第十四話 淡紫に胸を撫でられて
北海道編
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
『接近』
「了解。」
『ラスト、シルバー乗用57(ゴーナナ)』
「…シルバー57、確認しました。こちら無し。」
『りょーかい、こちらも無し』
北海道富良野市。国道237から少し外れた、とある直線道路。
『せっきーん』
「了解。」
『軽トラック1台のみー』
「了解。通過後流します。」
『りょうかいー』
見渡すばかりの田んぼ。薄曇りを映した灰色の水面で、稲たちが青い頭を揺らす、のんびりとした昼前の景色。
「ラスト、バイク。」
『りょうかい、こちらなーし』
「継続します。」
その中で、赤と緑の手旗を規律正しく振る、細身の警備員の姿があった。片側交互通行の端で、風にゆらゆらと揺れる旗をしつけるよう、警備員は音を鳴らしつつそれを振る。車両に通行を促し、通過時にキッチリ30度の一礼をすると、無線機で反対側の警備員に状況を送信する。
「ラスト、ブルーワゴン81(ハチイチ)。」
『ハチイチ了解…っと。こちら無し』
「了解。こちらもなし。」
『…いや~! はじめは無口な子だから心配だったけど、相変わらずデキる子だね~! 桐谷ちゃん! ほんと助かるよ~』
「…お褒めのお言葉、痛み入ります。が、三浦さん。現在は職務中ですので。無駄な無線は控えることを提案します。」
『あららゴメン! こりゃ失敬!』
『はは、いいオッサンが娘に叱られてやんの。お二人さん、配置変えようや。ずっと片交は疲れんでしょ。内側のバケット見ててくれや。』
「了解しました。」
桐谷真玲は、交通誘導警備員の業務に従事していた。
第十四話
淡紫に胸を撫でられて
「やっぱ二級持ちは違うよねぇ~。そういやさ、この前は釧路のほうに居たんだって?」
4台の高所作業車―通称"バケット"が、歩道を挟んだ道路沿いに連なる電柱に各々取りつき、高度無線の作業をする。
警備員は1台につき一人つく4人体制となっていて、必然的に両端の二名は片側交互通行の誘導役、その内側につく二人は、車や歩行者の飛び込み防止という、要するに"ラク"な役回りとなっていた。
「どうしてこっちきたんだい? 引っ越しかい?」
小柄で頼りないが笑顔は絶えない―所謂ニクめない年配警備員・三浦が、真玲に暇を持て余すよう話しかける。
職務に関係のない…というより、勤務中であろうがなかろうが無駄話を好まない真玲。無視を決め込もうとするものの、しつこさに押され口を開く。
「…半年ほど前から、北海道の各所を回っております。警備の業務には、その路銀を賄うために従事しております。」
「あーなるほど! 旅人さんだったんだね~! どーりでバイクにも荷物がいっぱいなワケだ~。」
北海道の地を周回しつつ、修行を続ける真玲。旅を続けていればいずれ直面する資金の問題を、彼女は警備のアルバイトをすることで補っていた。
需要が高く、飛び込み・短期でもOK。日給制で、日払いも可。"交通誘導警備業務検定二級"を所持していれば、長ったらしい講習を受ける必要もなく、面接したその日から即戦力になれる。
スケジュール調整がしやすいそれらの要素は、旅人にとって都合の良いものだ。
特に生真面目な真玲にとって、この職はよくマッチしていた。その業務内容には一切の不手際がなく、雇用側からの評価は例外なく高い。富良野で就くこととなった警備会社も、前の会社からのお墨付きで紹介してもらったものであった。"北海道を渡り歩く優秀な女警備員"の噂が、じわじわと広がり始めているほどである。
「にしてもアルバイトしてまで旅を続けたいだなんて、よっぽど北海道を気に入ってくれたんだねぇ。」
無論、真玲とてある程度の旅費は用意してこの地に赴いたのだが、それが尽きかけるほど、その旅は長引いている。
「"気に入っている"…そういう解釈も、可能であるかと。」
「というと、違う理由でも?」
「…私はまだ、目的を達していないと認識しておりますので。」
「ほ~どんな目的?」
「………。」
さすがに話し込みすぎであると、真玲は口をつぐむ。三浦もそれを察して、苦笑いしつつ絡むのを止めた。
そう。真玲の目的は、まだ果たせていなかった。土地勘のない未踏の大地に飛び込み、寒さ熱さを住処のない環境で凌く。豊富な自然と向き合うことで体を鍛え、野生の精神を研ぎ澄ませる。
強くなる。ただ一つの、真玲の目的。それを彼女自身は、まだ達成していないと判断していた。
「……………。」
現に真玲は先日、敗けたのだから。肉体も技術も劣っている、同じ旅人に。
『歩行者とおりまーす』
「!」
苦い記憶をぶり返し、珍しく遠くを見つめていた真玲の焦点が、無線の声で引き戻される。作業帯に近づく二人の歩行者を確認すると、真玲は頭上のバケットにいる作業員に声をかける。
「申し訳ありません、歩行者が通ります。落下物がないよう、一度作業を中断していただけないでしょうか。」
「あい、了解よ~。」
作業車のブームが縮められ、歩道の頭上がクリアになったことを確認すると、真玲は迫る歩行者に近づき、白手袋をはめた手で通行を促す。
「ご迷惑をおかけします。どうぞ、お通りください。」
歩行者は、中学生ほどのポニーテールをした娘と、目が細くなるほど皴のできた老父であった。作業着を着た老父は両手にバケツとクワを持ち、娘は片手にテミを、もう片腕は…骨折したのか、吊っていた。
その二人に対し、まるで貴族にでも接するかのように完璧なお辞儀をしてみせる真玲。だが、彼らは足を止める。
「…?」
真玲が疑問を孕み二人を見やると、娘は「あ~っと…」と吊っていない方の手を挙げ、申し訳なさげに話し出す。
「ごめんなさいお姉さん、ちょっとそこの畑に、用がありまして…。」
「畑…?」
娘が指を差した先には、確かに土が敷かれた一帯があった。歩道の脇に、幅1メートルほど。道に沿って、100メートルほど伸びた区画がある。必要がないので舗装されていない、ただのヤレた区間…だと思っていた真玲だが、よく見てみれば雑草は抜き取られ、ほどよく耕されているように思えなくもない。
「そこに花さ植えんのにさ、肥料と石灰撒きに来たんだけっど。お邪魔になっちゃったかねぇ。」
そう言う老父のバケツに入っているのは、堆肥のようである。数メートル先の空き地に軽トラが停まっているので、そこから持ってきたようだ。
「…成る程。」
安全やクレーム防止のため、作業箇所一帯ではあらかじめ工事案内のPRが行なわれる。が、それは付近の家主に対してであるのが一般的。遠方に住んでいる者が、工事を知らずに現場へ来てしまうことは稀にある。
工事は基本、一般人優先である。が、彼らの畑の用事を待っていたら、こちらの作業が遅くなる。対処に悩む真玲が仏頂面になっていると、「あ~いいよいいよ! その人ら通してあげて!」と、事情を聞いていた作業員が声をかけてくれた。
「よろしいのでしょうか。」
「いいよいいよ、どうせもうスパハンはあらかた付け終わって。あとは中通しするだけだから。今日の区間はみんなバケットも使えるし…。俺らは先に飯にしちまうべよ。」
「了解しました。」
真玲は一旦車両をどかすので、気兼ねなく作業にあたっていただきたい旨を二人に伝える。
