第十三話 無念無想
北海道編
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
国道40号は音威子府村で国道275と分岐する。
「左…このまま40号を行けば、稚内の街に…。右に行けば、猿払村を通って宗谷岬か…。」
日本海側か、オホーツク海側か。町でひと休みしてから最北端を目指してもよいが、今の欣秀にはもはや、休む意志などなかった。
「音威子府の黒い蕎麦っていうのも気になるけど…。もう、このまま走ってしまおう。」
ここまで来てしまったら、休むどころか、バイクから降りることすら煩わしい。欣秀は一度始めてしまった追憶を、まとめ終えるまでただ走り続けていたかった。
ハンドルを切った国道275は、木々に囲まれた道を走る、やや鬱蒼とした様相で始まる。
第十三話
無念無想
~・~・~
それから暫くは、仕事を早上がり…はさすがに許されないから、定時退社する日が多くなった。
「お先に失礼しまーす! 校正、全部見ときましたから!」
「……あいよ。お疲れさん。」
無論、自分のやるべき仕事、自分がやらなくてもよさそうな押し付けられた仕事も、こなしての定時退社。文句を言われる筋合いはない。…けど、やはり残業が当たり前のような職業であるから、周囲からの目は良いものではなかった。
でもまぁ、そんなことはどうでもいいのだ。私は、私の大事なもののために動くのだ。
「母さん、こんばん~! 今日はアレ買って来たよ、銀座マネキンのワッフル!」
「お、でかしたぞ息子。食おう食おう。」
いつ訪れても、ベッドの上の母さんは明るい声で私を迎え入れてくれる。別にその影で苦しんでいるとか、凄惨な経験をしている訳でもない、至って健康的な顔色だ。
それでも何故か、持ち込んだ私物がベッドの周りに増えていくのだけ、気がかりだったけど。
「…入院して、一ヶ月経ったね。」
「ん? あー…そうだねぇ。全く迷惑なハナシだよ。こちとらどこも悪くないってのに。体が動きたくてウズウズしとる。」
「今度、ハンドグリップでも持ってこようか?」
「あーいいね! 散歩はしていいとはいえ、走ったりなんだの、血圧が上がるのはダメだってゆーからさぁ…ホント、体がなまって難儀なもんだよ。たまには遠出でもしたいわ。」
「退院したら、どっか遊びに行こうよ。」
「いいねいいね、みんなで休み合わせてさ…。あ、でもそれに関しては、あんたが持って来てくれたもんが、気を紛らわしてくれてるよ。」
言いながら母さんが棚から取り出したのは、以前持ち込んだ、私の編集部が手掛けているバイク雑誌だった。
「あ、読んでくれたんだ。どうだった? 私の書いた特集。けっこういい出来だったと思うんだけど…。」
「ん、あー。うん、まあまあ良かったよ。それよりもこのページのさー…―」
「……。」
母さんが開いたのは、巻末のツーリング企画のページだった。
「ほらここ。北海道! いいよねェ~。あたし行ったことないんだぁ。」
「そういえば私ら家族、あんま県外には行かないけど…。母さん、バイク乗りだったんでしょ? ライダーといえば北海道なのに、行ったことないんだ。」
「んー、あたしはどっちかってーとイジる方が好きだったからねぇ。気付いたら自由な時間がなくなってたっていうか……。あんたはどーなんだい、仕事でこーいうとこ、行かせてもらえないの?」
「あー…、うん。遠いところはなかなかねぇ…。」
編集部員はライターと違って、異なる企画を複数かけ持つ必要がある。つまり、異なる現場にいつでも行ける場所―オフィスに、大半の時間は居ないといけない。
遠方の地のツーリング企画などは、外注のライターとカメラマンを雇って組ませ、その地に放り出して作成するケースが大半だ。
「ふーん…難儀なんだねェ。でもさ、偉くなったら行けるんだろ? 編集長とかさ!」
「あはは、まあ自分で雑誌の構成を作れるから、無理矢理自分が北海道に行くページを作ることもできるだろうけど…。」
十中八九白い目で見られるだろうな、そんな編集長は。
「いーねーいーねー、行っちゃいなって北海道。…あ、ホラここあたし行ってみたいなー! "白金青い池"だって。メチャクチャ綺麗じゃない!?」
「おー…、ホントだ。…本当にこんなに青いのかなぁ? 加工、入ってんじゃない?」
「あんたってのはロマンがないねぇ~。じゃあ実際にその目で、見てきたらいーんじゃないかい。
ほれあんた、確か仕事用だかに買ったミラーレスあるだろ? そいつでカシッと撮ってきて、母さんにも見せとくれよ。」
カメラを構えるしぐさをしたりして、母さんは陽気にまくしたててくる。…こうして見ているぶんには、やっぱり病人には見えないんだけど。
「なに言ってんのさ。行くなら一緒にいこーよ。」
「あたしはこんな身だからさ。そいつは叶わないよ。欣秀一人で、行っといで。」
「そんなこと言うなって! 冗談でも!」
両手を上げて冗談めかされるけど、そればっかりは笑えない。また咄嗟に言葉を吐き出して、母さんを面食らわせてしまう。
「ハハ。ごめんごめん。縁起悪い事言っちまったね。
…でもさ、冗談抜きで。あんた、もし機会があるなら、外の世界をもっと知ってきたほうがいいよ。家族で行きたいからとか、仕事があるからとか、そんなのは言い訳にすぎない。
チャンスってのは、いつだってポッと出てきたかと思えば、すぐにフッと消えちまうもんなんだ。その時がもし来たら、あんたは迷わず、行きな。その身一つで。」
「う…うん。」
前ぶりもなく真面目トーンになった母さんに、今度はこちらがソワソワしてしまう。
「旅…ねぇ。」
そんなことをする時間なんて、今後現れるのだろうか。
今のところ、仕事がクソ忙しくて想像もできないけれど。…でもまぁ慣れてきてもいるから、何か新しい趣味でも始めてみていいかもしれないなぁ…。
~~
「おい磐城いわき! お前昨日そそくさとなに早退してんだよ。」
「すみません。ちょっと病院に…見舞いに行きたくて…。あと…早退じゃなく…定時上がりです…。」
うーわー。面倒なのに捕まった。営業の桜井。このオッサン、マジで苦手なんだよなぁ…。
「この前渡したヘルメットメーカーとのタイアップ企画、もうラフは描きあがってんのかよ。」
「いえ、まだ…。でも、その締め切りって、たしか週末って仰ってましたよね?」
「バカヤロウかお前は! 1日でも早く仕上げて先方に送った方が、評価がいいに決まってんじゃねーか!」
知るかお前の面子なんか。…でもここで帰ったら、もっとめんどくさいことになりそーだなぁ…。
「…わかりました。今日中にラフを入れておきます。」
バレないようにため息をついて、自分のデスクに戻る。机の上は、大量の資料やら用紙やらでゴチャゴチャだ。イライラをぶつけるように、それを右に左にと押し分けて、ラフ用紙を置いて書き始め――ようとしたのだけど。
「磐城くん、ゴメン! こっちの隔月刊の新製品紹介ページ、ネーム書いてくれっかな! こっちの担当、風邪で寝込んじまってさ~! 至急! 今回モノクロ1ページだけだから!」
「…わかりました。」
「磐城先輩! この前言ってた電動バイクの発表会! 今日でした! 渋谷で16時! ごめんなさい! 今日、私広報車の引き上げに行かなくちゃいけなくて…! 写真とプレスリリース、もらってきてくれません!?」
「……了解ですよ。」
~~
「つ、つよ…。」
オールバックの男が、スキンヘッド男を地面に叩き伏せて。私はというと腰を抜かしてしまい、立てないでいる。
「いてて…ケガはないかい、兄ちゃん。」
