び歩き続けると、少しだけ開けた場所に出る。あるのは小さめな小ぶりの石鳥居と、その奥で石の柵に囲われている、か細い苗木。バランスよく青い葉をつけたその苗木には、紙垂が提げられている。
「なんでこんなほっそい木が、ご丁寧に守られてんだ…?」
よく見てみると、その苗木のすぐ前の地面から、すべすべした石がちょこりと頭を出している。
「なんだあれ…。」
「それはねぇ、要石。うーん、心の御柱的なモンかねぇ。」
「!」
間延びした老獪な声が、欣秀の真後ろから投げかけられる。反射的に振り向いた欣秀の目の前、2m足らずの距離に、いつの間にやら笑顔を浮かべる老人が立っていた。
「ああ、ああ。ごめんなさいね。驚かせちまったかね。」
真っ白な布をそのまま垂れ下げたような服装に、2mはありそうな木の六角杖。禅の修行者のような異様な出で立ちをした老人は、傘をかぶった頭を下げる。
「……っ、あ、いえ、いえ…。」
思わず悲鳴を上げそうになったのを、欣秀はなんとかこらえる。気の抜けるような老人の口調が、少しばかり不気味だった。
「いやはや、あんまりにも興味深そうに見てらっしゃるもんでねぇ。ちょっと教えてしんぜようかと思ったんだけど。後ろからはよくなかったよねぇ。」
ケラケラと笑いながら、老人は鳥居の下へと歩み寄り、先ほど欣秀が見ていた石を指さす。
「…信じられるかい。この石が、地震を押さえているって伝説が、ここにはあるんだよ。」
「えっ…これがですか? 頼りないぐらい小さく見えますけど…。」
「ところがどっこい。この石、掘れども掘れども、地中に向かってその表面を大きくするばかり。一体どれほどの大きさなのか、わからないほどのデカブツらしいんだよねぇ。」
「へ、へぇえ~~。」
確かに、人の目に晒されているのは一部だけであるから、本当はもっと大きいのかもしれない…と想像することもできるが。
「あっはっは。わかるよぉ兄さんの気持ち。〝本当かなぁ?〟って思ってんでしょ。無理もないよねぇ。
私自身、信じてないもの。実際に掘られてるところを見た訳でもないしさぁ。よりによってここの鳥居なんか、この前の大地震で壊れちゃってるし。ま、ご加護のおかげでケガ人はなかった、ともいえるけどさ。」
僧のような出で立ちの老人から、信心深くない言葉が飛び出してきている。目の前でクツクツと笑うそれに対する欣秀の疑念は、深まるばかりであった。
「あの、あなたは…?」
「おおっと失敬。私は梶井と申します。見てのとおり修行僧…って、わかんないかあ。あっはっは。」
「あ、私は磐城っていいます。見てのとおり…えっと旅人です。」
「あはは、見てのとおり、ね。」
修行僧。なんて名乗る人に出逢った人は、一体どれだけいるだろうか。無論欣秀もそんな体験はなく、少々地に足がつかないような感覚に陥る。
もっとも、欣秀自身も〝旅人〟なんて名乗るおかしな人間ではあるのだが。
「僧侶さんなのに、そういうこと言っちゃって大丈夫なんですか?」
「ん~…。んふふ、わかんない。いやね、別に神様仏様を信じてない訳じゃないのよ。たださ、ど~考えたって、人間がいいように考えた、嘘だな~って思うモノはあるじゃない。だから、まぁ…。そう。信じる信じないは貴方次第…ってやつじゃないけど? 信じるものは選びたいのよね。
わかんないよ? 本当に掘ってみたら巨大な石かもしれないしさ。信じたい人は信じたいでいいと思う。人間って、そんなもんでしょう。」
「あー…うーん、なるほど。まぁ、確かに…?」
シミが点々と浮いた、ほどよく日焼けした顔にシワを寄せ、梶井は笑みを浮かべ続けている。
「…でもさ、見えているものが全てじゃない、っていうのは、良い教訓だと思うし。浪漫ってやつを感じるよね。見た目はか細く、中身はドデカく…ってさぁ。」
「……ええ…。」
欣秀も相槌を打つが、どうもぎこちなくなる。目の前にいる老人の、一挙手一投足に、目が離せない。その頭には、ある懸念が浮かび上がっていた。
「………例えばさ。今の君みたいな状態。」
梶井は、欣秀の目を見据える。若干、欣秀の体が強張った。
「わかるよ。このジジイ、ただもんじゃあないな、って思ってくれてるんでしょう。肩が硬くなってる。気配が強張ってる。わかるよ?
