第二話 雨露の佐倉にて
千葉編
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
「コラコラ、あんた、またメソメソ泣く気かい?
しみったれたのは勘弁しとくれよ。治るもんも治らなくなる。」
「…っ、だって…、だって母さん、もしこのまま、母さんの具合が良くならなかったらって…、ぐすっ、思ったらさ…!」
「だーかーら、縁起の悪い話をするんじゃあないっての。ホラ、泣くのもお止し。
…まったく、あんたは本当に、昔っから弱虫に育っちまったねぇ。」
「…強くなんかなれないよ……。」
「そーやって決めつけんのが、あんたの悪い癖だよ。
…あーもう涙流すな、鼻水すするな。自分の体液バラ撒いてる暇があんなら、あんた少しでも強くなっておいで。…そーさねぇ。
…あんた、思い切って一人旅でもしてみたらどうだい。」
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人間として、いや生物として生まれたからには、〝少しでも強く〟と思うことは必然ではないだろうか。それは肉体的な話でも、精神的な話でもだ。
強さというものは、苦境を乗り越えるための武器、生き残るための知恵、人生を全うするための信条となるものであり、生命が焦がれ、渇望するものである。
これは、旅の中でそれを模索する、とある一人の旅人の物語である。
第二話
雨露の佐倉にて
千葉県佐倉市。七井戸公園。朝6時半。
〝腕を前から上に上げて、大きく背伸びの運動~! ハイッ!〟
市民の良き憩いの場である公園の早朝。広場には年配の方々が集まり、ラジオ体操に精を出していた。10人を超える人々がテキパキと同じ動きをしているのは、少しばかり壮観である。
が、その円陣から少しばかり離れた場所に、壮観を乱す者がいた。
「連環劈掌―!」
ちょうどクロールをするような動きで、腕を振り回す男がそこにはいた。
脚を合わせ、胴も真っ直ぐにしてキッチリと立つ姿勢こそはラジオ体操と同じだが、水車が如く互い違いに振り回され続ける両腕は、風切り音がするほど勢いが付けられており、腕どころか肩ごとすっぽ抜けてしまいそうな迫力である。
「次、連環掛掌!」
今度はその振り回しを逆向きに行ない始める。
健康体操とは程遠い、激しい動き。動作を止めるころには、男は軽く息を切らしていた。
「烏龍盤打!」
今度はアキレス腱を伸ばすような姿勢で腕を振り回し始めたと思ったら、深く伸脚する姿勢に一気に身を沈めたりと、男は見るからに疲れそうな運動を続けていく。
「どなたさんだろうねあの真っ黒い人。」
「太極拳かなにかかしら。」
ラジオ体操の老人方もその男の存在に気付かざるを得なく、体を動かしながらお隣さんと顔を合わせ、首をかしげている。
ラジオ体操第二も、半ばに差し掛かる頃。
男は足を肩幅に開き、腰を下げる。空手における四股立ちの、足幅がやや狭くなったような姿勢で、両腕をおもむろに伸ばし、胸の前に拳を並べる。
次の瞬間、曲げられていた右脚が一気に伸ばされ、それと同時に右の拳が正面の空気に叩きつけられる。次の1秒で、引かれていた左拳が、左脚が伸ばされるとともに正面に突き出される。それはまぎれもなく、人を殴るための運動―武術であった。
~~
男はそれから、踢腿と呼ばれる蹴り技の各種練習をしたり、套路―空手などでいう型を二種類ほど行なって、ようやくその動きを止める。
「イテテ…埼玉のアザが、治りきってないなぁ…。朝からこれはけっこう疲れるわ。」
春先の朝は決して暑くはないが、それでも額に汗を滲ませるには十分すぎる運動量。息切れを起こしながらその場の芝生にへたりと座り込み、男はしばし空を見上げて心拍数を落ち着ける。
「今日は…、ちょっと曇ってるかな、あとで天気予報見とかないと…。」
傍らに転がしておいた2ℓペットボトルに入った水を一口飲むと、木に立てかけてあった、細長い革ケースに近づく。