「おお、かんにんな! したっけ、パッと済ますべ、カオリちゃん。」
「うん! ありがとうございます!」
作業員たちは数十メートル離れた大きめの待避所へと車両を移動し、昼食を摂る。警備員たちも移動用の車をそこに置いてあったので、一緒に食事することに。ただ真玲だけは、愛車・CRF250ラリーを現場脇に停められたこともあり、"現場の道具を見張っておきます"という体で、一人飯を摂ることになった。
もちろん本音は、無用な会話をしたくないからである。
真玲はラリーにもたれかかりながら、コンビニのおにぎり3個にかぶりつく。
見回しても、特筆するものがない景色。その視線は、自然と動く物体…。先ほどの娘と老人に移っていた。
娘がテミを使って肥料を撒いていき、老父がクワで肥料が撒かれた土を耕していっている。そう広くない幅の畑である。1時間経つ頃には、作業区間を抜けていそうな早さだった。娘も、吊った腕を器用に支えにしながら、要領よく肥料を撒いている。
(素直に休んでいればいいものを…)
見たところ娘は学校に通っているであろう齢で、この作業を仕事として行なっている可能性は極めて低い。つまり従事する義務のない作業に思えた。なんなら、あの程度なら老父一人だけでも十分こなせそうにも見える。
であれば、ムリに動かず、ケガをした腕の完治に努めた方が、原状復帰も早まり、よっぽど有意義である。
「非効率的…。」
冷めた独白をしたのち、食事を終えた真玲はラリーにもたれかかったまま、目を閉じて仮眠をとった。
そして1時間の昼休憩が終わる頃、真玲は完璧な体内時計によって目を覚ます。例の二人は…もうすぐ、作業区間から抜けられるところまで進んでいる。作業を無事再開できそうだと安堵した真玲は、固まった身体をほぐすため、ストレッチを始める。
待避所にいる作業員たちも休憩を終え、現場に戻る支度をしている頃。煙草を吸う若い男性が、件の歩道へと進入してきた。真玲はなんの気なしにその様子を眺める。と、男は通りすがりに、吸い終わったタバコを畑へとポイ捨てした。
「……。」
マナーの悪い男だな。と、真玲も思う。が、特に行動を起こすことはなかった。ここで注意して逆上されては、無駄な時間を費やすことになるし、それを収めたとしても、あの男が改心するとは考えにくい。
いちいち注意したところで、世界から吸い殻のポイ捨てが1%も減ることはない。つまり、行動しても無駄なのだ。
そんなやるせなさよりも、真玲にはもっと懸念することがあった。それは、ポイ捨てされたのが畑を耕す二人の、目と鼻の先だったことである。当然、二人がそれに気づかない訳もなく。
「ちょっと! 何するんですか!」
と、娘が男に声立てる。
「……やめておけばいいものを………。」
真玲は額に手を当て、起こってしまった面倒ごとにため息をつく。
「あぁー?」
お世辞にも目つきが良いとはいえない男が、娘へと向き直る。
「これ! タバコ! 捨てないでくれません!?」
「お~、わりぃわりぃ。ついクセでさ。」
と悪ぶれずその場を離れようとする男の肩を、娘は勇ましくも吊っていない腕で捕まえる。
「拾ってきなさいよ! アンタの汚いツバがついた吸い殻をねぇ、ラベンダーたちの寝床に入れたくないのよ!」
「ハァ? そんなのテメェが片付けりゃいいじゃねーか。あんたらの土地なんだろ? 自分らで責任とれや。」
「あきれた! 不法投棄しておいて、そんな屁理屈言えるんだー! あんたってガキなんだね!」
「ちょっとちょっと、カオリちゃんや…。」
ヒートアップする娘と男。おろおろする老父。そんな様子を見て、真玲はただ
(早く終わってほしい…)
と祈る。作業車に先駆けて、警備員たちはもうすぐそこまで歩いてきている。
「ポイ捨てぐらいどこだってあんでしょ~? いちいち怒ってたら、シワ増えちゃうよ~お嬢ちゃん。」
「余計なお世話ですー! それに"みんながやってるから"ってのは、やっていい理由にはなりませんよねー!?」
物々しい雰囲気に、警備員たちは真玲に駆け寄ってくる。
「桐谷ちゃん桐谷ちゃん、いったいこりゃどしたんだい?」
「口論が発生しました。」
「発生しましたって…。止めないと~。」
「私たちは警察官ではありません。警備業法第十五条にあるとおり、警備業務は公的権限を行使し得る警察業務とは本質的に異なっています。私たちが他人の権利および自由を侵害することは―」
「そんなこと言ってる場合じゃないよう!」
「………。」
真玲が閉口している間にも口論は激化し、男はついに娘の肩に手をかけて。
「生意気なガキだなぁ!」
娘を乱暴に押しのけた。体格差もあり、娘はあっけなく後ろへと転倒する。片腕だけで上手く受け身はとれなかったようだが、柔らかい土のおかげで軽傷のようである。…軽傷ゆえに、娘は音を上げなかった。
「った! あんた暴力も振るうとか、サイッテー!」
「ほら! もうケガ人が出ちゃいそうだよ!?」
「…そうですね。」
そんなに心配なら、自分たちで行動すればいいだろう。という呆れも混ぜつつ、真玲は動かざるを得なくなった理由に、またため息をつく。
「違法性阻却事由を確認したため、対処します。」
「あんまり調子こいて正義ヅラしてっとさぁ~、マジで痛い目見んよ!?」
「申し訳ありません。よろしいでしょうか。」
前のめりになる男の肩に、真玲が背後から手を載せる。それを振り払いながら向き直った男は、今度は真玲へと睨みを利かせる。
「なんですか~アンタは。」
「ここ一帯で交通誘導警備業務に従事している者です。」
真玲は気圧されることなく微動だにせず、普段通りの無表情で応対する。
「お言葉ですが。それ以上に暴力を行使しますと、暴行罪、もしくは傷害罪にあたる可能性があります。その場合、警備員の立場からすると現行犯逮捕を行なうことを期待されるため―」
「なんだ~? またごちゃごちゃとめんどくせぇ女が出てきたな!」
男が啖呵を切って真玲の左手首を掴む。と、すかさず、真玲は左足を男の右足外側に近づけると同時に、左肘を男の右前腕に押し付けた。そして左足先を軸に体を右に勢いよく回転させ、肘で男の半身を押しのけつつ、掴んだ手を振りほどく。
「っとと…なんだこのアマ。」
正確な線引きは曖昧だが、法律において"武術"はしばしば"武器"として見なされる。正当防衛にまつわる話になった時、武術を修めている者がそれを以て対処をすると、過剰防衛と判断されることもある。それを受けて真玲は、警備員に広く教示される護身術『肘寄せ』で対処した。
身長こそさほど変わらないが、女性にあっけなく拘束を振りほどかれた男。そのプライドに傷がついたのか、今度は真玲の胸倉へと手を伸ばす。
「アンタも調子こいてっと―ブフォ!?」
が、真玲はその手をあっけなく横へと弾き、がら空きになった男の顔面へと掌底を突き出す。同じく護身術の『突き離し』。真玲としては十分に手加減したつもりだったが、顎をかちあげられた男は後方へと飛ばされ、無様に尻もちをつく。
「~~! クソアマ、テメェマジで―」
悪態をつこうとした男だが、顔を上げれば目の前には巨大な影が立っている。
「あの………。これ以上は続けないほうが、お互いのためになると思うのですが。」