左手を押さえながら、オールバックはこちらを見下ろす。
「はい…! えっと…ありがとうございます。」
「いいってことよ。それより、その礼といっちゃぁなんだが…。」
そしてその手を差し出しながら、ニヤリと笑んだ。
「…はい?」
「俺と、相席バーに行ってくれねぇか。」
~~
「老師はよく言ってたさ。武術でいずれ、人を幸せにしろってな。
お前が、〝強くなれば自信が持てる〟っていうんだったら、俺がお前を強くしてやる! お前、俺の弟子になれ!!」
「………は?」
~~
「…ってなことがあってさ~! 母さん、私、武術の練習を始めてみたよ。」
「アッハッハ! なんだその愉快なハナシ! その人、大丈夫なんかい? 信用できんのかい。」
「うん…。まだあまり話してはいないけれど。多分、良い人…だとは思う。」
「なら、いいじゃないか。あんた居合道やってたり、そういうの好きだったろ。やってみな。」
「でもさ……。そこに通い始めたら、母さんの見舞いに来るの、少なくなっちゃうかも…。」
「ばーか。そんなの気にせんでいいよ! せっかく見つけた趣味なんだ、そっちを優先しな!」
…そう、言わないでほしい。
たしかに趣味は、大事だ。でも私にとっちゃあ、母さんを守ることこそ、大事なことなんだ。
だから…そう、申し訳なさげな顔をしないでほしい。これは私にとって、当たり前のことなんだから。
「…母さん。私、仕事変えてみようかな。」
「ふぁっ!? どうしてこの流れで、そんなハナシ!?」
「いや…私、あんまり稼げてないし…。父さんにも言われたんだ。もっと普通の会社員のほうが、お金も稼げて、定時に上がれて。母さんの面倒も、見れるんじゃないかって。」
「…欣秀は今の仕事、好きじゃないのかい。」
母さんは声のトーンを下げて、静かに問いかけてくれる。真面目に、考えてくれるらしい。
「好きだよ。ストレス溜まることも多いけど、どうしてもできないって仕事もないし。向いてるほう…だと思う。…でも、それじゃダメなんだ。自分の好きなこと、するだけじゃあ。」
「なんでダメなんだい。あんたの人生なんだから、あんたの好きなことをすればいい。」
「そんな訳にはいかないだろ!」
感極まって、音を立てて椅子から立ち上がる。母さんは身じろぎ一つせず、私の事を見つめている。
「だって、だってさ! 俺は母さんを、そんな風にして生まれてきた子だから…! 母さんのために、立派な大人になるのは、当たり前のことなんだよ!」
「…そんなこと、あたしゃ頼んでないよ。」
「頼まれなくても、やらなきゃ気が済まないんだよ! 父さんだって、それが子の責務だって…!」
「はは、あの馬鹿。あんたに、今でもそんなこと言ってたのかい。あいつの言うことなんて、気にしなくていーんだよ?」
父さんに昔から言われ続けたことが、今の自分に影響していない。といえば嘘になる。
ただもし、それがなかったとしても。私は、こうしていたんじゃないだろうか。だって。
「やだよ、だって…、母さんには、幸せでいてほしいから…!」
自然と項垂れてしまっていた顔から、雫が落ち始めているのに気付く。情けない、と拭うけど、それはとめどなく流れてきてしまって。母さんの布団を、濡らしてしまう。
「でも…! でも、俺…。なにやってもダメで…! 父さんみたいに強くないし、姉さんみたいに光る才能もないし! てんで、ダメで!
…なんで俺みたいなどうしようもない奴じゃなくて、母さんが病気なんだろう……! 俺最近思っちゃうんだよ…。………俺なんか、生まれてこないほうが良かったんじゃないかって―!」
こんなこと言うまいと、今まで必死に、堪えて来たのに。なんでこんな、病人の前でしみったれたことを言ってしまうのか。情けなくって、辛くって。もう、たまらなくなり、目を閉じてしまう。視界がたちまち、真っ暗になる。
「…バカ。」
だけどその暖かい手は、暗闇の中で震えるこの手を、優しく包んでくれた。
「欣秀がそんな風に悩む必要なんて、全くないんだよ。」
母さんは手を引いて、私をその身に寄せてくれる。力が入らない体は、少しばかりの力で、母さんにしなだれかかってしまった。
「…母さんはね、あんたが元気に生まれてきてくれただけで、十分幸せなのさ。それが二本の足で立って、こっちまで歩いてきてくれただけで、もっと幸せ。
話せるようになって、お母さんって言ってくれただけで、すっごい幸せさ。一緒に遊べて、メチャクチャ幸せ。」
顔をうずめる私の頭を、母さんは優しく撫でてくれる。その手が頭に触れるたび、どうしようもなく切なくなって、しゃくりあげが止まらなくなる。
「そんな親孝行の息子が、あたしのために一生を棒にふるなんて、我慢ならないよ。
いいかい欣秀。親のために人生を捧げるのが子の責務なんてことは、全くないんだ。
欣秀は欣秀が信じた道を。楽しい!って思える道を歩んでくれれば、あたしはそれが、一番の幸せなんだ。」
「………母さんっ…!」
「コラコラ、あんた、またメソメソ泣く気かい?
しみったれたのは勘弁しとくれよ。治るもんも治らなくなる。」
「…っ、だって…、だって母さん、もしこのまま、母さんの具合が良くならなかったらって…、ぐすっ、思ったらさ…!」
「だーかーら、縁起の悪い話をするんじゃあないっての。ホラ、泣くのもお止し。
…まったく、あんたは本当に、昔っから弱虫に育っちまったねぇ。」
「…強くなんかなれないよ……。」
「そーやって決めつけんのが、あんたの悪い癖だよ。
…あーもう涙流すな、鼻水すするな。自分の体液バラ撒いてる暇があんなら、あんた少しでも強くなっておいで。…そーさねぇ。
…あんた、思い切って一人旅でもしてみたらどうだい。」
~・~・~
「…お、牛だ。」
山あいの国道275をひた走ると、白黒の動物がチラホラと見えてくる。雨粒に打たれながらも、マイペースに草を食んでいた。
路肩にロケットⅢを停め、欣秀はその姿を写真に収める。エンジン音に驚いたのか、牛たちは口々に鳴き始めた。それが少々、耳につく。
「んんッ…あと、どれくらいかな…。」
降りたついでに、軽く伸びをする欣秀。
ロケットⅢの唸り声は、牛たちに負けんばかりに。未だ、鳴り止むことはなかった。
~・~・~
住宅地の一角の公園で、ぱぁんっと乾いた音が鳴り。ホームセンターで買える細長い木の棒が、空に弾け飛ぶ。
「…あ。」
「どーした欣秀。今日は練習に身が入ってないぞ。武器術は得意なほうだったと思うんだがな。」
「すみません。ちょっと、考え事をしちゃってまして。」
「ほーう? ……んじゃまあ、休憩にすっか。」
べつに疲れてはいないのだけど、宮野師匠は自分の棒を放り出し、公園のベンチにどかっと座る。
乱暴な人だけど、こういう心遣いをしてくれるのは、ほんとに良いところだと思う。
「…師匠。旅ってしたことありますか?」
「旅ィ? んー…ま、修行って訳でもないが…。中国に行ってた頃は、わりかし色んな所を歩いたなぁ。」
「それで、強くなれましたか。」
「強く…? んーまぁフィジカル的には……なんだお前、旅にでも出るんか。」
「ああ、いえ……。ただ母に、言われたんです。」
「母…って、たしか病気の? 元気にしてんのかい。」
「ええ。なんでも、もっとお前は強くなるべきだって。旅にでも出てこいって。」
「言われたのか。」
「はい。…変な話ですよね、旅になんか出るより、ここで修行をしていたほうが、よっぽど実になると思いますけど…。」
「ほーん……。」
師匠は顎に手を当て、空を眺めて一考する。
