第九話 旋風
岩手編
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
「これが山車か…! 恐……!
こんな鬼みたいな形相になる人、いるんだろか…。」
「すまーん旅人さん! ちょっと、手伝ってくれるかーい!」
「あ、はーい! 今行きます!」
第九話
旋風
「よいしょっと。テーブル組み立て、こんぐらいの数で大丈夫でしょうか!」
「おお。バッチシバッチシ。ありがとよ、旅人さん。」
「旅人旅人さん、このテントって、どーやって組み立てんのかなー。」
「見てみますよ! えーとどれどれ~…―」
翌朝。欣秀は道の駅の正面駐車場にて、イベント設営の手伝いをする。イベント…といっても小規模なもので、いくつかのテントやテーブル、休憩所を駐車場に設営し、そこで各地域のグルメや工芸品を楽しんでもらう…というものであった。
遠方から移動してきた人々と、有志の市民がスタッフとなって、会場づくりは着々と進められていく。立てられたテントには、それぞれの故郷から取り寄せたであろう、食材などが次々と運ばれていった。
「いやぁ旅人さん、助かったよ。若い働き手が来てくれるとはねぇ。」
「なんのなんの。どうぞこき使ってください。」
一宿一飯以上の恩義。できることなら、どんなことだってしてやりたい。欣秀のその身に力が入る。
「皆さん、お飲み物をどうぞ~。今日も暑くなるそうなので、体調管理に気を付けてくださいね~。」
「おお~、楓ちゃん、ありがとさん!」
楓は立案者として、各テントの出展品が予定通りとなっているかといった、最終チェックに目を光らせつつ、スタッフ管理にも気を配っている。欣秀が初めて顔を合わせるスタッフたちと信頼関係を結べているのも、楓の仲立ちがあったからだった。
「ハイ欣秀さん、お茶どうぞ。」
「私はまだ大丈夫です。他の方たちに、先に――」
「ダメですよ! 脱水症状は、気付いたころには手遅れなんです! どうしても手が離せないというなら、私が飲ませてあげましょうか?」
「ああわかりました! わかりました! 飲みますから!」
この群衆の中で甘やかされていては、格好がつかない。欣秀は手に持っていたパイプ椅子を置き、慌てて楓から茶を受け取る。
「おー、お二方お熱いね!」
じとっという眼差しが注がれる。遅かったようだ。
それには微笑やら羨望やら、怒りやら…欣秀の心臓が落ち着かない成分が、いろいろと含まれている。
(楓さんが人気者っていうシオサイオーナーの話、本当みたいだな…)
「すみません楓さん。私のせいで、なんだかあらぬ勘違いをされてしまっていて…。」
「? 私は勘違いされても、別に構わないですが~。」
「冗談は勘弁してくださいっ…!」
欣秀はパイプ椅子を大量に抱え、そそくさと走り去る。
「うふふ。欣秀さんはかわいらしいですねえ。」
「姉ちゃーん! 市長さんが挨拶に来てるよ!」
「あ、はぁーい。今いきますよ~。」
会場は無事設営完了し、スタッフも各々配置につき。道の駅が開館すると同時に、テントからの客引きの声も上げられ始めた。
交流会と銘打ちつつも、道の駅に訪れた無関係の客も参加できるイベントである。一食あたりの量は少ないながらも、地方の食を安価で食べられるという滅多にない機会に、来場者は予想外に伸びる。
地域への恩返しの気持ちで、あくまで利益は最低限で。半年ほど前から、楓が駆け回って頼み込んだ賜物である。さすがに工芸品の類は安価で提供…とはいかないが、手に取って見てもらうだけでも、開催側としては嬉しいもの。
「うおっなんだこれメッチャ綺麗…! 螺鈿細工…?」
宮古市のブースで、漆素地に薄貝を貼り付ける工芸品に、欣秀は釘付けになる。
「おひとついかがですか? …売れ残っても困っちゃうし。お安くしておきますよ。」
「あ~…じゃあ、身だしなみを整えるように…これでもいただこうかな。」
いつもロケットⅢのミラーでしか髭剃りの具合を確認できないからと、小ぶりの手鏡を購入する。
欣秀の役割は、会場の見回り…という体で、イベントを楽しむことであった。元々楓としては欣秀に来場者として参加してほしかったので、そのせめてもの配慮である。…実際、テント側に回ったとて、欣秀は調理などできないから、役立たずだった。
「欣秀さ~ん、浪江やきそばですよ~。おひとつ、ご馳走しますよ~。」
「おわ、わざわざすみません、ぜひぜひ。…うっわ、ふっとい麺!」
また今日も満腹になれる…と、テント下で楓からやきそばを受け取り、欣秀は幸せを噛みしめる。
(結局、甘えちまってるってことなんかねぇ…ん?)