冷たく放たれる、真玲の言葉。男を見下ろすその目には、動揺や怒りはおろか、嘲笑や哀れみといった感情は一切ない。業務中に見かけた、小煩いハエをどうしようか。そんな無機質な眼差しを放っていた。
「…クソっ」
男は、喧嘩の対象としてすら見られていなかった。それを本能的に悟ったのか、足早にその場を去っていく。
「あっ! コラ! 吸い殻持ってきなさいよ~!」
「もう、いいでしょう。それよりお怪我はございませんか。」
ようやく収束した騒ぎを、ぶり返させまいとする真玲。一応、業務範囲で起きてしまった事案なので、娘の体を軽くチェックする。相変わらず何の感情も抱いていない顔を近づけるその様に、娘は妙に緊張する。
「外傷…特に見受けられません。ご気分などは問題ないでしょうか。」
「えっ、あ、ハイ…! 問題ないれす…。」
「なんもないか~? ほんとわやな人もいるもんだべさぁ! 警備員さん、ありがとねぇ!」
少し距離を置いて見守っていた老父や、警備員の仲間たちが集まってくる。
「スゴいよスゴいよ桐谷ちゃん! 女の子なのに強いんだね~!」
「性別は関係ありません。私は職務を遂行したまでです。
…作業員の方々も戻ってくるようですね。各々、配置につきましょう。」
まるで何事もなかったかのように、真玲は呼吸一つ、どころか脈拍一つ乱していないといった面持ちで、ヘルメットをかぶり、仕事に戻る。
ようやく落ち着きを取り戻し立ち上がった娘は、その後ろ姿をぼんやりと眺め、呟いた。
「………かっこいい~~……!」
~~
―夜―
「ハァッ…ハァッ……。目標地点、到達…。タイム、1秒短縮……。クールダウン後、復路へ…。」
盆地である中富良野の町から、東へ。市街地を抜け、数多の田畑を越え。その終端のもう少し東、富良野岳の裾野にて。
真玲は、木々の生い茂る獣道の坂路を駆けていた。障害物である木や枝、岩。足をとられるぬかるんだ土や背の高い草を避けつつ、真玲は平地と変わらぬように、常人ならざる速度で"ランニング"をする。
「ハァッ…ハァッ…………ッ! ふっ!」
不整地を走るだけでも足には相当な負担がかかるが、真玲はさらに、目前に迫る障害物を、月明りと気配、反射神経だけで、かがんだり跳び越えたりしつつクリアしていく。
常人ならそもそも遭難しそうな環境で、真玲は己の限界を引き延ばそうと研磨する。身体能力に関していえば、彼女は常軌を逸したものを有していた。
やがて走り抜けていくと、ちょこんと開いた広場に出る。そこに慎ましく立てられたテントが、ゴール地点であった。オフロードバイクじゃなければ入り込めない、寂しい場所。
「タイム……、更新ならず…。………クールダウンの後、ウェイトトレーニングを実行…。」
そんな超人たる真玲は、当然今まで、スポーツにおいて負け知らずであった。学生時代は兼部をし、短距離走、空手、剣道などで大会優勝…個人種目のみにしか出場しないのが難点ではあったが、"化け物がいる"として、その話題は界隈を席巻したものである。
「太刀、素振り………千本、開始……!」
だが、敗けた。
驕っていた訳ではないが、自分に土をつける可能性など、到底考えられなかった相手に。
「……!」
理解のできない、意味のない感情論に身を任せ、武術を行使する男に。
「………ッ!」
函館での敗北は、真玲が心の奥底に留めておいた、過去の苦い記憶を呼び起こさせた。
暗がりの中、まるで投影されたかのように目の前に浮かぶ情景。真玲はそれ振り払うよう、身の丈ある物干し竿を、必要以上に力んで振るう。
振る。振る。振る―。
だがどうしたってその記憶は、真玲の脳で再生されてしまった。
~・~・~
「せんせい。わたし、イジめられているんですが。」
「え"っ。そ、そうなの…!?」
「はい。りゆうを聞いてみたところ、私はべんきょうも体育もできて、ロボットみたいでブキミだからってりゆうだそうです。」
「それは…! ヒドいね。気付いてあげられなくてゴメンね、辛かったよね?」
「いいえ。べつに。ただ、けられたり…。ノートにらくがきされたり、べんきょうの道具をかくされたりするのが、めんどうくさくて。なんとか、してもらえないでしょうか。」
「そ、そう…。わかった。今度、先生からちゃんと注意しておくから!」
「おねがいします。」
翌日以降、いじめがなくなったかといわれれば、そんなことはなかった。
"他者に助けを求めても、無意味"
そんなことを真玲が覚えたのは、小学4年生の時であった。
「にんげん……おとこ…じゃくてん…。」
分からないことは、自分で調べればいい。不便なことがあったら、出来る限り自分で何とかしてみせる。真玲は幼い頃からそんな性格で、両親からも手のかからない自慢の娘だと誇られていた。そんな優等生だから、ひがみに遭うのも当然だったのかもしれない。
「…つよい……けりかた…。」
いじめに遭ったら、先生や両親に相談しよう、という学校の教えも、真玲にとっては賛同せざるものだった。別に、命の危険を感じる訳ではないのだ。この程度のことで、他人の手を煩わせたくはなかった。
だからこそ、はじめはいじめっ子と対話することを試みたりもしたのだが。当たり前のようにそんなことは意味を成さず。妥協して先生への相談も実行してみたが、それも効果を得られなかった。そんな八方塞がりの真玲が行き着く先は、自ずと穏やかでないものへと限られていく。
「必要なじょうほうを、けんさく完了。今晩、シミュレーションしたのち、あした、実行。」
~~
「一体どういう教育をしてるんですか! あなたのお宅は!」
「イヤほんと、すみません。そんなありがちな台詞を言わせる事態となってしまい…。」
翌日。真玲の父親は、担任と、いじめっ子の母親と応接室に詰めていた。真玲は入ることが叶わなかったため、扉越しにその会話をジッと聞く。
「もしこれで息子が将来、子供を作れなくなったりしたら、どう責任とってくれるんです!?」
「大丈夫ですよ、奥さん。私も何度かヨメに蹴られてますが、ちゃん…と、ピンピンしとりますので。」
「け、汚らわしいですわ! あなたたちどんな性癖を…じゃなくて、反省してますの!? 先生もなにか仰ってください!」
「そうですよ桐谷さん。全てのお宅がSM愛好家な訳じゃないんですから…。娘さんに、アブノーマルな愛情表現を教えるのは、まだお早いかと…。」
「あ~いや、そんなつもりはなかったんですけどね~。ウチの娘は妙に賢いですから。どこで覚えたのか…。」
「ちょっと!? そんなハナシしてるんじゃないんですけど!?」
「まぁまぁ奥さん。真玲ちゃんには、私からもよく言っておきますから。今回はどうか、大事にしないでいただけませんか。子供たちがどんな性癖に目覚めていくかを見守るのも、私たち大人の務めなのではないでしょうか。」
「なに良い事みたいにおかしなこと言ってるんですの!? あなた本当に小学校の教師!?」
「大丈夫です! もしお子さんがマゾっ気に目覚めたら、すぐさまウチの真玲を嫁に行かせますんで! なに、あの子ならきっと完遂してくれますよ!」
「なにを!? 爽やかにサムズアップして言わないでくれます!? というか要りませんわ! あなたらみたいなイカれた一家の娘なんて!