たまにこういうことがよくあるのだ、この人は。そしてその後には大抵、突拍子もないことを言う。
「いや、欣秀。いいなそれ。お前、出て来いよ、旅。」
「えっ師匠までそんなことを!」
「武者修行の旅だよ、欣秀! なーに今すぐにとは言わねぇ。最低限、教えたいこともあるしな。前向きに考えとけよ、お前。」
「んなこと言ったって。私だって仕事してるんですからね! それに今、母さんの近くを離れる訳には…。」
「おーおー。マザコン野郎が。そうやってできない言い訳ばっか言ってっから、母ちゃんに叱られんじゃないのかー?」
「うぐぐ…。」
そうと決まれば時間を無駄にできない。と、師匠は早々に休憩を切り上げ、また棒で私を突っついてくる。…この頃から、妙に師匠の指導が激しくなった気がする。
~~
「とはいってもなぁ…旅なんて。一体、何ヶ月休めば満足いく旅ができるのか。」
旅なんてしたことがないからわからないけど、どうせ"武者修行"なんて体裁で行くのなら、ビッグな旅をしてみたい。
日本一周…いや、全都道府県踏破がいいか。期間も、短すぎるのはカッコ悪い。一年は…。
「はい、これ新しいゲラ! 校正よろしくー!」
「…はーい。」
まぁ、絵空事か。現にこうして仕事は途切れることはないし、まとまった休みがとれるのなんて、夏休みか年末年始のせいぜい5連休ぐらい。それこそ、仕事を辞めねば――。
「磐城さん磐城さん、携帯、鳴ってますよ。」
「ん、ああ。ごめんごめん…。」
珍しく長続きしている後輩から指摘されて、初めて携帯の着信に気付く。いけないいけない。それほど旅について熟考していたのか、私は。
慌てて取り出した携帯に表示されていたのは、姉の名前。
―これは…―。
「もしも―」
「よっちゃんお願い! 今すぐ来て! お母さん、お母さんの意識が―!」
一瞬で手がカバンを掴み、脚が動いて玄関へと歩を始める。
「すみません! 病院の母の容体が…! 早退します!」
吐き捨てるように早口で言うと、すかさず耳障りな声が私を制止する。
「おい磐城! ちょっと待て!」
あの煩い営業の桜井である。サーファーだかなんだか知らんが、色黒のそこそこ良い体躯が、私の道を塞ぐ。
「すみません急いでるんです、どいてください!」
「お前よぉ、最近いくらなんでも早く帰りすぎだろお。」
気だるげにぐだぐだと動かすその口が、心底イライラする。言いたいことがあるならさっさと喋れ。
「家族が入院してるんですよ。行っちゃダメな理由がありますか!」
「あのなぁ。誰だって家族がいるんだよ。それをみんなで作業分担して、頑張って動かしてんのが会社ってもんなの。わかる?」
「お言葉ですけど、私は人一倍働いている自覚はありますし、そのうえで定時退社してるんです。文句言われる筋合いないんですが。」
早く。早く。
「人一倍…って。てめえ、まだまだ新人のくせに偉そうに…! お前がしてきた残業量なんかな、俺らに比べれば何万分の一なんだよ!」
邪魔だ。行かせろ。
「残業した方が偉いとでも? 笑わせますね。一番良いのは、残業しないよう効率よく仕事することでしょ。
"残業してる俺、カッケー"とでも? ほんと馬鹿馬鹿しい。何時代の人ですか。残業なんて、会社にとっては金を余計に払わにゃいけない害悪なんですよ! ああ、この会社は残業代なんか払わないからいいですけどねぇ!」
「てめぇ…さすがに調子乗りすぎだぞ!」
さすがに、社内暴力はご法度だ。目の前の害悪は、多少ビビらせるつもりで拳をふりかぶったのだろう。でもこの時の私に、それを冷静に判断できる余裕など微塵もなかった。私は反射的に、その拳を払いつつ突き受けを放ち―…。
その顔面に、拳を叩きつけた。
~・~・~
クッチャロ湖のある浜頓別町を経て、猿払村に入ると。国道238は、海沿いを走る快走路…その名も『オホーツクホタテロード』となる。
右に海、左に牧草地もある広大な平原…と、運転好きなら誰もが笑みを浮かべる道なのであるが――本日は、雨天である。
40号を北上している時は俄雨だったそれが、段々と霧雨に姿を変え、そして今は本降りになりつつある。
(雨のたび思うけど…、キッチリとしたカッパ、買っとくべきなんかな…)
欣秀の雨合羽といえば、リヤシートに載せてある軍用コートのみである。旅に出る以前、"カッコいい"という理由だけでネット通販で購入した、フランス軍の放出品だった。
確かにキャンバス生地は多少の雨を防いでくれるが…。なにぶん重く、長い裾はロケットⅢのマフラーに当たり焦げる……と、今ではグランドシート代わりにしかなっていない。
だが旅に出てみれば欣秀の道着は薄手で、多少濡れてもすぐ乾くことに気付く。長羽織は厚手で、水分を含んではしまうが。それも走れば、あっという間に乾いてくれる。「レインコートいらないじゃないか」と、欣秀を妙に納得させていた。
無論、アウターで雨風を防がないぶん、寒さはとんでもないことになるのだが。
(いや。こんなのはただ…冷たいだけだ。体が辛いだけだ。マシだ、あの頃に比べれば、マシだ…!)
~・~・~
私は、どうすればいいのだろう。
病室から出た廊下のベンチで、ただただ、白い壁と天井に、ぼんやりと視線を動かす。
自分は一体、何をしてきたのか。何ができたのか。これから何をすべきなのか。する必要があるのか。
そんな答えの出しようもない問答だけが、心の中で反芻している。
母さんは、昏睡状態になった。
命に別状はない。健康体であるそうだけど、どうにも目が醒めないらしい。先生が何やら原因をいろいろと説明してくれたけれど、私には何がなんだか…というか、そもそも聞ける気力がなかった。
何度呼びかけても、ただ息を吸っては、吐くを繰り返す母さんを見て。なんだか全く知らない誰かを見ている気になって、恐くなって。私は、廊下に逃げ出してしまった。
そんな自分が情けないという感情も混じって、また手で顔を覆ったところで、病室のドアが開いた。
「…そんなところにいたのか、欣秀。」
「……父さん。」
駆け付けたときすでに居た父さんは、泣くでもなく、叫ぶでもなく。ただ、奥歯を噛みしめた硬い表情で、拳を震わせていた。
今もその強張った表情は変わらないけれど、やつれたのか、どこか弱々しく見える。こんな父さんは、初めて見た。
「なにしてるんだ。早く会社に戻れ。」
「え……でも。」
「ここにお前が居て、何ができるっていうんだ。早く行け。」
針のように刺さってくる、容赦のない言葉。
ああ、そうだね。姉さんは優秀だから、べつにここに居たって仕事に支障はないよね。私みたいなのがいたら、確かに邪魔だよね。
…キツいこと言うよなぁ。まぁ父さんも、もう、余裕がないんだ。しょうがない。
しょうがないこと。しょうがないことなんだけど。でも、やっぱり。思ってしまう。
「……………私のせいだって。思います?」
父さん。私のこと、嫌いですか?
「………少しでも稼いで、立派な大人になって。退院した母さんに、旨い飯でも食わせてやれ。そうして親孝行するのが、お前の役目だろ。」
「………。」
……うん。そうだね。わかってた。私みたいな出来損ないは、せめて親のために頑張らないと、生きてる意味ないもんね。
顔を逸らす父さんに、言葉になったかならないか、「ごめん」と呟いて。立ち上がって、廊下を歩き始めた。
…でも父さん。最近一つだけ、わからなくなってきたことがあるんだ。お金を稼いで母さんにラクさせて。それで、母さんは心の底から喜んでくれるのかな?
母さんが私に本当にしてほしいこと、喜んでくれることって、なんなんだろうな?