…へへ、嬉しいねぇ、修行の成果があったってことなんかねぇ。」
そう。欣秀の頭に、出会い頭から浮かんでいたものは。
(このおじさん…、多分、強い…!)
不整地で、音と気配なく背後へ近づいたことや、服の合間から見える肉体が逞しいこと。極めつけに、登山用や巡礼用としては考えられない長さの杖。何より、笑顔に反して、先刻から纏っている柔和とはいえない雰囲気が、欣秀の考えを確信たらしめていた。
「えっと…なにか御用がおありで?」
「御用…あ~! いやいや、まさか! 別に喧嘩しようって話しかけたワケじゃ~ないよ? でも、〝あ、この兄さんもなんか嗜んでるんだなぁ〟って思ったら、気になっちゃってつい、ね。」
「なんだ、そうだったんですか…あはは。」
ここに来て、ようやく欣秀も笑みを浮かべる。得体の知れないものが何であるのか、判明したから。
しかし難儀なもので、正体を知ったら知ったで、また新しい疑問が浮上してくる。
(なに話そっかなあ…)
少し重い空気が辺りにのしかかり、木々のざわめきが響き始める。数秒か、一分か。見当のつかない長さの静寂が二人の間を流れたあと、口を開いたのは、梶井だった。
「…こういう時、何を習ってんです? 流派はなんです?って、話を素直にすりゃあ、無難なんだろうけどねぇ。」
梶井はバツが悪そうに、頭をかく。
(ああ、そうか)
欣秀は、この老人が何を希望しているか。察する。
「実際に手を合わせて知った方が、面白いんじゃないか…そう、思っちゃうんですよね?」
色んな景色を見ること。孤独な夜を過ごすこと。多くの文化を学ぶこと…―。旅の中で得られるそれらは、内面を磨くという意味で、強くなるための立派な手段である。しかし、やはり霞んでしまうのだ。武術を研鑽するという、最も直接的に強さを育める手段の前では。
それを知る欣秀だから、言ってしまったのだろう。こんな挑発めいた台詞を。
「…はは。あははは! そのとーりだよ! なんだ、お兄さんはこういう時、笑ってやり過ごさないタイプかぁ……うれしいねぇ。なら! せっかくの機会だ。いっちょ手合わせ…願いませんかねぇ?」
「…こちらこそ、よろしくお願いします。」
両者ともに、頭を下げる。
手合わせ。傍から見ればただの喧嘩で、世間体的には褒められた行為ではない。だが、全ての武術は、〝戦って勝つ〟ことを目的とする点で共通している。ただ型や表演を綺麗に行なうだけの鍛錬は、武芸を培っているとは言えない。
欣秀自身、師匠と幾度となく組手を繰り返したり、他流試合の場を設けられたこともあったから、手合わせというのはそこまで非日常的な行為ではなかった。競わねば、強くなれない。その真実を知っている者が二人そろえば、互いの実力を試したくなるのは必然であった。
「…う~ん……そうだね、いくら今日は人通りが少ないとはいえ、ここじゃ目立つし。ちょいと歩こうか。」
梶井に促され、欣秀も歩き出す。要石の広場からさらに奥、いよいよもって獣道じみてきた道に、二人の武人は消えていく。風のうねりが木々をざわつかせ、虫が騒ぎ出す。二人の間を交わされる言葉は、一つもなかった。
~~
「この辺で、いいかねぇ。」
獣道が少し開かれたところで、梶井は立ち止まる。だいたい、10×15mほどの空間。
「…お互いの獲物を鑑みても、フェアな場所なんじゃないでしょうか。」
「いやぁ、剣星・塚原卜伝縁の地で手合わせできるとは。僥倖とは、まさにこのことをいうのかねぇ。」
(? 誰だ…?)
