第十一話 北の巌流島
北海道編
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
「えぇ~~~っと、ハッシュドポ……はっしゅタグ…! #大間、#バイク………#フェリー、っと。」
ミラーレスで撮った写真をタブレットに取り込み、欣秀は慣れない手つきで画面をポチポチ触る。
~~~
「やっぱ磐城っちもイマキタぐらいやろーよ! あーしフォローしてやっからさ! そうすりゃ互いに、今どんなとこに居るかとか、わかるっしょ?」
「私は別に知りたくないけど…。」
~~~
むつでの別れ際、未空のたっての願いで、欣秀は写真共有サービス『イマキタグラム』をタブレットにインストールしていた。受けた手ほどきを思い出し、欣秀は恐る恐るアップロードボタンをタップする。
「結局あのギャル、"やることができた~"とか言って、どっか行っちまったな…。」
当初、欣秀と同じく大間を目指すと言っていた未空は、急に予定を変えいずこへと走り去っていった。その自由奔放さに限っては、旅人らしい…と欣秀は感心する。
そんなわけで普段に立ち返り、欣秀が一人で大間にやってきたのは昨日のこと。本州最北端の地・大間崎から、弁天島の浮かぶ津軽海峡を臨み。当初こそ、ここまでやってきた達成感に身を震わせる欣秀だったが。
「……でも。まだ、本当の最北端ではないんだよな…。」
そう。欣秀もまた、自由奔放な旅人なのである。彼の歩みはここで止まらない。
弁天島の向こうには、巨大な影が見えている。
"喜ぶにはまだ早い"と、欣秀は銭湯で身をいたわり、付近の無料キャンプ場で早々に睡眠をとると。朝6時、ロケットⅢと共に"その先の入り口"へと訪れていた。
「ここは終わりじゃない。新しい旅路の、始まりなんだ。」
そんな訳で、記念すべき欣秀のイマキタ1枚目は。
新たな地へとこの身を運ぶ、巨大な鉄塊を収めたものとなったのだった。
「津軽海峡フェリー…! 連れてってくれ…私を、北海道まで!!」
第十一話
北の巌流島
「はい、どうぞーお進みください!」
「っしゃ!」
スタッフによる誘導灯を頼りに、欣秀とロケットⅢはフェリー『大函丸』のランプウェーへと乗り込む。船体下部にあたる車両甲板は"車両の待機所"という名目上、装飾などは一切なく、作業用の道具や装置が見えるだけの無骨な空間である。しかしながら、船という箱の中に広がる広大な空間は、初めて見るものに未知の高揚感を与えてくれる。
「すっげ…! ここ、舟の中なんだよな…、普通の立体駐車場みたいに、車がいっぱい並んでる…。」
車両の滑り止め用のデコボコに足を取られつつも、欣秀は誘導に従い無事ロケットⅢを駐める。てっきり、船体への固定も自分でやらねばならないのかと気合を入れていたのだが、係員が速やかに車両をラッシングで固定してくれる。
「大人しくしてんだぞ、相棒。」
航行を始めれば、車両甲板は立ち入り禁止。欣秀は指示に従い、乗客用のデッキへと上がる。
1964年。日本が東京オリンピック開催に湧き、高度経済成長で、マイカー所有台数も格段に増えていた頃。日本で初めての外洋フェリーとして、大函丸が就航した。
車両を海の向こう、北海道の地へと運んでくれる画期的なシステムは、"マイカーで北海道をドライブしたい"という庶民の夢を、現実のものとしてくれた。
そんな由緒を知ってか知らずか、欣秀は一人、はしゃぐ。
「おお…! ホテルみてーなラウンジ…! エスカレーターまである! 客室、何階まであんだろ? トイレもきれーだな~! …ほうほう、これがタコ部屋ですか…。」
パシャパシャと写真を撮りながら歩き回るその姿は、初心者感丸出しで。周りからの視線を集める行為であるが。欣秀はそれを承知で楽しんでいた。
旅の恥は掻き捨て。知ってる人などどこにもいないのだから、自分の興奮に素直になっていいのだ。そもそもおかしな目で見られる服装を纏っていることも、開き直る理由になって好都合だった。
「うお~海風!」
上甲板へと出て、欣秀は船上からの景色を眺める。フェリーはクルーズ船などとは異なるので、くつろげるスペースなどはなく、移動範囲も限られた造りであるが。それでも、煙を上げる煙突や救命ボートといった船ならではの機関、そして昨日まで居た大間と、海を挟んだ先にある…北の大地の影が、欣秀の目を輝かせる。
出航時間が近くなると、係留用のロープが陸から外され、それがウインチで巻き取られる。グググググ…と足の底から押し上げられるようなエンジンの鼓動が強まっていき、船体が揺れ始め。海を渡る鉄塊が熱を帯び、目覚めると、ついに。
「出航ーーっ!」
ボーーーーーッと胸に響く痛快な汽笛を上げ、大函丸は出航した。
はじめは、微速でゆっくりと。陸から離れ、船首の向きを整えて。それが済み、港から出ると。速度はグングンと伸びていき、船尾には白波が立ってゆく。構造上、展望デッキは船尾の方面しか眺められないので、欣秀は手すりにもたれかかりながら、だんだんと遠ざかっていく本土を見つめる。
(…今までの人生、あの島でずっと過ごしてきたんだよな……)
日本という国の根幹である本州といえど、島は島。その閉鎖された空間から出たことを考えると、達成感がある反面、少し寂しさも覚える。
今まで過ごした地が、どんどん遠ざかっていく。
目をそらさず、ぼんやりと眺め続ける欣秀。不意にその耳は、甲板を鳴らす足音が近づいてくるのに気付く。
「よー! こんにちは~少年! 旅をしてらっしゃるのかね?」
声をかけてくれたのは、柔和な笑みを浮かべる年配の男性だった。髪は白髪の天然パーマで、目は細く、シワはやや深い。50代後半程度だろうか。
「ええ、旅をしています。あなたもですか?」
他の乗客たちには、遠巻きに見られているだけだったのを知っていた欣秀は、思わぬ声かけにちょっぴり嬉しくなる。
「あぁうん、そうだね。といっても、旅帰りだけどもね。」
男性は欣秀に倣うように、隣の手すりにもたれかかる。
「へぇ、じゃあ、北海道に住んでらっしゃるんですか?」
「うむ。今は札幌に住んどる。ちょっとまとまった休みが取れてねえ。能登のライダーハウスまで走ってきたのだよ。」
「ライダーハウス……もしかして、バイク乗りの方ですか?」
「そ。バイク。少年もだろう?」
少年という歳だろうか、と欣秀は困惑するが、同じバイク乗りに出逢えた喜びで、それを上書きする。
「はい! そうです! どうしてわかったんですか?」