あ"~~もう話になりません! 帰らせていただきます! 桐谷さん、今回のことは忘れませんからね! あなたの変態具合は皆で共有させていただきます!」
「はぁ……。」
応接室の扉が勢いよく開き、いじめっ子の母親が出ていったと思うと、次いで真玲の父親も頭を掻きながら出てくる。
「おとうさん、だいじょうぶだった?」
「ん、ああ…。いや多分、父ちゃん、明日から他のお母さん方には、距離とって挨拶するようになるかも…。」
「……ごめんなさい。わたしのせいで…。おとうさん、たくさんおこられちゃった。」
「いやいや、謝ることなんかないぞ!」
父は真玲の肩を掴み、落ち込むその顔に笑顔を向ける。
「よくやった! 真玲はよくやったぞ!」
「…え?」
「いや~、俺も昔はいじめられっ子だったからさぁ。でもなんもできなくて…。というかまぁそれに目覚めちゃったんだケド…。
しかし、真玲は違ったんだな。勇気だして、ガツンと反撃、できる子だったんだな!」
「…男の子のこかん、けっちゃってよかったの…?」
「当たり前だろ~! 先生から聞いたぞ。真玲、嫌な事されてたんだろ!? だったら、仕返ししたって誰も文句言わないよ~!」
「………。」
真玲は、ポカンとした顔をする。てっきり叱られると思っていただけに、父親の全肯定の言葉は想定外であった。
「あ~でも、無暗やたらに暴力を振るうのは、良くないかもな、うん!
いいか真玲。力ってのはな、使うのに責任を伴うものなんだ。使い方を間違えれば、誰かを悲しい気持ちにさせちゃったり。その誰かが、今度は真玲を悲しませるかもしれない。そうなっちゃったら、父ちゃんも悲しい。」
「せきにん…。」
「まぁ要するに、自分がちゃんと納得できる時に、力は使いなさいってことだな!」
「…でも、またイジめられたらどうするの?」
「ん~~~~~。いじめられないぐらい、メチャクチャ強くなればいいんじゃないか? ホラ、ウチの近くにあるだろ、佐々木小次郎の伝説。
諸説あるが、なんでも旅をして強くなって、誰からも喧嘩を吹っ掛けられなくなったとかなんだとか―――」
~・~・~
「………。」
修練を終え、木にもたれかかるよう座り込む真玲。静かに光を放つ満月を見上げながら、そんな在りし日を思い返していた。
(結局あの後……父さんは周りから、マゾヒストだの変態だの豚野郎だのと言われるようになって……
父さんは"これも悪くない"とか言っていたけど…責任とは、そういうことなのだろう)
「いや…今考えれば、ほとんど父さんのせいかもしれないけど…。」
たとえ正当な理由があったとしても。力を振るえば、自分だけでなく、自分の周りの者にも危害が加わる可能性がある。陰口程度ならまだしも、明確な報復が大事な人に降りかかるようなことがあっては、後悔してもしきれない。
「だから…"誰かのため"だとか…"守りたいから"とか……間違っているんです…。」
最低限、自分の身を守れればいい。誰かのために力を振るうなど、他の誰かに降りかかるリスクを、振りまいていることになるのだから。
やられっぱなしの人は、所詮、力をつけられなかった人。ちょっかいを出しても構わないと思われるほど、軟弱に育ってしまった人。
それだけのことなのだ。自分を巻き込んでまで、助力する価値などない。
「………でも…。」
でも、負けてしまった。何故なのか。強さとはなんなのか。正しい使い方とは、なんなのだろうか。
欣秀にぶたれた頬に、手を当てる真玲。
「分かりません…父さん……。」
やがて目を閉じ、考えこむ。ほどなくしてその思考は靄のように漂って消えていき、真玲の意識は遠ざかっていった。
(そういえば……あの時の父さんは、何故か強く見えた…。
何故か…お世辞にも強いとは言えない、ヘタレの父さんが……なんで……………)
~~
「えー、今日は本線から分かれてL15までー。素登りになるんで、警備員さんは置いとくバケット車見ててくださーい。」
翌日。前回工事をした場所と同じ道路で、また薄曇り空のもと、真玲ら警備員は業務に従事する。
「今日は片交しなくていいみたいだね! いや~、のんびりできるわぁ~。」
「のんびりしないでください。作業車付近に歩行者が近づいた際は、注視して安全を確保。」
「あ~、昨日みたいなのが来たらヤだしねぇ~~。」
「…。」
昨日のような事案があろうがなかろうが、真玲は職務を遂行するだけだが。作業の遅れが生じるイレギュラーだけは、時間の無駄につながるので止めていただきたい。
そう密かに祈っていた真玲であったが、ふと見ると道路の先に、その願いが叶わないことを告げる人影が。昨日の渦中の人間、腕を吊った若い娘っ子だった。
「………はぁ…。」
また農作業をしに来たのだろうか。今日は歩道より分け入った場所での作業となるため、特別気にかけてやる必要もないのだが。どうにもまた面倒ごとが起きそうな気配に、真玲は僅かに身構える。
だが今日の娘は農具ではなくバッグを提げているだけで、畑に目もくれていない。それを真玲が訝しんだあたりで、娘は「あっ!」と声をあげ、そのそばへと一直線に駆け寄ってくる。
「警備員のお姉さーん!」
付近にいる女性の警備員は、真玲のみ。自分に用があることを自覚するとともに、"ほら見たことか、面倒なことが起こっただろう"と、内心自嘲しながら真玲は向き直る。
「おはようございます。」
「おはようございまーす! あの、昨日はありがとうございました! これ、お礼です!」
娘はバッグから、手から僅かにはみ出るサイズの、立方体の紙箱を取り出す。
「…何でしょうか、これは。」
「グラスキャンドルですよ! あたしがデザインしたんです! ホラ!」
器用に片手で開けて見せた箱の中には、いかにも衝撃に弱そうなグラスの芸術が佇んでいた。
「…受け取れません。」
「え! 気に入りませんでした…!?」
「あーそうだよね~。桐谷ちゃん旅人だもんね~、割れ物はキツいかもねぇ。」
また暇を持て余している三浦が、話に入り込んでくる。
「そうだったんですか…! カッコいい…。……あっじゃ、じゃあ! 郵送してお家に送るとか! 面倒でしたら、こっちで送っときますので!」
「そういう問題ではありません。住所も教えません。
私はただ職務を遂行しただけなので、御礼の品など不要。と、ご理解いただきたいです。」