口許のソース汚れを手で拭う欣秀の目に、見知った人物が映る。
(あの人はたしか…もぐらんどの…)
「まぁ! 菊池さん! 来ていただけたんですね~!」
「…別に。通りかかっただけよ。」
もぐらんど入館時に、楓に悪態をついていた菊池という娘であった。切れ長のキツい目で、楓を冷ややかに見据える。
「…こうやって、好感度稼ぎしようってワケ。文句言う人らをいなくして、ここに完全に寄生するつもりでいるんだ?」
「そういうつもりではありません。ただ、私たちは地元の方々に御礼をしたくて――」
「お礼? だったら、国から巻き上げてる、お金をよこしなさいよ。」
楓は辛うじて笑顔を浮かべているが、動揺しているのは明らかである。が、欣秀は助け船を出すことができない。
なぜなら欣秀は、事情についてあまりにも無知だった。下手にかばっても、かえって逆撫でするだけである。
(周りの人は…)
他のスタッフも、苦い顔をして見て見ぬふりをするばかりであった。
まるで、"仕方がないことだ"と諦めるように。"菊池の言うことも、わかる"というように。
悲しいが、金の力は絶大である。人を簡単に笑顔にしてしまうし、簡単に恨みつらみしか抱けない鬼にも変えてしまう。その魔力を一言二言の言葉で跳ね除けるのは、不可能だった。
欣秀は悔しいながらも傍観をしていると、テントのバックに設置された焼きそば用の大型鉄板に、若い金髪の青年が近づいているのに気付く。
(…? スタッフじゃないな…)
主催者側だと示す簡易的な身分証も、首から提げていない。欣秀は胸騒ぎがして、楓のそばを離れ、テントをぐるりと迂回してバックに回り、その男の背後に近づく。
欣秀が息を潜めていると、男はポケットに手を突っ込み…。中から、何ごとかゴミのようなものを取り出した。それを鉄板に投げ入れようとする寸前で、欣秀はその手を押さえる。
「っ!」
「なにしてんですか。」
男は腕を振り払おうとするが、欣秀はそのまま抑えつける。大事にならないよう、声を潜めて話す。
「…ぶっちゃけて言いますと、あなたたちの立場もわかります。…私も貧乏な身ですし。だから、今回は見逃します。それに免じて、このイベントを壊さないでやってください。」
容赦の言葉をかけ手の力を緩めると、青年はそれを振り払ってその場を去る。その様子をテントの表側から見ていた菊池は、顔をしかめた。
(やっぱ共犯か…)
欣秀は青年を追いつき、なんとか説得を試みる。
「…ねぇ、そんな、嫌がらせみたいなことやめましょーよ。避難してきた来た人らを非難したって、どうにもならないでしょう。…あれ、ダジャレ」
「…あんたよその人だろ。当事者でもないあんたに、一体なにがわかるんだよ。」
「あなたたちがやってるのは、陰湿だってことはわかりますよ。」
半ば皮肉めいた欣秀の口調に、男は脚を止めて欣秀を睨みつける。
「陰湿だと…? 何も知らない奴がよくそんなこと言えるな。
いいか? 俺らは被害者なんだよ! あいつら避難民のほうが、よっぽど陰湿な加害者だ!」
「そんな、みんな同じ地震の被害者じゃないんですか。」
鬼気迫る青年に、欣秀は気後れする。
「同じ? 違うね。あいつらは違う。原発の奴らは。国からたんまり金をもらってるじゃないか。それであいつら、別の土地を買い漁って、家を建ててやがる。無駄に地価まで高騰させてさ。知ってるか? 現金で買う奴だっているんだぜ? 口では〝故郷に帰りたい〟なんて言ってる癖してさぁ!」
「それは…、でも帰れないんだから、しょうがないでしょう…!」
「俺たちだって帰りたいさ! もとあった家に! 思い出のある家によ! だけど俺らはもうそれがないんだぜ!? でもあいつらはあるじゃないか! 放射線があるだけで! 家はまだあるじゃねーか! なのになんで俺らだけ、未だに公営住宅住まいなんだよ!」
「…っ!」
現実は、青年の言っているとおりであった。
あまりにも現状を知らなすぎていた自身の無知っぷりと配慮のなさに、欣秀は何も言えなくなってしまう。
脳裏に、高野の顔がチラついた。
「はっきり言うね、あいつらは加害者さ。津波を恨めっていうのか? 国を恨めっていうのか? そんなのできっこねぇだろ。だからせめて俺はあいつらを、絶対に許さない。絶対にここから、追い出してやる。」
吐き捨てるように言うと、金髪の青年は早足で歩き去ってしまった。
~~
「あなたたちに嫌な思いをさせていることは、認めます。だからせめて、このイベントを楽しんでいただけませんか? 浪江焼きそば、美味しいですよ?」
「放射能まみれの食べ物なんて、いらないわよ。傷つけてるって思うんなら、さっさと出てってくんない!?」
菊池もまた、足早に会場を去っていく。楓の顔からはもう笑顔は消え、口をつぐみ、思いつめた表情を浮かべている。欣秀はさりげなくテントをまた回り込み、楓に駆け寄った。
「楓さん。大丈夫ですか?」
「…はい。ただ、自信がなくなっちゃって…。私がやってること、やっぱり、ただの偽善なんでしょうか…? 何もしない方がいいんでしょうか…?」
楓の瞳が揺れている。たしかに、経済格差をなくさない限りは。楓がどう頑張ろうと、菊池たちの恨みを煽るだけなのだろう。正直、今の欣秀だって、この催しが正しいとは胸を張って言えなかった。
しかし、何をすべきかわからないからといって、何もしない理由にはならない。正しさなんてものは、元来あやふやなものなのだ。
「何言ってるんですか、見てくださいよ、みんなの表情。みんな、笑顔じゃないですか。そりゃあ気に食わない人もいるでしょうが、それ以上に楽しんでる人もいっぱいいるんですよ。」
楓の頑張りによって、幸福を得ている人々がいる。それもまた、揺ぎない事実。
下手ながらそれらしい事を述べ、欣秀はなんとか励まそうとする。
「そうだよ楓ちゃん! 楓ちゃんが言ってくれなかったら、俺らこんなこと考えもつかなかった!」
「あなたの地元の料理、とっても美味しいよ、ありがとうね、楓ちゃん。」
周りのスタッフたちも、呼応するように楓に声をかける。
「みなさん…! ありがとう…ございます……!」
今にも泣き出しそうになる楓。
「ホラ! 主催者がそんな顔してて、どーすんですか! いつも通り、笑ってください!〝笑えれば大丈夫〟です。だからほら。ね!」
「…はい! 笑顔で、頑張ります!」
と、欣秀は喝を入れるが。
内心は、いつまでも胸に刺さり続ける青年の言葉に、動揺を隠しきれなかった。
~~
起こりかねなかったトラブルも未然に防ぎ、イベントは無事終了した。汗が滲むスタッフ諸氏のやりきった顔を、夕暮れの涼風が撫でる。
〝開催中、働いていなかったぶん――!〟と迅速にテーブルやパイプ椅子の撤収を始める欣秀に、蓮が近づいてくる。
「おお、蓮君、お疲れ様!」
「磐城さんもお疲れ様です。…ねぇ、聞きましたよ。菊池の奴らが来たって。」
蓮は歯を噛みしめ、沸々とした怒りを瞳にたたえている。
「…ああ。来たね。」
「あいつら、ほんとうに懲りないんだな…! 気持ちはわかるけど、嫌がらせしたってなんの解決にもならないじゃん…!」