「はは。だって君、フェリー乗り場の駐車場から、あの出で立ちと、あのバイク。そりゃあ、誰だって印象に残るってもんだよ。」
「あー…あっはは! ですよね~。」
気恥ずかしく頭に手を当てる欣秀。声を掛けられやすいというのは、この奇異な服装とバカデカいロケットⅢの、数少ないメリットの一つだ。
「ふふ、良いねえ。少年みたいな傾奇者、好きだよ。私は黒田、という者だ。少年よ、よかったら船旅の間、話にでも付き合ってくれんかい。」
「もちろんです! 私、磐城です。北海道のこと、教えてください。」
~~
動いているのは、雲か、フェリーか。早朝の曇り空はしだいに晴れ始め、海は陽を受け、青みを帯びていく。
「北海道は、梅雨とかないんですよね? 良い時期に来れたな、って思うんですけど。」
「はっは。ところがどっこい。北海道にも蝦夷梅雨ってモンがあってだなぁ。し~っかり、雨は降るぞ~。」
「ま、マジですか…! うわぁ、初めての北海道、雨かぁ~…!」
「ハッハッハ! 本州に戻るかい?」
「いえいえ! まさか!」
簡素なベンチに腰掛け、欣秀と黒田は旅話に花を咲かす。
「本当かい~~? さっきは、なんだか寂し気に本土を見つめてた気がしたけどねェ。」
「あれは…! 違いますよ、多分。」
北海道への期待感、興奮。それももちろんある。だが不思議と今、欣秀の心の隅に引っかかっているのは、目の前で小さくなっている日本本土への想いであった。
「今見えているあそこは、大間だけで。もちろん、本土全体じゃないんですが。…なんだか、すごくちっぽけに見えちゃうんですよね。
…自分、生まれてこのかた、25年。ずうーーーっと、あそこに居たんだなぁ、って思うと。…なんだか、情けない気がしちゃいまして。」
「ほう。海外に行ったこととかも、ないのかい?」
「ええ。だからこそ今、すごくワクワクしてるんです。」
生まれ育った大地を離れる。あらためて自分の行為に気付いた時、不安を全く覚えなかったといえば嘘になるが。それでも旅人としては、その窮屈な世界から一歩踏み出せたことに対する祝福のほうが、圧倒的に勝っていた。
「北海道といえば、旅人やライダーの聖地って言われる場所ですからね。楽しみです!」
「はは、結構結構! でもな少年よ、北海道とて、評判ほど良いとこばかりでもないぞ~? 旅してんなら、そのあたりよくわかっているだろう?」
「あはは。まぁ、評判と実際に見る現実がかけ離れてる…ってことは、けっこうありますね。」
「そのギャップに驚くのもまた、旅の愉しみ方の一つだがな!」
いたずらっぽく笑いながら、黒田は席を立ってまた手すりに近づく。欣秀もまた、体をほぐすため後に続く。
「ま、住んでる身として、北海道は良いとこだと思うよ。否定はしない。…ただね少年よ、その地の良し悪し、その判断は、自分自身で下すこと。…それだけは、気に留めといてくれよ。
その土地の評判なんてものは、先人たちが下した評価であって、君のことなんか考えちゃあいない。
そんなものに引っ張られるまま、なあなあに楽しんでもらっては。かつてそこを切り拓いた者たちとしても、不本意だろう。」
「…はぁ。」
「蝦夷梅雨もそうだが…。他人の話を、信用しすぎちゃあいけない。
旅ってのは、自分の足で大地を測り、自分の目で景色を描くこと。自分本位なもんなんだ。誰の評価も関係ない。君には君の、北海道がある。
………さぁ、お出ましだよ、少年の新天地が。」
欣秀が黒田の言葉を咀嚼していると、黒田はくいっとアゴを使い、欣秀に視線を促す。その先には。
「…! おおおおお!」
フェリーの航海時間は、およそ一時間半。少し話し込んでいれば、あっという間に経つ時間である。船体の側方から見る進行方向、即ち北。そこには、青天を映した群青の海に浮かぶ、緑の山に白銀のビル群――北海道の玄関口・函館の街が、広がっていた。
「さて、上陸の準備をするかね!」
「はい!」
~~
「は~~~るばる、きたよは~~こだ~て~~~~!!」
「おっよく知ってるな、少年!」
函館フェリーターミナルの駐車場で欣秀が1フレーズ歌っていると、黒田がバイクに乗って寄ってくる。黒田のバイクは、スズキのVストローム250。小排気量だが、同クラスでは抜きんでた燃料タンク容量と巡行時の安定さ、積載量の多さを誇る、足長のアドベンチャーツアラーであった。
「少年、こっからどこ行くかは、決まっているのかい。」
「あー…、まぁ、漠然と宗谷岬を目指すつもりではありますが。今日はとりあえず、函館を散策したいですね。」
「よしきた。函館には、ちょっと馴染みがあるんだ。軽く案内してあげるから、ついてきなさい!」
明治維新後、名実ともに北海道の門戸となった函館。海外との貿易拠点として名高いここは、ハイカラな外国様式の建物が並んでいるイメージがあるが。欣秀達が辿り着いたフェリー埠頭付近は、住宅地と工業用の土地がほとんどで、観光の色が薄いところであった。下北半島を縦断してカツカツとなったロケットⅢに燃料を注ぐため、ひとまずガソリンスタンドへ向かう二人。
「っとっと…、段差、高いな…!」
「積雪を見込んでね。車道と歩道の段差、大きめになってるとこが多いんだよ。気をつけてな。」
(おお…! これが、北海道…!)
景色に色はなくとも、もうここは別の大地。北海道の洗礼は、すでに始まっていた。
~~
「おあああ! 写真で見た景色だぁあ…!」
埠頭から海沿いに東へ。函館山を目印に走り続ければ、多くの人が思い描く観光地・函館の景色が目に飛び込んでくる。
1859年。長崎、横浜とともに、日本最初の貿易港として開港したこの地。港湾部にはいくつもの赤レンガ倉庫が立ち並んでおり、その一つ一つに詰まった店舗の中を、観光客が思い思いの笑顔で練り歩く。
欣秀にとっては初めてとなる路面電車との並走を乗り越え、函館山へ近づいてみれば。道は急坂、しかも石畳と、バイクには少々キツいシチュエーションが現れる。
「ここは少年のバイクじゃキツいだろうから、歩いていくか。」
息を軽く切らしながら坂を上った先には、フランスの宣教師に縁のある『カトリック元町教会』に、初代ロシア領事館の付属聖堂『函館ハリストス正教会復活聖堂』、初代英領事ホジソンが開設した旧イギリス領事館…と、名高い諸外国の建築が目白押しであり、異国情緒どころか、異国そのものといった雰囲気が欣秀を包み込む。
(海を越えれば…、こんなにも、世界が違うのか…!)
