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風来譚  作者: ふちのべいわき
第二章
13/18

第十二話 追憶のR40

北海道・東京編


※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。

挿絵(By みてみん)




 函館より国道5号で北上し、大沼を通り過ぎた茅部かやべ郡。その某所の道の駅にて。

「けっこう興奮しちゃったけど…、意外と寝れた…。」

 駐車場のアスファルトの上に直にテントを置き、欣秀よしひでは北海道の初日を終えていた。

 夏入りとはいえ仮にも北海道、肌寒くはないのかという心配と、広大な北海道を早く走り回りたいという興奮とで、寝つけるかどうかというところであったが。程よい気温の季節柄と、真玲まれいと対峙した疲れが、入眠を助けてくれた。


 天幕から出た欣秀を、朝特有のキンと張った冷気が包む。黒田の言うとおり蝦夷えぞ梅雨というものがあるのか、薄い雲が頭上には広がっているものの、風は穏やかに、優しく欣秀の頬を撫でる。

「よし、今日から本格的に、走るぞっ…!」

 きっとこの風は、バイクの上でも贅沢なものになるのであろう。昨日はいろいろとあって散策がほとんどとなってしまったぶん、本日のバイク移動が楽しみでたまらない。

 テキパキと歯を磨き髭を剃り、テントを畳み、荷物がロケットⅢの周りに集まりだしたところで、欣秀の携帯電話が鳴動する。

「ん、誰だこんな朝っぱらから…。」

 手に持っていた荷物を面倒そうに一旦置き、欣秀はカンフーパンツのポケットから二つ折り携帯を取り出す。そのサブディスプレイには。

「…っ!」

"父"。と、表示されていた。欣秀は数秒、手の内で震える携帯を見つめた後、サイレントボタンを押して、再びポケットにそれを突っ込んだ。


第十二話

追憶のR40


~~~

「あ、黒田さんも先に行っちゃうんですね。」

「うん。今日明日には札幌に行っちゃうかなぁ。…一緒に行ってもいいんだけどさ、やっぱネタバレは良くないからねぇ。少年はしっかりゆっくり、自分の足で北海道を見ときてくれよ。」

「わかりました。私なりに、北海道を見てみます!」

 決して邪険になど思っていた訳ではないが、それでも新天地について、ようやく一人に戻る欣秀。この広大な大地を、どう走り込んでやろうか。函館を出る時から、心は落ち着かない。

~~~


―北海道滞在二日目・長万部おしゃまんべ町まで―

「うっひゃっひゃ! すっげーーーーーまっすぐだなぁ!!」

 森町で噴火湾にぶち当たると、国道5号はしばらく海沿いに続いていく。八雲町を過ぎるまでは湾に沿った曲線を描くその道だが、それ以降は長万部の駅付近に至るまで、ただただ直線、誇張なしで真っ直ぐなラインを描いていく。

 旅行雑誌などで取り上げられることから、北海道といえば果てしなく続く真っ直ぐな道を思い浮かべる人もいるだろう。"あの真っ直ぐな道を走ってみたい!"と、この地を目的地に設定する人もいるのではないだろうか。

 だが安心してほしい。なにもあの写真で見るストレートラインは、どこか特別な一ヶ所だけではないのだ。北海道はどこもかしこも、彼方の曲がり角が見えない直線路ばかりである。わざわざ探さずとも、ほぼ確実にそういう道に出会えるだろう。


「………ふあぁ、ちょっと飽きてくるかもな…。」

 八雲町から長万部町まで、約30㎞。その間、ハンドル操作をする機会はほぼほぼない。欣秀は自嘲気味に笑ってしまう。

 路肩にあたる部分は、冬季の除雪による雪の置き場所を鑑みて、多めにとってある。その幅は車が1台通っても余裕あるほどで、片側一車線の区間があれども道幅はかなり広い。走るには申し分ないほど快適な道だが、欣秀の安全意識ゆえに、60㎞/hより速度を出すこともできない。二車線の区間に至ると、無数の車がそれを追い越していった。


 晴れだったら気分もまた違うのだろうが、景色がモノクロに見える曇り空では、飽きもすぐに来る。海もすぐそこにある筈だが見えない位置にあるし、見えるのは風に揺れる雑多な草たちや、新旧入り混じる店舗や住宅。

 はじめは物珍しかった、街灯のように道路の上に伸びる矢印―積雪時に車線の端を示す矢羽根も、見慣れてしまえば、ひたすら等間隔に並ぶ姿に辟易した。

「分かっちゃいたけど…北海道にもあるんだなぁ、こういう道。」

 函館が煌びやかだったぶん、"北海道はやはりスゴイところ"と思っていた欣秀だが。

 草がぼうぼうと生い茂った、手入れのない…美しいとは言えない道は、田舎によくあるそれだった。

「観光地はもっとキレイにしてるのに」なんて人々は自分の土地を嘆くが、それこそ雑誌の中だけの世界。こんな野暮っぽい道は、無名の田舎だろうが脚光を浴びる観光地だろうが、案外どこにだってあるのである。


 旅人憧れの地とはいえ、自分の目で見ねばやはり実情はわからない。フェリーの上で黒田と話したことを、欣秀はあらためて思い返す。夢見て憧れている人にとっては、落胆する場面かもしれないが。欣秀の顔は、どこか安堵に似た表情を浮かべていた。