割れてしまうという理由もそうだが、真玲は贈り物の交換といった、"気を遣う"やり取りからは身を引いていた。謙遜などではなく、人付き合いという面倒くささを回避したいのである。
「ん…と、それじゃあ、それじゃあ! ウチで食事でも! ご馳走させてくれませんか! ウチ、あそこの農場なんで!」
娘はめげずに、自分がやってきた方角に見える、小高い山肌を指さす。
「お~お嬢さん! あの"ウェルスファーム"の方だったんかい!」
「はい! ちょっと早いんですが、ラベンダーも見られるので、ぜひ!」
「…ラベンダー…?」
楽し気に話す二人に対し、真玲だけ困惑の色を浮かべる。
「あれ、桐谷ちゃんもしかして知らなかったの? 富良野はラベンダーで有名な町なんだよー?」
「興味ありませんので。」
キッパリと答える真玲に二人は固まるが、娘の芯は折れない。
「じゃーなおさら! ウチ来てくださいよ! 私、どーしてもお礼がしたくって!」
「行きません。何度も言うように、御礼など不要です。」
「行って来たらいーじゃない桐谷ちゃん。せっかく来たんだからさ。今日の作業も、3時には終わりそうだし!」
「行きません。」
たとえ何を言われようがブレる素振りのない真玲に、娘は顔を膨らませてその場に座り込んだ。
「もー! だったら私だって、お姉さんが行くって言うまでこっから動きません!」
「止めてください。」
「なんなら会社にクレームも入れるから! 愛想悪い警備員がいるって!」
「くっ…! 止めてください。」
いかに荒唐無稽なクレームであっても、会社というものは真摯に対応せねばならないものである。
ましてや真玲自身愛想が悪いことは自覚していたので、あながち的を射られてしまうような内容であった。
(恩返しすると言いながら、脅迫するんですか…この娘は…!)
「桐谷ちゃん、ご馳走になって来なよ。冷静に考えたってさ、タダ飯食えるのは、桐谷ちゃんの好きな"効率的"、なんじゃない?」
遠回しに"意固地になってるだけなんじゃないか"、と三浦に諭される。ここで口論を続ける方が、よっぽど無駄である。
真玲は観念し、また、ため息をつく。
「はぁ………。分かりました。」
~~
「あっお姉さーーーーん! こっちこっち!」
駐車場にラリーを停め、一息つく間もなく。娘は、真玲を見つけ大声で手を振ってくる。「騒がしい…」と呟きつつ、真玲は荷物をまとめ、娘へと近づく。
「キリヤさん…でしたっけ! 私、上曽っていいます! あ! 下の名前で薫って読んでください!」
「桐谷真玲です。よろしくお願いします。」
薫の家でもあるというウェルスファームという地は、広域な畑にラベンダーを主とする花々を植えた、観光地であった。丘に沿って描かれる緩やかな曲線は、ラベンダーの淡紫だけでなく、ケイトウやキンギョソウといった唐紅、藤黄色で彩られ、畑やビニールハウスのほか、カフェやレストラン、土産屋も併設されている。見渡せば家族連れやカップル、カメラマンなどが思い思いに花を愛でていた。
夕飯時まで時間があるとのことで、薫は真玲を連れて園内を歩く。
「桐谷さん、さっきはヘルメットに作業着でよくわかんなかったけど、ナイスボディなんですね~! うわ~! すごくキレイ!」
「ありがとうございます。」
「髪もパサついちゃってるけど、スゴく綺麗に伸びてる! ちゃんとケアしたらもっとステキになりますよ!」
「気を付けます。」
「うわぁ……! 桐谷さんてマジクールキャラなんですね…! カッコいい~~~!」
「……。」
冷めた表情で歩く真玲の脇を、ポニーテールを振り回しながら興奮気味に歩く薫。傍から見ると、正反対の姉妹のようである。
「私、カッコいい女性に憧れてるんですよね~。"女のくせに"ってバカにされないぐらい強くって、クールで、優しくて…! 桐谷さんは、どうやってそんなに強くなったんですか!?」
「努力の成果です。特別なことはしていません。」
規格外のトレーニングを敢行してはいるのだが。
「そっかぁ~。うん、やっぱりコツコツと努力することが、大事なんですね! あ~あ、この腕が早く治ればな~。コケて折っちゃったんですけどね、ホントださくって~―」
「………早く治したいのであれば。」
「はい?」
無口を貫き通すのも、それはそれで体力をつかう。折に触れたので、昨日思ったことを真玲は口に出してみる。
「早く治したいのであれば、農作業などせず、自宅で療養に専念すべきです。」
「…あ~…はは、そうですよね。でもあれ、町のみんなで"道路脇にラベンダーを植えよう"ってなって、各農家さんが自慢のラベンダーを持ち寄る大事な畑なんです! ちゃんと自分たちのスペースは、自分たちでやんないとって…。」
「あなたがいなくてもできたのでは。」
「う……まぁ…。」
「それに、あの男に対してだってそうです。どうしてまともに抵抗できないことを知りながら、争いを起こすようなことをしたんですか。」
「だ…だって! あんなの見過ごせないですもん! それにきっとアレ、わざとです! あんなあからさまにやるなんて……。
最近、乱暴な集客をする農場ができたんですが、あの畑に参加できないからって不満たれてて…。とにかく、やられっぱなしじゃ―」
「それであなたのケガが酷くなったら、どうするんですか。下手に恨みを買って、農園に飛び火したらどうするのです。それに親御さんのご心配も、考えられないのですか…!」
「う……。」
語気を強めてしまう真玲。知らず知らずのうちに心の底が熱を帯びていることに気付くと、すかさず咳払いをして平静を取り戻す。
「…失礼しました。とにかく、そういう問題は警察にでも任せればいいでしょう。」
「そう…ですよね…。」
さすがにしょぼくれる薫。打って変わって沈黙のまま歩く二人であったが、やがて丘の中ほどに辿り着くと、また薫が声を上げる。
「ほら! 見てください桐谷さん!」
「…!」
上ってきた道を振り返るように眺めてみると、そこには富良野を象徴するともいえる景色が広がっている。目の前で咲くラベンダーたちと、彼方で雲を纏う十勝岳連峰。それらが富良野の町を挟み、色彩と墨色、両方の美しさを、贅沢にまとめた絵画を描いていた。
「…まぁ、曇りなのと、まだ見ごろの7月じゃない、っていうのが残念ですけどね……ハハ…。でもまぁまぁ、きれいでしょう?」
「…はい。綺麗だと思います。」
口数が絶望的に少ない真玲ではあるが、綺麗な景色を綺麗だと思える感性は、きちんと持っていた。