梶井はしみじみとうなずきながら、欣秀は首をかしげながら、荷物を隅へと置き始める。
剣、槍、弓…など、白兵戦で用いる武具はいくつかあるが。それぞれがそれぞれ、適正な効力を発揮する場というものがある。
大草原で振り回す剣はあまりに短く、狭路での槍は振り回しづらく、角が立つ。弓は距離が開いていないと、矢を番える暇さえない。
全ての荷物を置いた梶井が唯一手に残していたのは、その長い六角杖だった。
(やっぱり、槍か…。)
無論、穂先の刃はついていないが。ある程度硬い木の棒で生み出す打撃力は、決して油断できない。この空間ならば、やや狭いが突くにも薙ぐにも困らないだろう。
欣秀は傍らの革ケースに巻き付いた鎖を、ダイヤル式南京錠を開けて外し、ケースのファスナーを開けて中に手を突っ込む。指先に、漆で塗られた木の感覚を感じると、それを握り、静かにケースから抜き出す。
姿を現したのは、一振りの刀だった。
柄巻や縁・頭など最低限の装飾があるぶん、流石に梶井の棒ほど殺風景なものではなかったが―。鞘塗りの漆は黒呂、柄巻きの糸も黒…極めつけに鍔は見当たらない…と、じつに飾り気のない一振りである。
「ほぉ~! 本格的な練習刀だ! こりゃ光栄だねぇ。」
「すみませんね、木刀じゃどうにも重心が違くって。その代わり刃はついてませんから、ご安心を。」
「あっはっは! そりゃ~助かるわ! まだまだ、長生きしたい身だからね!」
言葉に反し、全く恐怖など感じぬかのように笑う梶井。仮にこれに刃がついていたとしても、彼は「止めよう」とは言わないだろう。
そんなことを思うと、欣秀の眼差しは一層強くなる。革ケースを投げ、柄に手をかける。そして一寸の後、その刃なき刃を、鞘から静かに抜き放った。
二尺四寸の白刃に木漏れ日が反射し、一瞬、欣秀の手元が輝く。欣秀は鞘も同様に投げると、右手に刀を握り、そのまま右半身を前に。半身の姿勢で構える。
世俗には〝抜刀術は速い〟という認識が溢れているが、これは誤りである。抜刀術とは日常、非戦闘時におけるとっさの攻めおよび防御を可能にするための技術であり、さながらその〝納刀された刃が次の瞬間には振るわれている〟という動作が、〝速い〟と錯覚された末の結果なのであろう。
頭を冷やして考えれば、抜身の刃を振るう方が遥かに早いのである。故にかつての剣士たちは、戦場に踏み入る前はあらかじめ抜刀していた。
要するに、抜刀された刀を握る欣秀は今、いつでも仕掛けられるという状態なのである。
(回り込む余地があるし、槍相手でもなんとか立ち回れるか―)
命がけとまではいかなくとも、今から始まる真剣勝負に対し、欣秀は全神経を集中――していたのだが。
「…どうしました?」
闘争心を向けている肝心の梶井が、槍を構えていない。槍を肩にかつぎ、顎に手を当てて唸っているだけだ。
「うーん…いやね、それでいいのかなぁって。」
「…? というと?」
「あ。いやね、兄さん、まだその革袋に入ってんでしょう。なんか。」
「―!」
梶井は不満そうに、欣秀の後ろに投げ捨てられた革ケースを指さす。
「いや、驚くことじゃないさ。ただそいつが投げられた時、まだなんか入ってるような音がしたからさぁ。…おじさん、どーせなら本気の君と勝負してみたいなぁ。」
「それは…そのとおりですが。あれは―
………いえ。」
数秒、躊躇った欣秀だったが、意を決したように革ケースを再び手にする。そして左手を再び突っ込むと、中にあるものを引きずり出した。
(師匠…ごめんなさい。まだ未熟ですが……やってみます)
今度姿を現したのは、刃渡り一尺三寸の脇差であった。先ほど抜き出したものと同じく、黒を基調とした簡素な拵え。欣秀は本差を持ちながら脇差の鞘を押さえ、器用にそちらも抜刀する。