「どこも、同じもんなんだな…ふふ。」

 道路の幅は雄大なれど、見知ったような景色はここにもあるのだ。

 勝手にハードルを高くしていただけで、ここは全くの別世界ではない。そんな事実が、拍子抜けのようで、可笑しいようで。欣秀の口許を緩めた。

 

 国道5号は長万部で海と別れ、内陸に突き進む。それに従い、ブナの名産地である黒松内町を通って山間部へ。さすがにワインディングもそこそこ増えるが、それでも姿を消さない直線路。

 海沿いとは違い白樺の白さは目に楽しいが、山の冷気は堪える…と一長一短なそこを進み続ければ、北海道の富士山"羊蹄山"が見えてくる。

 ニセコ町の道の駅にて、欣秀は日をまたぐ。



―北海道滞在三日目・ニセコ町―

 

綺羅街道きらかいどう…かぁ。良い名前だ。」

 流石にバイク疲れした欣秀は、国道沿いの道の駅にロケットⅢを置き、徒歩モードでニセコの町中へ入り込んでいく。

「ここも、ハイカラって感じだなぁ。富士山も見えるし! なかなかいい雰囲気だ。」

 またもや真っ直ぐな県道66号の歩道は、レンガ敷でシャレており、街灯やバス停、案内板も欧米を意識した色彩でまとめられている。カフェも点在していて、並ぶ民家もどことなく洋風チックであった。

 気候の違いだろうか、本州よりも青々として見える草木と共生し、"蝦夷富士"を望むニセコ町は、函館とは違う、"山の北海道"たる観光地である。


 そんな町をひたすら歩き続け、舗装された坂道を下りてニセコ駅へ。尻別川がそばに流れる、谷底と呼べる地形までたどり着いたところで、欣秀は歩を止める。

「ひとまず、行き止まりかな…。良い飯屋でもあればと思ったけど…。」

 飲食店どころか、人自体あまり見られない。どちらかといえば街並みは、住民が静かに暮らすための様相を呈している。

「駅前に良さげな浴場が…。ここは、明日ロケットⅢであらためて来るか。ひとまず道の駅に戻って飯、飯…。」


~~


「えっ今はシーズンオフなんですか?」

「はは。この時期に来る旅人さんは。珍しいねぇ。

 此処は冬場のスキーが人気だからね。あぁ勿論、夏は牧場なんかも観光客で賑わうけど。夏休みでもない、今の時期じゃねえ~。」

 道の駅内に並ぶ売店の一つにて、欣秀は店番のおばちゃんから町の事情を聴く。

「てっきり、北海道の観光地なんて、いつの時期でも人が居るもんだと…。"ニセコ"って、私でも聞いたことあるとこだし。」

「はは。兄さん、北海道に夢見すぎだよぉ。案外どこだっておんなじもんさ。あたしも昔、長野の白馬に夏行った時さ、思ったより人少なくって。なーんだおんなじなんだなぁって思ったもんだねぇ!」

「ふーん…。」

 パリ症候群、という程でもないが。やはり北海道を心のどこかで特別視していたことを、欣秀はあらためて認識する。

「ま、今の時期でもいる人達っていやぁ、ほら、あの方たちだよ。」

 おばちゃんの指さした方には、金髪に碧眼の男女―外国人夫婦たちが。土産物を探すわけではなく、野菜を箱買いしている最中である。

「スキー目当てなのかわかんないけど。ここに住み始めている外国人さんが多くってね。今や、外人の街なんて言う人もいるぐらいだよ。

 どう? これは、他にはなかなかない特色だろ。」

「たしかに…。」

 一部の看板には、日本語よりも英語が先に書かれているニセコ町。もう、日本人は北海道に飽きてしまったのか。海を越えて、いつかは北海道へ!と息巻く旅人は、もう古いのだろうか。欣秀は、うっすらと寂しさを覚える。

(日本のどっかより、外国行きたい!って若者のほうが、増えてきてるしなぁ…)

「ほい兄ちゃんお待たせ! 北海道のじゃがバター、しっかり味わいなさい!」

「うわっほほぉ~~!! 待ってました!

 バターを塗られ、輝くじゃがいも…! なんって魅力的な艶なんだぁ…!」

 まぁ、時流など、個人の感性に影響するほどのことではない。

 欣秀は今、憧れの地に立っていて、そこを満喫している。自分本位な旅を、自分の北海道を楽しもう。と、舌の上でじゃがバターを転がしながら、結論付けた。


~~


―北海道滞在五日目・国道230、中山峠付近―


「うお、キツネだキツネ! こんこーん!! …逃げた!」

 倶知安くっちゃん町で国道5号と別れ、国道276、230と乗り継いで東へ。道は、支笏洞爺しこつとうや国立公園の北側、定山渓じょうざんけいを縫うワインディングへと至る。

 峠道とはいえ、さすが北海道というべきか道路の大半は片側二車線で、曲率のキツいカーブも少ない。ロケットⅢのような大物でも、気兼ねなくコーナリングを楽しめる良コースである。おまけに今日は、暑さを感じるほどの晴天。眼下に見える寒さに鍛えられた大木の海や、ひょこりと姿を現す野生生物に心を奪われながら、欣秀は峠の頂点を越える。