「………。」
それでも、胸の底から綺麗だと言うことができないのは。ここ数日、胸を曇らせる悩み。即ち、欣秀のせいであろう。
柔らかでありながら甘ったるくない、爽やかなラベンダーの香りが、真玲の鼻孔に流れる。
(…最近の私は、少し気張りすぎていたのでしょうか)
肩が張っていることに気付いた真玲は、深く呼吸をしてみる。
「…ふふ。桐谷さん。ちょっぴり優しい顔になりましたね、今。」
「! いえ、特にそのようなことは…。」
初めて見る動揺した真玲の顔に、薫はフフと笑ってその場にしゃがみこむ。
「花って、不思議ですよね。見る人の心を、癒してくれて。別に何かをしてくれる訳でもないのに。たーだ揺れてることしかできないのにさ。」
「………。」
「食べられる訳でもないし、お世話は面倒だし。お礼言ってくれるわけでもないし。
…でもやっぱり私、そんな花たちが好きなんです。」
健やかに眠る、赤ん坊を見るような優しい目で。薫はラベンダーを見つめ続ける。真玲はその様子に、ただ黙って視線を向ける。
「…さっき、力がないなら抵抗なんかするな。って、桐谷さん言ってたじゃないですか。…でも私やっぱりそれ、できないなぁ。大事なお花ちゃんたちが酷い事されるの、見てられない。」
「…そうですか。」
「私、生まれつき骨が折れやすかったり、とにかく弱いんですよね。運動神経良くないし。桐谷さんみたいに、映画の女スパイみたいにカッコよくなりたいなー!…なんて思うけど、絶対ムリで。
でも、そんなの理由になんないじゃないですか。お花ちゃんたちは、逃げることだってできないんですよ? だったら私が守るしかない。力がないなら、なおさら気持ちで負けちゃあダメだと思うんです。」
「気持ち…。」
またこれか。と、真玲は思う。欣秀も言っていたような言葉だ。気持ちの強さ。そんなものが、どう強さにつながるというのか。
「ですが、やはり賛同しかねます。そうして抵抗しても、まず相手に勝てる確率はありません。さらに言えば、上曽さんが大怪我を負う可能性も大いにあります。
冷静に考えれば、花一輪よりも多大な損害になるのですよ。」
「でもそれって、逃げじゃないですか?」
「…。」
「可能性があるからとか、冷静に考えれば損するだけとかって…。建前じゃないですか? 逃げるための。
大事なものを守りたいって想いは、もっと価値があるんじゃないでしょうか。…感情を伴わない力に、意味なんかないって思います。」
先ほど叱っていた娘に、今度は自分が諭されている。そんな状態に、真玲は屈辱…ではなく、驚きを覚える。
「それは……。」
感情を伴うからこそ、力には意味がある。その言葉が、いまいち理解できないくせに、真玲の頭の中で反芻され続ける。
「…なんて! すみません。なんか私、悟りモードになっちゃってたかも…! あ、そろそろご飯の支度する時間かな! ウチに案内しますよ~。」
「………はい。」(もしかして私は………)
また跳ぶように歩き出す薫を、真玲はゆっくりと追っていく。
(もしかして私は、こんなに正直でいられる彼らに、嫉妬……しているのかもしれません)
~~
「短い間でしたが。お世話になりました。」
「いや、いや! こちらこそ。人手は万年足りないからさぁ。助かったよ。」
翌朝、真玲は警備会社の事務所を訪れていた。アルバイトを終了するにあたり、支局長にご挨拶をする。
「本当に行っちゃうんだね? 正直、惜しいよ。若手ってだけでも、嬉しかったからさ。」
「申し訳ありません。」
貸与されていた装備品を机の上に並べていく真玲の脳裏に、昨晩の光景がよぎる。
〝「え~~!? 桐谷さん、あした富良野を出てっちゃうんですか~!?」
「はい。函館で人と会う約束をしておりますので。」
「誰だよそれ~! カレシ!? カレシですかー!? ヤダー!
わたしだって桐谷さんとお風呂入ったり、一緒に寝たり、キャッキャウフフしたかったー!」
「そんな予定は聞いておりませんし、聞いていても却下します。」
「はは。薫ちゃん、昔から姉さ持つの夢だったからなぁ。
あーやめれやめれ。ベソかいちまってみったくない。」
「うう~~~~!!」〟
結局昨晩は、泊っていけという誘いを断るのに無駄な体力を消費してしまった。
「次はどこに行くんだい?」
「旭川で雑事を済ませた後、函館まで下ろうかと。」
「旭川かぁ。雪の美術館とかお勧めだよ。余裕があるなら行ってみて。」
「承知しました。」
言いつつも気に留めない様子で、真玲はひととおりの道具を並べ終わる。あとは、使用する機会のなかった警笛を戻すだけだ。
それをしまっておいたバックパックのポケットに手を突っ込む。と、馴染みのない触感に真玲は気付く。
「?」
冷たくてつるつるとした、円柱状の物体。手に取り、引っ張り出してみる。
その手に握られていたのは、ラベンダーのイラストが描かれた香水ビンだった。
「お、富良野ではラベンダー畑に行って来たのかい。」
「はあ…。」
富良野観光の土産に見えるそれは、昨晩、ひっそりと薫が忍ばせたものであった。
(余計なことを…)
「やっぱ富良野といえばラベンダーだよね。これでも昔は、輸入品に押されて香水が売れないって、畑を全部刈り取っちゃった時代もあったんだよ。
それでもたった一つの農家が、"この花が好きだから"って採算の取れない飼育を続けてね。それが今やシンボルになったんだから、すごいことだよ。」
「………そうなんですか。」
損をするとわかっていても。離したくないものを持つのが、人なのか。
「……あの。お願いがあるのですが。」
「ん? なんだい?」
「函館での用事を終えたら、またこちらへ戻ってきてもよろしいでしょうか。」
「! もちろん、もちろんだよ! いつでも戻っておいで! 歓迎するから!」
「ありがとうございます。」
~~
「あり、薫ちゃんかい? たしか、また道端の畑の方さいってるべさ。他の農家さんのも手伝うって。
いたましいなぁ、姉さんが別れの挨拶さしにきてくんたのに、いねぇなんて。」
「いえ、そういう訳ではないのですが。」
香水を返しにウェルスファームに来てみたが、薫は不在であった。老父に預かってもらってもいいのだが、それではどうにも真玲の胸がざわつく。
「とにかく、行ってみます。ありがとうございます。」
(まったく。どうして。あなたたちは、こうもお人よしなのか…!)