「おお…! やっぱり二天一流かい。」
「わかっていたような口ぶりですね。」
「あはは、偶然予想が当たっただけさ。取り回しを意識したちっちゃな鍔、腕一本で握る構え…もう片方の手にも、なーんか握りたいんじゃないかってねぇ?」
欣秀の刀は、鍔が付いていない、というわけではなかった。耐久性を確保する都合上、鍔は付いている。ただ、その大きさが非常に小さい『小食出し』という欣秀特注の鍔で、鍔が無いと思われても不思議ではないというだけであった。
(ケースの重さに気付いただけじゃない。鍔にまで気づく、この恐ろしいまでの洞察力は――)
「さて、じゃあ、いっちょお手合わせ願いましょうか。」
梶井は〝槍〟の柄尻近くと、そこから肩幅ほどの間を空けた位置を握り、半身をきって柄尻を腰に当て、その穂先を真っ直ぐ、欣秀の顔面に向ける。
(このおじさん、強い…。場数が違うんだろうな。この勝負、もしかしたら………いや)
刃を交える前から弱気になっていては、勝てるものも勝てない。
欣秀は先ほどと同じく右半身を前に構え、本差を前方下段に、脇差を顔の左脇に構える。徹底して半身をきる欣秀の脳裏には、かつて武術を叩き込まれた、師匠の教えが浮かんでいた。
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〝欣秀、敵と見合う時は基本、半身をとれ。ボクシングや剣道なんかは正面きって戦うが、あれじゃあ被弾しちまうって時の面積がデカすぎる。半身をとれ。
人類はな、恐ろしい爪や牙を持つ獣たちに対して、武器をとって戦うことを覚えた。その武器ははじめは石斧とかだったんだろうが、次第に剣、槍、そして弓へと発展していった。そうなるにつれ、構えは次第に半身をきる姿勢になっていった。
人間がなんでこの世界の支配者足り得たのか。それは本能的な戦闘法よりも、理論的な戦闘法を組み上げていったからだ〟
~~~
半身で向き合う槍と二刀。互いの顔に、もう笑みはない。風がまた吹き、ざあざあと木の葉たちがざわめき始める。その小気味よい音が、耳から遠ざかっていったその瞬間、
「っ!」
先に駆けたのは、欣秀だった。半身をきったまま左足で地面を強く蹴り出し、わずか一足で槍の穂先と、本差の物打ちが触れ合う距離まで詰め寄る。
リーチの長さというのは、戦闘において絶大なアドバンテージとなる。敵の攻撃が届かず、こちらの攻撃が届く状況というのは、言うまでもなくダメージを受けるリスクが低いということであり、その事実は肉体的にも精神的にも余裕を生む。
しかし、圧倒的なリーチを持つ槍や弓にも弱点はある。それは、その効果を最大限に発揮するリーチ以近に入られた場合、対処がしにくくなるということである。
槍の場合のその範囲とは、刃がついていなく遠心力も効かせづらい、槍の穂先から手元までの間。欣秀の狙いは、その距離に踏み込むことであった。
穂先を進路状からどかすため、肩と肘、手首のスナップを効かして、本差で槍の穂先を外に弾き飛ばそうとする欣秀。敵の剣先を逸らし、自分の剣先が届く間合いに入る―。師匠に教わった、〝ライン取り〟なる概念である。
振られた剣先は梶井の穂先を確かに捉えた―が、諸々をわかっていない梶井ではもちろんない。剣先が触れる寸前で、梶井は槍を握る力を抜き、穂先が弾き飛ばされないよう剣先からの力を受け流す。多少ブレこそしたものの、穂先は欣秀が侵攻したいスペースに、依然立ちはだかっている。間髪入れず、梶井はライン取りに失敗した欣秀の顔面に、穂先を突き出す。欣秀は直前の駆けた慣性を制御し、急停止。上体を逸らして、突き出された穂先を避ける。そのまま半歩後退し、穂先の二の太刀―突き出しからの薙ぎの届かない距離に下がった。
(やっぱり、一筋縄では…!)
