第十七話 通備
秋田編
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
「ほぉ…これはまた立派な…。」
目の前にあるのは、巨大な丸。
直径3.71m。”牛の一枚皮を使った世界一の和太鼓”なる、巨大な円筒物である。
北秋田市。道の駅「たかす」そばにある『大太鼓の館』にて、欣秀は収蔵された世界各国の太鼓に見惚れる。
朝方、開いたばかりの館内に他の客はおらず、暇を持て余してか、係員のおばちゃんが親切に説明してくれる。
「近くの綴子神社では、昔から大太鼓を使ったお祭りがされてたんですよぉ。雨乞いのためにねぇ。そんで、町の間で太鼓の大きさを競い合っているうちに、こんなもんができちゃったのよぉ。」
「ハハ。人間ってのは、競い合った末にいつも面白いモンを作りますよね。」
とりわけ、”世界一”なんてものは、過剰な要素がふんだんに盛り込まれがちで。実質的には、ムダなものであることが多い。
しかし、ムダなものにこそ心血を注げる人間の馬鹿らしさを、欣秀は愛おしく思う。現に、自身だって”量産市販車最大排気量”と言われていた、言ってみればムダな見栄をはったものに乗っているのだから。
「ムダを楽しめなくちゃあ、生きてる甲斐がないわな…。」
バチを借り、大太鼓を叩かせてもらうと。胸がすき腹が震える、ムダにデカく、必要以上に爽快な大重音が、館内に響き渡った。
「秋田って、正直あまり詳しくないんですけど。なにかオススメってありますかね?」
「ん”ー、オススメって言われてもねえ…。私が行って好きだったとこといえば、県境にある、栗山山荘から見た鳥海山、田沢湖が見えるアルパこまくさ…―。」
聞きながら、名称をタブレットに打ち込んでみる欣秀。いずれも、現在地からは遠い。加えて、何気くなびいている今の気持ちとしては、
「自然もいいですけど…ここの太鼓みたいに、文化に触れられるものとかないですかね?」
「文化かぃ…西馬音内の盆踊りとか―…、あ! そうよぉ旅人さん。秋田といえば、男鹿でしょ、男鹿! なまはげよぉ!」
「おー…、たしかに…。」
男鹿半島。秋田の北西部に位置する、日本海に面した半島。そこなら、バイクで2時間ほどで着ける。
「行ってみます! ありがとうございま…とと。」
玄関を開けてみると、先ほどの太鼓が雨乞いとなって通じたのか。猛烈なスコールが、ザアザアと音を立てて欣秀の視界を遮る。
「今年の梅雨明けは長くなりそうねぇ。天気がすぐぐずついちゃってやだよぉ。
ホレ旅人さん、ちょうどいただいた”金萬”あるから。これでも食べて、雨宿りしていきなさいな。」
「うーんそうですねぇ…。」
朝っぱらから足止めというのも、気が揉む。
「…だいじょーぶです! 雨には、もう降られ慣れてますから。」
幸か不幸か、北海道での雨中行軍が活きる。加えて、
“暗ぇ中にいるどぎは、それがどった道のりになで、どった風に転げで、明るぇどごろに出でいぐが―”
そんな、烈子の言葉も思い出された。
(この雨の先に、良い景色が待ってる筈さ…たぶんね)
「つえ子だこと。気ぃつけてね。あ、男鹿といえば最近おっかね事件も聞いたから、それも気つけてねー。」
もちっとした薄皮に包まれた、白い餡のお菓子を一ついただいて。
「うまっ! ありがとうございます! 行ってきますねー!」
曇天に似合わぬ頭を垂れない笑顔で、欣秀は雨粒の群れのもとへ躍り出た。
第十七話
通備
国道7号で一気に日本海側へアプローチし、能代へ。
湿気で曇るシールドと、ミサイルのように素肌へ打ち込まれる雨粒に苦しめられつつも。国道101号で海沿いに南下するころには、目論見どおり青空が覗き始める。
青森でも見たような、畑とビニールハウス、木々に囲われた、細っこくぐねぐねした道を走り続けると。やがて男鹿半島の看板にぶちあたり。
そこからは、半島海沿いを沿う県道55号『入道崎寒風山線』に入る。
海沿い…とはいってもある程度内陸に入り込んでおり、交通量は少なく快走路ではあるものの、見えるものはほとんど緑一色。もしくは、住宅街。
半島の北端にあたる入道崎まで行けば、壮大な日本海を臨めるのだが。その楽しみは後に、欣秀はさらに一本道を逸れ、山中へと舵を切る。
「けっこう山奥だけど…ほんとにこんなとこに……お?」
緑が深くなり。雨の湿り気が残っているのか、若干肌寒さも感じる。衣服がなんとか乾いていることに安堵しつつ、眼前に迫る男鹿三山が徐々に大きくなっていくのに圧倒されていると。進路の先に、鳥居を確認する。
参道にまたがるものならまだ珍しくもないが、車が走る道路の上に、鳥居。
否が応にもその下をくぐらされている感があり、絶対的な神域が近いことを、なんとなく感じ取る。
乗車中なので軽く頭を下げつつ、そこを通り。緩やかな坂道を下った先にある、存外余裕のあり、きちんと舗装された駐車場にロケットⅢを駐車。
「意外と車が駐まってるな…?」
こんな山奥なのに、訪れる人が多いのは。それだけ、この”文化”が名の有るものだからだろう。
目当ての場所は、すぐ目の前にあった。
「ここが…”なまはげの館”…ね。」
『なまはげ館・男鹿真山伝承館』。
“男鹿のナマハゲ”といえば、全国的にも広く知られている伝統行事で、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。
ここは、その祭事の仔細が学べる施設である。
男鹿半島のほぼ中心地。虫、鳥の声と、草木の音しか聞こえぬ清閑な地に、立派な石造りの、人工感あふれる施設がある。というギャップにどこか心を躍らせつつ、欣秀はその門をくぐる。
“怠け者はいねが。泣ぐ子はいねがー。”
年の瀬の大晦日。鬼の形相の面をかぶり、村の家々を回って、子供たちを大泣きさせるナマハゲ。苛烈ともいえるその行事の目的は、各家庭の悪事を洗い出し、それを戒めることで、厄を払い吉事を願うことである。
「ただ何もしないで、幸福だけ願うなんて、都合の良すぎる話だもんなー。」
ナマハゲの語源は、囲炉裏で暖をとっていると手足につく火形”ナモミ”を”剥ぐ”ところにある。
年がら年中暖かい場所に留まっている、怠け者。そういった卑しい人間が悔い改めてこそ、神は恵みを与えるのだ。
努力なきもの報われることなき。ナマハゲの歴史を紹介する文や映像に目をとおし、欣秀はうんうんと頷く。
「こりゃあ、私も子供だったら泣くかもなあ…。」
館内を進むと見えてくるのは、所狭しと並べられた、実際に使われたナマハゲ装束。
乱雑に編まれた藁の衣装に、大ぶりの出刃包丁。そして、牙をむき出し、巨大な目をひん剥いた長髪の鬼面。ただ飾られているだけでも圧倒されるのに、これが動くのだと思うと。身の毛が少しばかりよだつ。
ちなみに、ナマハゲと一言にいえどそのスタイルはさまざまで、男鹿半島内にある80近い村々…それぞれで面の色が赤だったり、青、緑、金色だったりと特色がある。
例えばこの真山地区のナマハゲには、角がない。これは、鬼ではなくあくまで神の遣いとされているからだ。
「さらに言うと、秋田県内、東北、果ては九州方面まで…。『アマメハギ』『ホトホト』『アカマタ』…などなど。ナマハゲのような来訪神は、全国にいたりする…と。ほ~。」
さすが民間発祥のならわしなだけあって、細かな取り決めがなかったりするのは。荘厳な神社などで行なわれる祭事よりも、どこか親しみが湧く…。と、欣秀がクスリと笑っていると。目の端が、やや騒がしいのに気づく。
「Please don’t touch it!」
居たのは、外国人のツーリスト一行。ナマハゲの装束たちに感銘を受け、何やらわからぬ言葉でそれを示し、パシャパシャと写真を撮っているのはいいのだが。
展示されているそれに、手を触れようとしている輩もいる。そして、それを制止しようとしている係員も…背の高い金髪で、外国人男性のようであった。
ネイティブらしい英語で止めているにもかかわらず、ツーリストはまるで何も聞こえていないかのように、ペタペタと面を触り続けている。
「外国の人は遠慮ねーなぁ…。」
最近は訪日観光客の過剰殺到…オーバーツーリズムなんてものが話題になっている。てっきり京都のような”定番”の場所だけの話だと思っていたが、こんなところにまでその波が来ているとは。
田舎まで来ていただけるのは嬉しいが、節度が守られた空気が破壊されるのは、残念なような。複雑な気持ちで、欣秀がそれを眺めていると。
バンッ!!