かのイギリスの動物学者、トーマス・ブレーキストンは、津軽海峡を境に、日本の動物分布は一転すると定義していたが。文化も、相当異質である。
正直、"違う島だろうが、同じ日本だろう"と高を括っていた欣秀にとっては、目を見開くことの連続であった。
黒田のガイドも相まって、8時半ばに上陸した函館の時もあっという間に過ぎ。欣秀は腹をさすりながら、その目線を文化物から、食事処の看板へと移し始める。
「ん~、黒田さん。函館では、どんな食べ物が有名なんですか?」
「そうだなァ…海鮮ももちろんウマいが……。少年よ、旅しているのなら、精のつくもん、食いたいだろう?」
ニッと笑う黒田に続き、欣秀とロケットⅢは再び港湾部へ。海に隣接したとあるレストランの脇に停まると、黒田は「ここだここだ」と指を差した。
「ハッピーピエロ…?」
平屋のレストランの外壁には、アメリカナイズドされた古き良き昭和のようなフォントで、ぎっしりと看板群が掛けられている。『手づくりデカウマハンバーガー』『自家製こだわりカレーライス』『永遠の愛を誓います』『旅人よ翼を休ませていきませんか!』等々…。
「なんていうか、変わった雰囲気の店ですね…。」
「ハハ、本州にはなかなかないだろ、こういう店! ここのハンバーガーはほんとウマいからさ! 昼飯、ここでどうだい!」
「ん~、わかりました…。」
海の街では、海の幸を食べてみたいところ。特に関係のないハンバーグを食べるのは、いかがなものか。眉間に少々しわを寄せながらも、ピエロのキャラクターが描かれた看板をくぐる欣秀。だがその顔は、30分後にはだらしなく緩むことになる。
「せ、…千円でお釣りがくる値段で、このチーズハンバーグの分厚さに、唐揚げが付いてきて…! オニオンリングに、フライドポテトもだと…!」
欣秀の目の前では、注文した鉄板ハンバーグステーキがジュウジュウと魅惑的な音を立てている。
「はい、こちら無料のライスでございますー。」
「ライスも、だと…!? しかもけっこうありやがる…!」
恐る恐るハンバーグを口へ運び、「はあああ」と身を震わせる欣秀を見て、黒田のみならずウエイターも笑う。
「はっはっは。お客さん大げさ大げさ! 黒田さん、面白い人を連れて来たねぇ。」
「だろう? 日本中を旅してるんだそうだ。函館の思い出には、ぜひここのハンバーグを覚えていただきたくってねぇ。」
「あはは、それは有り難いです、黒田さん。暫くはこっちに居るんです?」
「んーいや、今晩には札幌の方に向かうかな。まぁ、またすぐ遊びに来るよ。」
「そうですかそうですか。じゃ、まぁごゆっくりどうぞ!」
一口一口を勿体ないとばかりに咀嚼する欣秀を見て、ウエイターはまた笑いつつ席を去る。
「黒田さん、お知り合いなんですか?」
「ああ。まー、ここの常連だからさ。顔見知りになったってだけさ。」
「ふーん…。」
ただの顔見知りにしては、ウエイターは黒田を慕っているような口ぶりであったが。そんな些細なことは、今の欣秀にとってはどうでもいい。
オールドアメリカンをイメージした内装にも、窓から見える函館の海にも目をくれず。ただひたすら目の前の肉の塊に、全神経が注がれる。
ナイフを入れ、フォークで運び、頬張り、ため息をこぼす。誰もこの至福のひと時を邪魔できない。欣秀がそんな笑みをこぼしていた時。
「おいふざけんなよ!!」
男の怒鳴り声が鼓膜に響き、その幸福の時間を破壊した。
「すみません。ですが、それにつきましては当店では責任が取れませんので…。」
「こんなお前…! 8段もパティだのコロッケだの入れっから…簡単に垂れちまうんじゃねーか! ソースがよ! ちっとは頭使えよグズ!」
見ると、二つほど隣の席でスポーツ刈りにした男が、ウェイトレスにクレームをつけている。服にはソースのシミが。どうやら、ハンバーガーを頬張ろうとした際に垂れてしまったらしい。
「こんな異常な料理よく思いつくな!」
「普段どおりのレシピで調理しております。量が多いのは、当店のサービスですので…。」
「んなもん知らねーよどうすんだよこれ! ネエちゃん弁償してくれんのか? あ?」
これ見よがしに服を指さす腕には、刺青が。いかにも世間が思うヤクザのようなイメージで、店員が委縮してしまうのも無理はない。
(まぁ、ヤクザがこんな安いことするはずないし。ただのヤンキーかなぁ…)
「ふむ、なんだかトラブっちゃったみたいだねぇ。」
黒田が席を立とうとするが、欣秀はそれを手で制し、自らが立ち上がる。
「まったく…、どこにでもバカはいるもんですね…。」
気合いを入れるように襟を正し、欣秀は現場に近づく。
昨今の、トラブル巻き込まれたい癖が炸裂した。
「まぁまお兄さん、よくあることじゃないですか。ナプキンかけなかったお兄さんも悪いんですし。」
どうどうと両手をかざし、欣秀はウェイトレスと男の間に入る。
「あ? ナプキンかけんのってなんかよ…ガキっぽくて恥ずいじゃねーか。」
「あー…わかるー…! カッコつけてラーメン食って、何度後悔したことか……! じゃなくて。大人だからこそ、"りすくまねじめんと"ってやつをするべきではなくって?」
「なんだテメェ説教たれんのか!」