(ここを抜けていけば…)

 温泉街を擁する定山渓もまた、北海道では名の知れた観光地である。豊富な自然と湯あみ客にあやかり、様々な屋外アクティビティも用意されている地域であるが。

 ここが人で賑わうのにはもう一つ、大きな要因がある。

 長く続く下り坂を転がるように走り続け、温泉には目もくれず、欣秀はただひたすら坂の先に目を向ける。

「見えた! 街だ!」

 函館を出て以来、見る機会のなかったコンクリートの並ぶ大規模な街。定山渓のすぐ隣には、北海道の県庁所在地・札幌が鎮座している。


~~


「黒田さん、数日ぶりです!」

「よーー! 来たか少年! どうだいこの時計台の風情は! がっかりしたかい!」

「あはは…いやまぁここはもう、そのガッカリ具合を楽しむ場になってるんで…。」

 旧札幌農学校演武場。現在の名を、札幌市時計台。国の重要文化財であり、古くから札幌市のシンボルともなっている由緒正しき場所。

 …の割には、「案外しょぼい」などと来訪者に言われ、"がっかり台"などという不名誉な呼び名までつけられてしまっている場所である。黒田と欣秀は、そこで待ち合わせる手筈となっていた。

「昔はこれでも立派な大きさだったんだけどねぇ。やっぱ周りの建物がおっきくなっちゃうと、どうしてもね…。」

「いや、しょうがないと思いますよ。私も正直、札幌がここまで都会だと思ってなかったですもん。」

 欣秀が直近で訪れた"街"といえば、函館。観光街として賑わってはいるが、高層ビルの立ち並ぶ東京のような都市感は、そこにはなかった。

 さらに言うと、仙台こそ際立ってはいたものの、各県の県庁所在地でさえ、東京から離れていくほどに規模が縮小している現状を、欣秀は確かに感じ取っていた。

「てっきり最北の県ともなると、街もそこまででもないんじゃないか…なんて思ってましたけど。いやはやとんでもない、東京並みの街並みですね。」

 くすみのない壁で彩られた高層オフィスに、商業ビル。大通り公園や植物園など、憩いの場もしっかりと整備され、玄関口である函館駅はかなりデカい…と、日本の首都に劣らない景色が、そこには広がっていた。むしろ、碁盤状に敷かれた幅広の道路、その上を走るガラス張りの近未来的な路面電車、そして地下に広がる歩道の巨大空間は、東京よりも洗練された印象すら覚える。

「ふふ。北のはずれだからこそ、気合が入っているのさ、少年。ここが北海道と呼ばれるようになったのは、明治2年のこと。それ以前は、蝦夷地えぞち、って名前だったかな。広大な大地に眠る、豊かな農地、漁場、そして石炭…。それらを手に入れるだけでなく、運搬、運用するための効率的なシステムも考案する…。北海道は、近代国家日本建設の、壮大な実験場だったのさ。

 はじまりは、函館から札幌まで至る札幌本道の建設。多くの開拓使が鬱蒼たる森林や原野を切り開き、鉄道を敷き、居住地を作っていった。そのたった一本の道から、二本、三本と道は分岐し…張り巡らされ、この巨大な島は躍動を進めてきた。…そうして、現在に至るのさ。」

 目の前の街並みだけではない。この北海道という土地を広く見渡すような細い目で、黒田は懐かしいように語る。欣秀はそれに聞き入り、北海道の浪漫ある歴史に、心を傾けた。

「さて少年、どうだい。札幌といえば札幌ラーメンだろう! 食いに行かんか! …あ、いや。ススキノの方がいいかい? 札幌の店は特徴あるんだぞ~。あそこを洗うのに、おしぼりじゃなくてタライで―」

「札幌ラーメンにしましょう!」


 欣秀は黒田に連れられ、"元祖さっぽろラーメン横丁"なる狭い通りへ入る。

 大正時代、北海道大学前に開店された、『竹家食堂』に端を発するという札幌のラーメン史。戦後も『だるま軒』や『味の三平』など有名店が続々と出現し、やがてこのようなラーメン屋が軒を連ねる、ラーメン横丁が形を成していった…とのことである。

「…! このスープ…! 旨い! この、舌の上で踊る旨味はなんです!? ギットリしているわけでもない、柔らかな舌触り…。この甘みは、ステーキとか食べてるときに感じるような…………。! タマネギ! そうかこれが! ラーメンを食べているのに、肉を頬張っている時のような唾液の分泌を促すのか!? 札幌ラーメンの代名詞たるコーンも、もやしも、シャキシャキで、歯ごたえ抜群で云々かんぬん――」