と、係員の外国人が、近くにあった机を猛烈な勢いで叩いた。
「Fuck off!!」
どうやら制止を聞き入れてもらえず、怒り心頭になったようである。東欧人らしいけっこうな高身長に、そこそこの筋肉がついた体が鳴らす、轟音。遠目に見ていた欣秀もビクリとするその迫力に、ツーリストたちは顔を青ざめて、そそくさとその場を後にしていった。
「おっかね…。」
ルールを無遠慮に破るぶん、それを戒めるのも遠慮はなしか。
思わぬところで異文化の様子を垣間見た欣秀もまた、肩をすくめつつ館を進むのであった。
~~
資料館をひととおり見たのち、欣秀はその裏手へ回り、『真山神社』への参道を歩く。
スギだのブナだの、植物には疎い身ではあるが。とにかく背が高く、真っ直ぐに伸びた高木たちが。好き勝手なようで、きちんと参道を避けて生えている中を、歩く。
ここまで山奥のほうへ入ってきたのは、この旅では初めてかもしれない。
館から離れてあらためて耳を澄ませてみると、初夏を思わせる蝉の音が、よく耳に流れ込んでくる。
「それこそ海外の人らからしたら、こういうのは耳障りだって言うらしいけど…。」
この音色がよく聞こえるからこそ、静寂というものを楽しめることを、日本人は知っている。
それに、野鳥たちの鳴き声や羽ばたく音、木々のざわめきを混ぜ込んで。
湿気の混じった土の香りと、雨雫を弾いた草たちの青っぽさが。空気を、思わず深呼吸したくなる味に仕立てて。
「…良い感じ。」
愛車の巨大さゆえに避けてきた山中であったが、海辺とはまた違う天然の癒しが、欣秀の心を包み込む。
勾配を上げていくと、ほどなく社殿への石段が目に入る。
きちっと直方体に並べられた石段が、寸分の狂いなく積みあがっている。脇に備えられた木製の手すりも、よくヤスリがけがされ、木漏れ日を浴びてにわかに光を帯びている。
「さすが、よく手入れがされてるなあ~。」
文化遺産とか、そういうもの関係なく、地元の人々に信心深く扱われているのだろう、とよくわかる面持ち。
見れば、一見乱雑に生えている木々たちも、参道脇は背の低い草花、その後ろに高木たち…と、景観を慮っているのがわかる。
参道に入ってから、一人としてすれちがった人間がいないほどの、人里離れた地。そこに毅然と構える、人工物。
先ほどの資料館と同様、”ヒトはどこでだってなんだってできるな”という畏怖に似た笑みを浮かべながら、欣秀は社まで一気に上る。
社もまた、小ぶりながらよく手入れがされている様子で、柱や屋根、石の土台も、色褪せてこそいるものの、何かが欠けていたり、剥がれていたりといった様子はない。両脇にぶら下げられた溢れんばかりの絵馬たちが、参拝者にも恵まれていることを示している。
そばには、樹齢千年というカヤの樹が、あまねく方向へその太い腕を伸ばしていた。
「こっから、村々まで歩いていくのかぁ…。」
欣秀は振り返り、参道の下を見てみる。が、木々に遮られ、遠くの様子はわからない。
ナマハゲに扮する者たちは、神社で祈祷を受け、酒を飲み、雪深い大晦日の山を下り、村の家々をまわる。
視野が狭く、耐寒性も現代のものではない衣装に身をつつみ、さらにアルコールも入った状態でそれを成すのは、想像以上に堪えることだろう。
真山地区のナマハゲたちには、案内役の先導がつくそうで。加えて、3人1組で10件ほど回ったら、重労働ゆえに他の者と交代するらしい。
「大役だねぇ…私だったら無理だ…お酒飲めない…。」
標高567m。男鹿半島北部に位置する『真山』は、南部の本山、東部の寒風山と並び、古くから山岳信仰が盛んだった場所で、かつては天台宗の道場として丁重に扱われていたらしい。
そんな霊山に、なぜナマハゲが住まうことになったのか。それは、この地に伝わる『鬼の九九九段伝説』にゆかりがある。
「むかしむかし、中国の武帝が連れてきた5人の鬼が。作物を奪うなど村に悪さをしたんです。さらに、きれいな娘をさらうとまでも。
困った村人たちは”一晩で五社堂まで千段の石段を積み上げることができれば、娘を差し出す。できなければ、村から出ていけ”と約束をとりつけたんです。」
「そりゃー無茶難題に聞こえますなあ。」
社務所へ寄り、御朱印をもらいがてら、欣秀は巫女に話をうかがう。
「ところがですね、鬼たちはあっという間に999段を積み上げてしまったんです。
さああと1段―…ということころで、村人が機転を利かせ、一番鶏の鳴き真似をして夜明けを告げました。
すると、鬼たちは負けを悟って、村から去っていったそうです。」
「えー…なんというか、卑怯っちゃ卑怯ですね。」
「ふふ。そうかもしれませんね。もしかしたら、その鬼のイメージと、どこかずる賢いようなシナリオが巡りにめぐって、卑しい人を戒める、ナマハゲに転じたのかもしれません。」
「なるほどねぇ~…。」
少しばかり鬼を不憫に思っている欣秀の前に、御朱印帖が返される。
「ありがとうございます。初穂料は―」
「お気持ちの額で結構でございます。」
(それが一番困るんだよなあ…)
いくらでもいいと言われて、”じゃあ0円でいいや”と貫ける顔の厚い者は、なかなかいないだろう。むしろいくら出そうが”少ないんじゃないか”と不安に思ってしまうのが、日本人気質。
とりあえず、他の神社でも相場であった500円玉を、欣秀は差し出す。巫女はお辞儀をしつつ受け取り、チラと時計を見た。
「そうだ、旅のお方。もうすぐ伝承館の方で、ナマハゲ行事の体験会が開かれますよ。せっかく足を運んでいただけたのですから、よろしければ、ぜひ。」
「お、ぜひぜひ。ありがとうございます。」
本来は大晦日の祭事であるナマハゲ。事前に予定を組んでおかないと、それを見ることは叶わないだろう。それを通常日で体験できるのだから、ありがたいというもの。
青々と揺れる草木に見送られながら、欣秀は参道を下りて行った。
~~
「お晩です。ナマハゲが来たす。」
「おめでとうございます。」
「おめでとうございます。」
資料館の脇にある伝承館は、前者と異なり、男鹿の典型的な曲家づくりの民家を再現した、古めかしく見える木造の家屋。
来訪者たちはその中の座敷に座らせられ、囲炉裏の周りで繰り広げられる、ナマハゲ行事を間近で見ることになる。
戸は閉められ、どこか頼りなく光る、黄色い白熱灯の明かりだけが頼りの屋内は、大晦日の夜に居る気分にさせられる。
「寒びどごよく来てけだずな。」
「山から来るに容易でねがっだす。」
いきなり、何の前触れもなくナマハゲが入ってくる…というわけではなく、各民家には、まずナマハゲの先立が訪問し、挨拶と、ナマハゲを入れてもいいかという許可を得る。
その年に不幸や、病人がいないことが確認できたところで。
「ヴォオ”オ”オ”オ”オ”」
(!!)
まるで地響きのような。同じ人間が出しているとは思えない、胃袋が震えるような重低音の唸り声が、玄関から聞こえてくる。
それに驚く間もなく。引き戸が思い切り叩き開けられ。
「泣ぐごはいねがぁあああ!!」
血を何倍にも濃くしたような深紅の色に染め上げられた、2体のナマハゲの顔が一同の前に飛び出てくる。
(おおこれは…!)
「ヴォオオオオオ!!!」
7回四股を踏んだのち、ドス、ドスンと座っている尻が浮くほどの衝撃を広げながら、ナマハゲたちは家中を練り歩く。
「泣く子いねが! 怠け者いねが! 言うごど聞がねえ子どらはいるが!! 親の面倒見わりぃ嫁はいながぁ!!!」
(思った以上にこええ…!)
何故か作り笑いを必死に浮かべながら、欣秀は目を剥いて縮み上がる。
「ナマハゲさん、まんず座って酒っこ飲んでくんなんしょ。」
「おめでとうございます。」
「おめでとうございます。」
(ナマハゲもおめでとうって言うんだ…)
暴れくるっていたナマハゲたちは、あらかじめ用意されていた膳の前に促されると、一転してきちんとそこに正座する。
「おやじ、今年の作はなんとだった。」
「お陰でいい作でああったすでば。」
「んだか。またい作なるよう拝んでぐがらな。
子供らはみなまじめに勉強しでっが。」
「おらいの子供ら、まじめで言うごどもよぐ聞ぐいい子だがら。」
「どらどらぁ。本当だか。帳面見てみるがな。」
ナマハゲは、懐から古めかしい紙が束ねられた、帳簿を開く。そこに、村の人々の行ないが記録されているのだ。
「なになに、テレビばり見で何も勉強さねし。手伝いもさねて書いてあっど。」
(全部お見通しなの…?)
「おやじ、子供らもし言うごど聞がねがっただ。手っこ三つただげ。へば、いづでも山から降りて来るがらな。
…どれ、もうひどげり探してみるが。」
ナマハゲたちは、再び四股を踏むと、また家中を叫びながら歩き回る。今度は、座敷に座る観客たちのほうまで来て。
「怠けもんはいねがぁーー!!」
出刃包丁を振りかざして、観客たちを圧倒するナマハゲたち。その迫力に喜んだり、笑顔になって写真を撮る者もいれば。欣秀はというと。
「真面目にやっでっがぁあああ!!」
「ハィイイやってますぅうう!!」
背筋を伸ばし、少しばかりの涙を浮かべていた。
(青森では練習サボってごめんなさい…! 秋田美人との出逢いとか期待してごめんなさい!! 昨日の晩御飯、横着してカップ麺でごめんなさぃいい!!)