~~
あれ以降の職場での私の扱いは…さほど変わったものではなかった。
誰も口にしないだけで、オフィスでパワハラ紛いの人間関係があるのは周知の事実で。元々ブラックな企業である。私の暴行事件をきっかけに、そういった不祥事が明るみになるのは好ましくない、との判断で、事件は黙殺されることになったようだ。
顔に痣を作った桜井はもちろん面白くない顔をしているけど、それ以外の社員から、ぞんざいな扱いを受けることはなかった。
…皮肉なことに今になって、べつにこの職場は、敵しかいない場ではないことに気付かされる。
「…あ、磐城くん。読者アンケートのページは急いでないから。今日はもう、あがっちゃってもいいよ。」
「……承知しました。ありがとうございます。」
むしろ、不自然なほど以前より丁寧に扱われている感があり、過ごしやすくなった気さえする。
丁寧…というよりは、よそよそしい、というものであったけど。
「…まぁ、もうどうでもいいや。」
どうでもいいのだ、そんなことは。母さんが寝込んで以来数週間、仕事に身が入らない。こんなことをしている意味が、わからなくなってきた。私はこれから、何をすべきだろう。
歩いているのに、地に足が着いていないような。ふわふわとした感覚で、今日も、母さんの居る病室へ向かう。
~~
「あ、よっちゃん!」
「…お、姉さん、来てたんだ。」
先に訪れていた姉さんが、私のぶんの椅子を出してくれる。
母さんは…相変わらず、腹を膨らませて、へこませてを繰り返して。生命活動を続けていることを、無言で表しているだけだった。
「よっちゃん、食べる? シュークリーム! お母さん、性格に似合わず甘いもん大好きだったよね~。」
「あ……うん、でも……母さんは、食べられないよ。」
どんな顔をしていいのやら。意識不明の者に、差し入れなど…。気持ちは、わかるのだけど。
「えへへ、無駄だよねー、わかる。
でもさ、もしかしたらここに来てみたら、案外お母さん、ケロっとまた起き上がったりしてるかも!って思っちゃってさ! そん時、お菓子でもあったらいっかなーって。」
「ん…。」
そうだ。母さんはまだ、死んだわけではないのだ。また、起き上がる。必ず。
そんな希望を見舞いという形で表す行為を、"無駄だ"と思ってしまう私こそ…。
「…どうしようもないよね、私。」
「んー?」
「いやさ、母さんが目覚めて、今の私を見たら、なんて思うだろうって…。」
「あはは、誰だって家族がこんなんなったら、ヘコむってー! よっちゃんはよく頑張ってるよ!」
自分だってヘコんでいるだろうに、姉さんは笑顔で、子供にするようにぽんぽんと頭を撫でてくる。
「…でもさ、姉さんみたいにお見舞い、持ってくる気概すらないんだぜ?」
「それも、普通は持ってこなくて当たり前だって!
それに、よっちゃん今まで、いろいろ持って来てくれてたんでしょー? 花とかお茶とか知恵の輪とか握力増強マシーンとか…。あ、そうそうこれもこれも!」
我ながら迷走していたであろう品々を姉さんは指さしたのち、ある物を目の前に差し出す。
「ほらコレ、よっちゃんが作ってる雑誌!」
「…あ。」
今まで毎月、製本されるたびに持ち込んだ雑誌群だった。
「これ、よっちゃんが書いたページでしょ? ちゃーんと読んでくれてたんだねー。」
雑誌にはいくつかの付箋が貼ってある。それは、私が担当したページだった。
「母さん…。」
ページをめくる指が、少しばかり震える。
と、その付箋のページもそこそこに、とある特集にシワが集まっているのに気付く。メカニックなのだから、メンテナンスやパーツ関連に興味があるのか、と思ったけど。
「…旅。」
それは、ツーリング企画のページだった。そこだけ、ページによっては擦り減るほど読み込まれている。
"あんた、思い切って一人旅でもしてみたらどうだい"
そうだった。母さんの意識がなくなったときのゴタゴタで、失念していたけど。
私はその提案に、ひどく心を揺さぶられていたのを思い出す。
母さんは、言っていた。もっと強くなれと。外の世界を知れと。…それはもしかして、ただの提案なんかではなく、願い。だったのだろうか。
思えば母さんは時折、ぼやいていた気がする。"遠くへ旅行になかなか行けなくて、ゴメンネ"と。
「…でもそれで、強くなれるのかな。」
「ん? どしたよっちゃん?」
旅なんて、言わば行楽だ。余暇を楽しむための手段で、そんなもので強くなれるとは―
―いや。違う。それは旅行だ。母さんが言っているのは、旅なのだ。
余暇ではない、人生の内の長い期間を賭けた、自己研鑽の、旅。
「……姉さん。立派な大人って。…強い人間って、何なんだろう。」
「え…きゅ、急にそんな、哲学的なことを訊かれても…!」
雑誌を見せてから表情を失っている私を見て、姉さんは笑みで隠しつつも、明らかに動揺している。
「…よく働いて、よく社会に、家族に尽くして。それは、立派な大人なんだろうね。……でも。」
雑誌を握る手に、意図せず力が籠る。
「穏やかに過ごせる家を離れて、見ず知らずの土地で、孤独の中で。
世界と自分を知って、研鑽していくのが、強い人間……なのかな。」
「よっちゃん!? どした急に!? そんな中二みたいな…!」
「働くのも、旅も…。どっちもスゴいことなんだと思う。けどなんかこう…、そう。
カッコよさ。
…カッコいいのは、やっぱり後者だよね。」
ただただ時間と金を浪費するだけの、徒労に終わるかもしれない。
成し遂げられるかどうかも、わからない。
完遂しても、得られるものなど何もないかもしれない。
誰からも、賞賛されるものではないかもしれない。
…それでも。
それでも心は、その道へ足を向けてしまう。理由もわからず、意味もなく。
ただ、己の本能と、興味と、浪漫に従って。
「俺、旅に出てみるよ。」
母さんの目が覚めた時、強い姿を、見せたいから。
~・~・~
東浦漁港を過ぎると、国道238は海を離れ、宗谷丘陵を縫うコースへと移り変わる。
標高が上がることで、より霧が濃くなる。
一寸先が白い闇で呑まれ、路面が濡れる状況に、欣秀はアクセルを緩めるが。
止まることはなかった。ここまで至った経験と、覚悟が、その足を着実に進ませる。
~・~・~
きっと私は、ただただ、動きたかったのだろう。
じっとしているのが、我慢できなくて。目的がないのが、辛抱できなくて。
そんな私に、母さんは最高の贈り物を残して寝入ってくれた。
父さんは言った。"立派な大人になれ"と。
母さんは言った。"強くなれ"と。
似通った意味だけど、その本質は、大きく異なっている。私はどちらの道を選べばいいのか…。答えは、すぐに出た。
「よくわからんけど…。自分を嫌ってる人のために頑張っても、どうしようもない気がする…!」
そんな気持ちを抱いてから、私が行動を起こすまではあっという間だった。
恩だの、義理だの。言葉にしてみれば美しいが。恩義なんてのは、上が下を従順にするために与える、ただの餌だ。義理なんてのは、慣れ合うための都合のいい建前だ。
「…お、ここなら、相談に乗ってくれそうだな…。」
ここまで、よくお利口に頑張ってきた、私。
今回ぐらいは、自分のしたいことに貪欲になってみようじゃないか。
『……はい! ドラゴン法律事務所です!』
「あ、すみません。ちょっと、残業代未払いの件について、ご相談したいのですが…。」
~~
「これはこれは磐城さん! 聞きましたよ~、ついにマイバイクを買うんですって?」
「へへ。ちょっと一念発起しようと思いまして。ま、10年ローンになりますけどね。」
「ウチのブランドにお目を付けていただいて、ありがとうございます。どんなのをお探しですか? 以前、磐城さんには特集記事の件でお世話になりましたからね。モノによっては、サービスしますよ。」
「おお…! 恐縮です。…そうですね……長旅の相棒が欲しいんですけど。」
「旅、ですか。でしたら、先ずはタイガーシリーズをお勧めしますね。昨今勢いのあるアドベンチャーツアラーモデル。不整地走行もこなす足回りに、トラクションコントロールといった電子制御も完備しています。専用のラゲッジケースも付けられますし、積載性、走破性ともに文句はないかと。」
「んーー確かに便利そう……。ただ個人的には、トライアンフさんはオーセンティックなルックスがカッコいいので、そっちも気になるといいますか…。」
「ありがとうございます。でしたら看板モデル、ボンネビルはいかがでしょう。ザ・トラディショナル、という造詣ですよ。もちろん中身は最先端の装備で整えておりますので、多少ムリをしても音を上げることはありません。これでも不整地走行は慣れればできますが、もっと楽しみたいならスクランブラーシリーズも――」
「…あ。あれ。あれ、何ですか。」