「はは、少年。相変わらず面白い食べっぷりだねぇ!」

 デジャヴだと笑う黒田に「で、北海道はどうだ?」と問われ、欣秀は口に麺を頬張りながら答える。

「不思議な感じです! 驚くこともあるんですが、同じ日本なんだなってホッとすることもあって……。

 ああでも、やっぱ面白いですね、北海道! 道は広くて走りやすいし、本州で見られない景色を見るたび、思わずニヤリとしちゃいます!」

「そうかいそうかい。楽しんでくれて何よりだよ。」

「ええ、楽しいです! 楽しすぎて、ここ数日が一瞬のうちに過ぎているような!」

「はっは。北海道は広いからねぇ。筆者も、焦ってるんだろうよ。」

「筆者? あー計画性ないと焦りますよね、わかりますわかります!」

 黒田との会話をてきとうに流し、欣秀はラーメンを完食する。スープまで飲み干す"まくり"を成し遂げ、満足げに帯を緩めた。

「えっと、お会計は…」

「あー黒田のダンナとそのお連れさんだろ! いいよいいよ! いつもの礼ってことで!」

「おーすまんねぇ。」

「黒田さん…あなた一体……。」



 二人は横丁から抜け、ロケットⅢの寝ている地下駐車場へ向かう。

「で、少年。この次はどこに行くのかな。」

「あー…ひとまず行ってみたいとこがあるんです。美瑛びえいってとこにあるんですけど。」

「美瑛か。あそこは良いとこだねぇ。だったらこっから富良野ふらのに抜けて、そっから北へ…かな。」

「国道、つながってます?」

「富良野まではちょいと道が粗いけど、繋がってるよ。少年のバイクでも行けると思う。その先は、宗谷そうやまで行くんだろ?」

「ええ、もちろん!」

「その後、函館に戻るわけだから…また札幌を通るよね? 少年、フェリーで気になったが、タイヤ、そろそろ限界を迎えるだろ。良い店、紹介しといてやるよ。」

「! ありがとうございます!」

 地下エレベーターの入り口までやって来たところで、黒田は足を止めた。

「じゃ、わたしはこの辺で。…次に会うのは、真玲ちゃんと決闘する日、だね!」

「あはは…そうですね。ま、ベストを尽くしてみます。」

 欣秀は、テスト直前まで勉強しないタイプである。できればまだ思い出したくなかった約束をやり玉にあげられ、苦笑いをしながらエレベーターの呼び出しボタンを押す。

「…少年よ、まだまだ北海道は続くよ。君を見ていてくれる。

 …だから。少年もよかったら、心を開いてみておくれ。きっと、少年を強くしてくれる筈だよ。」

「……はあ。」

 普段の軽やかな笑顔とは違う、どこか思慮深い黒田の笑みを。エレベーターのドアが閉まる寸前、欣秀は確かに垣間見た。



―北海道滞在七日目・美瑛町―


 富良野から県道353で美瑛に抜けると、キャンプ用品のミニショップやキャンピングカーサイトが用意された、風変わりな道の駅が現れる。そこにロケットⅢを置き、欣秀は裏道をひたすら、2㎞ほど歩き続ける。

「うわ、雨まで降ってきたし…。」

 目的地の駐車場が有料と知った欣秀は、歩いてそこへ至ることを思いついたのだが。思いのほか遠く、荷物を支える足は重くなり始めていた。辺りにはうぐいす色や深緑の木々だけが並ぶ、真っ直ぐなアスファルト道を、軽い雨に叩かれながら進む。

(…まぁでも、こんなの、肉体的に苦しいだけだ。あの頃に比べたら、こんなの……)


 やがてみすぼらしい姿になりながら辿り着いた地には、その名を示した看板が立っている。

『白金青い池』

「おお………これが…!」

 欣秀の眼前には、草木に囲まれた窪地に、水が溜まった池が広がっている――。何故どこにでもあるそんな地形に、目を奪われるのか。それは、その水がライトブルーに染まっているからである。これは、空の青が反射しているからではない。

「…綺麗だ………。」

 上流の温泉地区で湧き出たアルミニウムと、河川の水とでできたコロイドが、太陽光の青い波長を散乱させ、その姿を青く見せている―いや、実際に青く輝いている、神秘の池である。

 水の中から無数に突き出ている白い枯れ木が、その現世離れ感を際立たせている。欣秀は傘もささず、ほとりまで下りてその様子をじっと見つめる。

「……やっとここまで来れたよ、母さん。」

 やがてミラーレスを構えると、震える指で、丁寧に、ゆっくりと。

 大事なものをそっと手に取るような優しさで、欣秀はシャッターを切った。


挿絵(By みてみん)




―北海道滞在九日目・旭川市―


 ひし形の北海道、そのほぼ中心にある都市・旭川のスーパー銭湯で、欣秀は雨日を一日凌ぐ。

「ひっさしぶりにマンガ読んだなー…。面白かった…"まじめの一歩"…。それにしても、二千円ほどで温泉、屋根付きの場所で寝れるってのは良いもんだなぁ。」

 田舎ではなかなか見られず、まだまだ全国的に数が多いとは言い難いが。都市部では、宿泊サービス付きのスーパー銭湯がままある。個室はなし、睡眠は大部屋に雑魚寝が当たり前…と、ホテルほどの快適性はないが、マンガなどを無料で読み漁れるといった楽しみもある。

(クセになっちゃいそうだな…いかんいかん)

 乱用はできないとはいえ、やはりテントより体は確実に休まる。また見つけたら、利用してみるのも悪くない。

 また新しい旅の楽しみを見つけ、退館する欣秀。表へ出たその頭上には、どんよりとした曇り空が広がっていた。

「今日も降りそうだなぁ…しかし、二日も止まるのはごめんだね。」

 雨に濡れたロケットⅢのシートをグローブで軽く払い、欣秀はイグニッションを回す。旅を始めてからというもの、就寝時は雨だろうが風だろうが、常に野ざらしとなっているロケットⅢ。毎朝"すまん"とタンクを撫でるのが、日課のようになっていた。