~~
体験会が終わると、戸が開かれ、日の光が差し込むことで現実に引き戻される。
脈打つ心臓を落ち着かせながら、欣秀は座敷に落ちている藁を、ひょいと拾いあげる。ナマハゲの衣装から落ちたもので、持ち帰ると、厄除けのお守りになるらしい。
「もうちょっと真面目に生きよう…。」
それをハチマキのように額に当てたりしながら、伝承館から出ようとする。ちょうど次の会もすぐ始められるのか、室内へ案内される観光客たちとすれ違う形となった。
欣秀が居た会より少し大人数。先ほど、資料館で見た外国人ツーリストたちだった。
「Heyyy! Take your shoes off!!」
デジャヴのような声が聞こえて、欣秀は振り返る。資料館で見た外国人スタッフがまた、ツーリストたちに声を荒げていた。
土足で畳に上がろうとするツーリストたちを咎めているようだが、何故だか彼らは聞こえぬようす。玄関にそのままの足で押し寄せる。
すると外国人スタッフが、近くにあった長柄のレーキを手に取る。それを振りかぶったところで、欣秀は慌てて駆け寄り―
「へ、ヘイ! ストップストップ!」
危うくツーリストたちに振り下ろされそうになっていたレーキを、掴み取る。
「What…?」
外国人スタッフの怒りの目が怪訝なものになって、欣秀に向けられる。2mはあろうという恵体が、眉間にしわを寄せ、こちらを見下ろす。欣秀は思わず委縮するが、なんとか対話を試みた。
「ボウリョク…ヨクナイ…。えっと…ヴァイオレンス…? ノー…!」
手でバッテンを作ったりしながら、カタコトのすぎる英語で欣秀が説得を試みる間に。ほかの日本人スタッフたちの手によって、ツーリストたちはきちんと靴を脱ぎ、家屋の中へ行儀よく入っていった。
その様子に溜飲が下がったのか、外国人スタッフは肩を落とし、レーキを下げる。
「ああ。ごめんなさい。私、怒ってしまうやすくて…。」
少々変なクセはあるが、そのスタッフはかなり流暢な日本語で、欣秀に詫びを入れ、丁寧にお辞儀をする。
「ああ、いえいえ! わかればノープロブレムベリーマッチ問題なっしんぐですよ!」
その礼儀正しい振る舞いにかえって拍子抜けした欣秀の言語は、もはや意味不明だった。
~~
「どうぞ。」
「あ、わざわざ申し訳ないです。お仕事中にすみません。」
「いえ、いえ。恩返しは大事な礼儀です。それに、わたし最近いそがしくないので。」
外国人スタッフに誘われ、欣秀は資料館のベンチに腰掛ける。スタッフは自販機で買ったペットボトルの茶と、自らの手を差し出した。
「サムソンです。オーストラリアから来ました。何卒よろしくお願いいたします。」
「欣秀です。こちらこそよろしく……日本語、ほんとうにお上手ですね。」
「ガキのころから日本語好きで、たくさん勉強してきたから。」
合間合間に過度に丁寧な言葉や、若者の言い回しが混じっているのが、なんとも日本語慣れした外国人らしい。
サムソンが隣に座っても、欣秀は顔を見上げる形。あらためて見ても、ガッシリとしたなかなかの体つきであった。短いポニーテールに結ばれた金髪と碧眼が相まって、映画の登場人物のようだと、欣秀は少し緊張する。
「だから、日本のルール、弁えない人、きらいです。」
竹を割るようにスパッと好き嫌いを述べるのも、海外勢らしかった。
「はは。まぁ、日本のルールを教えてあげるのは嬉しいですけど。ちょっと怒りすぎじゃないですか? 違う国の方々なんだから。理解できないルールがあるのも無理はないですって。」
「そんなことないです。郷に入っては郷に従え。少なくとも彼らは、最低限の日本語ぐらいは勉強してくるべきです。当たり前のように英語を使ってくる。彼らはプライドを持ちすぎです。」
「…まぁ…そうかもですね…?」
東京に居たときは外国人と接する機会もあった欣秀だから、いわんとしていることはわかる。英語が話せない日本人なりに、ゆっくり話したりと気遣いを見せるのに、あちらは遠慮なく猛スピードの英語でまくしたててくる…。正直、”ここは日本なのに”とうんざりしている人もいるだろう。
が、それを言えないのも日本人で。こうして本音を外の国の人が言ってくれるのは、有難いような、申し訳ないような気持ちになる。
「そんな彼らを見るのが嫌で、帰化したあとは田舎にまで来ましたが。最近は、こんな所へ来るツーリストもたくさん増えました。したがって、トラブルも、たくさん増えました。」
「(こんな所…)そうですねぇ…。」
オーバーツーリズムというものだろう。日本で代表的なのは、京都。年間5,000万ほどのツーリストが押しかけ、東山や嵐山は歩けないほど混み合うという。それだけならまだしも、ゴミは散らかり、また舞妓を追いかけ写真を撮る非礼の輩もいるそうだ。
海外を見てもこの流れはあり、例えばイタリアのヴェネツィアでは入島税が設定され、スペインやギリシャでは、観光客に対するデモや抗議活動なども行なわれている。
「日本の文化は素晴らしいです。風景は美しいです。でも、そこに外国人が映り込むと、ルール守らない人がいると、本当にイライラします。」
「ま、まぁ…旅行にいらしてるんですから、多少は浮かれちゃうんじゃないですか? サムスンさんも海外から来たのなら、わかりません?」
「私も外国人だからこそ、わからないんです。自分たちの常識を持ち込んで、押し付けて。その国を汚すことが、どれほど愚かな行為なのか。
世界は今、グローバルになってます。いろんな人がいろんな国に行けます。だから、いろんな国が、看板とか…ツーリスト向けのガイド作ります。でも私は、やりすぎだと思います。少なくとも自分たちの文化を壊してまで、ツーリストを受け入れる必要はないと思います。」
観光客は貴重な財源であり、また文化を発信する媒体でもある。だから、彼らが快適に過ごせるための整備は、すべきなのだろう。
しかし、それを推し進めていった先に、本来の伝えたかった文化は残っているのだろうか。日本語よりも英語が上に書いてある看板に、日本の原風景はあるのか。敬語は使えないが英語の単語はわかる子どもたちは、日本人と呼べるのか。
サムスンの言うとおり、世界は今、グローバル化という地均しによって、個々の個性は失われ、平坦な、つまらない様相に成り果てようとしている。
「難しい問題ですねぇ…。」
言われていることは理解できるが、欣秀にとってはスケールが大きすぎて、諦めに似た無力感しか湧かなかった。サムスンは苦笑いをする。
「そうですね。わかります。私もこんなことばっかり言っているから、同じ国の友達たちにはよく笑われました。”お前はジャパニーズ症候群だ”って。」
「なんですかそれ。パリ症候群みたいな?」
「ちょっと違います。ええと、何と言いますか。
もし、欣秀さんが海外に遊びに行って。そこの風景や文化を楽しんでいたとしましょう。そこで、日本人の団体などを目にしたら、どう思いますか?」
「どう…? …んー。なんというか、せっかく海外に来たのに、日本語を耳にしたら…ぶち壊しというか、ちょっと台無しに感じちゃうかもですね。」
「そうなんです。私もそれと同じ。悪い癖だとは思います。だけど、どうしても私のあ愛する日本で、ツーリストたちを見かけると、失礼なことすると。どうしようもなくイライラしてしまいます。
思っちゃいます。”私の日本から出ていけ!”って。」
“情けないですよね”、と。それこそ日本人のようにサムスンはその高い背を少しばかり曲げる。
「まぁ、まぁ。言われてみれば、その気持ちはわかりますよ。当然の反応ですから、そう自分を責めなくていーのでは。
しかしまぁたしかに、ツーリストの方たちも大事にしつつ、日本も大事にできる、解決策がないとですねー。」
「…たぶん、そう。ロジカルな問題ではないと、思うんです。」
励まそうと努める欣秀ではあったが、サムスンの頭は垂れたまま。
「私は、日本が好きです。それに、グローバルな言葉の英語が母国語だ、っていう、生まれたときのリードに慢心するのも、良くないと思って。日本語、いっぱい勉強しました。文化いっぱい勉強しました。
それでやっと、友達ができて、仕事ができて。やっと受け入れられたんです。
…だけど、このままツーリストが増えてきたら。失礼なツーリストが増えてきたら。私も、彼らと同じように思われると思うんです。ただお金を使ってくれればいい、迷惑な観光客だって。」
オーバーツーリズムへの対策といった、論理的なものでは解決できない。サムスンの感じる恐怖は、もっと本能的なものだった。
「自分は違う、あの人たちとは違う。自分は努力したんだ、礼儀を知ってるんだ、日本人と同じように扱って…って、馬鹿みたいですけど、思っちゃうんですよね。」
ようやく手に入れた居場所を、奪われてしまうのではないか。そんな原始的な恐怖こそが、サムスンを苛んでいる。
「まぁ…その…なんというか。大丈夫ですよ。日本人として言わせてもらうと、私たちはそんな、十把一絡げにしないというか…ちょっと話せば、サムスンさんが”違う”ってことは、わかると思いますよ。…大丈夫です。」