「えぇっと…。ああ、あれですか。こちらは、もうじきに型落ちしてしまうモデルでして…。試乗車落ちの一台を、ウチに置いているんですよ。"量産市販車世界最大排気量!"なんて売り出したのはいいですけど、デカすぎる! 重すぎる!って、あまり日本市場での評価は芳しいとは言えず……。」
「……。」
(お前も、なんで自分がここに居るのか、わからないのか。
…でも、それでも堂々と前を向いているお前は)
「……ッコいい。」
「…え?」
「……カッコいい…。唯一無二の存在…
…うん、イイ…! これ……、これ、いくらですか!」
~~
「確か以前、キャンプ特集を組んだよな……お、あったあった。なんでバイク乗りっていうと、キャンプしたいってイメージがあんだろうな。
えぇーっとテントカタログのページ……ふんふん。やっぱできるだけ軽くて小さいのがいいな。とはいえ、スペック上は二人用になるぐらいの広さは欲しい…。モノポールやツェルトも変わり種で気になるけど…。まぁ、後悔するわな。いつでも土があるわけじゃないし。
定番のドーム型で、ライト級……お。へぇ、スリーブと吊り下げ式の相の子で立てやすいんだ…。…うん、流石に高ぇなぁ……でもま、安いのを買ってもすぐ壊れるだけだし。多少の出費は致し方あるまい…。
シュラフのリミット温度は、-5℃ぐらいに設定して、と…。」
~~
「芯線、出しときましたよ。あとコンセント周り、配線してみました。チェックお願いします。」
「お、早いねバイト君。どれどれ…。いいよーオッケー。なかなか筋がいいじゃない!」
「昔、工学部だったので…。でもぼんやり覚えてるだけで、たまたま上手くいっただけだと思いますよ。」
「ケンソンすんなって! 電気工事の資格とってさ、ここで一人親方目指してみたらいーんじゃない?」
「いえ、その…。授業は受けましたけど、私には細かい作業って、合わなかったので…。この仕事をやってみるのは、今だけですよ。」
「あはは! まーたしかに。オイラも始めのころは苦痛だったっけなー。…で? 短期間バイトして小遣い稼いで、何するんだい!」
「はい…、ちょっと、旅に出てみようかと。」
~~
「師匠、師匠! 私が今学んでいる拳法って、両手を大きく使いますよね! だったら、 この剣豪のスタイル、取り入れられるんじゃないかな~~って思うんですけど…。」
「…んー、両方同じサイズの細剣なんかなら、いいんだろうが…あと苗刀とか…。そいつのはちょいと、厳しいんじゃないか?」
「そうですかぁ……。」
「あ~いや、別に真っ向から否定するワケじゃあねぇよ。武術は試行し発展させていくもの。お前がやってみてーんなら、その道を切り拓いてみりゃぁいいじゃねぇか。」
「そんな、流派を作るみたいなこと。私には無理ですよ。」
「んなもんはやってみないとわからんぞ? ま、それで戦って死んだら、〝ホレ見ろ〟って笑ってやっけどな。」
「ひっど~~………。………でも、そうですね…ちょっと頑張ってみますか。」
~~
「イッタタタ……! クソ、またUターン失敗…! これじゃキャンパーターンなんて夢のまた夢だぞ…!」
「おーい兄ちゃん、大丈夫かい! ここ最近、この駐車場でガシャガシャバイクぶっ倒してっけど…いつかケガすんぞー?」
「あはは、すみません…。お騒がせしちゃってますね。……よっっっっこらせえ!!っと…!」
「にしても、重たそーなバイクだねぇ。ハーレー系っていうの? そういうのってさ、走り潰すんじゃなくて、飾っておいたほーがいーんじゃないのかい。あーあーほら、エンジンガードのメッキも、もうボロボロじゃないかい…。」
「うーん…かわいそうなことしてるってのは、承知してます。でも私、飾るためにこいつを買ったんじゃないんで…。こいつで日本一周、したいんで…。」
「こんな取り回しづらそうなので、日本一周!? バックギヤもねーみてーだけど…。こらまたなんというか…言っちゃなんだが、お兄さん無謀だねぇ。」
「あはは、そうかもしれませんね。…でも。敢えて厳しい道を、進んでいったほうが―」
~~
『お手の大きさは…タテ17.5、ヨコ8センチですね。ですと~えっと…、柄は8寸3分、身長に合わせまして、刃長は2尺4寸でいかがでしょう。』
「はい。そちらで、お願いいたします。」
『拵えに関しましては、何かご希望などございますか?』
「お任せいたします。0から型を作っていく勢いで考えておりますので、こちらから要望するものは、何も。」
『承知いたしました。ウチは同田貫の系列なので、飾り気がないのはむしろ得意ですよ。
…あ、それから鍔の件なのですが。やはり強度の面から、鍔無しで拵えを作るのは、難しいです。ヤクザものなんかですと、白鞘で振ってたりしますけどね。あくまであれは創作、なので。
ですが当工房、新しく合口風・小喰出鍔というものを開発しましてね。こちらでしたら、お手に引っかかることなく振るいやすいと思われます。』
「おお…! ぜひ、そちらでお願いします。」
『通常の拵えとは少々形も異なります故、多少は重心もズレるとは思いますが。よろしいでしょうか?』
「はい。構いません。新しいものに挑戦したほうが―」
~~
『―…という訳で、悪名高い裁量労働制になっておりますので…。大変お心苦しいのですが、残業代請求を丸々…というのは、難しいかと。』
「そうですか……はは、まあ、そんな予想はしてましたけどね。」
『磐城様にも、出退勤の時間をメモしていただいたりと、ご協力していただきましたのに…申し訳ないです。ですが、無論このまま引き下がるつもりはありません。額にして700万超えのサービス残業。
これはもう、労働基準監督署に訴えられても、文句ない惨状です。ですので、もし磐城様がよろしければ…。』
「…それを引き合いにだして、和解金を頂く……って感じですかね。」
『…そうですね。とはいいましても、100万ぐらいにしかならないでしょうが…。そこから今回の費用も差し引きますと、正直、磐城様にお渡しできる額は、そのまた半分ぐらいになってしまうかもしれません。
…いかがいたしましょうか? 会社さんとの関係を良好なままにしておきたいなら、ここで止めておく選択も―』
「いえ、お願いします。」
『………承知いたしました。』
「ボロ雑巾のように人を扱ってきた人たちに、よくわからん恩義だのなんだのを感じて、容赦するの。なんだか馬鹿らしく思えてきちゃったんです。
痛い目に遭わされた相手には、しっかりと痛い目に遭ってもらいましょう。きっと、そのほうが―」
~~
「旅ィー!? なんでまた。長旅かい? 蓄え、あんのかい。」
「いえ…そんなにないですね。かなりの貧乏旅になるかと思います。」
「だよなぁ。じゃないとこんなとこでバイトなんてしてないもんなぁ。あーそーだ、そういえば君、前は東京で編集者やってたんだっけ? 出版関係も辛い仕事だとは聞くけどさ、どっちかといやあ、オイラたちとは違って華のあるほうじゃないのかい。どうして辞めちまったん?」
「……本当に華のある人生というのは、たとえ地味でも、辛くても…。なんというか、"今これをやっている自分が好きだ"って、心底思える道を歩くことだと思うんです。
親方も、今、自分に誇りを持ってらっしゃるでしょう?」
「おん? んーまーな。地味かもしれねぇが、何十年とウデを磨いていって、易々とマネされねぇ仕事を積んでくってのは、けっこう誇れるもんよ。」
「でしょう? 私も今、旅に向けて準備してる時間が、どうにも楽しいんです。初めて、自分だけの力と意志で、行動できてるっていうか…。
思えるんです、今の自分は―」
~~
「痛っててて…! 欣秀! お前、その蹴り技禁止!」
「はぁ~~? 師匠、酷いですよ! 珍しく技を決められたからって…!」
「無駄に出来すぎてんだよ、お前のやるその技。正確に決まっちまったら、相手の内臓破裂するぞ、お前。」
「む~、じゃあ、奥の手ということにしときます。」
「…それにしても、最近のお前。身が入ってるな。」
「ええ。決めましたからね。"行く"って。師匠に会えるうちに、少しでも技を磨かないと。」
「いーことだ。それで? 師匠のアドバイスも無視して、二刀流の練習もしてる…と。」
「えへへ…そうですね。今回は、無視してみます。職人さんに作ってもらった練習刀も、メチャクチャ手に馴染みますし。」
「フフ。まぁ、どこまで通用するか。機会があったら、旅先で試してみりゃあいい。」
「ええ。上手くいくかわかりませんが、とりあえず納得いくまで、やってみます。
自分だけの道を切り拓く。二刀流。イイじゃないですか。だって―」
~~
「…さて。パスポートを使って、期限前の免許更新も終わらせたし…。
あらかた旅の準備は整ったぞ。あとは服装……か。いわばユニフォームだからなー…。機能性はありつつも、多少の見栄えは……―。
うん。私、オシャレなほうじゃないからねー。クローゼットん中、殺風景だわ…。新しく調達するか?