男は威勢よく立ち上がると、欣秀の胸ぐらを掴む。そのまま成す術なく宙づりになる欣秀…ではなかった。
「ほっ!」
欣秀は掴んできた男の左手を、自分の左手でホールドすると、右腕を大きく伸ばしたまま、体の外から内へと、男の左腕を巻き込むように大きく回転させる。男の左手が欣秀の脇に挟み込まれたと思うと、次いで男の腕が欣秀の腕に絡めとられ、最後には男の左肩が、欣秀の手によって上から押さえ込まれ、男は頭を垂れる。
「ったたた! 何すんだテメェ! 離せよ!」
「ちゃーんとお代を払って出てくって言えば、離してあげますよ~。」
(関節技なんて使わないと思ってたけど…決まって良かったな)
殴ってきた相手の手を、絡めとったりなんだりして決める関節技なんてものは、漫画の世界ほど通用するものではない。何故なら、こちらが何手順もかけて関節技を決めている間に、相手の殴ってきた拳は動き、逃れ、また次の打撃が飛んでくるからである。
故に関節技が使えるのは、今回のように胸ぐらを掴まれた時など、相手の体がある程度動かないという制限を受けている場合に限る。
「ざーけんじゃねぇ離せコラ!」
なおも抵抗を続ける男。地面を向いて吠えるその顔面に、欣秀は膝蹴りを寸止めする。
「できることなら、痛い目には遭いたくないですよね?」
「っ!」
委縮した男が、体の力を抜いて抵抗の意志をなくしたのを確認すると。欣秀は拘束を解き、その体を開放する。男は振り向くことなく足早でレジに向かうと、千円札を捨てるように置いて立ち去ってしまった。
「フッ…一件落着。」
珍しく傷なく事を収めることに成功した欣秀は、ポンポンと手を払い、余裕ぶってしたり顔をする。
「おお、お客さん助かったよ~!」
「やるじゃあないか少年!」
黒田と先ほどのウェイターが、その欣秀を労いに近づく。
「いやぁ、なんのなんの!」
今度は自己顕示欲が刺激された欣秀は、両手をわざとらしく挙げて賞賛の声を受ける姿勢を取るが。声をかけてくれたのは、その二人だけであった。他の客も様子を見てはいるものの、別に拍手をしたりだとか、そういうアクションを起こすわけではない。
(…まぁ、そんなもんだよね…)
映画のヒーローのようにはいかない。
現実では、厄介事に関与しまいとする者がほとんどである。その割には、野次馬根性を持つ者が多いのも、人間の面白いところであるが。
「さてさて…」
ひとまず、黒田たちに褒められただけでも嬉しいものだと満足し、欣秀は食べかけのハンバーグを食べるため、元の席に着く。
ひと悶着あった後だが鉄板はまだ熱を持っており、人助けをした後ということもあって、より美味しそうである。欣秀が再びよだれを口に含ませ、ナイフを持ち始めたとき。
「失礼します。今、よろしいでしょうか?」
肉でいっぱいの欣秀の視界に、影が差す。
「はい?」
今度は何だと欣秀が顔を上げると、テーブルの脇には若い女性が立っていた。
欣秀より高いだろうか。長身の背に、はじめこそわずかに威圧感を覚えるが。
顔こそ仏頂面であるものの、瞳は大きめながら細く切れ込んだ目尻、直線的な眉、鼻筋、口許…と、クール系の女性。跳ねている箇所が少しばかりあるものの、肩よりやや長めの滑らかな髪が目を引く。
(お…ファンか?)
無地のTシャツにジーンズ。素肌をアンダーウエアで隠している以外は平凡な服装だが、太ましくなく華奢すぎずといった均整の取れたスタイルが、かえって飾り気のないコーデとマッチしている。
「大丈夫ですよ。なんでしょう?」
瞬時に眉間にシワを寄せキメ顔を作った欣秀は、緩んだ口許を手で隠しながら、紳士的に答える。
「ありがとうございます。では、質問なのですが。先ほどの技は、もしや中国武術の『大纏』ではありませんか?」
「! よくご存知ですね。その通りですよ。(さっきのカッコよかったですねって言われるパターンだな!)」
まさしく欣秀が先ほど使った関節技は、かつて宮野より気まぐれに伝授された、中国武術の一つであった。女性に話しかけられた喜びもさることながら、マイナーな知識を持っている人間が現れたことに、欣秀は少しばかり感動を覚える。
「へェ、お姉さんもそういうの、詳しいのかい?」
同席の黒田も興味深げ気に聞く。
「はい。中国武術に関しては、さわり程度にしか知りませんが。それで、お伺いしたいことがあるのですが―」
「あ! すみません、待ってください。」
クール女性が無表情のまま質問を重ねようとするのを、欣秀が手で制する。
「はい。なんでしょうか。」
「すみません。それ以上は…これを食べるまで、待ってもらってもいいでしょうか。」
欣秀の前の食べかけハンバーグは、さすがにもう湯気を上らせるほどの熱気がない。せっかくのご馳走を無駄にはしたくないものである。今の頭は、美人<グルメである。
(美人からの賞賛は、これを堪能した後でも間に合うはずだ…)
「……わかりました。では、こちらで待機させていただいてもよろしいでしょうか。」
「はい、どうぞどうぞ…。(え? こちらで?)」
「ありがとうございます。」
クール女性は短く返答すると、その場で直立不動となり、欣秀の手元をじぃっと見つめ始める。
(目力…!)