「こっから、宗谷岬まで一気に上る……。だいたい、二日ぐらいで着くかな。」

 ここからは、国道40号に乗ってひたすら北へ。"さぁ出発だ!"と意気込む欣秀ではあったが、いざ走り出してみると肌寒さをすぐに感じ、笑みが苦々しいものへと変わる。

(面白そうなとこがあったら、ひと休みしながら行くか…)

 どこかで止まって、散歩でもしつつ行けば、体も暖まるだろう。そんな考えをもって、北上を始めた欣秀であったのだが。


~2時間後~

「まっるっで! なんもないな!」

 普段であれば、走っていれば観光地の標識などが目に入る筈なのだが。旭川より北へ出てからというもの、目ぼしいものがまるで見つけられない状態が続く。

 景色も、平坦な農地や森が続き、たまに小さな町を通り、また平野に戻って、少ししてまた森をくぐり…の繰り返しで、変化に乏しい。

 そんな道であるから、"別に止まるほどの場所でもないな"という思いが続き、欣秀はロケットⅢの上で長大な時間を過ごしていた。

「このままだと、本日中に宗谷岬まで行っちゃいそうだな…。」

 なまじ走りやすい道であるから、疲れも溜まりにくい。ロケットⅢのポジションがキツくもなく、シートも柔らかい材質であるから、わざわざ止まって降りるほうが煩わしく感じるほどであった。

 が、肉体はよくても、やはり精神はぼんやりとしてくる。

 昨日まで毎日目を輝かせていたのが嘘のように、何もない道。嬉しい訳でも辛い訳でもなく、喜怒哀楽を失くして走らされる地帯。

 これもまた、北海道の持つ一面なのか。


 漫然と運転を続ける時。人間は、否応なしに考え事をするものである。欣秀もまた、やがて目で見る景色と、脳で浮かべる情景が、異なるものになり始める。

「ふふ。ほんと、立ち止まらずに走っちゃってるな…。」

(まぁでも、この問題については九十九里で解決した。無理に立ち止まるのは、かえってストレスになるだけだし。強くなるのに結びつくとは限らないし…)

 小雨が降ってきて、欣秀の体温が急激に奪われる。さすがに一旦停車した欣秀は、冬用のアンダーウエアをキャンプバッグから引っ張り出す。指ぬきグローブの代わりに、冬用グローブもサイドバッグから取り出した。

(本当に初夏なのかよ…。こういう辛さがあるから、居眠り運転することはまずないんだよなぁ…。それがバイクの良いとこ…なんて言ったら、ほんとにマゾっぽい)

 車通りの少ない道の路肩で、欣秀はさっさと着替えて再び走り出す。

(それに、こういう辛さが、きっと私を強くしてくれる、筈……なんだよな)

 雨粒がヘルメットのシールドにへばりつき、視界が悪化する。こまめにグローブで拭ってやればいいので、走行に支障はないが。霞む視界が欣秀の意識を、より現実から逸らしていく。

(強く……か。そういえば、私ってなんで、こんな旅に出たんだったか………)

 視界と同様に、その脳裏にも靄が浮かび始める。

 欣秀はあくまで運転に集中しつつも、ついに思考の海に沈み始めてしまった。

(そう、私は………―)




~・~・~



 別に私は、不幸な境遇にあった訳ではない。と、思う。よくある衝撃的な事件に巻き込まれたとか、重大な使命を得たから大冒険に至った、とか。そういう漫画っぽい類じゃない。