相変わらず、人を励ますのが苦手なのだな、と欣秀は言いながら辛くなる。外見だけですぐに判断する日本人だって、ごまんといるじゃないか。
「…そうですね。ありがとうございます。幸い、ここの村の人たちはみんな優しくて、すぐ受け入れてくれましたし。ここの生活、好きです。いろいろな伝説もあって、勉強するのも、楽しいです。」
「へぇ。ナマハゲ館にもその影響で勤めてるんです?」
「はい。山の伝説、神様。とても面白いです。」
溜飲が、この地域での良い思い出で押し込められたのか。サムスンの顔には笑顔が戻り、この付近の神社を探索したこと、野草を採取して料理したこと、大晦日にナマハゲになれたことなどなどを、嬉しそうに語り続ける。
「日本の昔話は、とても面白いですね。ルール守らない、卑怯な人が、罰を受けるのは。良い話です。卑怯な人、弱い人、私は嫌いですから。彼らはとてもCoolです。」
そのテンションの上がり下がり様や、大げさに両手を使って話すさまは、さすがに外国人らしいままだな、と。欣秀は胸中で笑うのだった。
「私、日本の神様のこと、とても好きです。次はもっと神様の気持ち、知りたいんです。」
~~
なまはげ館から、海へ向けて。約15km。男鹿半島の北端に、入道崎はある。
道路のすぐ脇から広がる、背の低い草たちが敷き詰められた草原は。海を臨むまでに、のんびりと5分は歩かなければという広大さ。
その荒波で削り取られた岸壁に立てば、青い日本海が、青い空と繋がるさまが、目の端を超えてよく観察できる。
「…なるほど。この看板も長くもったほうだけんどなあ。やっぱ潮でダメになんな。」
灯台や、少しばかりのモニュメントのほか人工物がないその大草原の入り口で。二人組の作業員が、注意書きがまとめられた大型の看板を撤去する。
「おやっさん。これ、新しいのは今日中に立てるんで?」
「いや、明日。なに、1日ぐらいこれなくても大丈夫だべ。この吹きっさらしの強い日、火遊びやキャンプなんてするやつ、おらんて。」
「ですね。今晩は降るらしいですし。」
手際よくボルトを外していき、作業員は看板を支柱から外して軽トラに載せ。その場をあとにする。それと交差するように、3気筒の音が響いてきた。
~~
「うん、小ぶりだけどなかなか身が詰まってて、うまい!」
入道崎から道路を挟んだパーキングエリアにて、欣秀は秋田名物・ハタハタの天丼をかっ喰らう。
“馬の息でも煮える”といわれるほど火が通りやすいその身は、骨が簡単に身と離れやすく。滞ることなく、ライディングで疲れたその身に吸収されていった。
「あらためて見ても、壮観な眺めかな、入道崎。しばらくのんびりしたいよ。」
虫も少ないようだ。と、欣秀は草地に腰を下ろし、のんびりと海を眺めて。タブレットで写真を整理し、イマキタグラムに上げたりして…また立ち上がって散策をしてみたりと、なかなか名残惜しそうに岬に留まる。
「…ん? お? もしかしてここって、テント張っていいのかな?」
岬の案内板を見ていた欣秀は、他の観光地で見てきた”キャンプ禁止”といった案内板がないことに気づく。
「他にやってる人はいないけど…ルール違反ってことではないよね?
…なら、今日はもう。ここで寝ちまうか!」
野宿自体は慣れてきたが、未だにその夜を越す寝床が見つからないときの不安感と焦燥感は、たまらないものである。
それをクリアできた欣秀は、草原へと大の字になって寝転がる。そして雲が立ち込め、風が冷たさを帯びるころになって。いそいそとテントを立てるのだった。
それがルール違反とは知る由もなしに。
~~
シュラフにくるまるころには、雨粒が天幕を叩く音が聞こえてくる。
岬らしく吹き付ける風も強く、テントがバタバタと揺れる。
もっとも、北海道の荒天に比べればまだ生ぬるいもので、恐怖心というものはあまり湧いてこない。
むしろ、不規則なようでリズムを刻んでいるようなそれらの音は、天然の子守歌のようで。欣秀の入眠を容易いものにする。
安堵に満ちた眠りは、時として無意識に、心底にある暗いものを露骨にさせる。
そして大抵そういったものは、夢として認識されるのだ。
「…馬鹿なんでしょうかね。自分の体が傷ついて、済むんだったら。それでもいいんじゃないか、って思えるんですよね。」
「ええ。本当に馬鹿ですね。あなたが傷を負ったところで、何かできるわけでもないでしょうに。」
夕闇が差し迫る函館の空を背に、真玲は笑顔で話す。
「だって磐城さんは弱いじゃないですか。現に今もこうして、地に伏せていますし。
弱い方が自己犠牲の精神を奮い立たせたところで、無駄なだけですよ。」
「………。」
「………別に。旅してりゃ、失敗もするでしょ。初めて尽くしのことが、旅なんだからさ。大事なのはそれを反省して、やり方を変えてくことだと思うけど。」
「…そーなんかな……。でも、だとしたら磐城っちは、どーしよーもないよね。
“強くなるんだ守るんだー”なんて意気込みながら、結局何もできてないじゃん。
ナイフを見たら委縮しちゃうし。その反省はできてるの? 結果良ければすべてヨシ、自分はよくやった…って、勝手に成長したと思ってるんじゃない?
実際は全然強くなんてなってないのにさ。」
「欣秀さん………! 守ってくれて、ありがとうございました…!!」
「いえ…あれはただ……―」
「はい。運がよかっただけです。ゴロツキ相手にたまたま不意打ちが通って、勝てただけなんですよ。」
頬に落ちる涙は、ひどく冷たい。楓はどこかあざけるように、子供をあやすように口を尖らせる。
「だから、今後は無茶をしないで。おとなしく過ごしてくださいね。こんなことされても、迷惑なんです。
旅なんてやめてもいいじゃないですか。
だって欣秀さん、弱いんですから。」
弱い。
弱い。
弱い、か。
「…わかってるよ。父さんが俺のこと、そういう目で見てたってのは。
でもだからってそんな言い方ないだろ。散々子供に要求しておいて、最後に吐くのはそんなセリフかよ…―っ!」
鼻っ柱に衝撃が走る。
振り上げていた拳は、下ろすことがかなわず。代わりに、腰が冷たい廊下に打ち付けられる。俊秀は、それを身じろぎせずに見下ろす。
「そうやって無様に這いつくばっているな。お前は、いつも。
それがお前なんだ、欣秀。親を殴ることもできず、ただただ弱弱しく佇んでいるしかない。決して強くない人間なんだ、お前は。
そういう人間は、素直に先人の、親の言うことを聞いておけばいい。それができないんだったら、さっきみたいな結論になるのも至極当然だろう?」
口内ににじむ鉄の味が、忘れられない。
「修行すてらんだっけ? 男の子だはんで、傷はづぎものがもすれねばってさ。
おばぢゃん、あんまり痛ぇ目には遭ってほすくねなあ。」
「でも、強くなりたいんです。」
「身の丈にあったごどすろじゃ。どうけっぱったって、なっきゃつえぐなんかなれねじゃ。」
「なんだ旅人、こういうのも苦手か。魚も釣れねえ強くもなれねえ。都会でスーツ着てた方がよっぽどマシなんじゃないか。」
「でも…。」
「お兄ちゃん、大して強くなかったんだね。それなのに偉そうに子供に積極して。なんかダサいね。」
「私は…。」
「旅の中で、己だけの答えを見つける―とかなんとか言っていたのに、貴殿、あきれるな! そんな遠くまで行って、何もまだ得ていないではないか!」
泰葉が腹の立つ高笑いを上げる。
何も言い返せない。
けれど、やはり無性に腹が立つから、それに向かって歩み寄る。
と、何かが足に引っかかる。振り返る。
蹴った石が蛇の頭を打ち付ける。怒ったのか、蛇はこちらに矢の如くこちらに飛び込んでくる。
悲鳴も上げられずにいると、それは目の前で口を開け
「起きてください!!!」
瞬間、怒号のような重振動が腹の底を揺らす。
(太鼓か? いや、違う。ここは大太鼓の館じゃない…)
テントの中だ。
欣秀は目を見開き、とっ散らかった頭の中を整理する。
「夢だよな…。」
体を起こし、軽く眼球を動かせば、見慣れたテントの中の景色。少々羽毛が飛び出てきているシュラフと、乱雑にまとめられた帯、隅に寄せてあるバックパックたち…。
旅の相棒たちを見つめ、欣秀は心臓を落ち着かせようとする…が、すぐにそれは閃光によって妨げられる。
次いで、ピシャンッという激しい轟音。雷だ。
「……こんな、嵐みたいになる日だったのか…。」
気づけば、雨音もだいぶ激しくなってきている。
目の前を白く染める雷鳴も、間隔が短い。
(まあ、落ちはしないだろう…)
嵐に遭ったとて、旅人としてはどうすることもできない。テントの中で、じっとやりすごすのみだ。
むしろ、こんな状況になる前に寝床を設営できて良かった…と、欣秀は深呼吸をし、再びシュラフに潜りこもうとする。
(稲光だけが、ちょっと目にうるさいな…)
…と、そこで違和感に気づく。
雷が煌めくたび、天幕が白く染まる。それはいい。光を浴びているからだ。
だが、この影はなんだ。
白く染まるキャンバスの中に、何か、四つの肢があるような影が浮かび上がっている。
「これは…」
これは。
人じゃないのか。
瞬間、鳥肌がゾワッと立ち、欣秀の背が伸びる。
(なんで…?)