CRF250ラリーの短気筒エンジンが、高音域の唸る音を田舎道に響かせる。
誰かのためだとか、そういう生温さを持ち続けているから、損ばっかりしてしまうのだ。ましてや、強くも何もない者が、そんなことをすれば―
「ほらやはり…! 面倒ごとに…!」
「だからさー。こっからラベンダー畑を撮りたいんだって。」
「いやぁ、お言葉ですが、こっからは見えないかなーと…。」
件の歩道で、警備員…三浦と、前回とはまた違う青年二人組が言い争いをしている。その渦中には、当たり前のように薫もいた。
「どんな望遠レンズ使ったって、見える訳ないでしょ! 素直にラベンダー畑に行ってくれませんか!」
「いやいやぁ、ここじゃないと撮れない富良野の神秘が…。」
「じゃあせめて、そのバイクどかしてくれません!?」
畑には、あろうことか青年らのものと思われる二輪車が駐車されていた。
「いいじゃないですか別に。畑になるのこれからなんでしょ? 別に看板も立ってないし、バイク置くぐらい。」
「もうウネが作ってあるの、絶対気付いてるでしょ!」
「あーあ、小うるさいガキが居るって聞いてたけど、ほんとだったんだー。」
言いぶりからして、先日の男とつながりがあると思われる二人組の一人は、手に持った三脚をぶらぶらと振りつつ、薫に背を向ける。
「じゃースンマセン! おとなしく帰りますかっ…と!」
そしてわざとらしく振り向きながら、三脚を勢いよく薫の頭へと叩きつけた――
…つもりだったが、それは別の者へと当たった。
「桐谷ちゃん!「さん!」」
三浦と薫が、張り詰めていた息を吹き出すように声を上げる。
音もなく、角を立てず、滑らかに。だが確かに、真玲は薫と青年の間に割って入り、その手で三脚を受け止めていた。
「っとと…、大丈夫ですかお姉さん。いや~~運が悪いですね! たまたま三脚がぶつかっちゃうなんて!」
「…心配には及びません。この程度、なんの損傷にもなり得ません。」
平常運転。全くの無表情で話す真玲には、本当になんの痛みもないようである。
「えっなになに、怒っちゃったんですか?(笑) ごめんなさいって! いやでも、こんなとこに割って入ろうとすんのが悪いっていうか―」
「帰るんでしょう。さっさとそうしたらどうです。」
おどけてみせる三脚男の言葉を遮り、真玲が鋭く言葉を放つ。すると先ほどまで笑っていた三脚男は、眉をひそめ、あからさまに不機嫌な態度を露にする。
「なーんかムカつく。やっぱ帰んねえわ。」
「………。」
真玲は、微かさえも動じない。
「バカらし、ラベンダー畑?だとかのためにマジになっちゃってさ。ちょっと必死すぎんじゃない? こんな…たかが花のためによ!」
「!」
真玲の前をふらふらと歩いていた三脚男は、不意に手近にある、既に移植されたラベンダーを蹴散らそうとする。すかさず真玲は体を乗り出し、腰を落としてその蹴りを受け止める。
「…っ。」
「ぶふっ。マジ? この姉ちゃんクソ必死じゃん? ちょっとメンタルいってね?」
真玲を指さしながら、三脚男はもう一人とケラケラと笑い、何度も真玲を蹴り続ける。真玲は、決して反撃をしない。
(私は…、何を…、しているのだろう。こんな、身を挺す必要なんて…ましてや、人でもない物のために…)
ただただ損害を負うだけの、意味のない行動。頭ではそう分かりきっていても、今の真玲はどうしても、その体をどけたくはなかった。
(でも………今なら、わかる気がするんです。父さん。
あなたが、何故あの時強く見えたのか。
それは…、それは、どんなリスクを負うとしても、守りたいものを守っていたからだったんですね…)
たとえ力がなくとも、身を挺して大切なもののために動ける。その勇気は間違いなく強さであるのだと、痛みの中で悟る。
「ちょっと止めなさいよ! 男二人で女を蹴るなんて、正気なの!?」
たまらず慟哭する薫だったが、真玲は珍しく少しばかり笑って、それを制する。
「大丈夫ですよ、上曽さん。女も男も関係ありません。この人たちは、弱いです。だから私は、平気です。」
「―ッ! こんのクソアマ!」
あまりにも堂々と馬鹿にされた三脚男は、蹴りの圧を強める。更にもう一人も動き出し、
「僕よわいんだってさーお嬢ちゃん。ねね、僕と腕相撲でもして、それ証明してみよっか?」
薫に近づき、その吊っている片腕を掴む。
「った! 放してよ変態!」
「ちょちょ、やめなさい!」
三浦はそれを阻止しようとするが、力及ばず突っぱねられてしまう。
「上曽さ―! っ!」
薫に気が向いた真玲の顔面に、不意に蹴りが一発入る。体勢は崩さないものの、真玲の視界が微かに歪む。
男に力いっぱい腕を握られた薫の悲痛な声が、耳にこだまする。
真玲の頭に、かつていじめられていた自分の姿がフラッシュバックした。
(私は…!)
そうだ。何もしなくていい。力のないものが、悪いのだ。弱い者が歯向かったりするから、相応の結果になってしまっている。助けが都合よく来るとでも、期待しているのだろうか?
…私がここで何かしたところで、結局は恨みを買って、被害を受ける。守るなんて無意味なのだ。
私はできる限りの事をやっている。こうして耐え続ければ、いずれこの男達も諦めて―
"でもそれって、逃げじゃないですか?"
(………そのとおりですね)
心のどこかでは、気付いていたはずだ。
結局は傷つくから、などと最もらしい言い訳をして、自分は責任から逃れていただけだと。"守りたい"という想いに従える、彼らのような勇気を持てていないのだと。
"自分がちゃんと納得できる時に、力は使いなさい"
損得勘定じゃ、推し量れない価値がある。何故、傷つくかもしれないのに、見ず知らずの人を助けるのか。何故、力もないのに、たかが花のために身を挺せるのか。
それは彼らが、その気持ちには従うだけの価値があると、納得しているからだ。そう信じられる、強い心を持っているからなのだ。
(気持ちの強さとは…そういう………。
…………私も…)
絶え間ない痛みの中で、真玲の心が沸々と熱を帯び始める。
(…私も、強くなりたい…!)