 むしろ幸せなほうだ。特別大金持ちでもないけど、貧乏でもなかったし。母、父、姉と4人家族で、仲良く過ごしていた。

 確か…私がまだ小学生だったあの時だって、皆でバーベキューをしてたっけなぁ。


「わーいこれで64個めー! よっちゃんまだ見つからないのー?」

「姉ちゃんはなんでそんなに見つかるんだよ! そんなにあるもんなの!? 養殖してるでしょ! 四葉のクローバー!」

 東京湾の端っこ、東京ゲートブリッジのたもとにある若洲海浜公園は、よく家族で遊びに行った場所だった。

「養殖って、あはは! どーやんのさー。…あれよっちゃん泣いてる? ホラ、姉ちゃんの半分あげるからー!」

「いらない! 俺、自分で見つけるし!」

 昔っからくだらないとこで意地張ってたなぁ、私は。

「お、欣秀は男らしいなあ。そんな欣秀に仕事だ。ほれ、このポールを思いっきり上に突き上げてごらん。」

「…こう? …んしょ!」

「そうそう…力が入らないか? しょうがない。父さんが少し、力を貸してやる。」

 父、俊秀としひでは、私の憧れの人だった。

 ビジネスマンとしてそこそこの役職に就いていて、頭が良くて体も動かせる。剣道・居合道・空手、ぜんぶ有段者だ。

 この日もたしか、モノポールテントをテキパキと組み立てて、カッコいい姿を見せてくれたなぁ。

「すげー! あっという間に三角テントになった!」

「よし、じゃあ次は母さんたちのを立てるか。一緒にやろう。いずれお前も、一人で組み立てられるようになるんだぞ?」

「うん、わかった!」

「ちょい待ちー! あんたら、そろそろ肉焼かないかい? あたしゃもう腹ぺこぺこだよ。」

「ああ、すまんユキ。絵俐、欣秀、飯にしよう!」

「わぁー焼肉だ肉焼きだぁー!」

 母、幸恵ゆきえは、なんというか…肝っ玉母ちゃん的な人である。顔は…まぁ女性として悪くない顔してるけど、いかんせん性格が男勝りで。

 仕事も、クルマやバイクのメカニックなんて、あまり女性がやるイメージの湧かないものをやっていた。

「まったく、テントなんて最初に立てりゃーいーのに。真っ先にチビらと遊ぶんだからアンタは。」

「いやいや。子供の筋力を鍛えるためには、よく遊ぶことが一番だ。まだ人が少ない時間に、伸び伸びと駆けまわったほうがいい。」

「まったくこの筋トレ旦那は…よーしじゃあ肉はチビらとあたしで食っちまうわ~! あんたはネギでも食ってな。」

「「わーーい!」」

 女っぽい口調なんて、聞くことのない家族だけど。それでもそんな母さんのサバサバとした性格が、私たちの潤滑油で。みんな、大好きだった。

「ユ、ユキ、それは勘弁してくれ。私だってまだ肉を増やしたい…!」

「ほーん? その肉をアンタは一体、どう役立ててるのかなー? 家事だってほとんどあたしと絵俐がやってると思うんだけどー。」

「それは…! ほんとにすまん、最近、残業が増えてしまって……。早く帰ろうとはしてるんだが。」

「………………抱っこ。」

「え?」

「筋肉があるっていうんなら、やってよ。お姫様抱っこ。結婚式の時が最後だったかな~~。あーあ、あの頃は良かったなー! アンタはロマンに溢れてて、あたしを持ち上げる筋肉もあってさー!」

「今だってあるとも! 肉を恵んでくれたら、それを証明してみせるさ。」

「…本当か~~?」

「この指輪に誓って、一生。いつだって、持ち上げてみせるよ。お姫様。」

「………しゃーねーな! ホレ、食え食えー!」

 でも今にして思えば、母さんを一番好きだったのは、やっぱり父さんなんだと思う。


「お母さん、顔赤くなってる~。」

「うげげ~。よっちゃん、こんなバカップルにはなっちゃダメだよ~?」

「失礼なことをいうチビたちだねぇ。あんたらも大人になれば、わ・か・る・さ。ほいあんた、あ~ん。」

「あ~―」

 母さんの箸が父さんの口に触れるかというところで、不意に箸が弧を描き、肉が父さんの目にぶち当たる。

 母さんの体が、不意に崩れ落ちた。

「! ユキ!」

 すかさずその体を、父さんが支える。

 ああ、そう。唯一ともいえる問題が、私たちにもあるにはあった。

「だ、だいじょうぶだよアンタ…。またちょっと、立ち眩みをしただけさ。」

「ほんとに大丈夫か? 体に障るなら、家に―」

「大丈夫だって! 空腹で倒れかけただけだよ!」

 母さんは、体が弱っていた。といっても医者曰く重篤なものではなく、時間が経てばいずれ好転するものらしい。ただ私たちにとって心のわだかまりになっているのは、それが起こり始めたタイミングだった。

「薬は?」

「あー…、車ん中だわ。」

「取ってくる。欣秀、母さんを看といてくれ! 任せたぞ!」

 母さんの具合が悪くなったのは、私を身籠っている時からだった。妊婦がたまに罹る症状だそうで、血圧が高くなりやすくなるとかなんだとか。それが貧血とか、意識消失とかを起こすらしい。本来なら出産して治る筈なのだけど、母さんは何故だかそれが長引いていた。

 そんな背景もあったからか、父さんはちょっぴり、私に厳しかった気がする。


~~


「欣秀。お前は、立派な大人になれよ。」

 それが、父さんに言われた中で、一番記憶の底にある言葉だと思う。

「母さんの元気がないのは、そのぶん、お前に元気を託したからなんだ。だから、お前は必ずスゴい大人になれる! お前は将来、必ず立派になって、母さんを助けてやるんだぞ。」

「うん、わかった!」

 立派な大人になる。別に私は怠惰な訳でもなかったし、向上心もそれなりにあった…と思う。だからその言葉は抵抗を感じることもなく、素直に呑み込めた。

 小学校の時は、テストなんて当たり前のように満点ばかり。中学校ではさすがにそうはいかないけど、ほぼほぼ良い感じだった。受験だって。


「父さん父さん! 見てよ! 国立高専、受かったよ!」

「おお、さすが俺の息子だ…! だが油断は禁物だぞ。受験がゴールじゃないんだからな。そこから常に、上位を目指せ。」

「はい!」

 学生になってからだって、はじめは良好だった。父さんが「社会では必要ないから」と教えてくれなかった居合道も、サークルで学び始めて。

 文武両道。父さんみたいな大人になってみせる。そう、熱く想っていた時期もあったっけ。

 でも、現実はそう上手くいかない。


「…欣秀。この順位はどうした、クラスの半分以下じゃないか。」

「…ごめんなさい。」

「まぁ、調子が悪い時だってある。なんかあったら、遠慮せず父さんに言えよ。いいな?」

「……はい。」

(調子が悪くて奮わなかったのなら、どれだけ良いことか…!)