欣秀が食事を終えるまで、言葉通り。女性は、その場で待機し続ける。
「あっはっは。なんだかまた、変わったお人が現れたねェ!」
黒田の笑いとは裏腹に、欣秀は心底居心地悪そうにハンバーグを咀嚼した。
~~
「ああ、お腹いっぱい。それで、聞きたいこととは何でしょう?(どうしてあんなにカッコいいんですか、とか…)」
欣秀と黒田、そして当然の如く一緒に店から出たクール女性は、隣接するクルーズ船の船着き場で、会話を再開させる。
「はい。まず一つ目なのですが、あなたは旅をしている方でしょうか?」
欣秀の持つバックパックに、薄汚れた格好。それを推理するのは、簡単であったのだろう。
「仰るとおりです。…もしかしてあなたも?」
店から出たクール女性は、厚手のライダーズジャケットを纏い、欣秀のものとほぼ同じ大きさのバックパックを背負っている。加えて何故か長尺のロッドケースを肩に掛けているその姿は、欣秀とどこか似通っていた。
「はい。私もです。」
「おおーなんという偶然! 今ここに、旅人が三人居るわけだ! まーわたしは帰るとこだけどね!」
大げさに喜ぶ黒田につられ、欣秀も思わず笑顔になる。旅人憧れの地・北海道とはいえ、一日に二人も旅人と出逢えるとは思ってもみなかった。しかもライダースを着ているあたり、彼女もまたライダーのようである。
「私、磐城っていいます。私とこちらの…黒田さんは、今日北海道に着いたばかりなんですよ。あなたは、どんな感じなんです?」
「申し遅れました。私は桐谷真玲と申します。北海道には半年ほど前に上陸しまして、函館には三度目の来訪となります。」
「うんうん真玲ちゃんね! 良い名前だ! 三度目…てーとあれかい、もしかして真玲ちゃん、周回を…。」
「はい。先日、北海道外周走行、三週目を終えたところです。」
「す、スゲ~~~~!!」
真玲は口と目線を動かすだけで、全く、特筆することがないことを述べるように言い放つ。対して欣秀は、目を見開き両拳を握り、驚嘆と興奮を隠さずに表す。
「ハッハッハ! そーかいそーかい。たまに居るんだよね、真玲ちゃんみたいな子が。」
「で、でもそんなに長期間…。ただの旅行じゃないですよね? 一体、何を目的にしてるんです?」
「それは…。」
欣秀の問いかけに、真玲の眉が僅かに動く。
「それは恐らく、磐城さんと同じだと思われます。」
真玲は肩の2mほどのロッドケースを手に取り、欣秀に見せつける。急に釣り道具を見せられた欣秀は一瞬反応に困ったが、そのケースの形状…細長い物を収納する形を見て、すぐに閃く。
「…もしかして、桐谷さんも…。」
「はい。貴方のその革ケースにも、同じものが入っているのではないでしょうか?」
欣秀のケースには、二振りの練習刀が入っている。"同じもの"、ということは、つまりそういうことなのだろう。
「…お、おお! はい! はい! 入ってますよ! じゃあ桐谷さんも、剣術を学びながら旅をしてるんですね!」
「はい。仰る通りです。」
練習刀を持って旅をする。そんな行為をする者が、果たしてどれだけいるだろうか。そんな変わり者が同じ時間、同じ場所に居ることなど、まず有り得ないことである。
故にそんな可能性など考えもしていなかった欣秀だが、今、目の前にいるのはまさに、欣秀とほぼ同じ旅のスタイルを選んだ人間だった。欣秀はその僥倖に驚愕し、すぐに感動を覚える。
「すごい! すごいですよ! えー! マジか…! …えっと、どんな流派を学んでらっしゃるとか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい。私も、質問があります。」
「ああ! じゃあそちらから! どーぞどーぞ。」
あわよくば武術以外のことも質問したい。趣味、嗜好、出身、年齢etc…。この機会に趣味の合う美人とお近づきになりたい。と、画策する欣秀の顔が緩む。それを察して、黒田もまた声なく笑う。
だが、真玲の質問は予想外のものであった。
「では、お聞きします。先ほどのレストランでの件についてです。何故、あの男性に対抗したのでしょうか?」
「…え?」
「あのまま放置していても、特に暴力沙汰などになる様子はありませんでした。店舗側が危険と判断した場合は、警察を呼べば済む話であった筈です。
無駄な行為だったのでは?」
「無駄…。」
真玲は相変わらず無表情のまま、歯に衣着せぬ物言いで欣秀に問いかける。
「それは…。だって、あのウェイトレスさんも、あのままじゃ可哀そうだったし…。」
「可哀そう。それだけの理由で、あなたはわざわざ危険に身を晒したというのですか?」
「危険て…まぁ、上手いこと収められたじゃないですか。」
「それは結果論に過ぎません。下手に逆上させれば、男性が凶器を使用する可能性もあった筈です。貴方のした行為は、無謀だと思われます。」
「む…じゃあ、あのウェイトレスさんが困ってるのを、見過ごせと?」
「仰る通りです。」
冷徹なまでに即答する真玲に、欣秀の血圧が少しばかり高くなる。
「そんなのあんまりでしょ。目の前で困ってる人がいたら、助ける。当然のことじゃないです?」
「いいえ。当然のことではありません。現にあの場では、貴方以外の誰一人として、場を収めようと行動を起こす者はいませんでした。」
「それは下手に手を出すのは危険だからで―!」
「でも貴方は出しましたね。」
「武術をやってるからだよ! 危険から身を守るために武術をやってるから!」
「あのウェイトレスは、貴方とは何の関係もない方ですよね。"身を守るため"…という条件には当てはまらないのでは?」
「自分の身だけじゃない。目の前で理不尽に不幸が起こってるなら、それを解決する。その手段として、武術があるんでしょう?」
「いいえ。違います。武術とはあくまで自己研鑽、そして自衛の手段であり、争いを引き起こすために身に付けるものではありません。争わず、恨みを買わず、誰からも攻撃されないようにする。それこそが最大の強さなのです。孫子兵法にもあるでしょう。『戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』と。」
「自分の生き様を通すためなら、人の恨みだって買わなきゃならんときがあるんです。その覚悟だって、強さの一因の筈です!」
「…理解不能です…。」
はぁ、とため息をつき、そっぽを向く真玲。欣秀は顔をしかめさらに反論しようとするが、それを黙って聞いていた黒田が制する。
「まぁ、まぁ。お二人さん。私にゃあわからん分野だが、きっとそれぞれの答えがある、奥深い世界なんだろう。
言い合って決着がつくもんでもないし、ここは一つ、"そういう考えもあるのか"ってことで、身を引いたらどうかね。」
黒田が間に入ったことで、欣秀は冷静さを取り戻し、申し訳なさげに俯く。場が収まったかに見えた…が、真玲が口を開く。
「確かに、言い合って決着がつくはずはありませんね。」
「え?」
再び欣秀に向けられた真玲の顔は、無表情から、ほんの少しだけ険を帯びたものになっている。
「磐城さん、私の剣について知りたいのですよね? 丁度良い機会です。一度、手合わせをしてみませんか?