蓮の怒りはもっともである。が、その矛先が向く彼らもまた、もっともな怒りを抱いている。それを知ってしまっている欣秀は、〝気にするな〟と声をかけてやることができない。
「……ああいうのって、たびたびあるの?」
「…はい。僕が言うのもなんだけど、姉ちゃんは人当たりがいいから。それが気に食わないって人も多いみたいで…。通勤路の姉ちゃんに嫌がらせしたり、町内会の伝言をわざと伝えなかったり、遊び人だとか、根も葉もない噂流したり…。ほんと、くだらないヤツらですよ。」
「そっかぁ…。」
楓は、そういった嫌がらせを受けていることは一言も話していなかった。それは旅人である欣秀に、町の嫌なイメージを抱かせないようにという配慮であり、また、〝いつかは仲良くできる〟と人々を信じている、楓の優しさの顕れであった。
他人に弱みを見せず尽力する楓。誰のせいでもない被災のおかげで、誰かを恨まざるを得なくなっている菊池達。欣秀の胸が、どうしようもなく締め付けられる。
「二人とも~! 今日はお疲れさまでした~! 今晩は、腕によりをかけて料理、作りますからね! …あれ、欣秀さんどうしました? 具合、悪いんですか?」
「…いえ。」
(…私は、なんて無力なんだろう)
旅人なんて、良くも悪くも勝手なものである。
その土地や人々を、見るだけ見て、何もすることはできないのだから。
―翌日―
欣秀はロケットⅢに跨るため、出勤する楓と共にシオサイへ向かう。
「…これで、お別れですね。」
「ええ。本当に、お世話になりました。」
「いえ。何もお構いできず…。」
「いえいえそんな…。」
歩き続ける二人の口数は、少なかった。〝明日には出ますね〟と昨晩の食卓で欣秀が切り出してから、この微妙な沈黙は続いている。
(参ったな…)
こういう時、どういう振る舞いをすればいいのだろうか。それを思いつくには、欣秀はまだ人生経験が浅すぎた。
シオサイのある通りに出て、いよいよ別れの時が近づいてきたあたりで――。シオサイの前で、オーナー夫妻が腕を組んでいるのに、二人は気付く。
「オーナー、どうしたんですか?」
「あわ、楓ちゃん、早いね…!」
オーナーはしまったとばかりに顔をしかめ、頭を掻く。
なにやら穏やかではないようである。オーナーが見つめていた方向を見た瞬間、欣秀は目を見開いた。
〝カエレヒナンミン〟
店舗のガラスの上から下ろされたシャッターに、赤いスプレー缶で大きく、乱暴に、冷たい言葉が書きなぐられていた。
欣秀が絶句していると、背後でカバンが落ちる音がする。文字を見た楓は両手で口を覆い、たちまちのうちに目を潤ませ始める。
「そんな……。」
「ごめん、楓! ほらアンタ、さっさとシャッター開けて!」
婦人に促され、オーナーはすぐさまシャッターを開ける。無慈悲な文字の羅列は、ひとまず視界から消え去った。
「朝出て来てみたら、これでな…。旅人さんのバイクは無事だったのが、不幸中の幸いだよ…。まったく、一体誰がやったんだか…。」
「防犯カメラの類は、ないんですよね。」
「ああ。付けよう付けようとは思ってたんだけどなぁ…。」
もっともそんなものを見なくても、欣秀の中で犯人の目星はついていた。
(あの人たち…)
昨日の諍いがあった翌日というタイミングで、この落書きである。どう考えても、その仕業にしか思えなかった。
「私の…せいです……!」
オーナー婦人に寄り添われながらも、楓は泣き崩れてしまう。
「私……辞めます…もう迷惑かけられない…!」
「馬鹿言うんじゃないよ。こんなイタズラ、真に受けることないんだから。楓はなにも悪くない。」
むせび泣く楓の姿を見て。欣秀の拳は、強く握り込まれ震える。
…が、それを振り下ろすことはできない。今すぐもぐらんどへ行って、菊池を問いただせば気は済むだろう。が、そんなことをしたところで状況は悪化するばかりである。そもそもこの状況も、欣秀が昨日彼らを逆撫でしたからかもしれない…そう思うと、もう何もできなかった。
「…て、手伝います。」
崩れ落ちた楓の代わりに、店を手伝ってあげねば。今できることを無我夢中で考えた欣秀は荷物を下ろすが、無論何から手をつけていいかなどわからない。
「いやいや、こっちはだいじょぶ。それよりも旅人さん。よかったら、あと1日だけ、ここにいないか。楓ちゃんがよぉ…。」
「…わかりました。」
とても接客できる状態ではない楓に肩を貸し、欣秀はアパートへと戻る。
「ごめんなさい」と何度も呟きながら、楓はソファで寝込んでしまった。
自宅にも嫌がらせがくるかもしれない、と欣秀は一応目を光らせていたが、特に異常もないまま時間は過ぎてゆき。やがて日は暮れ、部活帰りの蓮が帰宅する時刻になる。
「酷すぎる……。僕、あいつらの家に行ってきます!」
「待って待って蓮君! 君は、ここに居てくれないかな。」
「でも……。磐城さん、どこか出かけるんですか?」
「ん、あーいや、荷物をシオサイさんに置いてきちゃってさ。それを取りに行きがてら、弁当でも買ってくるよ。楓さんに料理を作らせられないだろ?」
訝しむ様子の蓮に留守番を任せ、欣秀はアパートを後にする。
~~
日付の変わり目も近くなり、人が見えない時間帯。
「ふぅ…。」
欣秀は、閉店したシオサイの前に立っていた。あれから、口数は少ないながらも楓は弁当を食べてくれ、目立つ体調不良もないまま、床についてくれた。
欣秀は安堵半分、気合半分という一息をつき、奥に片付けられた看板の裏に隠してあったバックパックと、ホームセンターのレジ袋を取り出す。中にあるのは、夕方に買って来た洗剤やラッカー薄め液、アクリルたわしなど。
「これで落ちっといいんだけどなぁ…。」
加えて、飲料用としてロケットⅢに積んでおいた水も取り出して。
オーナーが隠すために貼り付けたであろう新聞紙を剥がして、欣秀はあれこれと試しつつシャッターの落書きと格闘し始める。
「…お。やっぱりこのラッカーなんちゃらってのが、効果的みたいだな………。よし、これなら落とせそうだ…。」
ネットで調べた、落書きを落とす道具をアパートで見られては、「私も手伝います」と楓は言いかねない。だからこそ欣秀はオーナーに頼み込み、道具を入れたバックパックと掃除用のバケツ等を、シオサイのそばに置かせておいてもらった。
町の灯りが消えた薄暗がりで、欣秀は一心不乱に腕を動かし、落書きを落とし続ける。着実に消せてはいるもののその速度は遅く、欣秀の額にはすぐに汗が滲みでてくる。
「うあ…けっこう疲れる…。1時間頑張ったのに、まだ半分以上も残ってるじゃないか…。」
腕が筋肉痛になりそうである。だが、この落書きだけは絶対に落とさねばならなかった。
ここは見ず知らずの欣秀を、暖かく受け入れてくれた場所。
そして、大切な人と巡り合わせてくれた場所である。
そこが穢された状態で去る事なんて、欣秀には到底できなかった。
「なんも、力になれなかったんだ…。せめて、これぐらいは…。」
「…欣秀さん?」
「はい! …って、ええ!?」
声のした方を振り返ると、そこには楓が立っていた。
「な、なんでここに…? 体調は大丈夫なんですか?」