……ああ。そうだ。武者修行の旅なんだから、道着でいいか。袴は…さすがに動きづらすぎるから、そうだなぁ…。カンフーパンツでも合わせてみるか。
……お、いい感じ。居合とカンフーの合体…ふふ、面白い。
んー…でもなんかこのままだと、ただの作務衣だな…。せっかく旅に出るんだから、もっとこう、旅感を……。あ、そーだ! 羽織でも買ってみるか! マント…うんうん、旅人っぽい!
あはは。明らかに変人だけど……。いいやいいや、旅の恥は掻き捨て。私は、変わるんだ。きっとこのほうが―」
「カッコいいじゃん。」
~・~・~
霧に包まれた宗谷丘陵の峠を越えると、靄の奥から、小規模の工場や民家がポツリポツリと姿を現す。自然物に囲まれた道をひた走る、最果て特有の寂寥感で麻痺していた感覚が、それらの人工物が幻でないと実感すると。やがて思考は、一つの確信に導かれる。
「そうか………着いたか。」
町に包まれた、緩やかなカーブをゆっくりとなぞっていくと。建築群が不意に途切れ、その陰からゆとりのある空間と、一つのモニュメントが頭を出す。その到着は、意外とあっけなく感じるものだった。
「私は、変われたんだろうか。カッコよく、なれたんだろうか…。
まだ旅の途中。きっとまだまだ、未熟だろうけど。でも。」
広場の駐車場にロケットⅢを停め、欣秀は実に6時間またがり続けていたシートから、ようやく腰を降ろす。
「ひとまず、ここまで来れたんだ。きっとあの時よりは、前に進んでる…!」
少しばかりギクシャクとした足取りで、石畳を歩き。三角に形作られたモニュメントー"日本最北端の地"と刻まれた石碑の前に立ち、欣秀は、声を張り上げた。
「ウオオオオオオオーーーーーー!!! 辿り着いたぞーーーーーー!!!」
数時間ぶりに震わせた声帯はぎこちなく、若干裏返る。そんな、滑稽でありながらも、堂々とした獣のような雄叫びが、霧雨の降る曇天に轟いた。
間宮林蔵に何故か一礼をし、モニュメントに恭しく手を当て、その裏手に回った欣秀は、最北端からの眺めをまじまじと見つめる。目と鼻の先、海を挟んで約40㎞先には、現在のロシア領、南樺太があるという日本の"端"。
天候のおかげで海は霞み、樺太の姿は見えないが。その体に打ち付ける豪風と、それに煽られる荒波が、ここが果ての地であることをしかと認識させてくれる。
「今、私の後ろには…、全ての日本人がいる…! だいたい全ての……!」
振り返れば、広場と道路を挟んだ先にそびえ立つ、宗谷丘陵。"あの上からの景色はどうだろうか"、と好奇心に駆られ、欣秀はロケットⅢをもうひと頑張りさせる。丘陵の傾斜はキツく、一速でなければ失速してしまうほど肝の冷える坂であったが、冷めぬ興奮に後押しされ、危うげなくそこを上り切る。
丘陵の上は広大な草原となっており、そこにもぽつぽつと何がしかの石碑や、像、戦時中に使われた望楼などが設置されている。岬の反対側、内陸の方へと道路は続いているようであるが、霧のおかげでその全容はわからない。人気はなく、やってくるのは風に運ばれる雨露のみ。
「風、強いな…。」
雨量自体は大したことないのだが、その風が欣秀に脅威を覚えさせる。吹きっさらしだからか、日本の果てだからか。風圧は時折欣秀の体を煽り、足を地から離すほど。
そうして足元がおぼつかないのは、ぶっ続けで運転してきた疲労も関与していることに、欣秀はようやく気付く。
「3時過ぎか…よし。」
ここからさらに移動する余力は、欣秀にはもうなかった。舗装された駐車場もあるということで、欣秀はロケットⅢを労ったのち、せっせと丘陵の上にテントを設営し始める。
強風に邪魔されぬよう、逆に手伝ってもらう要領で、風上からインナーテントを広げ、ペグを刺していく。フライシートも同様に、風で広げるようにして。風が強いため、ガイラインも忘れずに張る。
疲れている割には、風のおかげで設営は早く終わった。
「……疲れた…。」
食事を摂って、歯を磨いて寝袋に入る頃には、日はもう沈み始める。体をうんと伸ばしてみると、麻痺していた疲れが一挙に押し寄せて来て、その瞼はもう重くなってくる。
意識が沈む前に確認しておきたいことがあり、欣秀はタブレットを起動する。開いた地図に示された自身の現在位置は、間違いなく日本の最北端に位置していた。
「…本当に、辿り着いたんだよな……ふふ。」
こんなところに来るなんて、想像すらしたことがなかった。つい昨年まで東京に籠っていた人間が、気付けば日本の最北端まで、バイクで来ている。こんなこと、誰が予想できただろうか。
そんな現実味のない現実に、欣秀は疲れも苦にせず、くつくつと満足げに笑う。
「…きっと、変われているさ。」
47都道府県中、まだ九つめ。道半ばもいいところだが。それでも、欣秀は多くの景色の中で多くの文化と触れ合い、そして多くの人に出逢って来た。
それら一つ一つは、その心を確実に動かしてくれていて。そんな旅程の末に至っている今日の自分が、あの東京で腐っていた自分と同じである筈がない。欣秀は微かに、自分を誇る。
さて、寝ようかとタブレットを閉じる刹那。画面に映し出された日付が、欣秀の目に映る。
「あ……。もう、そんなに経つんだ…。」