私とて、武術の真意に気付いた、と語るにはおこがましい未熟者であることは、承知しております。ですので磐城さん。貴方の剣が正しいかどうか、私の剣で見極めさせてください。」
美女と親睦を深める筈が、思わぬ事態に展開していく状況。欣秀は一瞬瞳を揺らしたが、目を閉じて答える。
「……望むところです。」
再び開けられた眼には、闘志の色が宿っていた。
~~
ハッピーピエロから、港湾沿いに西へバイクで僅か5分。一行は、函館港に浮かぶ人工島『緑の島』へとやってくる。8万平方mほどの広大な敷地に、十分な駐車場、舗装広場に緑地が整備された、公共の公園である。週末の白昼ということで、広場では家族連れや若者がボールやボード遊びに興じており、海沿いのデッキでは、釣り人がのんびりと余暇を過ごしている。
「ここなら、十分な広さがとれる筈です。」
真玲の愛機は、ホンダのCRF250ラリーであった。Vストローム250と同じアドベンチャーツアラーだが、その性格は積載性よりオフロードの走破性に寄っており、車体はVストロームと比べ軽量で、シート高は高い。
アクティブ派のそれをそつなく乗りこなす真玲の姿と、ところどころヤレている車両状態を見るに、彼女らが長い付き合いであるのを欣秀は察する。
(北海道を3周、っていうのは本当みたいだな…)
穏やかな時間が流れる場に、張り詰めた空気の二人が入り込む。
黒田はというと、また仲裁に入るのかと思いきや、「拳で語り合うのも若者の特権!」と、意外にも乗り気で、二人の行く末を見守ることを決めていた。
緑地の隅、人々の邪魔にならない場所に各々荷物を置き、欣秀と真玲はそれぞれの獲物を取り出し始める。
(あの釣り竿入れ、けっこう長いけど…)
欣秀の革ケースは、1m10㎝ほど。1m余りの本差しが、ほぼほぼピタリと収まるサイズである。それよりも長いロッドケースを真玲が担いでいるということは。真玲がケースから取り出した彼女の刀は、欣秀の予想通りの姿をしていた。
「…物干し竿ですか…。」
「流石。よくその呼び名をご存知ですね。」
真玲の刀は、刃渡り4尺、柄の長さ2尺、計2mに迫る…と、日本刀としては異様な長身を誇る一振りであった。こうした身の丈ほどもある野太刀を、界隈では"物干し竿"とよく呼称される。
「そちらは、二振りなのですね。」
物珍しい目をするのは欣秀だけでなく、真玲もだった。
「初めてお相手する流派です。良い勉学の機会とさせていただきます。」
「…こちらこそ。」
正統派ではないものを扱うということは、それに見合う修練も必要ということである。落ち着きすぎた真玲の物腰にどこか威圧感を感じた欣秀は、長羽織を脱ぎ捨て、声なく気合を入れる。真玲もまた、ジャケットだけでなくTシャツも脱ぎ捨て、スポーツ用のアンダーウエアに包まれた体を露にする。先ほどまでは見えなかった引き締まった筋肉が駆動し、物干し竿を軽々と扱い、抜刀した。
「では、言葉は不要です。よろしくお願いします。」
「…。」
(ヤバいな…)
野太刀として扱っても、なお長すぎるその長刀を見据え。欣秀もまた、苦笑いを含ませた笑みを浮かべると、本差、脇差をそれぞれ抜刀する。
(この人も、かなり強そうだ…!)
互いに抜刀したのを確認し、二人は練習刀を構える。欣秀はいつもどおり右前に半身をきり、左の脇差を顔の脇、右の本差をやや下段構え、相手に切っ先を向ける劈掛拳を反映した形に。真玲は、柄を顔の右脇に寄せ、切っ先を相手に突き出す霞の構えに。
「なにが始まるんですー? 黒田さん。」
「あー! これはね、映画! 同人映画のリハーサルでさ!」
「はぁ…まあ、黒田さんがそう言うんなら、そうなんでしょうねえ。」
黒田は、何事かと見物にくる市民に弁明をしながら、静まり返った二人の空間を見守る。
(しかし、物干し竿に、二刀かぁ…こりゃあ、実際の片方は櫂だったと言われてるが、まるで…)
欣秀と真玲。互いに意識を自分と、相手の剣先、目付、呼吸に集中させ、神経を研ぎ澄まし始める。周りの喧騒など、もう聞こえない。そこには、二人だけの時間が流れていた。
(北海道の、巌流島だねェ…)
(さて、どう攻めるか…)
抜身となって自らに向けられる物干し竿は、あらためて見ても長い。その刃に欣秀の本差が丸々入ってしまうほどのサイズ感は、かなりの威圧感がある。
武術において武器のリーチは、開けた空間では長ければ長いほど有利である。槍使いの梶井と手合わせした時と同様、欣秀はそのアドバンテージを失っていた。否が応にも、欣秀の脳裏に苦い記憶がよぎる。
(しかもあの時と違って、切っ先から手元まで刃が付いてるときた…おっかねえ~! …でも!)
槍と比べ、刃の面積が大きいぶん、刀は殺傷できる部位が広い。しかしそれは、使い手自身が握る場所も狭くなることを意味している。槍は握れる範囲が広いぶん、長尺でも扱いきれるものとなっているが。
(長い太刀の場合は、その重量を刀の端、柄だけを握って支えなくちゃいけない…! ということは――っとと!?)
僅か数秒の思考ではあったが。欣秀が攻め方を考えあぐねているその隙に、真玲は一直線に欣秀へ駆け寄り、切っ先を前に向けたまま―。
(突き!)
通常の刀では考えられないほどの遠方から、その刃先を突き出してくる。
(マジで本気なんだなっ!?)
練習刀とはいえ、切っ先は尖っている。そこで突かれれば、たちまち皮は破れ、肉を裂かれる。欣秀はその非情とも呼べる行為に恐怖を覚えつつも、"本気を出してよい相手"だと信頼されていることに喜びを覚え、それを本差でかわす。
梶井の時と同様、相手の獲物の突きを大きく跳ね除け、その隙に一気に入り込もうとする欣秀だったが。真玲は長さにかまけて大振りで突きを繰り出さず、脇を締め、堅実に幾重にも小ぶりの突きを繰り出してくる。
欣秀の本差はその切っ先を逸らせこそすれど、跳ね除ける前に剣先を引かれてしまい、攻め込む起点を作れない。梶井同様、隙のない突きの雨である。
(さすがにこなれてる! ならこっちで!)
欣秀は半身を左前へと切り換え、重量の軽い脇差で物干し竿の対応をする。振りが早くなるぶん、細やかな突きにも対応しやすくなり、タイミングを合わせ切っ先を跳ねのけやすい。
すぐに欣秀の脇差は、真玲の物干し竿と交差し、捉え、止める。
(やっぱり! 扱いにくいぶん、梶井さんの槍より遅い!)
真玲の刀を脇差で抑えつつ、たちまち欣秀はその懐に飛び込む。
"今度は躊躇わない"。真玲も、本気で打ち込んできたのだ。欣秀も本気でその胴を薙ぎ払う意気で、本差を振りかぶるが―。
「っ!?」
欣秀のバランスが崩れた。梶井の時のように、押さえつける物干し竿の力が唐突に抜かれたからではない。むしろその逆で、物干し竿から押し寄せる力が、唐突に強まったからである。
「なんっ…!?」
慌てて欣秀は本差と併せて、両腕の力で物干し竿を押し返そうとするが、それでも敵わない。
「ふんっ!」
真玲は抑えられた物干し竿を力任せに振り切り、支えていた欣秀を、側方へと薙ぎ飛ばした。
(なんっって馬鹿力なんだ!!)