「それは私の台詞です、欣秀さん! 心配したんですよ!? 気付いたら、お布団からいなくなってて…。なんで黙って行っちゃうんですか!」
楓は強い語気を欣秀にぶつける。ここにきて初めて見た楓の怒った顔に、欣秀はドギマギする。
「えっと…それは、ですね……。」
掃除に行くと言ったら、楓も絶対についてくると思ったから…という本音は、言いづらかった。
見れば、楓の手にはバケツとブラシが握られている。
「…楓さんも、掃除に来るつもりだったんじゃないですか…。私に黙って。」
「う。それは…!」
「ハイハイ二人とも! 喧嘩しないでー!」
どこに隠れていたのか、楓の後ろからひょこりと蓮が飛び出てくる。
「蓮君も来たのかい!」
「二人とも、似た者同士ってことでいいじゃないですか! さ、早く汚れ、落としちゃいましょ~よ!」
蓮に促され、三人体制で掃除を再開する。とはいっても、欣秀は楓に無理をさせたくなく、その前を遮るようにして作業を進める。
「…本当に、優しいですね。」
「楓さんには、言われたくないですよ。」
向けられた微笑みを糧に、欣秀は腕のスピードを早める。それに比例するように汗の量も増え、目元に垂れる汗に、欣秀は思わず片目を閉じる。
それを見た楓が、すかさずハンカチを取り出してその汗を拭う。
「お、かたじけない…。」
「大丈夫ですか? …あ。」
「ん?」
何かを思い出したように、楓がその手を止める。
「あ…いえ。なんかこういうの、いいなぁって思えて…。」
「………。」
もしもこのまま、ここで過ごしてみたら、どんな人生を歩めるのだろう。
欣秀は、ずっと考えないようにしてきたことを、ついに思案し始めてしまった。
(ここで旅を終えても、いいんじゃないか。この人たちとなら、見つけられるんじゃないか。私の居場所も…。)
どこか、自分は世界から跳ね除けられてるような気がする。自分の居場所は、どこにもない気がする。…そんな寂しさを抱く人は、少なくないのではないだろうか。
誰しも、願っている筈である。自分が必要とされる場所を。自分を呼んでくれる声がある場所を。自分を、愛してくれる者がいる場所を。
(パズルのピースが、ピタリとはまる場所…か)
福島で言われた言葉を、思い出す。
そんな場所に出逢った時、人は、旅路を終えるものなのかもしれない。
〝旅を止めたい〟。
そんな衝動に、欣秀は葛藤し始めていた。
~~
蓮も積極的に動いてくれたこともあり、欣秀が想定していた半分の時間で作業は完了した。目の前には、落書きされる前より輝きを放っている、銀色のシャッターが鎮座している。
「ふ~~~! 疲れたぁ!」
「二人とも、お疲れさまでした。ご褒美に、頭なでなでしてあげますね~。」
「「それはいい。」」
笑い合った後、三人は現場を片付け、各々道具を手に取る。
「じゃあ、帰りましょうか。私たちの家へ。」
「…はい。」
(私たちの、家……か)
言ってしまいたい。ここに住みたいと。叫んでしまいたい。もっと話していたいと。
しかしそれを口に出してしまったら、欣秀の中の、何かがたちまち崩れ落ちてしまいそうで。
欣秀は口を動かそうとして、それをためらってを繰り返しながら、歓談しながら歩く姉弟についていく。
「…楓さん。私は…!」
「ん? どうしました~?」
笑顔のまま振り返る楓たちの顔を見るため、欣秀は意を決して顔を上げる。
その時、欣秀は気付いた。
遠く、前方の暗がりに、金髪の男が立っている。
「…二人とも、こっちに来てください。」
欣秀の顔は、一瞬で険を帯びる。姉弟の手を取り、横の路地へ歩いて行く。
「ちょっと、欣秀さん!?」
「磐城さん、どこいくのさ!」
早歩きで二人を引っ張り、欣秀は入り込んだ路地の出口を目指す――が、そこの曲がり角から、もう一人男の影が現れ、こちらへ歩いてくるのが見える。
(くそ――)
欣秀はさらに分岐する路地を曲がる。清水姉弟も事態の異常性に気付いたのか、自らの意志で早足を始める。
再び路地の出口を目指し、駆け出し気味になって進む欣秀達だったが―。その先に、またも影が現れる。それを避け、また分岐路を曲がると――。
「行き止まり…!」
袋小路に追い込まれてしまった。振り返れば、先ほどの男三人がにじり寄ってきている。
欣秀が通路の脇にバックパックと刀ケースを置き、楓と蓮の前に陣取ると。男達の後ろから、さらに男を一人連れ立った、女の影が浮かんできた。
「あーらどうしたんですかー? 清水さん。こんな夜中に、デートですか~? 弟さん同伴で。」
「菊池!」
蓮が怒りの声を張り上げる。
「おまえがやったんだろ! シオサイの落書き!」
今にも噛みつきそうな蓮の剣幕であったが、菊池は涼し気な顔でそれを見つめる。
「あらあら。〝お前〟だなんて。楓さんご自慢の弟さんは、礼儀がなっていないのねぇ。
…まぁ、仕方ないわよね。躾ける親がいないんですから。」
「ちょっと!」
今度声を張り上げたのは、欣秀だった。
「さすがに言っちゃいけないことがあるでしょう…。」
「そう怒らないでくださいよ、楓の用心棒さん。きっとあなたも、楓さんの色仕掛けに騙されたんでしょ? いつもみたいに、水族館に連れられて――」
「そんな! 私は初めて――!」
「うるさい!!!」
楓の反論が、耳がつんざくほどの怒鳴り声でかき消される。
「あんたのそのバカみたいな間の抜けた声が、ほんっっっとうに大ッキライなのよ! 周りのヤツらを、みんな篭絡して! 仲良くして! よそ者の癖に! 人気者になって!」
「私は人気者などでは――」
「そーいうとぼけた態度が、気に入らないって言ってんのよ! なによ! いかにも私は間違ったことをしていません~!って顔しちゃってさぁ!
そりゃあ正しいことばかりできるわよ! 金があるもの! 余裕があるもの! 笑顔ふりまけるわよ! それがっ…私たちはなに!? 私たちだって十分な補償が欲しいだけなのに! それを口に出したら、なんで卑しい人って思われなくちゃいけないのっ!?」
菊池は、ヒステリックに入っていた。が、その悲痛な叫びは、欣秀の胸に深々と突き刺さってくる。こちらを睨んでくる取り巻きの男たちも、きっと同じ想いなのだろう。なんとか、言葉を探す。
「菊池さんとやら。あなたたちは間違っちゃいない。でもここで争うのは、間違いでしょう。やるべきは、一緒に国に声を届けるとか――」
「うるさい! その説教めいたのをやめろって言ってるの!」
菊池は男の一人にアイコンタクトをする。すかさず、それを受けた小太りの男が、欣秀に殴りかかってきた。
(傷つけたくない――)
この人たちは、好き好んでこんな役割になった訳じゃない。その考えが、欣秀に手心を生じさせる。
打ち下ろされた拳を避けた欣秀は、踏み込みつつ両腕を一直線に押し開き、踏み込みの勢いを乗せて、掌を男の胸板に叩きつける。
打開という技で、本来はみぞおちや顔面など急所に当てるものであるが。欣秀にはそれができなかった。小太りの男は後ろに後退こそしたものの、すぐに立ち直る。
「やめてください。こんなやり方じゃなくて、話し合いで――」
ゴゥンッッ!!