「よし、次はこちらの練習…」
念入りにケースに巻きつけられた、鎖を解こうとした時。
「すごーい。よくあんなに動けますねぇ。」
ラジオ体操をしていた、60代後半ぐらいのおばあさん二人が、男に話しかける。とっくに終わっていた体操の後、しばらく男の動きを眺めていたのだ。
「えへへ、ありがとうございます。でもまだまだ未熟なもんですよ。」
ケースから手を離し、おばあさん方に男は顔を向ける。対して二人組は、男の服装に目を向けていた。
「着物ですよね。なんか、剣道とかやってらっしゃるんですか?」
「いえ、剣道とはちょっと違うんですけど。居合道っていうのをやってます。それからさっきやってた、中国武術ですかね。」
「へぇー…。あ、イワキさんっていうんですか。」
おばあさんの一人が、衿先に縫われた文字を見つけて口に出す。着物といえば着物だが、名前の縫いつけられたそれは、道着と呼ぶのが適切であった。
「あ、よく読めましたね! はい! 私、磐城と申します。磐城欣秀です!」
磐城欣秀。男性。25歳。身長165㎝、体重55㎏。
「おっきいリュックですねぇ。歩いて回ってるんですか?」
「いえ、あそこに置いてある、バイクに乗ってますよ。」
趣味・バイク。特技・特になし。
「わぁおっきいバイク! どこか遠いところから?」
「まだ遠く…ではないですけど、ええ。旅をしてますよ。…私、旅人なんで!」
職業・なし。
今のところ何の取り柄もない人間。それがこの、磐城欣秀という男であった。
「まぁ~旅だなんて。気軽でうらやましい!」
「ほんと。若いうちしかできないことですわよねぇ。」
「はは。そうですね…。」
二人の口調は柔らかで、そこに嘲笑や批判の気はない。
が、"うらやましい"という感想は、欣秀にとっては複雑なものだった。
「でも私、ほんとは最初、コスプレの方かと思いましたの。着物着てらっしゃるし。」
「あー! そうですね、ここらへんですものねぇ。」
合点がいったと相槌を打ち合う二人組。が、欣秀にはわからない。
「ここらへんだから…というのはどういうことですか?」
「あら、知らないでいらしたんですか? ここ佐倉には城跡がありましてね、周りにけっこう武家屋敷が残ってらっしゃるんですよ。だから、そこでお侍さんの恰好をして、写真を撮ってらっしゃる方をたまに見かけますもので。」
「へぇーお城…。」
欣秀にとって、ここ佐倉の地はフラフラと立ち寄っただけの野宿地。そんなものがあるなんて、知る由もなかった。
「そのお城、ここから近いんですか?」
「ええ。車で10分…もかからないかしら。あっでも、お城は残ってないですよ。だから、見てもあんまりつまらないかも―」
「いえ。せっかくなんで、行ってみますよ。」
バックパックにかぶせられていた長羽織を纏い、欣秀は荷物をバイクに積み始める。
「行かれるんでしたら、『ひよどり坂』ってところがオススメですよ。竹林があるステキな場所で、よく写真撮られてるので。」
「ありがとうございます、行ってみます。」
バックパックをリヤシートに載せ、バンジーコードで固定。革ケースのベルトを袈裟状に肩にかけて背負い、ヘルメットをかぶる。出立準備が整った。
「気を付けてー」と手を振るおばあさん方に手を振り返し、欣秀の愛車―ロケットⅢは、重低音を響かせて公園を後にする。
~~
公園を囲む住宅街を抜けると、田んぼが敷かれた吹きっさらしの地形に出る。道路は片側1車線だが車通りは少なく、欣秀はスロットルを少しだけ回したところで固定し、60㎞/h巡行でゆったりと風を感じ進む。
英国はトライアンフの『ロケットⅢロードスター』。その最大の特徴は、2,300㏄という規格外の排気量である。一時期は量産市販車最大排気量といわれたその超弩級モーターサイクルは、エンジンはもちろん車体長も2m50㎝という巨躯を誇っており、メタリックブラックの車体色も相まってとてつもない威圧感を纏っていた。