初速のない、止められた状態から太刀を振り抜き、成人男性一人を吹き飛ばす。それは、長身の刀を軽々と扱える程度とか、そういったレベルの筋力量でできる芸当ではなかった。
(これはもう…ゴリラだろ…、メスゴリラだ…!)
すぐに受け身をとり構えを直す欣秀の目には、パンプアップを始め、より隆起した真玲の筋肉が映る。真玲は息を整えつつ、依然として無表情のまま、また霞の構えに移る。そして、また欣秀へと駆け出す。欣秀は思わず、足を一歩下げてしまう。威圧に負けてしまった。
繰り出される真玲の太刀筋は、今度は突きではなく唐竹割り。縦の太刀筋を横に避けつつ踏み込めば、間合いは詰まり、反撃に転じることもできる。
しかし浮足立った欣秀は、無難にそれを後方に避ける。欣秀の眼前で風が巻き起こり、空気が裂かれる轟音が鳴る。
(これは…!)
振り下ろされた物干し竿は地面に着かず、その寸前で見事に静止している。獲物の重量に振り回されず、それをしっかりと制御できている証である。真玲はすかさず、斬り上げへと転じ、横薙ぎ、袈裟…と、斬撃を重ねる。その一つ一つも力任せに振るわれるものではなく、脇が締められた、隙のない連撃の応酬である。
(これは…、勝てないのではっ!?)
欣秀はただただ、後退するばかりであった。真玲は目を細め、若干の失望の意を心に浮かべる。
(目標の筋力、判断力…ともに、私より下位であると判断。このまま攻勢を継続していれば、1分以内には決着がつくと予想…―)
「…この程度でしたか。」
特にもう、試行すべきこともない。と、真玲は無機質に刀を振り続ける。絶対的な身体パフォーマンスが劣っている。その事実は、欣秀とて重々承知していた。だからこそ、ここは技術と機転でなんとか乗り切らねばならない。
(馬鹿野郎! なに逃げ腰になってんだ! 攻め方を変える!)
幾度もかわすことで、物干し竿のリーチと振られるタイミング、攻められやすい角度をおおまかに把握した欣秀は、その一つ一つを見切り、目当ての一振りを待つ。
そして真玲が刀を八相に構え、袈裟斬りを振り下ろすその時。欣秀は体重を前方へと切り返し、前へと一歩踏み出す。
(受けて駄目なら、避けちまえばいい!)
袈裟斬りの当たらぬ位置。真玲の斜め前方へと踏み出した欣秀は、そのまま本差を真玲へと突き出し、突きを狙う。刀が振られた後を待っていては、遅い。振られるのと同時にそれを避け、攻めねば、二の太刀を喰らう。
(タイミング、完璧!)
轟々という風切り音が、耳のそばをかすめる。
重々しいその物干し竿が、この瞬間に再度振られることはない。そう、欣秀は勝利を確信した。…が。
「!?」
欣秀の視界の端で、物干し竿が―軌道を変えた。振り下ろされたその白刃が鋭角を描き、一瞬で斬り上げの太刀筋に変わる。
とっさに脇差を斬り上げられる箇所に構え、伸びきった右腕をなんとか戻し、本差でも脇差を支えて欣秀は太刀を受ける。が、無理のある姿勢であった。
「っうあ!!」
欣秀はまた宙へと弾き飛ばされ、今度は半端に受け身をとりながら、緑地の上に体を叩きつけられる。
その光景に、黒田が思わず感嘆する。
「……燕返し…!」
またの名を虎刈り。振り下ろした太刀を見切り踏み入ってきた敵を、直ちに返す刀で刈り取る。巌流島の戦いで有名な剣豪・佐々木小次郎が編み出した剣技である。
実に4kg近い物干し竿をここまで機敏に動かせるというのも、真玲の鍛え抜かれた肉体が成せる業であった。
立ち上がる欣秀。幸い、関節に損傷はないようだが、打ち身による鈍痛が欣秀の意識を苛む。気付けば、周りからは「おお」、と真玲に対し歓声が上がっていた。
(クソ、カッコつかねぇな~これは…!)
このままやられ役でいる訳にはいかない。欣秀は負けん気によって体に喝を入れ、再び構える。だが頭の中には、敗北の色しかなかった。受けても駄目。避けても駄目。筋力も、技術も、判断力も。全てが欣秀より上。勝てる見込みがない。
真玲は再び霞の構えをとり、じりじりと欣秀との距離を詰める。弱り切った獲物に、余裕を持って虎が歩むように。
(持久力も、私より劣っていると分析。耐久力と反射神経はあるようですが…もう勝負をつけます)
陽光を受け光る物干し竿の切っ先が、欣秀には獣の牙に見えた。
また、その足を下げてしまいそうになる。だが、それは必死に踏みとどめられる。勇気と呼べるものではない。虚勢である。だがその虚勢を張るに足るものを、欣秀は持っていた。
(ここで…。ここで下がったら)
今は手合わせだが。もしこれが、坂戸や、岩手や、むつだったら。
(ここで、負けてしまったら)
もし自分の背に、守るべき者がいたら。
(そうだ…それこそ、本当にカッコがつかないことになる!)
たとえ実力が劣っていようとも。不利な環境であろうとも。時の運がなくとも。
人は、絶対に負けられない戦いを迎える時がある。
そういった時に、唯一。逆境に立つ者が奮える武器は。
(筋肉がなんだ、技術がなんだ! あんたとは、覚悟が違うんだ!!)
絶対に負けないという意志の強さ。覚悟の強固さである。
「馬鹿だな私は。どうせ劣っているなら、小手先の戦いなんて通用するハズがない…!」
欣秀はその場で、本差を大きく頭上へ掲げると。
「っらぁ!」
「!」
物干し竿と同様、日を受け白光を放つ物体が、欣秀の手元から飛び出した。
(目標、武器を投擲―!?)
欣秀の本差が、真玲へと一直線に投げつけられた。その身を回し突進してくる刀の速度に、真玲は一瞬虚を突かれるが。
(…成程。これを受けるために太刀を動かしたところを、脇差で攻め入る戦法と判断)
物干し竿を動かせば、攻め込まれるきっかけになる。真玲は豪快にも、それを片腕で弾き飛ばす。本差がどかされた視界の先では、予想どおり欣秀が駆け出していたが―。
(!?)