北海道へ来て、9日が経つことに気付く。真玲との約束まで、あと5日。
「………もっと、強くならなくっちゃな…。」
夜になり、風は一層強くなる。
岬では、風がゴウンゴウンと、生まれて初めて聴く轟音を鳴らし続けていた。
ガイラインを展開してもなお風を受けて歪む天幕の姿は、中にいる者に強い不安を煽ってくる。欣秀はそれを振り切るように、目を強く閉じた。自己を褒めていた気持ちを叱咤し、研鑽の気持ちへと変えながら。
―北海道滞在十日目・宗谷岬―
「さて、どうするか。」
テントから抜け出た欣秀は、運動のため体をほぐす。日が変わり、宗谷丘陵の風は穏やかなものになっている。
真玲の大太刀による豪快な連撃。欣秀自身、身を以てわかったことだが、あの一撃一撃を受けよう、流そうとするには、こちらにも相当な筋力が要求されるだろう。とすれば、やはりあれらは躱してしまうのが得策なのだが。
「躱し切れるイメージが湧かない…!」
見切り損ねれば、恐らく一撃で膝をついてしまうであろう、真玲の重撃。その威力からくる恐怖感が、欣秀の胸にざわつきを生む。
そもそも上手に躱したところで、燕返しでさらに狩られてしまったのが、前回だったのだ。
「もっと違うアプローチはないもんだろうか……。桐谷さんの、弱点…とか…。」
真玲の弱点。口にした欣秀自身、可笑しくなって苦笑する。あの女性に、弱点などあるのだろうか。一撃も喰らえばひとたまりもない大打撃を、隙のない速度で振り回し、反撃も見切って完璧に返す――。
その洗練されたサイボーグのような動きを思い出すだけで、欣秀は身の毛がよだつ。長大な大太刀を、まるで通常の刀のように、最低限に抑えられた、コンパクトな動きで――。
「…ん? 待てよ。」
何かが、欣秀の頭で引っかかった。その正体を探るよう、欣秀はあまり思い出したくない真玲の剣撃を、目を閉じて思い返してみる。
(そういえば桐谷さんの刀の振り方って……、物干し竿にしては、やたら小綺麗だったな)
元来、騎馬戦で使用される大太刀。その振り方として思いつくものといえば、リーチを活かして広範囲を薙ぐ、豪快な形である。が、真玲は脇を締め、突きなどを交える、小さくまとまった振り方を主としていた。
(それでも威力は十分だし、力の競り合いで負けたけど…。あの時は私も、脇差で小綺麗に"受け"てたからで)
無論、攻撃において隙は少ない方が良い。力任せに武器を振り回せば当然威力は増すが、刃がひとたび身に入れば血が流れる刀に、その威力は余分であり、むしろ大振りを見切られれば、反撃の糸口とされてしまう。防具を着込んでいない、威力が重要ではない戦闘では、尚更だ。
理路整然とした真玲のことである。そのことはよくわかっているのであろう。あの無駄のない動きを成し遂げていたのが、その証拠である。
「でも、そうだな……。もし、勝機があるとすれば。」
欣秀は刀を取り、本差を片腕で、強く薙ぐ。何度も振るってきた太刀筋。耳触りの良い、空を切る音が鳴るが、欣秀は眉をひそめる。
「違う、こんなんじゃない。」
こんなまとまったような、丁寧な振り方では、いけない。
(武蔵先生は刀は速く振るのでなく、静かに振るものだって仰ってたけど―)
いかんせん、それを意識しすぎていたか。
欣秀は右後方に腕を伸ばし、身をよじらせ――体の"バネ"の力を最大限に溜める。
「もっと、こう――! 後先考えないような振り方で…!」
腰が極限までねじれ、上半身、右腕が微かな痛みを感じるほど張ったところで。欣秀は力を一挙に開放し、本差を右から左へと思いっきり薙ぐ。引き戻される腰のバネの力を、肩から腕へ、腕から肘へ、肘から手へ…そして、剣先へ。
(あれ? この感覚って…―)
もはや斬るというより叩きつけるといった面持ちの鉄塊が、欣秀の眼前の空気を押しのける。先ほどとは打って変わって、ゴウンという重々しい音が鳴る。
途端に、ものすごい慣性がその腕にかかる。後先考えずに振り抜いたのだ。無理もない。
欣秀はそれを承知で、尻餅をつく覚悟で渾身の力を込めたのだが。
「…止まった。」
普通に薙いだ時よりも、姿勢は崩れてしまっているが。予想に反して、その手はしっかりと刀を握り、足腰はその威力の余韻に耐え、踏みとどまっている。隙はあるが、死に体というほどの姿勢ではなかった。
「この感覚…劈掛拳だ。」
体をねじり、張らせ、バネの力を開放して、遠心力で敵を打ち据える――。
放長撃遠。この打撃の仕方は、欣秀が長らく鍛錬してきた劈掛のそれであった。その培ってきたノウハウと体が、無茶な刀の振り方を支えてくれたのだ。
「そうか…! これが師匠の言ってた、"武術は武器術にも応用できなくてはいけない"っていう…! うし、これなら!」
今度は、左腕に持った脇差で試してみる。体をよじり、それを開放して振り抜く。軽い脇差だから、予想どおり、体のブレはより小さくて済む。その次はまた、本差で。次いで脇差で―。横薙ぎだけでなく、単劈手の要領で、唐竹、袈裟にしてみたりと、太刀筋の角度を変えながら、欣秀は刀を思い切り振り回す。
"そう、そうだ! もっと大きく! もっと強く! 大開大合、猛起硬落! 劈掛拳は、世界一体を大きく使う武術だ!"