 その頃からだろうか。自分に自信が持てなくなったのは。まぁ今にして考えれば、私に理系なんて向かなかったのかもしれない。父が紹介してくれた偏差値高めの学校の中で、なんとなく興味を惹かれた場所を受験しただけなのだ。

 当然のことだろう。たかだか14、5歳という子供に、自身の適正だとか、将来を考えるとかできただろうか。

 そう、自分を多少は許せるようになったのは、もっと後になってからだと思う。


~~


「なに? 雑誌社?」

「ダメ元で文章を送ってみたら、バイク雑誌の編集部で、面接してくれるって言われて…。」

「しかしお前、それは今までやってきたことと、全く畑違いのとこだぞ? やっていけるのか? それに出版関係は、賃金だって平均して好ましくないと聞くが。」

「たしかに、畑違いだけど…でも俺、母さんの好きだったバイクにまつわる仕事、やってみたいんだ! 免許はまだだけど、俺もバイク、好きだし…! ちゃんと仕送りはするから! お願いします!」

「……まぁ、お前がやりたいというのなら、止めはせん。…だがなお前、母さんを守るって役目は、絶対忘れるなよ。」

「…! うん! ありがとう!」

「それからお前、社会に出るなら、もう"俺"なんて使うな。"私"、を使え。…どんなにレベルの低い職場でも、働く人間として、気品ある行動を心掛けろ。いいな?」

「……は、はい。わかりました。」


 そいでもって21歳の年で就職して。大型二輪の免許も、確かその時に取ったなぁ。父さんの言うとおり薄給…どころか残業代も、賞与もない会社だったから、自分のバイクは買えなかったけど。

 それでも私にとって書くのは苦じゃなかったようで、意外にも仕事は続けていけた。

「じゃ、お先に失礼しまーす。」

「ちょっと待ってよ磐城いわきくん、ウチの隔月刊誌の校正、全部見てから帰ってよ。」

「え? 私の担当じゃない雑誌なんですが…。」

「なに言ってんの。新人なんだから、たくさんの雑誌の校正をして、勉強しないとダメでしょ。」

「…承知しました。」

(もうすぐ入社して3年経つんですが。後から入ってきた後輩、みんなキツくてすぐ辞めちゃうから、私が未だに最若手ってだけなんですが…!)

 …まぁ、ストレスない人間関係が築けてたかっていうと、素直に頷くことはできないけど。それでもインタビューだとか、記事を書いたりだとかは苦に思えなかったし。たまに広報用にバイクにも乗れてそこそこ楽しかったから、そんなに追い詰められてはなかったと思う。

 あの時までは。


~~


「あ~~くそっ! 締め切り前でもないのに、今日も泊まりかな~~。 ゲラなんか今日はもう出ないんだから、さっさと帰らしてくりゃあいいのに。あの意地悪編集長め~。」

 ファストフードチェーン店で買ったハンバーガーセットをぶら下げて、私は芝公園から日比谷通りを挟んだ、遊歩道を歩いていた。別に花がたくさんあったりするわけでもない、生垣が整備されただけの簡素な通りだけど。帰宅ラッシュが落ち着いたころに、ここのベンチで摂る夕食が、私は好きだった。

「どーせ終電までに帰れないなら、次の企画の案もまとめちゃうか…? あ、やべ、次の一般ライダーへのインタビュー、どこで張ろうか決めてないな…。」

 多いとはいえない街灯のおかげで、通りは良い具合に薄暗い。通行人はそこそこ居るけれど、面相が見えない程度の暗闇が落ち着く。かといって日比谷通りの車の喧騒は尽きることがなく、眠くなることもない。仕事で煮詰まって、考え事をするのには良い場所だった。

 何よりここからは、アレが見える。

「お、今日は赤いんだな…。」

 生垣に植樹された木々の隙間から、暗闇を裂くような光を帯びて、空へ突き出す巨大な鉄の塔―東京タワーだ。

 最近は青とか色々な発光パターンが増えてきてるみたいだけど、やっぱりこのタワーは、赤がいい。

「今日も…うーん、真っ直ぐだねぇ。」

 1958年に竣工して、以来東京の街を見守っている巨影。…そろそろ、傾いたりするんじゃないか。なんてアホらしい考えを持ってしまって、見るたびに人差し指を重ねて、その真っ直ぐ具合を確認してしまう。だが当たり前のように、その先端は依然として、空を真っ直ぐに指さしていた。

 真っ赤なんて派手な色にその身をまんべんなく染めて、大げさなぐらいその足を広げて。呆れるくらい、いつまでもいつまでも、その背を曲げることなんかなくって。

「…ほんと、堂々としてて凄いよ、あんたは…。」

 なんて、無機物と自分を比べてどうするのか。いつもこんなやり取りをしているな、と苦笑しながら、レジ袋からハンバーガーを取り出す。

「いただきまあす。」

 パティが二枚に、こぼれるほどのレタスに、絶対に指が汚れる量のチーズにケチャップに…。魅惑的な真ん丸ボディを見せつけるそれに、顔をだらしなくしてかぶりつこうとした時。