欣秀は再度、今度は左腕を振り上げていた。
(まさか)
そのまさかである。欣秀は、今度は脇差を思い切り真玲に向けて投げつけた。
立て続けに投げつけられる鉄の塊を、痺れた片腕でまた弾く余裕はない。真玲はとっさに物干し竿を構える。
(一体何を―!)
己の生命線ともいえる武器を手放して、どうするのか。一か八かの投擲に、全てをかけたのか。だとすれば、それはあまりにも。
(愚か―!)
本差に続く脇差の投躑なら、当たるだろう。そんな博打で、自分を倒せると思ったのか。真玲は少しばかりの怒りを滾らせ、物干し竿を振るって脇差を弾き飛ばす。
だが。
だが欣秀はそんな、相手を軽んずる男ではなかった。
「っ!?」
物干し竿で、脇差をどかした先。真玲の眼前、目と鼻の先には、欣秀の体躯があった。
「ウオアアア!!」
欣秀は突進力の全てを捧げ、真玲の腰へと体当たりを仕掛ける。最早、物干し竿で迎え撃てる距離以近。流石の真玲も欣秀の突進を受け止めきれず、後方へと倒し込まれた。
武術もへったくれもない、ただの全身全霊の体当たり。
何をとっても劣勢の者が、勝利のために奮える唯一の武器、意志の強さ。欣秀はそれを、捨て身の攻撃という形で最大限に発揮したのだ。
馬なりになった欣秀はすかさず真玲の顔面に向け、拳を叩きつける――寸前で、その手を止めた。
「はぁ、はぁっ、はぁ…。」
追い込まれていた欣秀ではあったが、女性の顔を殴れるほど錯乱してはいなかった。いつの間にか集まっていた見物客が再び歓声を上げ、ゴング代わりに欣秀の勝利を告げる。
「…か、勝った……?」
つい先ほどまで、どうあっても掴めないと思っていた勝利。それを今、手にしている実感が湧いてくると、欣秀は思わずほっとため息をつく。しかし欣秀の下の真玲は相変わらずの無表情で、口を開く。
「いえ、まだです。」
「…え?」
まだここから、抵抗をするのか。欣秀は思わず体に再び力を入れるが、真玲は微動だにしなかった。
「その拳を、振り下ろしてください。痛みを伴わなければ、私はこの敗北を忘れてしまいます。」
「…。」
普段なら、そんな願いを聞き入れる訳がない欣秀であるが。刃を交え、真玲が本気で手合わせをしてくれていたことを、欣秀は知っていた。そんな彼女との闘争を、生ぬるいもので終わらせるのは。…あまりにも、無礼であった。
「…じゃあ、遠慮なく。」
「はい。よろしくお願いします。」
再び振り上げられる欣秀の拳。
歓声が一転、どよめきと悲鳴が巻き起こる中、乾いた打撃音が青空に響いた。
~~
「いやはや、まさかあそこでぶつとはね。少年には驚かされるよまったく。」
「はは。周りの人ら、凄い目で私のこと見てましたね…。」
「………。」
成り行きがあったとはいえ、男性が馬乗りになって女性を殴ったのだ。暫く辺りは騒然としていたが、それも黒田の協力あって収まり。三人は波止場近くに腰掛け、くたびれた身体をクールダウンさせる。
「私が言うのもなんですけど…痛みます?」
「はい。とても痛みます。」
「正直に言うね…。」
「しかし磐城さんが気に病む必要はありません。貴方は私の懇願を聞き入れ、実行したにすぎないのですから。むしろ御礼を申し上げねばなりません。」
殴っておいて礼を言われるというのも、変な話である。
真玲は殴打された頬にアイシングをしつつ、テキパキと話す。だがその表情には曇りがある。
「………磐城さん。私にはわかりません。貴方は、私よりあらゆる面において、劣っている筈です。」
「ほんとハッキリ言うね…。」
「全く。とは言えませんが、油断をしていた訳ではありません。ですが、貴方の最後の一手に的確に対処することが、私にはできませんでした。あの時向かってくる磐城さんを見て…私はどこか、畏怖を抱いてしまいました。
これは何故なのでしょうか? 貴方はあの時、何を思っていたのでしょうか? 何が貴方をあそこまで、前へ進ませたのでしょうか?」
「えぇーっと…。」
「はっはっは、向上心の塊だねェ!」
質問の雨に欣秀と黒田は笑ってしまうが、真玲の眼差しは真剣である。
欣秀はあの時のことを思い出し、考えを逡巡するように目を泳がせた後、答える。
「んー…。負けられない理由があったから…。かも?」
「私だって、負けるために行動をしたことは一度もありません。それとは何が違うのですか。」
「んん…よくわからんけど。多分それは、負けたくない、だけだと思うから。私は、負けられないから。……ああいや、私なんかが偉そうに言えることじゃないんだけどね。…自分の身や、名誉のためだけじゃない。守りたいって、絶対に傷をつけたくないって思えるものとかがあると…。否が応でも、前に出られるというか。」
「守りたいもの…。」
真玲は俯き、思考を深める。だがその答えはすぐに出ないことを察すると、意を決したように立ち上がり、欣秀の前へと居直る。
「磐城さん。お願いがございます。また私と、ここ函館の地で手合わせしていただけないでしょうか。…そうですね……2週間後に。」
「もう一度…ですか。」
正直、まぐれで得た勝利を握ったまま、勝ち逃げしたいと思う欣秀であったが。そんなセコい考えは、仮にも彼の中にある武人の魂が許さない。
「いいですよ。2週間後ですね。その間に、私も北海道を回ってきます。」
「ありがとうございます。私なりの答えを、その期間で探してみせます。」
「うんうん、互いに研鑽して、また相まみえるんだね! 是非その時は、私も呼んでおくれよ! な!」
黒田は頭を下げる真玲の隣に立ち、「ホラ少年も立って立って」と促すと、二人の右手をとる。
「? …なんです?」
不思議そうに首を傾げる真玲と、何をさせられるか察して気恥ずかし気な顔をする欣秀に、黒田は笑いかける。
「なにって、握手だよ握手! シェイクハンドさ! 喧嘩みたいな出逢い方だったとはいえ、今ここに、志を共にする友ができたんだ! その記念と、再会を祈願して、さぁ!」
「…成程。そうすることで責任感を強め、再会が成功する確率を高めることができるのですね。磐城さん。ぜひ、実行しましょう。握手。」
「そういうものなんかですかね……。ま、どうぞなにとぞ…。」
真玲は欣秀を真っ直ぐに見つめたまま。欣秀は、恥ずかしそうに目線を逸らしたまま。互いの手を取り、力を入れる。
「「よろしくお願いします。」」
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