誰かが立っている。
この嵐の中。
そして、恐らくこちらを見ている。
じっと、みじろぎせず。
(距離はあるはず…)
天幕に映し出される影は巨大だが、それは光源に対象が近いから。
妙なところで冷静に頭が働くが、冷汗は止まらない。
「…9割がた、危なそうな人だよね……。」
こんな状況で、こんな場所に一人でいる人間が、まともなワケがない。
やりすごすか。向こうはこちらに気づいていないかもしれない。
いや、この何もない原っぱの中、一つだけあるテントを見逃す筈がない。
(テントに何かされても困るし――)
意を決して、欣秀は道着を素早く纏い、刀ケースをひっつかんで、フライシートのファスナーを開ける。
夏場らしい、生温かな雨がたちまち頭に降り注ぐ。一瞬、目を細めるが、すぐに見開いて、件の陰を探す。
「………。」
佇んでいたのは、やはり人影であった。
予想通り距離は空いており、それがマントのような外套を羽織っているのが辛うじて確認できる。
そして予想どおり―それは、こちらを見つめているようだった。
(…もはや後戻りはできないよな…)
旅を続けて、随分と肝も太くなってきたものだ。と欣秀は恐怖を紛らわしつつ、息を吸い込み、
「すみませーーん! 何かようですかーーーーー!?」
同じく恐れを拭い去るように、半ば震える声で、しかし全力で叫んでみた。
人影は、身じろぎ一つしない。
(なんなんだ…? 気が触れている人なのか―)
瞬間、雨雲が張り裂けるように天が煌めく。
真っ暗だった草原が、一瞬、白く染め上げられた。
その瞬間に、欣秀はしっかりと見た。
こちらをじっと見つめている人影が、角を持っていることを。
(!? 違う、あれは―)
面だった。まるで血のように深い、赤色で染められた…鬼の面を、その陰はかぶっている。
ゴロゴロゴロ―と雷鳴が響くとともに、欣秀の鳥肌が全て逆立つ。
「なん、、、だ、あの、人――!?」
ユウレイなんているわけがない。そんなことはもうとっくにわかっている。
だが同時に知っている。”人間こそが本当に恐ろしい”ということも。
憤怒の形相を掲げたその陰が、雷鳴を合図にしたかのように。一歩、一歩と淡々と近づき始めた。
「っ!」
後ずさる。こともできないほど、欣秀は恐怖で身が固まる。
(なんなんだあの人――?! ナマハゲのコスプレ!? やっぱり変質者―?)
再び、草原が白く染まる。
先ほどよりも近づき、欣秀よりひと回りは大きい背丈が確認できるその輪郭の手には――おおよそ2m弱はある、太く厚い出刃包丁が握られていた。
欣秀は確信する。
あれは人であって人でない。
思考が、世の常から外れてしまった人間。
いわば、鬼だ。
欣秀の体がやっと動く。
が、なにをどうすればいいかわからず、ただただたじろぐ。
(どうする―!? テントを撤収して…る暇はない)
動機が激しくなる。
(荷物は諦めて、逃げるか…!? いや、それじゃあ旅が―!)
歯が鳴り始める。
(今はそれどころじゃないだろ! …いやでも、ここで諦めたら―!!)
それを、思いっきり嚙み締めた。
「私だって、強い………、旅人に――!」
ケースから二振りの刀を取り出し、即座に抜刀して。欣秀はそれを鬼に突きつける。
「あなた何なんですか! こっちに来ないでください!」
鬼は聞こえないとばかりに、歩むスピードを緩めない。
「斬りますよ!」
距離が10mにまで近づく。その姿がはっきりと確認できる。
外套こそフード付きのコートであったが、装束は欣秀と同様、和風の生地で固められている。
それが、出刃包丁を諸手で抱え上げ、構えた。
「この―!」
話が通じないもどかしさが、欣秀の内にある幾分かの恐怖を、怒りへと変えた。
(どこで売ってんだよそんな包丁―!)
もはや多少傷つけるのは止むを得まい―と、覚悟を決めたのなら。あとは先手必勝である。
後ろ足を強く蹴りだし、半身の姿勢のまま。欣秀は、本差をその禍々しい面へと打ち下ろす―と同時に、鬼もまた、出刃包丁を横に薙いでくる。あちらもまた、覚悟はとうにできていたよう。
カウンターを警戒して半身に進んでいた欣秀は、踏み込みの軌道をとっさに変え、想定していたタイミングで振られたそれを難なく躱す―が、出刃包丁のリーチが予想よりも長かった。切っ先が、わずかに脇腹をかすめる。
(危うい―!)
雨水でぬかるんだ地面に若干足を取られながらも、すぐに姿勢を直し、鬼に向き合い、構えるために腕を上げる…と、鋭い熱さが脇腹に広がる。
傷を受けた箇所を確認することはしなかった。赤いそれを見てしまったら、痛みをさらに認識してしまいそうだから。
(オモチャじゃ…ないみたいだなぁ)
ただ、”斬られた”という事実確認さえできれば。それでいい。
…と、落ち着いて現状把握に努める欣秀であったが、把握すればするほど、心拍数は上がってゆく。
(ホントに……異常者…だよな。それってつまり―)
本気で殺されるかもしれない、ということである。
心臓が冷たい手で撫でられたかのような怖気が、身を一瞬で駆け上がる。
(いや、死ぬかもしれないなんてこと、今回が初めてじゃないだろ……!)
強がりのように両の刀を握りしめ、欣秀はあらためてその鬼を見る。
2mはあるかという巨大な恵体が、出刃包丁を掲げ、静かに間合いを詰めて来ている。
(デカい…恐い…けど、さっきの太刀筋を見る限り、動きは遅い…!)
ふぅっと息を吸い込み、欣秀は再び鬼に突進する。
(桐谷さんの物干し竿に比べれば、こんなもの容易に見切れる!)
物干し竿の迎撃を避けて間合いを詰め、脇差で一気に決める。
踏み込んでくる欣秀に対して、鬼は予想通り出刃包丁を振り下ろしてくる。
(よし、これを避ければ―)
唐竹の軌道。少し体を横へとずらせば、難なく躱せる太刀筋。
横っ飛びをするため、足に力を込める。
その際、地面が濡れていることを反射的に再認識する。…と、瞬間、脳裏に懸念がよぎった。
(もし、ここで足が滑りでもしたら、脳天に包丁が下ろされて――)
死ぬ。
「っ!」
足さばきをせず、欣秀はその場に踏みとどまって。とっさに本差と脇差を頭上に掲げた。出刃包丁を正直に受ける形。
ガンっという金属が打ち合う重低音が響くとともに、欣秀の体は沈み、若干のけぞる。その隙を見逃さず、鬼はさらに打ち込んでくる。
「くそっ」
受け身になってしまった。
次の太刀筋は袈裟斬り。これも体さばきで難なく避けられそうである―が。
再び金属音が鳴り、欣秀はまた身じろぐ。
ガン、ガン、ガンーー
ふらつく体に、容赦なく出刃包丁が振り下ろされる。
完全な防戦状態。欣秀の刀は、一向に反撃の色を見せない。
(わかっちゃいるのに―!)