が、そのスペックには似合わないのんびりとした速度で、黒い怪物は田園地帯を進む。"速さで自己主張しようだなんて、ナンセンスだ"。というのが、欣秀なりの流儀である。
ヘルメットのシールドを開け、雨雲が近い湿った空気を吸いながら進んでいると。前方にこんもりと隆起した、緑に包まれた台地を確認する。
「あれがそうかな…。」
国道296に入り、再び街中へ。タブレット端末の地図と看板を頼りに、城跡へと近づいていく。城跡らしくややキツい坂もあるが、大排気量からあふれ出るトルクのおかげで、荷物満載でも苦慮はしない。欣秀は土のグラウンドとなっている、『佐倉城址公園』に入り込んで駐車する。
「佐倉の桜ってやつですか…。」
グラウンド周りの緑地には桜が植えられており、満開ではないものの、茶色と緑だけの駐車場に彩を添えている。
欣秀はバックパックをリヤシートから下ろし、タンクバッグからミラーレス一眼を取り出して、桜を何枚か撮影する。
「埼玉の花見じゃあ、なかなか酷い目に遭ったからね…。」
ひとしきり撮ったあと、同じくタンクパックから取り出したタブレットで、付近の地図を確認。
「ひよどり坂ってやつは…、こっからだと城から逆方向か。」
城跡は目の前のようだが、おばあさん方が言っていた武家屋敷などはちょっと歩いた先のようである。
「まぁ、時間は有り余ってるさ。」
武家屋敷方面を見てから、駐車場に戻ってきて城を見学するルートに決める。
欣秀はタブレットを60ℓのバックパックに押し込むと、遠心力を借りるよう振り上げた勢いで、15㎏はあるそれを背負う。ウェストベルトを締めて荷重を肩から腰に分散させると、そのベルトに、まるで"刀のように"革ケースを差し込む。最後に、バックパックのショルダーベルトにミラーレスをマウントして、徒歩モードの準備は完了だ。
「よっしゃ、行きますか。」
すぐそこに史跡があるとは思えないほど、一帯には家屋が密集しており、曇り空と相まって視界は無味無臭な灰色で埋まっている。〝本当にこちらで合っているのだろうか〟と思いつつも急坂を一つ下り切ると、住宅地にぞびえ立つ小山の一ヶ所に、登山道を見つけられる。看板には、『佐倉 サムライの小径 ひよどり坂』の文字。
「ここか…。」
丸太で作られた緩やかな階段坂の両脇に、幾本もの竹がそそり立っている。それら一本一本がたくましく高く伸びており、その葉で、道にゆるやかな陰りを落としていた。
竹やぶのトンネル。風情ある静けさがそこにはあった。
「望遠レンズがよくハマりそうだな…。」
再び、レンズを切り換えつつ何枚か写真を撮り、欣秀は階段を上る。
「静かだ…。」
竹やぶには、音を吸収する効果でもあるのだろうか。本日は風も吹いていないので、葉のざわめきも聞こえず、丸太の階段にブーツを踏みつける音だけが、欣秀の耳に響く。
「ま…私しかいないよな。」
平日に呑気に旅ができているのは、自分ぐらいのものだろう。
"気楽な旅だ"と思われても文句が言えない現実に、欣秀は自嘲する。
坂は一ヶ所で折れ曲がるくの字型となっており、その角を曲がれば、本当に侍が顔を出しそうな雰囲気である。
いっそ、タイムスリップしてしまえればいいのに。
そんな夢想を抱きながら、欣秀は林を抜けた。
~~
坂の先に並ぶ武家屋敷街道を抜け、『麻賀多大明神』で参拝を済ませ。欣秀は再びロケットⅢのもとまで戻り、いよいよ佐倉城址へと踏み込む。東側、三ノ丸から入城してまず目に入ったのは、通路を横切るように大きくえぐられた、巨大な空堀(水のない堀)の存在だった。
佐倉城は江戸時代に土井利勝氏によって完成された平山城であり、その特徴は石垣を一切使用しない、空堀と土塁主体の城づくりにある。下総国周辺に良好な石の産地がなかったが故の珍しい城郭で、土の城の集大成とも呼ばれる場所である。
…と、看板を見て欣秀は学習する。
「集大成…といえば聞こえはいいけど。」