「……ん、着信…。」

 ポケットの中の携帯が鳴った。

 誰だろうか。編集部からだったらヤダな…なんて恐々としながら二つ折り携帯を開いてみると、そこには姉、絵俐えりの名が。

 ホッとしつつも、次いで疑念が湧く。普段、あまり電話を寄越すような人ではないのだが。ハンバーガーを口から離し、代わりに携帯を近づける。

「もしもし。姉さん、どうした―」

「よっちゃん! 今すぐ病院行って! あのーほら! お母さんがいつも行ってた、新宿の!」

 繋がった瞬間、似合わない勢いでまくしたてるその声に、心臓が一瞬止まる。

「…ど、どうした姉さん、何があった?」

「お母さんがね、お母さんが、倒れちゃったんだって!」

「……えっ…?」


~~


「母さん!」

 病室のドアを、自分でも驚くぐらい力強く開ける。

 そういうことをしちゃいけない場だとはわかっているのだけど、浜松町から新宿まで、山手線の車内でじっとしているしかなかったのだ。駅から入院棟まで、足を動かさずにはいられなかった。

「おっ、来たなー欣秀! やだねー息なんか切らしちゃって!」

 しかし、心拍数を上げて駆け付けたこの身とは裏腹に、ベッドの上の母さんは呑気な口調で迎えてくれた。その脇には、先に到着していた姉さんの姿もある。

「だ、…はぁっ……大丈夫なの?」

「だいじょぶだいじょぶ。ちょっと気ぃ失っちゃってさー! なに、大したことないって!」

「気ぃ失ったって…ホントにだいじょぶなのそれ?」

 姉さんも心配そうに答える。

「うん…まぁ、詳しく検査しなきゃって先生は言ってるんだけど…。」

「はは。だいじょーぶだって! 体、どこも痛くないし。ピンピンだよ!」

 足をピンと伸ばしたり、両腕でガッツポーズをとったりと、入院着に似合わないしぐさをしてみせる母さんは、たしかになんともないように見える。

「父さんは?」

「職場が遠いから…来るのに、時間かかっちゃうみたい。」

「ハハ、別に来なくてもいいって伝えといてくれよ。明日には、退院したいところだね。」

「え? でもお母さん、先生はあと数日は居ないとって…。」

「いや~~いらないでしょ! 前々からこういうことよくあったしさ! 心配無用!って先生に言っときな、絵俐。」

 そう。たしかに前々から、こういうことはよくあった。でもそれは貧血とか、立ち眩みとかってレベルで。完全に気を失ったのなんて、私が知る限り初めてのことだった。

 …なんだかとても、嫌な予感がする。

「ダメだよ!!」

 足元からゾワリと手を伸ばす悪寒を振り切るように、思わず語気を強める。姉さんと母さんが、ビクリとした。

「あ…ごめん。いやでもさ、ここで無理に退院とかはその……ほら、よくあるじゃん? 悪いフラグ…っていうか…。」

 母さんは一転、呆れた表情になって笑い出す。

「ハハ。フラグって欣秀あんた…漫画の読みすぎ!」

「でもさ!」

 反射的に身が乗り出してしまう。

 気付けば目頭が少しばかり、熱くなっていることに気付く。咄嗟に目線を逸らすけど、母さんもそれに気付いたようで。

「…あーあーはいはい、わかりましたよ~。けー! 病院食なんて、あんまり好きじゃないんだけどねぇ~!」

「たまにお菓子持って来てあげるよ! お母さん。」

 わざとらしく口を尖らせて拗ねる母さんを、姉さんがなだめる。心なしか、姉さんもホッとしている様子だった。

「姉さん、見舞いには頻繁に俺が来るよ。入用の物とかは、俺が持ってくるから。」

「え、でもよっちゃん、編集のお仕事いそがしーんじゃないの?」

「忙しいのは姉さんのほうでしょ。イラストレーター、やっと名が売れて来たのに。この機は失えないでしょ。」

「う~~ん…わかったよ。でも、私も時間見つけて来るからね?」

「欣秀あんた、本当に大丈夫かい? 別に母ちゃん大丈夫だから、仕事に専念しなさいよ?」

「だいじょーぶですっ! 所詮俺なんて、平編集部員ですから。そうそう仕事なんて、任せてもらえないんだよ~。」

 実際は、仕事が早いぶん、更に仕事を押し付けられているのだけど。

「そーなの? じゃあまあ、話し相手にでもなってもらおうかね。そだ、あんたが作ってる雑誌っての、持って来てよ。あんま見たことない。」

「オーケー。じゃーごめん。無理に抜けてきたから、今日は会社に戻らないと。

 姉さん、父さんと、今日はよろしくね。」

「うん。残業、頑張ってねー。」

「あーい。」

 スライド式のドアを開け、再び廊下に出ると。照明はついているけれど、話し声ひとつしない空間は、恐ろしく暗く見える。

「…当たり前のことさ。…俺が、母さんを守らないとダメなんだ……。」

 だって。だって、母さんをあんな風にしてしまったのは。

 恐らく、私なのだから。




挿絵(By みてみん)

ビジュアルノベルにしたものを作ってみました↓

https://freegame-mugen.jp/adventure/game_12564.html

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