瞬間、欣秀の側頭部に衝撃が走る。あまりにも唐突すぎて、そして強烈すぎて。
欣秀は痛みすら感じられず、気付けば宙に飛ばされていた。
「欣秀さん!!!」
欣秀は、死角から金髪の青年に、鉄パイプをフルスイングされていた。赤い飛沫がピシャリと音を立てると共に、欣秀は地面に倒れ込む。
「磐城さん!」
「欣秀さん! 欣秀さぁん!!」
清水姉弟は欣秀に駆け寄り叫ぶが、欣秀の脳にそれは届かなかった。五感はほぼ全て麻痺し、朦朧とした意識だけがそこには残っている。
「はは。やってやったぜ。その侍モドキ、ムカついてたんだよな~。正義の味方ヅラしてやがってよぉ。何も知らねーよそ者のくせに。」
鉄パイプでポンポンと手を鳴らす金髪の脇から、長身の男が出てくる。長身男は欣秀に呼びかけ続ける楓に近づくと、その髪をグイと引っ張る。
「痛っ…! 止めてください!」
「おい! 姉ちゃんに手ぇ出すなよ!」
とっさに長身男に向かい走り出した蓮だったが、飛び掛かる刹那、長身男に腹を蹴り抜かれ、無惨に地面へ叩きつけられる。蓮は嗚咽を催し、吐しゃ物を吐き出す。
「蓮ちゃん!」
楓はついに怒りの念を露にし、菊池をキッと睨みつける。
「こんなことして…許されると思ってるんですか…!」
「…何よその目。」
だが、今の菊池をのけ反らせるには、その気迫はあまりにも不十分だった。逆に菊池はツカツカと楓ににじみより、その目と鼻の先まで顔を近づけて怒鳴る。
「…何なのよその悪者を見るような目はッ!! 悪者にしたのはどこのどいつらよ!!
私たちは何も悪いことしてないのに!! 家を失った、被害者なのに! なのになんで私たちだけ、悪者扱いされなくちゃいけないのよぉ!!!」
言い終わる頃、菊池の目には涙が浮かんでいた。だが菊池はすぐにそれを拭い去ると、冷徹な声で男達に命ずる。
「…もう、好きにしちゃっていいわよ。ここに居られなくして頂戴。」
長身男は、髪を掴んだまま楓を見下す。
「…俺のばっちゃんは、もう一度〝家〟で海を眺めたいと言っていた。だがそれが叶うことはなかった。全く勝手の分からない仮設住宅で、寂しく死んじまったんだ。…お前らが土地を買いまくって、地価をムダに高騰させたからだ。」
「おばあさんの事は、残念に思います。ですが、避難者全員が住まいを奪っているわけではないでしょう…!」
「…そうかもな。でも気が収まらないんだ。あんたらがいるとな。なぁ、痛い目を見たくないなら、ここから出てってくれないか。」
「…お断りします。」
楓は長身男の圧に負けず、キッと睨み返す。
「おうおうもういーじゃねーか。てきとーに辱めてさ、脅しちまえば済むだろ?」
いつの間にやら欣秀のバックパックをまさぐっていた男達の一人、小柄の中年男が、欣秀のミラーレスを手に取る。
「これでその裸でも撮ったら、さすがに居られなくなるだろ。」
「…っ!」
どうやら被災云々に関係なく、根っからの不埒な輩もいるようである。楓は精いっぱい抵抗するが、長身男から逃れることが出来ない。
「やめろ…!」
蓮は再び立ち上がり、フラフラとした足取りで長身男に近づく。だが、無慈悲にも中年男が、再びそれに蹴りを入れる。
「ガキにはまだはえーよ、おとなしく見学してな。」
「止めてください! 蓮ちゃんには酷いことしないで!! 私のことは、もうどうしたっていいですから!」
「おー、言い切った。じゃあ、遠慮なく…。」
「止めろ…止めろよぉ…! 姉ちゃんに……。…うっ…酷いことすんなよぉー!」
「蓮ちゃん…逃げて…!」
…
……
…………ああ。
泣き声が聞こえる。
女の人と、男の子の泣き声だ。
…泣いてる声は嫌だ。なんだか、落ち着かない気分になる。
でも、そんな状態にしたのは。泣かせているのは。…どこの誰だろう?
〝お前のせいだ〟
朦朧とする欣秀の頭に、痛烈な言葉が響く。
〝お前が弱いからだ〟
〝お前が甘いからだ〟
…ああ、そうだね。私が甘いからだね。上手く場をまとめようとなんて、考えたから。とりあえず守れればいいなんて、考えだったから。
…でもしょうがないだろう? 無暗に人を傷つけるのは、いけないことなんだ。また恨みを生むだけなんだ。
きっとあの人たちも、望んで暴力を振るってるわけじゃない。悪者になっているわけじゃない。
どっちが正しいともいえないんだ。だから―――
〝痛いことになるってわかんないと、アイツらまた来るもん! ライちゃんのことイジめるもん!〟
〝正しいことだとか正義だとか、そんなもんはこの世の中にねぇよ。あるのは、互いに譲れねぇ信念だけ。いざ土壇場になったら、その気持ちの強え方が勝つ〟
…あ。
なんできゅうに、おもいだしたんだろう。…あのひとたちの、ことば。
わからない…。でも……でも………。
いつか旅の途中で贈られた、かけがえのない人たちの言葉。
それが、欣秀の閉じかけた意識を、踏みとどまらせる。
正しさも、間違いもあるものか。
人は皆、それぞれの想いにしたがって生きているのだから。
「私の、俺の、想いは―」
それを貫き通すためならば。
「―――――そう…、だよなぁっ………!!」
楓の頬に、中年男の手が触れられようとする。その様を、蓮は泣きながら見ていることしかできない。何もできない。誰も助けてくれない。そんな絶望に、蓮が押しつぶされそうになったその時。
「蓮君、ごめんな。ちょっと、これ持っててくれるか。」
「…え?」
優しく、投げかけられる声があった。蓮はその声の主に差し出された長羽織を、黙って受け取る。
本当は、声の一つでもかけてあげたかった。「大丈夫なんですか」と。しかし、蓮にはそれができなかった。
そこにあったのは。昨晩まで一緒に食事を楽しんでいた、旅人の笑顔ではなかったから。
「ッ! おいッッ!! その手を離せ!! 卑怯者共!!!」
まるで一陣の風が通り過ぎたかのように、辺り一帯の空気がビィンと震える。
ケラケラと笑っていた男たちが、泣いていた楓が、薄ら笑いを浮かべ眺めていた菊池が。
その場にいた誰もが、その風の巻き起こった元に視線を移す。