季節と、雨模様もあるのだろうが。
「誰もいない…のんびりしてるな。」
隆起に富んだ敷地は、識者からすれば〝特徴的だ〟と言わせるものであるものの。石垣がないぶん城ならではの迫力にやや欠ける姿は、観光客を呼ぶ魅力とは言い難かった。
欣秀のような半可通にとっては、気を緩めて散策するのに適した公園である。
「ま、私にとっちゃそれでいいけど。」
本丸まで上ってもそのようすは変わらず、かつて天守があった場所は見事な空き地となっていた。
あるのは広大に広がる黄化した芝生と、その周りに佇む、桜をはじめとした木々のみ。
「天守があれば、城下が見渡せる高さなんだろうが…。」
地べたからでは、木々に邪魔されてその景色が拝めない。
仕方がないので、端に置いてあった本丸家形配置図を見ながら「あそこが倉庫で、あそこが台所で…」と、古代の間取り図に想いを馳せる欣秀ではあったが、それもすぐに止める。
「切ないねえ…。」
かつて、数多の人々がそれぞれの人生を、全うした場所であっても。
時が経てば、その形はおろか、その人たちが生きていたという記憶も、おぼろげである。
わかってはいてもいざ目の当たりで感じる現実に、欣秀は虚しくなる。
呆然と本丸跡を眺めていた欣秀であったが、その瞼に雫が落ちる。
「あっヤベ、雨雲レーダー見るの忘れてた!」
慌ててバックパックから折り畳み傘を取り出そうとするが、こんな時に限って、傘はロケットⅢの方にしまってある。
「うわーなにやってんだ」
自分の準備不足を罵っている間にも、雨足は見るからに強くなり始めている。スコールのようだ。ひとまず多少なりとも濡れるのを避けようと、大木を探そうと辺りを見回す欣秀に。
「厠のほう、屋根がありますよ。こちらに、いらっしゃってください!」
不意にかけられた声があった。振り返ると、白い薄手のコートに身を包んだ、長髪の女性が手を招いている。
(あれ、人いたんだ?)
訝し気に思う欣秀だったが、今はそれどころではない。「さ、早く」と追従を促す女性に言われるがまま、欣秀は駆け出した。
雨粒の音に囲まれながら、パシャパシャとひと際大きな音を立て駆ける二人。女性は、コートが体の邪魔をするためか速度が上がらず、それを追い越すわけにもいかない欣秀の速度も、自然と遅くなる。そしてそのぶん、雨に濡れる。
とても無事…といえる状態ではないが、両者ともに三ノ丸門跡まで戻り、手洗いに併設された、屋根付きのベンチに逃げ込むことができた。
「申し訳ございません。私、昔っから体を動かすのが苦手で…。」
「いえいえ! 助かりましたよ~。」
欣秀の纏う道着とカンフーパンツは薄手のもので、濡れたとしても早々に乾く。袷仕立ての羽織こそ水分を吸収しやすいが、そちらは脱ぎ去ってしまえばよかった。
トレイル仕様のバックパックも、並大抵の雨で浸水するスペックではない。欣秀はベンチの脇にバックパックを立てかけると、その上に羽織をかけ、ドカッとベンチに座る。
大変そうなのは、彼女の方だった。
薄手に見えたが、きめ細かな起毛仕様となっていて暖かそうなコートは、カシミヤだろうか。上品なグレーのそれは、雨水を吸収してその大半が黒く変色し、毛先がダラリと下がってしまっている。
しばらくは「ああ…」と口をへの字に曲げながらコートをパンパンとはたいていた女性だったが、もう遅い。その行為はより水を染みこませるだけだと察すると、衿元で留められていたボタンを外し、コートをスルリと脱ぎ始めた。
「…っ」
コートの下は、半袖にヒザ下丈の、ワンピースであった。様子を眺めていた欣秀の目に、スラリと伸びた白い肌が映り込む。
「ズブ濡れになっちゃいましたね…。大丈夫ですか?」
「わ、私は大丈夫です!」
視線が合いそうになり、反射的に欣秀は目を逸らす。
下心があった訳ではない。いや、本能的にはあったからまじまじと見つめていたのかもしれないが。
申し訳なくなり、欣秀は気恥ずかしくなる。
「寒いのは、慣れとるんで!」