体が動かない。
何故なら、今までの戦いとは訳が違う。
名も知れぬ異常者に唐突に襲われ、本気で命を狙われているのだ。
一歩間違えれば、旅どころではない。ここで人生が終わってしまう。
そんな冷酷な現実を突きつけられ、欣秀の体は恐怖に飲み込まれている。
リスクを冒してリターンを得る、反撃の一歩を踏み出せないのだ。
それでも、仕掛けなければ勝ちがないこともわかっている。
一定のリズムとなって予想しやすくなった出刃包丁の連撃を、欣秀はついに受け流す。
僅かに鬼の姿勢が崩れたところを見逃さず、脇差をその脇腹へと打ち込んだ。
「っ!?」
浅い。
肉体に直接打ち込めた感覚がない。
おそらく、着物の下に何か着込んでいるのだろう。
しかしそれよりも、何より打撃の気迫というものが足りなかった。
硬直した体は思う存分に腕を伸ばすこともできず、遠心力を載せられなかった脇差は、なんとも儚い虚弱さ。
真玲との決闘で見せた剛刀が、嘘のようであった。
情けない体たらくの己を省みる間もなく、間合いを詰めてきた欣秀の顔面へと、鬼の拳が迫る。
「ぶっ―!!」
鈍い音と共に、首がへし折れようかという衝撃が頭に響く。
たとえ巨大な出刃包丁が振れない至近距離でも、その巨大な肉体は容赦なく欣秀を叩きのめす。
その打ち込みは凄まじく、欣秀の足は地を離れ、数メートルほど飛ばされる。
ここまで強烈に殴られたのは―二度目だ。
一瞬、走馬灯のような逡巡をしたのち、地面に叩きつけられた痛みで欣秀は我に返り、すぐさま起き上がる。
(吹っ飛ばされてばっかだな…私の人生)
打ち身の痛みなど慣れたもの。それよりも、鼻っ柱で鳴りやまない鈍痛が、その意識を苛む。
鼻血が淀みなく流れ落ち、口に幾ばくかが入ってくる。
舌と、鼻腔から喉へと流れ落ちた赤い液体が、腔内を鉄臭さで満たし、拭いようのない不快感が精神を覆う。
眼球も衝撃を受けているようで、涙が止まらない。
必死に目を開けるが、雨粒と時折煌めく稲光で、視界が安定しない。
「ヒキ…ヒ……ヨワイ……ルサ……」
雨風に乗って、鬼が何がしか呟いている。聴覚に問題はないが、役に立つ情報が入ってこない。
草が足を触る感覚。風に揺れる衣服の感覚。雨粒に打たれる細やかな皮膚の振動。
触覚も正常だが、得られるすべてが、うすら寒く感じてくる。
と、突然、それら総ての感覚が、意識から消え去る。
代わりに、脳裏に。いや、心の中心に、ただ一つの考えが照らされる。
死ぬんだ、私―。
…そうだ、不自由ない日常に慣れていたせいで。
知らなかったんだ。世界に、保証された安全なんてないって。
こんな、訳の分からない人の手で、意味もなく、あっけなく壊されてしまうほど。
ヒトの人生なんて儚いのに。
頭でわかった気になって、それでも”大丈夫だろ”、なんて覚悟で旅に出て。
なるほど。確かに馬鹿だったかもなぁ―
薄暗い病院の廊下で、同じく無機質なほど感情を見せない、父さんの背を見つめる。
唇がわずかに震える。昔から、私は緊張に弱い。
でも言わなくちゃ。母さんが残してくれたことを、正々堂々と受け取りたいから。
わざとらしく息を吸い込んで、一息に声を浴びせる。
「父さん! 私、旅に出ようと思う!」
壁のようになっていた父さんの体が、ピクリとだけ動いた。
「なに? 旅に出るだと?」
だけどもすぐにまた微動だにしなくなって、そのまま肩越しに聞いてくる。
「母さんがこんな状態で、馬鹿なこと言ってるってのは分かってる。でも―」
「勝手にしろ」
ようやく振り向いたその顔は、恐ろしいほど怒りに満ちた顔でも、胸が苦しくなるような悲しい顔でもない―
ただただ、仮面のような無表情だった。
「…え?」
まるで、路傍の石を眺めるかのように。なんの興味もないという眼差しで、言ってくる。それは。
「勝手にしろと言っている。親の役にも立てない、お前なんてな―――」
死んだって問題ない
「っ―」
まるで一瞬、世界が止まったような錯覚に至った。
その刹那、欣秀の心中に、凄まじい速さで思いが巡る。
そうだ。死んでしまったら
あいつの顔をぶん殴ることもできない
今まで出会った人たちに、会うこともできない
新しい景色を、見ることもできない。
死にたくない。
死んでられない。
「生きたい…っ」
こんなところで死んでたまるか。
普段、様々な感情が入り混じる欣秀の心が、ただ一つの想いで満たされる。
生きる。
生物の持つ、最も根源にある本能的欲求。
歪んでいた視界が、ふと暗くなる。
鬼がすぐそばまで肉迫していた。
出刃包丁が叩き下ろされる。
刃が目で追えなくなるその瞬間まで、欣秀の体は身じろぎしない。
骨が割れ、肉が飛び出し、鮮血が舞い散る。
そんな光景を、鬼は容易に想像した。
ドスン。と、包丁が地面に叩きつけられる音が響く。
しかしながら空に揺れたのは。
欣秀の髪、数本だけだった。
「?」
文字通り間一髪、欣秀は僅かにだけ体をずらし、その太刀筋を避けていた。
完全に捉えたと確信していた鬼は、一瞬呆気にとられる。
その目下で、二本の光が煌めき、
「グッ」
その腹に、強い打撃の衝撃が走る。
至近距離で、両の刀が鬼に叩き込まれる。
近距離で遠心力が不十分なこと、やはり装甲代わりに衣類を着込んでいることから、致命傷には至っていない。
すかさず、よろめいた鬼に肘打ちも加えられる。
腹部より上、肋骨の辺りの狙い。そちらは少し効果があった模様。
苦しげな声をあげつつ、鬼が後退して距離をとる。
その間に欣秀は顔をぬぐい、涙や血など、鬱陶しいものを総て消し去る。
相変わらず絶えない雨と稲光のせいで、視界は悪いが。
その瞳は場違いなほど澄んでいて、鬼だけでなく、目に映る総てを平等に観察するように平然としている。
この場を生き残るためには。
即ち、勝たなくてはいけない。
その勝利のために。恐怖に揺れ動く瞳など、まったくもって不要なのだ。
そして及び腰も不要。
欣秀は真っ直ぐに鬼に駆け出す。
また、タイミングを合わされ出刃包丁が袈裟に振るわれる。
鬼としては、その威圧で突進を緩ませたかったが。欣秀は逆に踏み込みを強め、袈裟斬りの死角へと一気に切迫し、そして脇差で突きを放つ。
その切っ先は重ねられた生地を貫き、鬼の腹に達する。
鬼はすかさず身をひねり、間一髪のところで致命傷を避ける。脇差に塗れた血は、僅かばかりという結果に。
「ッ…」
「…!」
互いに納得しない形となり。舌打ちと歯ぎしりが鳴る。
闘争心が熱を帯び始めた。
逃さないとばかりに欣秀は鬼に接近。
それに対して、出刃包丁の柄を短めに握り、鬼は先ほどまでよりもキメ細かな乱撃を振るう。
避けている余裕はない。
ならばと、欣秀は両の刀を構え、太刀を受け流す…だけでなく、全身をかがませ、捻らせ、その威力を徹底的に空振りさせる。
敵の放つ力の向きを、無害な方向へと変える。太極拳などに代表される、中国武術の”化頸”。
本来、徒手空拳で行なわれるそれを、体から刀へと延長させた動きに発展させ、欣秀は出刃包丁を悉く躱す。
こんなことを、欣秀はしたことがなかった。しかし、できると思った。まるで、刀が体の一部のように思え、関節が増えた腕を持っているように感じる、今ならば。
打撃が衝突する瞬間を見定め、攻め手の体は、無意識にその刹那へ向けて各関節を強張らせたり、緩めたりする。ある点は衝撃に備えるため、ある点は、敵にエネルギーをぶつけるため。
しかし、その予期していた衝突が空振り、ないし完璧に受け流されると。予備動作として間接に溜められていた力は、行き場を失い、かえって本人の疲労を蓄積させる。
その腕に加わるはずの衝撃が、悉くおあずけを喰らい、鬼は確実に疲弊する。”当たる”と思っていたものが裏切られるだけに、単に避けられるよりもタチが悪い。
体だけでなく、精神も苛立たせ、出刃包丁はより乱舞する。
セオリーなどない、滅茶苦茶に怒り狂った刃の振り回し。常人ならば思わず距離をとるそれだが、欣秀は至近距離から離れようとしない。
一つひとつの太刀筋が、何故だかわかるから。恐怖心がないから、敵のようすを冷静に観察できる。
刃の動きだけでなく、手首、腕、肩、胴体までもが一挙に見えるから、次の一手がわかる。
土のぬかるみ、衣服の擦れ、関節の鳴り…そういったものも聴こえるから、次の足さばきが予測できる。
まるで手押しされる暖簾のように。風に揺れる柳のように。欣秀の体はゆらりゆらりと出刃包丁をいなしつづける。ストレスが溜まりに溜まった鬼は、渾身の一歩で、欣秀の脳天めがけ唐竹を振り下ろす―
その盛大な一歩を、欣秀は見逃さなかった。
度重なる化頸を決められ、体のコントロールが上手くいっていないこともあり、鬼の足は力の制御を誤り、思いっきり雨水に濡れた土で滑る。
振りかぶった出刃包丁も虚しく宙を漂う、完璧な隙。
鬼の目には、まさにその眼球を狙う、脇差の切っ先が映った。
無理やりにでも胴体をひねり、頭をずらす。
欣秀はそれもわかっていた。絶対的な致命傷は、なにがなんでも避けることを。
だから欣秀は、その脇差を。鬼の右肩へと刺突させる。
「―!」
機動力に関わる関節には、さすがに衣類を重ねられまい。
突きは見事にクリーンヒットし、欣秀は左手に確かな手ごたえを感じる。
そのまま追撃を重ねたかったが、やはりタフなのか、鬼はすかさず左腕で殴りかかってきたため、欣秀はいったん距離をとる。
今、何をすべきなのか。
それが、手に取るようにわかる。
そして、それを叶えるため、体が淀みなく動く。
なぜこうも合理的に動けるのか。不思議でたまらなく思いたいところだが、今の欣秀には、その不思議に思うことすら無駄であった。
何故ならその心は、ただ一つ。”勝つ”ことのみで統一されているから。
敵への情けも、猜疑心も、恐怖も。己を弱く思う恥も。
余計なものを、総て削ぎ落した先で。唯一つ残るものは、極限まで研ぎ澄まされた、人を動かす至上の原動力だ。
それは、体に刻まれた記憶を意識以上に呼び起こし、深く考えずとも、四肢が経験に基づいて、最適な行動を示す。
欣秀にとっての経験とは、今までの鍛錬総て。拳の使い方、理論。そして取り巻く事象やそれへの対処。即ち、通備拳の掲げる『理象会通』。
そして、旅で育んできた、淀みなく動く体と、実戦の経験。即ち、通備拳の『体用具備』。
思考を挟まない本能が、迅速に体に刻まれた理論を呼び起こす。
本能と理性の融合。
極限にまで追い込まれたことで、欣秀は今、その”通備の境地”に立っていた。
駆け出す。
傷を与えた相手に、息つく暇など与えない。
鬼は血を流しつつも出刃包丁を構え、再び迎えうつ。が、先ほどまでの剣勢はない。
一の太刀を欣秀は難なく躱し、逆に二つの刃で攻め立てる。一転攻勢。今度は鬼が、それを凌ぐ形となった。
力任せな動きのようで、多少は心得があるのか。手負いの巨躯とは思えない身のこなしで、欣秀の攻撃をなんとかかわす。
思いのほか反射神経が鋭い。そんな相手に、どうすべきか。欣秀はかねてより読む五輪書より、その答えを得ている。
(二の腰の拍子―!)