そこには、二本の脚でしかと立つ、旅人の姿があった。
口は横一文字に結ばれ、瞳は一ミリたりとも揺らがず。おおよそこの世で考えつく、ありとあらゆる感情を失ったような、無表情を貼り付けた欣秀がいた。
その異様な面持ちに、誰もが言葉を発せずにいると。やがてそれは口を開ける。
「…なぁ。一つ聞いていいですか。」
発する声もまた、無機質なものであった。
「…あんたらは人を殴る時、どーいう気持ちなんですか。悲しくないんですか。苦しくないんですか。」
唐突に投げかけられた脈絡のない質問に、一同は凍り付く。が、すぐに金髪の青年が、笑い声を絞り出しながら答える。
「悲しいわけなんかねーだろ! ムカつくやつをぶん殴るんだ、スカッとするに決まってんだろ!?」
「…殴られれば、痛いんですよ。かわいそうだとか、思わないんですか。」
「知らねーよ! いちいち考えてられっか! 世の中にはな、痛い目みねーとわかんねぇやつがいるんだよ!!」
金髪男が一息で吐き捨てると、欣秀は口を閉じる。そして幾ばくかの沈黙が流れた後、欣秀はまるで、何かを諦めたようにため息を吐き、呟く。
「…じゃあ、仕方がない。
…その本気の気持ちに本気で答えるのが…。本当の誠意ってやつなんでしょう。」
その両手が、瓦稜拳に握られた。
〝今から三分間は、心を捨てる〟
痺れを切らした長身男が、楓の髪を乱暴に離す。
「ゴチャゴチャ五月蠅いぞ、お前。誠意がなんだって? 誠心誠意謝ってくれるのか?」
楓から離れ、欣秀へと一歩、歩き始める。
瞬間。
左、右、左。瞬く間に地面を蹴り出し、欣秀は長身男へと弾丸が如く駆け出す。長身男はそれになんとか反応し、回し蹴りを繰り出す。
回し蹴りは、つま先に遠心力を集め、それを叩きつける蹴り技である。故にその威力が最大限に発揮されるのは、脚の先端の距離。
それ以近に敵がいる場合は、効果的なダメージを与えられないばかりでなく、体を開き、へそを相手に向ける都合上、手痛い反撃を受けることになる。
長身男は、そのことを喧嘩の経験でわかっていた。それを踏まえたうえで、欣秀の動きを予測して回し蹴りを放った。自分の長い脚なら、ちょうど欣秀の顔面をとらえられると。
だが。
気付いた時には、欣秀はもう目の前にいた。
「え。」
次の瞬間、突進力を乗せられた拳―冲捶が、長身男のみぞおちに真っ直ぐ、叩きつけられる。先ほどの打開とは違う、正真正銘、欣秀が出せる本気の威力で。
「~~~~っ! がぁ…っ!?」
2mはあろうかという体躯が押しのけられ後退し、しりもちをついて崩れ落ちる。なんとか立ち上がろうとする長身男だったが、体に力が入らない。その激痛故に、無理やり力を込めようとすると、一気に嗚咽を催して、胃液を吐き出してしまう。
「あんたらが言ってる痛い目ってのは…」
見下ろす欣秀の気配に、長身男の動機は激しくなる。「待ってくれ」「助けてくれ」…言いたかった言葉を、口にすることも叶わない。
欣秀はしゃがみこむ長身男の目の前に立つと、重心を右脚に集め。
「こういうことなんだろ。」
そのまま右足を地面から離し、身を沈めると同時に、長身男の項垂れた顔面を一気に蹴り上げる。
「っヴッ!!」
震脚の応用。急な抜重により弾みを付けられた右足は、長身男の顔面を容赦なく跳ね上げた。
ボキリ。と、鼻が折れたような感触があったが、気にしない。首があらぬ方向まで折れ曲がったが、気にしない。
欣秀は、もう何も敵のことなど気にしない。
長身男が動かなくなる様も見ないまま、目の前に群れる次の標的へと駆け出す。
残る3人は長身男の有様に戦慄したが、すぐさま互いにアイコンタクトを交わす。
〝3人でかかれば、問題ない――〟
欣秀の正面に金髪男、右に小太りの男、左に中年男が位置どった。欣秀は脚色を衰えさせず、躊躇うことなくその包囲へ突っ込む。欣秀の目と振りかぶった劈拳は――正面の金髪男へと向けられる。
~~~
〝Re:馬鹿弟子
よう、元気でやってるようでなによりだ。俺も元気でやってるぞ。この前も酒場でイキッてたガキどもを
(略)(略)
さて質問の件だが、お前、居合やってたんなら知ってるはずだろ? 全剣連制定居合の、三方切り。要するにだな―〟
~~~
金髪男は、欣秀の劈拳をガードするよう、鉄パイプを上段に構える。次いで両脇の男が挟み込むように殴りかかってくるが――。欣秀の振りかぶった劈拳は軌道を変え、ノールックで右の小太りの男の顔面へと叩きつけられる。
「っつう!?」
目つけで次の攻撃対象を悟らせつつ、実際は別の標的を攻撃する―即ち、騙し討ち。これが、対多数戦において、宮野が欣秀に与えた戦術であった。
予想外の動きに、中年男と金髪男も怯む。
すかさず欣秀は、小太りの男の頭に単劈手を叩き込む。小太りの男は脳震盪を起こし、フラつく。
次いで欣秀は海老反りの姿勢になり、踵を一気に後方へと蹴り上げる。埼玉では決まらなかった、後方への蹴撃――鴛鴦腿。
跳ね上げられた踵は、背後にいた中年男の右手首へとヒットし、それをあらぬ方向へとひん曲げる。
「いっでぇえええ!!」
気圧されていた正面の金髪男が、鉄パイプを振りかぶる。が、欣秀が拳を構えつつ、それを睨む。また、金髪男は攻撃されると思い、構え直す。しかしそれもまたフェイントだった。
欣秀は小太りの男の方へ向き直ると、勢いをつけ、足の裏で脛を蹴り抜く斧刃脚で、小太りの男の脚を使い物にならなくする。
左、そして右。数秒足らずで小太りの男を膝立ちの状態にさせると、欣秀は右膝を抱えるようにして一本足で立つ。力を溜めた一瞬の刹那の後、それを開放して右脚を一挙に伸ばし、男の顔面へと足裏を叩きつけた。『側踢腿』である。
蓮は、目の前で一体何が起きているか、理解できなかった。その目には、四肢に風を纏わせ、暴れ狂う一陣の旋風が映っている。
その鋭い風に巻き込まれた男たちは、血を巻き上げ、関節を歪ませ、ボロ雑巾のようになって弾け飛んでいる。
あまりにも圧巻といえるその光景に、ただただ、手にした長羽織を握りしめることしかできなかった。
(俺が―! 間違っていた――!)