そして、小学校のわんぱく小僧レベルの謎のアピールをする。
「あ、一緒ですね。私も、けっこう鈍いみたいで…あはは。あんまり寒さ、気にならないんですよね。」
が、ただのニブチンだと思われた。
コートを畳みつつ、「ふう」と一息ついて女性が欣秀の隣に座る。髪に滴る雨雫が、見えるほどの距離であった。
男の本能なのだろうか。欣秀は目を見開き、女性の容姿を一瞬で観察する。
真っ直ぐな黒い長髪を華奢なボディラインに這わせ、瞳は切れ長だが、潤んでいて暖かみがあり。湿り気を帯びた艶のある唇は、やわらかい微笑みを浮かべている。
(ヤバイ、美人だな…)
欣秀に、女性経験はなかった。
ドギマギしている欣秀より先に、女性が口を開く。
「変わった格好をされてらっしゃいますね。
着物、久方ぶりにお目にかかりました。もしかして、お侍さん?」
「いえいえ! そんな大層なもんでは。」
日本男児らしく侍に憧れてはいても、いざ言われてみると恥ずかしいものである。
「私、旅人なんです。」
ちょっぴり、このフレーズが気に入っている欣秀であった。
「まあ、旅の方。」
「はい。武者修行の旅、っていうんですかね。
形から入ろうかなって。練習用の道着着て、旅してるんですよ。意外と、身が入るんですよ、これ着てると。」
「へぇ。じゃあ、もしかしてそちらの細長い袋には…。」
鎖の巻かれた、革ケースを女性は指さす。
「あはは、まあ、そうですね。入ってますよ。ご想像のものが。」
「ふふ、まだいらっしゃったんですね。武術に誠実な、そんなお方。」
どこか嬉しそうに、口許に手を当てて女性は笑う。
「しかし、旅、ですか。それは―
大変でしょうね。」
「…お……」
それは、欣秀が心のどこかで、意識せず待っていた言葉だった。
「あはは、そう言ってくれたのは、あなたが初めてですよ。」
「そうなのですか?」
「そうですよ。いつも、気楽なものだとか、楽しそうだ、って言われるんですから。」
女性は意外だとばかりに、眉をひそめる。
「それはおかしなお話ですね。旅、というものは、命の危険すらある、過酷な行程だと存じておりますが。」
「はは、まあ、死ぬかもってのは言い過ぎかもですが。」
旅というのは、元来、危険で、過酷なものである。
今こそ、気楽に観光を楽しむ"旅行"として、扱われているが。
欣秀が憧れた"旅"は、自己研鑽のための道であった。
「そうなんですよ。いっつもお腹空いてるし、毎日、怒られないですむ寝床も探さなきゃだし。今日みたいにズブ濡れになることだって、何度あるか―。…あ、この間なんてね、チンピラにボコボコにされちゃったんですよ~。」
冗談めかしながら話すと、女性はくすくすと笑ってくれる。
「でも、そんなお辛い目に遭われても、旅、続けられるんですね。」
「まあ、そうですね。」
まだ始まったばかりの欣秀の旅だが、楽しいことだってそれなりにあった。旅慣れしていない身には不便も多いが、新しい発見も多い。
それに加えて。
「身内とね、約束したんですよ。
"お前は弱いから、旅でもして強くなってこい"って言われて。」
「まあ。それは豪胆な方がいらっしゃるのですね。」
「はは。まあ、そうですね。
…それにどうしても、一発、ぶん殴ってやりたい奴がいまして。」
欣秀の拳が、自然と握られる。
「だから、修行しながら旅を―なんて、馬鹿みたいですかね。」
真面目くさった会話になりそうだったのを、欣秀は笑って誤魔化す。
「いいではないですか。どのような理由であれ、一度決めた決意を貫き通す殿方は、
かっこいいとおもいますよ。」
「カッコ…いい…。」
殺し文句を言われ、思わず綻んでしまう欣秀であったが。
自分はまだその言葉に相応しくない、と首を振る。
「いいえいいえ、そんな立派なもんじゃないですよ。
…思うんです。」
今日、佐倉の地を回るなかで。のんびりと一人散策をする脇で、忙しなく各々の仕事をするサラリーマンたちや、店の従業員たちを欣秀は思い出す。