唐竹に振り下ろすよう、欣秀は思い切り本差を振り上げる。
鬼は反射的に、それを横っ飛びで躱す――が、そのどてっ腹を、脇差が薙いだ。
「ン”ッ」
太刀筋をわざと相手に読ませ、本命の一撃を別の角度から打ち込む。
中国武術でいうところの”虚実”―嘘と実の拳を交えて攻める手法。
もだえる鬼に、さらに容赦なく虚実を押し込む。
突きと見せかけ、さらに詰め寄せて薙ぎ。
袈裟と見せかけ、突き。
左薙ぎと見せかけ、右袈裟―。
小回りを利かせた斬撃だけに、一撃一撃は軽いが。鬼の各所に、着実にダメージを与えていく。それでも、鬼の足さばき自体は衰えを見せない。
(それを奪う―!)
ふとした拍子に、本差が鬼の顔面めがけ、大きくフルスイングされる。
打点の高い一撃を、鬼はのけぞる形で難なく避ける。
もちろんこれも嘘。
振るわれた本差は、そのまま勢いを落とさぬまま欣秀の頭上で一回転され、再び顔面へ―
と思わせたところで、欣秀の身が急に屈み、剣筋が急降下。
遠心力を多分にのせられた一撃が、鬼のスネへと叩き込まれる。
劈掛拳の”青龍掌”。本来は拳で相手の裾を持ち上げ、引き倒す技である。
機動力は奪った。
あとは叩きのめすだけ。
足を引きずりながら後退する鬼を、本差と脇差が容赦なく襲う。
避けることがままならないため、鬼は致命傷を必死に太い腕で受け止め続ける。
その腕を完膚なきまでにへし折るとばかりに、欣秀は前進。潮の香りが鼻孔に入り始める。海へとつながる崖が近い。このまま押し切れば、そこへ落とすこともできるだろう。
というところで、鬼の息が一瞬止まるのを聴く。反撃に転ずる予兆。
「ヴォアアア」
背に水が近いことを鬼も悟ったのか、多少の刀が直撃することは承知のうえで、その上から出刃包丁を振り下ろす。最後のひと振りとばかりに、体ごとのしかかる勢いで。
だが。獲物の破壊力を活かすのに、距離が近すぎた。そのうえ、その不意打ちは完全に読まれている。
欣秀はうろたえず、出刃包丁を支えるその腕を脇差で跳ね上げー
両腕を風車のように回しつつ身を翻し、鬼の突進を半回転する形で避け、背後をとり。
そのまま、回転させていた右腕―、本差で、鬼の背中を思い切り叩きつけた。
劈掛拳の”倒発鳥雷”。
鞭のような遠心力で鉄の塊をぶつけられ、鬼は悶絶し、崩れ落ちる。
その後ろ首筋に、欣秀は最後の一撃を突き立て―
「っ!?」
ようとした腕が、鬼に掴まれる。
油断。ではない。鬼の尋常ならざる頑強さと、後ろに目があるかの如く正確に突きを避けた勘が、常識で考えられる想定を遥かに上回ったのだ。
欣秀の両足が、大地から離れる。
「ヴアアアアアアアアアアアア」
雄叫びをあげながら、鬼は全身の力を振り絞り、欣秀の体を振り回し。
海へ向かい、思い切り投じた。
「―――っっ!!」
天地が逆転する。
が、この感覚は前も味わったことがある。体が覚えている。
暗闇の中、黒い波が轟々とうねっている光景の中で。崖の端を、欣秀の眼はしっかりととらえる。
咄嗟に宙で身をよじり、その地の終わりへと向かい、本差を思い切り突き立てる。
飛ばされる力にブレーキがかけられ、なんとか欣秀は崖っぷちへぶら下がる形に。
“ガキン”
右手の中より、金属がひずむ感覚が伝わる。
「…っ!」
構わず、アドレナリンが溢れた全身の膂力を総動員し、刺した本差を支えに、崖上へと跳び上がる。なんとか大地に舞い戻った。が、その瞬間にもまた、掌に金属が泣く声が伝わる。
それに気を取られている暇はない。視界に映る鬼は―再び、出刃包丁を脇に構えている。
次が最後か。
雑念が散り、脳が滑らかに演算しているからこそ、わかる。
乱打を浴びせ続けた鬼はもとより、己の身も疲弊していることが。これ以上長引けば、動きが鈍くなる。
この一撃で決める―。
この感覚もまた、覚えのあるものだ。
しかしあの時の結果は惨敗であった。
(同じやり方では、同じ結果しか得られない)
捨て身の一撃では、ダメだ。そんなもの、より力のある者の前では、紙束に等しい。
無念無想の打。それは誤っていたのか。
(―いや)
欣秀は、駆け出す。
いつものように。真っ直ぐに。馬鹿正直に。
いつだってそうだった。この旅を決めた時から。
自分の得たいもののためなら、迷いなく、恐れなく、突っ走る。
その先で得られたものは、良いものであったり、悪いものであったりと。散々だったが。
それでも、それを繰り返してきた欣秀だからこそ、今の欣秀に成ったのだ。
獣が如く、前傾で突っ込んでいく欣秀は、速度を緩めぬまま本差を振りかぶる。
鬼は、それを真っ二つに断ち切らんとばかりに、正真正銘、最後の力を総て使って、大出刃包丁を一文字に薙ぐ。
(トラエタ!)
風切り音が轟き、雨音がかき消える。
見ろ。卑怯者の腹から上が、宙に跳ね飛んだ。
規則を守らぬ輩は、弱くて愚かなのだ。そんな奴らは、こうして誅してやらねば、痛い目に遭わせなければ、学習しない。
ほら見ろ、あの悔しそうな顔が落ちて―
(……?)
そんな姿はどこにもなかった。
欣秀の姿は、消えた。
(ドコダ!)
出刃包丁が薙がれ、真空となっていた眼前に、風が舞い戻ってくる。
うすら寒いほどの圧が、足元より吹き上がってきた。
(! シタ!)
真っ黒なその影は、大地にその身を預けるように伏していた。
朴歩。
中国武術における、歩形のひとつ。
ストレッチにおける深い伸脚のような姿勢は、もっぱら体練として馴染まれるのだが。そこからさらに上体を伏せれば、体はほぼ地面と平行。下段以外のほぼ全ての攻撃を避けられる形となる。
欣秀は斬撃を浴びようかという刹那、一気に体を沈ませ、スライディングの要領で鬼の足元へと潜り込んでいた。
「―ッ!」
もっともスライディングと違い、この姿勢は足でしっかりと地に踏ん張っている状態。ここから、それを思い切り蹴りだせば―
「ウォオオオ!!」
伏せていた筋肉がバネとなり、上への力強い発勁が生み出される。
「!!」
鬼が気づくころには、もう遅い。意識は動いても、全身で薙いだ体は動かない。
昇竜が如く、地から天へと、思い切りその身を跳躍させた欣秀は。
逆手に持った脇差で、鬼の面を一直線に斬り上げる。
バコォオオオオオン!!