小太りの男を吹き飛ばした欣秀は、金髪男に向き直る。もはや、いつ攻撃を仕掛ければいいのかわからない、戸惑いの目がそこにはあった。一瞬睨みつけつつも、すぐにまた目標を変える。
(相手も正しいから? 暴力は恨みを生むから? そんなのは建前だ!)
欣秀はその足を金髪男から、中年男性に向ける。「ひっ」と情けない声を上げ、中年男は腕を二本縦に並べ、ボクシングにおけるガードの姿勢をとる。負傷した手首をなんとか動かしての決死の防御だったが―無意味だった。
腕を2本合わせた場合、手首の周辺には隙間ができる。欣秀はそこを貫手で貫き――そのまま、中年男の目を突いた。欣秀の指先に、柔らかな眼球を押す感触が走る。
「ぎゃあああああー!!」
(結局のところ、俺は逃げていただけなんだ)
目を押さえようとする中年男の腕を右腕で掴み、それを引き寄せながら―左腕全体を伸ばし切って、左から右へとビンタのように振り抜き、男の顔面を横一文字にぶっ叩く。劈掛拳の開門砲。
(人を傷つける痛みから…! 恨みを買う恐怖から…!)
欣秀はその勢いを殺さず、体をひねり、左腕に再度力を溜め。今度は、右から左へと、復路のビンタを叩き込む。同じく劈掛拳の、招風手。
中年男は、声も上げずきりもみ状に倒れ込んだ。
(そんなのは甘ったれなんだ! 守りたいもののためなら、通したい想いのためなら―)
ガンッ
欣秀の視界が、歪む。その頭には、再度食い込んでいる鉄パイプ。金髪の青年は、薄ら笑いを浮かべる。
「ヘヘ、へへへへ、やってや…った…………あ…。」
が、それはすぐに消え失せた。振り向いた欣秀の、開いた瞳孔に睨みつけられたから。
(どんな痛みも、恨みも、引き受けてみせる! それが強さなんだ!!)
欣秀は金髪の眼球に向けて、指を突き出す。男は間一髪、頭をずらしてそれをかわす。が、欣秀はそのまま金髪の耳を掴み、握り込む。
〝「欣秀、いくら今は劈掛拳を勉強してるとはいえ、八極拳の技も一つぐらいは覚えておけ。至近距離で使えるからな。心して見ろよ――」〟
欣秀は耳を引っ張り、金髪の身を一気に引き寄せる。そして次の瞬間、体重を載せつつ、曲げた肘を突き出し、それを金髪の肋骨へと叩き込んだ。
裡門頂肘。
欣秀に引き寄せられた慣性力と、突き出された肘の衝撃力。それが男の肋骨でぶつかり合い、その骨組織を粉砕する。
「…っ! …っ!!」
のけぞり、胸を押さえ、陸に上げられた魚のように口を開閉させるその顔を――。欣秀は、側踢腿で吹き飛ばした。
「………あと、一人。」
欣秀の双眸は、壁にもたれかかり、震えている菊池を捉える。
叫び声も上げられない勢いで欣秀はそれに駆け寄り、冲捶を叩きつける――。
「欣秀さんッッ!!」
その拳は、菊池の目と鼻の先5㎝で急停止する。菊池は糸の切れた人形のように崩れ落ち、少女のように泣きだした。
「欣秀さん…! もう……!」
楓の声に振り返ると、欣秀の眼前には4人の人間が落ちていた。一見、全く動かないように見えたそれらだが、よく見るとその胸は微かに、膨張と収縮を繰り返している。
「………ふっ…梶井さんの言うとおりだ…本気でやっても、死にゃしないじゃん…。」
やるせない笑みを浮かべた欣秀は、楓の方へと歩き出す。…歩き出すものの、その顔は見られなかった。泣いている嗚咽が、聞こえたから。
「欣秀さん…あの…えっと……。」
「楓さん。救急車呼んであげてください。…さすがに、助けてくれた人にすぐまた嫌がらせはしないでしょう。
…それから私のことは、全く知らない旅人。厚意で世話をしてたけど、まさかこんな暴力癖のある人なんて、思わなかった………なんてかんじで、言っといてください。」
欣秀はほぼ早口のようにして言い終わると、今度は呆然とする蓮に近づき、預けていた長羽織を手に取る。
「痛い目に遭わせちゃって、ごめんね。…楓さんのこと、守ってあげてね。」
長羽織に袖を通し、バックパックと刀ケースを拾った欣秀は、袋小路の出口へと歩き出す。
「…お世話になりました。」
そのまま楓に一瞥もくれず、その場を後にする。
~~
シオサイのロケットⅢのもとへ向かう欣秀の足取りは重く、おぼつかない。
(早く…出ないと……)
暴力沙汰を起こしたのだ。警察が介入してくるかどうかはわからないが、どちらにしても、楓たちとこれ以上関わりを持つことは、避けたかった。一刻も早く。欣秀は、この町を出なくてはいけなかった。
(しっかり……もうすぐ…)
視界がはっきりとしない。気を抜けば脚が絡まってしまいそうなほど、眩暈がする。
汗を拭ったと思った指には、赤黒い血液が付いていた。
(くそ……!)
元々、意識が飛びそうになるほどの衝撃を受けていたのである。欣秀はその状態から立ち上がり、戦い、さらにもう一撃頭部を強打された。それを鑑みれば、歩いているだけでも健闘している状態だった。
壁にもたれかかり、肩を引きずりながらも進んだ欣秀は、ついにロケットⅢのもとへたどり着く。だが、その小さくうずくまる影は、バイクを動かせる者の姿には到底見えない。キーシリンダーに、キーを入れようとするが。
「…っ、ダメ、だ…。」
欣秀は、ロケットⅢのシートにもたれかかるように、崩れ落ちる。
(ダメだな、やっぱ…こんな痛手を負ってたんじゃ、いけないや)
自分の未熟さを悔いたり。
(そういえば、必死すぎて。刀、使わなかったな…。やっぱ、容赦してたってことなのかな…)
自分の甘さを、再認識したり。
(起きたら、警察署…なんて。…残念だな、これで、楓さんたちと、お別れ……かぁ…)
淡い気持ちを抱いていた自分の女々しさに、苦笑したりしながら。
欣秀の意識は途絶えた。
~~
(…なんだろ……いい匂い……あったかい…)
体が、陽気のような暖かみに包まれるのを欣秀は感じる。たちまち険が抜け、柔らかな表情になるその顔に、水滴がポタポタと落ち始めた。
(あれ…? 雨……?)