息を切らす欣秀の脳裏に、かつての宮野の声が響く。はじめは一つひとつ独立していた重撃が、しだいに繋がり始め、その間髪は徐々に短くなり、刀は轟音を以て旋律を奏で始める。
「これなら……っ! いけるッ! かもっ!」
"受ける"のではなく、"ぶつける"つもりで。
両腕の痺れが限界になり、ついに振り抜いた刀を支えることができなくなったところで。欣秀は草の上に崩れ落ちる。
真玲の弱点。それは、理路整然としすぎているところである。論理的な物事の進め方は、大抵の場面で有効に働くが、ひとたび予想外、無秩序、破天荒な事態に遭ってしまうと、綻びが生じやすい。
欣秀が前回辛勝できたのも、真玲が予想しない行動をやってのけたからである。当然、武器の投躑などという手は二度も通じないだろう。
だからこそ、欣秀が編み出した新しい"型破り"が、攻撃後の隙など気にせず、思うままに力を振り回す、重連撃であった。
たとえ武器の大小があれど、筋量の差があれど。リスクを最小限に抑えた攻撃と、リスクを恐れずハイリターンを見込んで放つ攻撃とでは、威力に差が生まれる。
そのぶん、空振りでもしてしまえば一巻の終わりだが。その覚悟以外の全てで勝る真玲に対抗しうる手段を、欣秀は他に思い描けなかった。
「桐谷さん…あんたの小綺麗な太刀筋、これで思いっきり押し返してやる――!」
―北海道滞在十一日目・宗谷岬―
テントに差し込む薄明かりと、相変わらず響く風の音で、欣秀は目を覚ます。
「痛い…。」
昨日、夢中になって刀を振りすぎたからだろう。体の節々を動かそうとするたび、鉛のような重さと鈍痛が襲う。
それでも、もう時間はあまりない。
真玲に対抗するため、軽い準備体操で体をほぐしたのち、欣秀は二振りの刀を手に取る。そしてまた体をねじり、力を溜め、思いっきり本差を振り抜こうとする―が。
「! うおおっ!?」
まるで、髪や道着が全て後ろに引っ張られたと錯覚するほどの、猛烈な突風が正面からぶち当たってくる。
その風圧に押され、欣秀の刀は振ることが叶わず、それどころか足も後ろへと押しのけられ、あえなく尻もちをついてしまった。
「今日は、一段と凄いな…!」
雲はおおかたなくなっているが、辿り着いた時と同じく。丘陵に吹く風は、北海道…どころか、この旅で一番の暴風だった。
「こりゃ、今日は止めとくか…?」
また転んだ拍子に、誤って練習刀を体に刺したりしてはひとたまりもない。
「体も痛むし…壊しちゃ意味がないっしょ。無理は禁物、焦らず焦らず…と。」
ちょうど食料も尽き掛ける頃である。欣秀はロケットⅢに荷物を積み、買い出しに向かう。
~~
宗谷岬にもいくつか店舗はあるが、食料品を買い込める場所はなく、そもそも早朝などは閉店しているところがほとんどである。満足のいく買い物をしたいのであれば、岬から西へ約30㎞。日本最北の町、稚内に向かう必要があった。
「おお……ここまで来ると、本当にセイコーマートしかないのね……そして買える水は、京極の名水のみ……と。」
安価な大手コンビニブランドの水がないことに苦笑いしつつ、食料品の補充を完了する。最果ての町…ということで寂しそうな雰囲気を思い描いていた欣秀であったが、町内には東京でもよく見るチェーン店やファミレスが見かけられ、病院や郵便局といった必要不可欠な施設はもちろん、公園にホテルにキャンプ場…などなど、観光向けの場も多く見受けられる。
フェリーターミナル、そして駅の付近に来てみれば、まだ朝の9時だというのに、多くの車が駐車を始めている。なんだか久々に見たような通行人の姿に、欣秀は胸を撫でおろす。
「あーすみません、証明書の日付、一昨日にしてくれますか…? 着いたの、その日だったんで…。」
「本当はそういうことしないんですけど、サービスですよー?」
稚内駅にある観光案内所にて、欣秀は『日本本土四極 最北端到達証明書』を発行してもらう。
沖縄と離島を除いて、日本の東西南北の最端に位置する町で受け取れる、旅人にとっての勲章のようなものである。発行は無料。
「東…は今回は無理そうだとして…。西と南にも、行けるといいなぁ~。」
折れないよう、大事にファイルに挟み、バックパックにしまう。駅から出てみれば、目の前には駅から遊歩道に向かい、中途半端に繋がれた線路が見えた。
「ほほう…かつての最北端の線路を復元したもの…と…。」
今でこそ日本最北端の駅は稚内駅であるが、昭和の時代にはそこからさらに少しだけ、線路が続いていた。前稚内駅から延びた線路は海へと向かい、稚内の象徴ともいえる北防波堤ドーム横の稚内桟橋駅まで至り。そこからは、樺太の大泊まで、国鉄稚泊航路が敷かれていた。
「樺太かぁ…。」
現在のロシア領、そしてかつての日本領・樺太。サハリン。最北端である稚内は、言うまでもなくその地に最も近い町である。故にここには、それを忘れまいとする碑の類も多く建てられていた。
終戦当時、約42万人の日本人が生活していた南樺太を、ソ連軍の進撃により捨てざるを得なくなった無念を表した『氷雪の門』に、樺太の真岡(現ホルムスク)郵便局で、ソ連との戦火の中ギリギリまで通信業務を死守した9人の女性のための慰霊碑など。
"皆さん これが最後です さようなら さようなら"………。
と、暗い過去はもちろん忘れてはいけないが。日露間で友好的な交流を育む人々だって大勢居る。
ところどころには、ロシア語で書かれた標識や看板も見受けられた。
「なんて読むんだアレ……もぷすこん…ヴぉく…?」
「"マルスコイ・ヴァクザール"。フェリーターミナルですヨ! Самурайさん!」
「お…。」
ロシア語の標識に目を凝らしている欣秀の脇に、いつの間にか色白碧眼、スキンヘッドの男性が立っていた。
「ああ、あはは! 本物のロシア人さんですか! えっと…ハロー…?」
「Привет!」
「ぷ、ぷりび…?」
笑顔で手を挙げ、気さくな挨拶をしてくれたであろう…ロシア人は、欣秀の羽織を指さして半ば興奮気味に言葉を連ねる。
「ヴィー…エエト、アナタハ、トラベル、タビ…スルデスカ?」
「とらべる…ああ! はい! イエスイエス! アイムトラベラー! ワタシ、タビシテルヨ!」
何故か欣秀もカタコト日本語になりながら、とりあえず笑顔で対処する。
「Здорово! ドコ…デスカ?」
「どこ…ええと…ああ! 東京! ワタシハ、トウキョウカラ、キマシタ!」
「Аххххх! Токио!」
外人らしい、目を広げたオーバーリアクションで驚くロシア人。だが忙しくも、その表情はすぐに怪訝を示すものとなる。
「アナタ、レディ、デスカ?」
「…ん?」
「ンン…Are you women? ボク、オレ、チガクテ、アナタ、ワタシイッタ。」
「あ~…」
外人から見れば、彫の薄い日本人。ましてや中性的な顔立ちの欣秀が"私"と使えば、混乱してしまうのも無理はないだろう。
欣秀は、自嘲する。
その心中では、小さな焦燥が渦を巻いていた。
(そっか…。結局は、根っこのところはまだ、変われてないんだな…)
~~
宗谷岬に戻った欣秀は、革ケースの鎖を解き、刀を引っ張り出す。
(馬鹿だ、私は…。ちょっとばかし遠くまで来たからって、変われたって思えてた…)
二刀を構え、欣秀は北、風上を見据える。風は相変わらずゴウゴウと音を鳴らし、欣秀の体を張り倒そうとする。
(この情けない性根を叩き直すには、多少の無理はしなくちゃダメなんだ。限界を乗り越えて、乗り越えて、乗り越えていった先に………きっと、もっと強い俺が居るハズだ!)
足を踏み出そうとしても、風がそれを押さえ込む。前に進めない。
だが、下がりもしない。体の節々は痛むが、意志がそれを上回り、力となって、足腰を地面に押し付ける。
「………きっと、桐谷さんとまた会う時も、こうなるだろうな。」
打ち合いで圧されまいとする対策は練ったが、こういった場合はどうだろうか。
互いに見合い、進みも下がりもせず、全神経を互いの剣先に集中させ、ただ一太刀浴びせることだけを考える状態。
沈黙の状態。全てが、次の刹那で決まる状態。
(どうすればいい………………いや)
真玲は恐らく、一太刀に全力は注がないだろう。一の太刀を捌かせてから、二の太刀で刈る―もしくは、敵の太刀を流して返す―…等々。リスクマネジメントのとれた戦術。
「知れたこと。」
ならば欣秀は、やはりやるしかないのだ。リスク度外視の、全身全霊を叩き込む渾身の、捨て身の一太刀を。
敵が打ち込むよりも早く。敵が受けよう、流そうとするよりも、速く。強く。
欣秀は脇差を放り、両の手で本差を握る。
そして精神を統一するため、息を吐いて目を閉じた。
"なに? 旅に出るだと?"
"母さんがこんな状態で、馬鹿なこと言ってるってのは分かってる。でも―"
"勝手にしろ"
"…え?"
"勝手にしろと言っている。親の役にも立てない、お前なんてな―――"
「ッ!!」
欣秀の網膜に、五輪書に示されていた技法、とある一太刀の名が焼き付く。
(そうだ…!)
刀も、体も、心も。全てをただ、"斬る"ためだけに動かして。
欣秀の足は土埃を上げ、力強く前へと踏み出し。
腰から腕へ、腕から剣先へと載せられた体重は、決死の覚悟は、刀を押し出し、
真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに前へと叩き下ろされ――
―荒れ狂う烈風を、斬った。
その太刀の名は、無念無想の打。
他の全ての念を捨て、斬ることのみに全身全霊を収束させた、崇高の一撃。
ビジュアルノベルにしたものを作ってみました↓
https://freegame-mugen.jp/adventure/game_12575.html