木製であろう面が、快活なほどの音を上げて割れる。
無論、面があったとて鬼も無傷ではない。アゴをかち上げられ、倒れんかとばかりに上体がのけぞる。
欣秀はそこへ、ダメ押しとばかりに、跳躍した体が落ちる勢いを使って。
「オオオラァアアア!!」
本差を、殴りつけるかのように叩きつけた。
打撃音と、金属が弾ける音とで、バンッと鈍い音が鳴り響く。
鬼は、ついに。仰向けとなって、倒れた。
「はぁっはぁっはぁっ、はぁっ! はぁっ…!」
欣秀も2,3歩下がり、膝をつく。
全身の筋肉を酷使しすぎた。もう、立っていられない。意識も、もう繋ぐのが限界だ。
だがそれでも、地に伏した鬼の姿を。自らが打ち倒した巨躯を見つめる目は、逸らさない。
「はぁっ…はぁ……」。
息を整えると、自らが至った場への実感が湧いてくる。
「そうか…これこそが…」
無念無想。
何も考えず、ただただ無意味に猪突猛進、捨て身をするのが、無念無想の真意ではない。
雑念を捨て、体が十二分に滑らかに動くよう至ったうえで。持ちうる知識と経験を反射的に総動員して、最適な一撃を放つ―。
誰でもできる突進じゃない。武者修行をした者でなければ、できない一撃。
欣秀はそんな気づきを反芻していると、とらえていた巨体が、僅かに浮かび上がったように見える。
いや。
「……まじかよ…。」
鬼は、ゆっくりと。地に手をつき、ゆらりと。起き上がった。
(くそ…)
もう、もう無理だ。
これ以上は、体が動かない。視覚も途切れる。
それでも、最後まで敵から目を背けるな、とばかりに。欣秀は鬼の顔をとらえる。
「……ツヨイ…ナ…」
何を言っているかわからないが、唇が動いている。そうだ。面が割れたのだった。
一体どんな顔をしているのか。そう、欣秀は視線を上げようとするが。
瞬間、意識が途切れた。金髪の奥で鈍く光る、碧眼のみを網膜に焼き付けて。
~~
赤く燃え上がる瞼の裏が熱くて、思わず身をよじる。
すると、頬に葉が当たってはずみで跳ね上がり、それが鼻をくすぐって、くしゃみを一つ。
その衝撃で、欣秀は目を覚ます。
「……っ…!」
目を開けようとして、すぐにまた閉じる。眩しいほどの快晴だった。
天幕で遮らない朝日が、ここまで刺激的だとは。たまには地面にそのまま横たわるのも悪くない。
(……………)
「…ん。」
なぜ、テントの外で寝てるのだ自分は。瞬時に脳が覚醒し、昨晩の出来事がフラッシュバックされる。
「……夢。……いつつ。」
あまりにも現実離れした経験。途切れている記憶。夢だと思わないほうがおかしい。
が、起き上がろうとすると全身に走る鈍痛が、現実であったと主張する。
「……いい天気だな。」
上体を起こすと、大海原からの風が、寝ぼけた顔に真正面から吹き付けてくる。
雫が残った草たちの香りが辺りに満ち、とても心地の良い目覚め。
無意識に握り続けていた、両の刀からもようやく掌が離れる。
「………あの…ナマハゲ……? コスプレイヤー…?
一体……何者なんだ…。」
爽快な朝の空間。思考がすぐに冴えわたってくる。しばし、この明朝を堪能していたいところだったが。
「…って、アイツしかいねぇだろ! 話の流れ的に!」
沸々と湧き上がる怒りを胸に、欣秀は即急にテントを撤収し始めた。
~~
「外国人のスタッフいませんか!!」
なまはげ館のエントランスでにこやかに案内をしているスタッフに、欣秀は食らいつくように問いただす。
「外国人の方…ですか?」
「そう! あの背ェ高くて! 金髪で! 青い目の!」
こちとら危うく死にかけたのだ。文句の一つでも言わないと気が済まない。畳みかける欣秀の迫力に圧されるスタッフのもとへ、先輩らしい年配の女性スタッフが寄ってくる。
「…もしかして、サムちゃんのことですか?」
「! あ、そうそう! サムスンって外国人! 昨日ここで会ったんですよ! それで、何を考えてんのかその後―」
「昨日…ここで…ですか?」
「そうですよ! 今日はいないんですか!?」
躍起になる欣秀に対して、スタッフは困惑するばかり。その様子は不手際を隠そうとかそういったものではなく、ただただ混乱しているようである。
その態度を見て、欣秀もまた疑念の色を顔に映す。
「……なんなんです? 私、何か変なこと言ってます?」
「あ、いえいえ! ただ…。」
スタッフたちは顔を見合わせたのち、申し訳なさそうに答える。
「サムちゃんはその…辞めちゃったんです。半年ほど前から…。」
「………え?」
~~
入道崎を過ぎ、半島の西海岸を沿う県道121・59号は、東側とは一転。左に丘陵を覆う緑、右に青く輝く海が続く、爽快路。
起伏のある絶壁スレスレを駆け抜ける行程は、まるで乗用車のCMで、外国人がニヤケ顔を浮かべながら走る道路のようだ。
時折スタンディングをして、その贅沢な風を全身で受ける欣秀であったが。その胸の内は、どうも煮え切らない。
“サムちゃんはね、とってもいい子だったのよ。日本語上手だし、接客も丁寧だし。
困ったお客さんが来た時も、必ず助けてくれたりね。
ただ、ある日突然、「辞めたいです」って言ってきて。理由を聞いたら、なんだかもっと、神様とかについて勉強したいとか言ってねぇ。あれからとんと連絡もこなくなっちゃって。寂しいと思ってたのよ。”
断崖絶壁の道は、港へと高度を下げる。日本海から打ち付けるさざ波と、ゴジラ岩を横目に見ながら、欣秀はつぶやく。
「そんなのまるで……幽霊じゃんかよ……。」
思考を巡らせている瞬間にも、キツいカーブはやってくる。
『兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に替る事なかれ。常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして―』
五輪書・水ノ巻の一訓。兵法において、戦闘時でも心の持ちようは平時と変わらず、張りすぎてはいけない。逆に平時もまた、ある程度の緊張感を保っていなくてはいけない。
危険ともいえるライディングの中に居ながら、心落ち着くひと時を過ごすモーターサイクルというものは。ある意味、宮本武蔵の理想なのかもしれない。
「……もしかしたら、この旅を進んでいること自体が…。」
『男鹿いがったがぁ? へばまんつ気をつけでな』
半島の終わり、道の駅に掲げられた垂れ幕を見て。
まぁ。なんというか。結果的には良かったか。
と、欣秀は苦笑した。
~~
三日ほど経ち、道の駅『象潟』。
国に指定された”重点道の駅”で、欣秀は温泉などに浸かって疲れを癒す。と、辺りはもう夕暮れ時。
「明日は…この秋田ともお別れか。」
穏やかなようで、力強く白波を立てる海と、風になびき尾を描くほうき雲を要する空が、橙色へと染まってゆく。
日本の夕日百選とやらにも選ばれるそこで、欣秀は今日も、拳を振るう。
沖捶、単劈手、戳脚…。拳の形からつま先の角度まで、細かなところを、いつもどおりに研鑽する。
人知れず、ただただ地道に。アクション映画のようにカメラマンがいる訳ではない。地味で、お金がもらえる訳でもない作業を、黙々と繰り返す。
「…でも、それでいいんだ。……そう、理象会通、体用具備……だ。」
何度でも、何百回でも繰り返すことで、体に覚えこませる。考えずとも、意識せずとも、咄嗟に技術を引き出せるように。
才能のない欣秀にとって、強くなる道はやはりこれしかない。
あらためてそれに気づかされただけでも、儲けものだと。今となっては、あの鬼に欣秀は感謝の意を示す。
「それに……。」
駐車場の隅に駐めてある、ロケットⅢを見やる。
まだまだ47都道府県の半分も経ていないのに、随分とくたびれているようにも見える。雨風と日焼けで、メッキも、掛けてある羽織も、積載されたバッグもボロボロだ。ああ、あの重たいバッグを下ろして、また今日もテントを張らなくては。
苦難を抱えるばかりで、本当に、やる必要なんてない、旅。
しかし、それへと踏み出したのは。他の誰でもない。欣秀自身。誰の指図も受けていない、欣秀が、自身の力で、自身の意思で成し遂げた一歩なのだ。
いざという土壇場で、一歩踏み出せる勇気。
どんなに恐くても、無価値と言われても。その先に意味があると信じて、突き進める覚悟。
そしてその先で得たものを、大切に、いつまでも胸に焼き付けられる意思。
「照れくさい言葉だけど………勇気。いつだって、どこにだって突っ込んでいける勇気こそが……私の”強さ”なんだろうな。」
真玲のような才能や、恵まれた体は持っていない。しかし、この勇気だけは。絶対に手放したくない。誰にも負けないほど大きくしたい。何故ならこれこそが、自分だけの強さだから。
もう、自分は永遠に弱いのだなどと、泣き言を吐いたりはしない。
まだまだ強いとはいえないが。死闘を経て、強くなれる確信を得られた。
「この旅に出たことが。この旅を続けていることが。俺の強さなんだ。」
自分の強さとは何か。その答を得た欣秀の心は。沈む煌陽が如く、かつてないほど、赤赤と燃え盛っていた。
風来譚 二章 終