先の先―いわば機先を制するという攻め方は、敵が〝攻めよう、切りつけよう〟などと思い起こす前から仕掛ける、いわば奇襲要素の強い戦法である。それを狙って一気に勝負をつけようとしたのだが、失敗に終わった。
となると、ここから基本的に有利となるのは、先にも記したように、リーチのイニシチアブがある梶井側。また同じように攻め入ってこないようにと、安全圏から突きを幾重にも繰り出し牽制してくる。欣秀は本差の剣先と穂先が触れ合う距離を保ち、突き出された穂先を刀で逸らし、一手一手丁寧に回避していく。
受ける。ではなく受け〝流す〟という防御であれば、刀は片腕の力でも十分守りに機能する。筋肉隆々の腕で振り回さずとも、肘や手首のスナップによる瞬発力を刀に上手く伝えることができれば、攻撃の向きを逸らす程度のエネルギーは、十分に確保できる。
両の腕全体を使って振ることが大半の日本刀術において、異質と呼べる振るい方。
〝二刀流を、なんとか形にしてみたい〟。欣秀はその一心で、片腕で刀を振る鍛錬を重ね続けて来た。梶井の指摘したとおり、鍔が小さいのも、その際の取りまわしを良くするひと工夫である。
片や槍を突き出し、片やそれをいなす。機があれば突き出された槍の穂先をまた弾き、攻め込みたい欣秀であったが。出ては引くを繰り返す槍の進退運動に、それを仕掛けるのは難しい。
かといって梶井の側からしても、あまり好ましい状況ではなかった。欣秀は突きしか向かってこないことをいいことに、梶井の右へ、左へと振り子運動のように回り込みながら、僅かずつ距離を詰めてきているからだ。梶井もそのぶん後退しているのだが、広大といえる空間ではないため、いずれ後ろが詰まる。
(…ふぅン。片腕で振る剣だから、いずれは粗が出始めると思ったけど―。なかなか、ちゃんと鍛えているじゃぁないか)
攻め手が一手に居着いてしまっているこの状況では、やがて梶井が追い詰められる。
(…じゃあ、これはどうかねぇ)
梶井は一、二本ほど槍を突いた刹那、三本目の突きが来るだろうというタイミングで意表を突き、上体を開き、腰をねじって穂先を右後方へと一気に反らす。次の瞬間、関節に溜められたエネルギーを、腰から腕、腕から手、手から槍へと一気に伝え開放し、欣秀めがけて一気に右から左へ〝薙いだ〟。
「!」
ヴンッ、と重々しい風切り音を上げ、目にも止まらぬ速度で襲い掛かる穂先。穂先を振り回す薙ぎは、突きと違って遠心力を活かしやすく、その爆発力は片腕で受け流せるものでは到底ない。その軌道故に横へ回り込み避けることも、不可能である。
欣秀は梶井が振りかぶったタイミングで咄嗟に槍の間合いを推測し、間一髪、後退することで薙ぎの一撃を避ける。
が、梶井の槍は何の抵抗も受けていない。継続して、梶井のターンである。薙ぐ槍は強力である反面、軌道が読まれやすいため刀を交差され押さえられやすく、攻め入られる隙を作りやすいのだが。それは、両腕の力でしっかり握られた刀の話。片腕で刀を握る欣秀が、槍を受け止められず避けることしかできなかったのは、梶井の想定通りであった。
梶井は左に振り抜いた槍を、そのまま左後方へと反らして溜め、距離を詰めつつ、今度は右へとフルスイングする。
片腕の膂力で、薙ぎを止める手段はない。先ほどとは逆。これが続けば、欣秀は隅に追い込まれる一方である。――が。
(これを待ってたんだッ…!)