「…やめなさい。」
「あ?」
「………やめなさいと言っているッッ!!」
真玲は、機械的に蹴り続けられていた三脚男の脚をとうとう掴み、そのまま一本背負いの要領で、男を投げ飛ばす。
天地が逆さま。宙に飛ばされ、何が起きたのか全く理解できない三脚男は、そのまま自分たちが乗ってきたバイクに、その体を強かに打ち付ける。
転倒するバイク。そのけたたましい音に、その場にいた全員が動きを止める。
ただ一人、真玲だけが足を動かし、静かに、だが素早く薫を掴む男に詰め寄る。
「ちょっ、は? えっ、けーさつ、警察よびますよ、ちょっと!?」
何か男が喚いているが、真玲は聞かない。
「その子を、放しなさい。」
真玲は手近に立てられていた、"工事中"の立て看板を手に取り。
「ちょえ、うそ、マジ、うそでしょ!?」
「薫さんから…」
たとえ理路整然としていなくとも。損をする行動だとしても。
その身を挺せるのが、人間なのだ。そして、それを押し通す覚悟を持てる者こそが。
(まさしく、強者―!)
「その薄汚い手を、どけろと言っているッッーー!!」
1メートル余りの鉄製看板を、真玲は体をよじるほど振りかざし――、フルスイングする。
バァンッという豪快な音が鳴り響き、男の体は放物線を描く。…信じ難いことにそれは、10mほど先の空地へと、土埃を上げ着地した。
ホームランされた当人はもちろん、その怪力を目の当たりにした薫たちも目をひん剥き、凍り付く。そんな中、真玲だけはまた動き出し、今度は先ほどの三脚男へと近づいて見下ろす。
「…私と…私のバイク、CRF250ラリーの走破力があれば、たとえ私が北海道のどこに居ても。1日足らずで、ここへと辿り着いてみせます。
今度また何か面倒なことを起こしたら、私はすかさず駆け付け、あなたたちを……。………飛ばします。ですので、もう、二度と、上曽さんらに、近づかないでください。」
「は、はいッ…!」
誰かを助けることで、更に恨みを背負ってしまうなら。それすらも蹴散らせるほど、自分は強くなって見せる。やがて誰一人として、自分の大切なものに。指一本触れることができないほどに。
それが、真玲が出した答えだった。
「では、1分以内に立ち去ってください。」
「はいぃ!!」
二人はよりよろになりながらバイクを起こし、一度も振り返らずに逃走する。その陰は、直線道路の先にあっという間に消えていった。
それを確認してから、真玲は薫の元へ歩み寄る。先日見たような光景だが、今度の薫は、真玲のやりすぎともいえる振る舞いに、腰を抜かしている。
「あ…」
「ありがとうございます。」
「えっ?」
薫が言うより先に、真玲が頭を下げる。理由の分からぬ感謝に、薫の動揺は大きくなるばかり。
「上曽さんが、私の中の…ある種の、"箍"。を、外してくれました。」
「ど、どういたしまして…?」
説明してくれているつもりなのだろうが、その意味はまったくわからない。
薫はもう考えるのを止め、笑顔でごまかすことにした。真玲に腕を貸してもらい立ち上がりながら、がむしゃらに真玲を称える。
「い、いやぁー! なんというか、桐谷さんてカッコいいとかじゃなくてもう……スゴイ! うん、スゴイ! スゴイ人なんですね!」
「ほんと、助けに来てくれるなんて、桐谷ちゃんヒーローみたいだったよぉ!」
三浦の言葉に、真玲は少し気恥ずかしくなる。
すかさず、それを隠すように背を向けると、ラリーに載せていたバックパックから、件の香水を取り出した。
「誰かのために力を振るうというのも、"悪くない"気分にさせてくれるのですね。…しかし、申し訳ありませんがこれはお返しいたします。やはり私自身、人の厚意に甘えるというのが苦手でして。」
無理矢理渡されていた香水を、真玲は薫へと差し出す。が、それは薫の手で制される。
「ダーメーでーす。受け取ってください! それにそれは、私の厚意なんかじゃないですから!」
「…?」
「私の"ワガママ"です! 旅人さんって、色んなものを見るから、だんだん昔のことも忘れてっちゃうでしょ?
だからその香水は、その香りを嗅いで私を思い出してほしい!っていう、想いの押し付けです!」
薫の片手が、真玲の手をぐいぐいと押し返す。到底、真玲に敵うはずがないその力なのだが、真玲はどうしてか抗えない。
「…貴方も、本当に強い方なんですね。」
真玲はフッと笑うと、諦めて香水を握り、受け取る旨を示す。
「それに、それ使ったらもっと魅力的になると思うな! 真玲さん美人だから!」
「そうですね。」
「そこは否定しないんだね…。」
「ですがその場合、これを使い切った時には、上曽さんを忘れてもいい、ということになりますが。」
「あ"! そっかぁ…う~そこまでは考えてなかったなぁ…!」
割と本気で動揺し頭を抱える薫を見て、真玲は微かに笑む。
「ご心配なく。函館での用事が済みましたら、またこちらに戻ってくる予定です。…ラベンダーが、見ごろとなる頃に。」
「え"っほんと!? マジですか!?」
「マジです。その際は、三浦さんもよろしくお願いします。」
「おー! 嬉しいよ。そんときはよろしくねぇ。」(あの桐谷ちゃんが、笑ってるよ…)
「やったー! じゃあじゃあその時は、もっと一緒に遊びましょうね桐谷さん!」
「ええ。」
「一緒にラベンダースティック、作りましょう!」
「ええ。」
「護身術も教えてください!」
「ええ。」
「バイクにも乗せて!」
「…ええ。」
「一緒にお風呂にも入ろ!」
「嫌です。」
(キマシタネー)
駄々をこねる薫と、たしなめる真玲。それは三浦の目から見ても、姉妹のようであった。
「では、これにて失礼いたします。」
「絶対、戻ってきてくださいね! ちゃんと連絡してくださいねー!!」
コクリと頷くと、真玲はサイドスタンドを払い、スロットルを捻る。胸を打ち鳴らすラリーの軽やかな鼓動が、広大な畑を駆け巡った。
薫と三浦の姿が、ミラー越しに見えなくなると。錯覚だろうか。ふと、あの爽やかで、胸をスッと撫で下ろしてくれる香りが。ヘルメットの中を、微かに流れた気がした。
(人に教えられる強さ。…これもまた、旅で修行をする利点であると学習)
「…であれば、やはりあの人にも。礼を言わねばなりません。」
変わり映えのしない、北海道の直線路。
真玲の顔だけが、少しだけ変わっていた。
ビジュアルノベルにしたものを作ってみました↓
https://freegame-mugen.jp/adventure/game_12598.html