「…こんな、仮に達成したところで。誰に褒められるわけでもない、何を得られるかすらわからない、テキトーな旅をするぐらいなら。普通に暮らして、働いてたほうが、立派な人間に成れるんじゃないかなーって。」
気付けば、欣秀は悩みを吐露してしまっていた。
見ず知らずの他人に申し訳なくなるが、旅の恥は掻き捨て、と開き直ることにする。
「大丈夫ですよ」
意外と、女性も迷惑そうではなかった。むしろ、微笑みかけてくれている。
「大丈夫です。そう、難しく考えなくても、いいのではないでしょうか。旅に出ているというだけで、十分勇気のあることなんですから。」
「勇気…。」
「そうですよ。同じように旅に出たら、私だって不安になると思います。…いえ、旅に出る勇気すらないでしょう。」
遠い目をして、女性は続ける。
「ほとんどの者は、みなそうです。住み慣れた地で、一生を終えます。私もそうでした。
でも、後悔するんですよね。もっといろんなところに行けばよかった。いろいろな経験をすればよかった…って。
自分の後悔しない道を、踏み出せている。それだけで貴方は、意味のあることをしている筈です。」
今日出逢ったばかりの人に、こう、微笑みかけてくれる人などいるのだろうか。
まるでその笑みは、子どもを慈しむ、乳母のようである。
体とは裏腹に、欣秀は心が暖かくなるのを感じる。
「少なくも、私とは大違いですよ。いつも失敗ばかりして。役立たずって言われて。悔やんで、ずっとここにいて…。」
「そんなバカな!」
自嘲気味に話す女性に、欣秀は思わず前のめりになる。
「役立たずだなんて、とんでもないですよ。少なくとも私は今、あなたに救われました!」
大仰だが、素直な本心であった。
少しばかり、驚いた女性であったが。
「ふふ、ありがとうございます。」
ぱぁっと、すぐに笑みを浮かべる。
…欣秀は、ついそれに見入り呆気にとられてしまった。
するとちょうど雨が止み、陽の光が僅かに差し込んでくる。
「雨、上がりましたね。」
「そうですね…。」
女性はすっくと立ちあがり、丁寧に欣秀へお辞儀をする。
「旅人さん、こんな私にお付き合いいただき、ありがとうございました。
貴方の旅の御無事を、そして実り多き旅路になることを。心から、お祈りいたします。」
「あ、いえ…。ありがとうございます。お姉さんも、お気をつけて…。」
フッと笑いかけて、女性はさっさとその場を後にしてしまう。
あまりにも唐突で、あっけらかんとした退場なので。欣秀はしばらくその場で、呆けてしまった。
「…………………やっぱ茶でも誘おう。」
下心が芽生えた欣秀は、急ぎバックパックを背負い、駆け出す。
女性が下りて行った林を抜ける階段は、少々道がヤレていて走りにくいが。それでも、人間ぐらいなら追いつける筈である。
そう夢中になって坂を下り切った欣秀だったが、その先に女性の姿はなかった。
「あれ…?」
あるのは、緑に濁った大きな池と、その周りの遊歩道のみ。開けた空間で、そう見失いはしない筈なのだが。
呆然としながら、欣秀は遊歩道を歩いてみる。…と、立て看板が目に入った。
「ここ、姥ヶ池っていうのか…変な名前。」
〝昔、乳母が若君を池のほとりで遊ばせていた際、あやまって若君を溺れさせてしまったという悲しい話が伝わっております〟
「それはまぁ…ドジな乳母がいたんだなぁ。」
乳母。
その単語が、妙に欣秀の脳裏に引っかかった。
「………まさかなぁ。」
池に相対してみると、木々をざわめかせながらゆるりと風が吹く。
まだ雨と土の臭いが混ざっているけれど、どこか落ち着く、優しい風。
欣秀は何故だかそうしたくなって、池に向かって、お辞儀をする。
そして、スッと荷が下りたような軽い足取りで。その場を去った。
ノベルゲーム風にしたものを作ってみました↓
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