欣秀の眼に敗北の色は映っていなかった。むしろ、千載一遇のチャンスとばかりに、その瞳はギラつく。
再びの薙ぎが放たれるその瞬間、欣秀もまた、腰をねじらせ、二刀を左に反らし溜め込む。穂先が欣秀に届く寸前で、右前の半身を一転、左半身を前に突き出すように半回転させ、その回転力とねじ込んでいた腰の弾みを以て、二刀を一気に、襲い来る梶井の槍へと叩き込んだ。
カァァァン…!と木と鉄がぶつかり合う音が周囲に響き渡り、木々のざわめきに耳を預けていた動物たちの耳をつんざく。
確かに、片腕の刀で槍の薙ぎは受け止められない。が、別に欣秀は、片腕しか使えない訳ではないのだ。両の刀が届く範囲で、同様の角度で叩きこめる状況でさえあれば。必要に応じて、いつだって両腕の力を合わせ、振るうことが出来る。
「おぉっ!?」
片腕しか使わないと思っていた梶井の、虚を突いた形となった。
音に驚いた鳥たちがバタバタと飛び立っていく中、欣秀は二刀にさらに力を込め、槍の穂先を地面に押さえつける。
「止めたぁ!」
遠心力の消えた槍を止めておくぶんには、片腕の力でも十分。欣秀は本差で槍を抑えつけたまま、梶井のもとへと一直線に駆け出す。
刀を二振り持つことのメリットは、手数が増えることである―と多くの人は考えているが、本質はそこではない。
〝此一流において、長きにても勝ち、短きにても勝つ。故によって太刀の寸をさだめず、何にても勝つ事を得る心、一流の道也。〟
二天一流の剣豪・宮本武蔵曰く、長、短、いかなる距離でも勝つため、長い獲物と短い獲物を併せて持つ。それこそが二刀流の本質である。
(もっと近く、もっと近くへ―!)
梶井の顔が目と鼻の先になるまで、欣秀は駆ける。槍は、使い手のそばに敵が寄るほど、その威力を発揮しにくくなる。しかし長刀も、所詮は物打ちに遠心力をかけて叩き切る武器。こちらも近すぎては、戦いにくい。
だからこそ、今ここで使うのである。より近い距離で最大限の威力を発揮できる、脇差を。
(とった!)
左手の脇差を右に振りかぶり、その切っ先を叩きつけるための力を込める。
ベテランに思えた、格上だと思った相手に、勝てる。欣秀は歓喜を沸騰させつつ、脇差を振りぬこう―――とした瞬間、その湧き上がる感情が、うすら寒いものへと変わる。
(これ……どこを狙えばいいんだ――?)
好機の中、勝ちを得るために真っ先に狙う部位。それは頭である。が、欣秀は躊躇った。頭に、この鉄の塊を叩き付けたら、この老人はタダじゃ済まないのではないだろうか。練習試合と違って、防具はないぞ? 寸止め? いや、もう振り絞った力を、器用に止められる自信はない。じゃあ腕を狙うか? いや、腕ですら、いくら鍛えられてるとはいえ老人のものは折れてしまうかもしれない…―。
止まった。
欣秀の脇差は、その剣勢を一瞬、止めてしまった。
「ほーう?」
そんな、拍子抜けしたような梶井の声が、思考をまとめられない欣秀の耳に入る。
梶井は、握っていた槍を離す。途端、それを本差で押さえつけていた欣秀の体勢が、わずかに崩れた。すかさず梶井は踏み込み、空となった掌を、体重を乗せつつ一気に欣秀のみぞおちへと打ち込む。
「―ッ!!」
梶井の掌底の威力に、駆けてきた欣秀の慣性が加わり、想像を絶するような衝撃と痛みが欣秀を襲う。たまらず、ふらふらと2、3歩後退した後、膝をついてえずき出した。
「お兄さん……躊躇ったねぇ? …やれやれ、残念だよ。あのまま振り抜いてれば、君の勝ちだったかもしれないのに。」
ゆらりと欣秀のそばへ歩いてきた梶井は、ふぅと一息ついた後、その手を差し出す。………のではなく、槍を振り回した。
バシン、バシンと、乾いた音とともに、欣秀の両肩に往復の薙ぎが打ち付けられる。とっさに脇差で防ごうとするが、力が入らない。言葉なく、欣秀は悶絶するばかりだった。
「今のは、さっきの兄さんの躊躇いに免じての手心。本当だったら、顔面を狙うよ、私は。」
何とか体を動かそうとするが、梶井を睨みつけることしか欣秀にはできない。
「痛いかい? 悔しいかい? 文句のひとつも言いたいだろう。…だったら、本気で打って来ればよかったのさ。しょうがないねェ、この状況は、兄さんが招いたことなんだから。
敵のケガについてなんか考えたばかりに、自分が病院送りにされるなんて―」
梶井は、槍の柄尻を両手で握り、体を反らして真上へと掲げる。さながら長大な剣を、真っ直ぐ振り下ろすように。
「―!(マズイ、本気か!? このじいさん。本気でそれを、頭に―!)」
逃げられる力はもう、振り絞れない。欣秀はとっさに、全身の力を振り絞って、両刀を頭の上に掲げる。瞬間、梶井の掲げた槍は、一直線に振り下ろされ―――。
ゴゥゥゥン………!
轟音が鳴り響くと共に、二人の姿が隠れるほどの砂埃が付近に舞う。槍の穂先は――地面をえぐり、小さなクレーターを生み出していた。
摩擦熱でも、帯びているのではないだろうか。煙のようなものを帯びて、目の前の地面に打ち込まれている穂先を、欣秀はただ息を呑んで見続けている。
「あっはっはっは! なーんてねぇ! 冗談だよ。ちょっと驚かせてみたかっただけ。」
振り下ろした槍を、土を巻き上げつつ掲げ、それを肩に担ぐ梶井。先刻までの険を帯びた顔は消え、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「見逃して……くれるんですか…。」
「あはは、見逃すも何も。ただの手合わせだし。命なんかとりゃーしないよ。私は。」
欣秀は息をすることを思い出し、一気にどっという音が聞こえるほどのため息をつく。
「んまぁでも、私としちゃあ、腕一本やられるぐらいのケガは、覚悟してたんだけどねぇ。
…兄さんさぁ、キツいこと言うようだけど、アンタそう易々と人の命奪えるぐらい、強いのかい? もっと死に物狂いになっても、いいと思うけどねぇ。若いんだから。」
欣秀は弁解の余地もないとばかりに、視線を下げる。確かにあの時、槍が使えないとはいえ、欣秀の脇差を防ぐ手立ては、梶井側にいくらかあった筈なのだ。それを、欣秀は勝利を得たと思い込み、情けを鑑みた結果、痛手を負ってしまった。
「…じゃないとさぁ、ほんとに。死んじゃうかもよ? 時と場合によっては。…躊躇いなんかあるうちは…。一生、弱いままだよ。」
この平和な日本で、喧嘩で死ぬ…という事例は少ない。日常であれば、冗談にしか聞こえない台詞である。が、今、まさに頭をかち割られる恐怖を知った欣秀の胸中には、その死という言葉が重々しくのしかかる。
「…んふふ。まぁ、でも! 楽しかったよ。この時代に、久々に武術を学んでいて、しかもやりあってくれる若者と会えてさ。…さっきみたいなことを言った手前でなんだけど、兄さんみたいに優しいタチも、ありっちゃありだと思うよ。優しい人が武術をやってくれたほうが、嬉しいしね。」
再び元の笑顔と弾んだ調子の口調に戻り、梶井は隅に追いやっていた荷物をまとめ、背負う。
「…だからさ、ますます死なないように気をつけとくれよ、優しいお兄さん。」
目を細め、どこか菩薩を思わせるような柔和な笑みを浮かべ欣秀を一瞥したあと、「じゃ、私はまだ行きたいとこがあるんで。さいなら~!」と、梶井は獣道の奥へと去っていってしまった。
茶はおろか、語り合いも何もない。本当に、ただ手合わせをするためだけに会ったような、嵐のような出逢い。
一人残された欣秀だけが、その余韻から抜け出せないでいた。
「…あの時、脇差を振り抜けていたら―――。」
まるであざ笑うかのような、木の葉たちのざわめきの中で。欣秀は腰を上げられないまま、答えの出ない自問を繰り返すのであった。
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