もう何年も開けていなかったかのように重くなった瞼を、ゆっくりと開く。
「――………楓さん。」
欣秀は、涙を落とす楓の膝に頭を乗せられ、寝かされていた。
「はは…やっぱ泣いてる。」
「欣秀さんっ…!」
覚醒した欣秀に気が付くと、楓は笑みを浮かべつつも、さらに大粒の涙を流す。
「ちょっ…楓さん、溺れる…! 涙で溺れる…!」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
楓は慌てて涙をぬぐい、「よかったぁっ…!」と息を吐く。
「…こんなところで何してるんですか。あの人たち、助けてくださいよ。」
「安心してください。ちゃんと救急車は呼びましたし、あとのことは蓮ちゃんにまかせてあります。…待っててくださいね。今、こちらにも救急車が来ますから…。」
「…いえ。」
不思議と身体は回復できているようで、身に力が入った。
体を見てみると、血こそ残っているものの、傷口は塞がっている。
(恐るべし私の体…!)
ただ一ヶ所、点、点と小さな穴が空いている手首の傷だけは、生々しく残っている。
(? なんかに噛まれたか…?)
欣秀は、体を起こそうとする。
「ダメですよ! じっとしててください!」
「いやいや…行かなきゃ…なんですよ。私なんかと一緒にいるとこ見られたら、またなんか言われますよ。暴力沙汰の男と仲良くしてたとか、なんだとか。」
「それでもいいです!」
「よくないでしょ! 楓さんだって、さっき泣いてたでしょう。あんな残酷なことをできるのが、私なんですよ。失望したでしょう? 恐いと思ったでしょう!?」
「思っていません!!」
まくしたてる欣秀を、楓は怒鳴るように一喝する。またも見せられた強固な一面に、欣秀は縮こまる。
「私が泣いてたのは…! 欣秀さんが、かわいそうだったからです…! だって、欣秀さんだって、泣いてたじゃないですか…!」
楓は、見逃していなかった。拳を振るい、蹴りを飛ばす欣秀の眼下に、一筋の涙が流れていることを。
「欣秀さんは、優しいのに…! 本当は、あんなことしたくなかったハズなのに…! 私たちを守るために、あんな悲しい顔をして……!」
欣秀は、あの最中の記憶を確かに持っているが。泣いていたなんて、自分では気づかなかった。
気付く余裕がなかったのだ。何も考えまい、としていたから。
すると体が勝手に動くものだから、クリアで良い気分だ、とまで欣秀は思っていたが。
(…結局、体のどっかには、甘さが残っちゃうのかな…)
楓は再び、ボロボロと涙を落とし始め、嗚咽も上げ始める。
「それなのに私は、何もできなくて…! それが悔しくてっ! …だからせめて、お礼ぐらい言わせてください…!」
楓は欣秀の頭に手を当てると、ゆっくりと、優しく撫でて。
「欣秀さん………! 守ってくれて、ありがとうございました…!!
すっっっごく、カッコよかったですよ!!!」
「…っ」
一瞬目を見開いた欣秀だったが、すぐにその目元を隠す。「…そうですか」と呟くと、震える唇で笑ってみせた。
…ようやく、そう言ってもらえるほどになれたのだろうか。
欣秀の心が、震えた。
(…でも)
まだ。まだ自分は、進める筈。
「………よし。」
体の震えが収まると、楓の制止を振り切って欣秀は起き上がる。
「大丈夫なんですか?」
「ええ。なんだか今を逃したら、もう二度と出発できないような気がしちゃって…。」
欣秀はいつも通り、ロケットⅢにバックパックを積み始める。その後ろ姿を見守っていた楓は、もう耐えられないといった面持ちで、言葉を吐き出した。
「あの! ここに居ちゃあ、ダメなんですか!? …私と!」
思いもよらない。といえば嘘になる。期待していた…というには自惚れている言葉に、欣秀の動きが止まる。
「えっと~…、それはどういう…。」
「わ、私と…! い、いえ! お、弟! 弟としてっ!」
「…え。」
顔を真っ赤にした楓は、欣秀の声を遮るようにして言い放つ。欣秀は一瞬、呆気にとられたが。すぐに、破顔して吹き出す。
「くっ…ぐふふ、あはははは…! そうですか、弟として、ですね…! くくく…!」
「お、おかしいですか!?」
「いえ、いえ! ただ…アハハ、すみません。どうやら私、頭がお花畑になっちまってたみたいで…。」
そうなのだ。楓は、とことん世話好きな娘だったのだ。欣秀は思いだす。
どうして自分が、その隣に立てるのでは、などと思ってしまったのだろうか。夢見がちになっていた自分を振り返ると、恥ずかしさを通り越して、笑い出してしまった。
「はー…。…すみません楓さん。お気持ちはすっごく嬉しいんですが、遠慮させていただきます。」
ひととおり笑ったあと、欣秀は息を落ち着け、返答する。
「……そうですよね。日本全国を巡るのが、欣秀さんの目標なんですもんね。」
「いえ。ぶっちゃけ、ここに住んでもいいかな…なんて思っちゃったぐらい、この町、好きです。
でも―」
母性や。慈愛というものは、心地が良いものだが。いずれは、手放さなくてはいけない。
欣秀は楓から目線を逸らし、ロケットⅢの向く先を見る。空は、白く焼き付き始めていた。
「……頭をぶっ叩かれた衝撃で、思い出したんです。旅の途中で出逢った、いろんな人たちのこと。そしたら、不思議と力が湧いて…。」
ここに停滞すれば、楽しいかもしれない。気楽に過ごせるかもしれない。
「思ったんです。きっとこの先、もっと旅を続けていけば。もっと色んな人に会えるんじゃないかって。色んな強さを、教えてもらえるんじゃないかって。」
この先に進めば、苦難が待っているかもしれない。まともな生活など、できないかもしれない。それでも。
「私、もっと強くなりたいです。またみんなにお会いしたときに、〝あなたのおかげで、こんなにも強くなれました!〟って胸張って言えるぐらいに! だから…。」
「だから…、行ってしまうんですね。」
「…ええ。」
それでも、欣秀は旅を続ける。なぜなら彼は、
「旅人、ですから!」
ニッと笑顔を向ける欣秀を、一陣の風が祝福する。長羽織がバタバタと音を立て、前髪をどかし、欣秀の視界を開かせた。
欣秀の黒馬が音を立て、誰よりも早い、朝の報せを町に響かせる。風は、どんどん強くなる。
黒いヘルメットをかぶり、黒いグローブを嵌め、黒い羽織をはためかせて。
「…それに、このほうがカッコいいでしょう?」
「……そうですね。もっとカッコよくなって…。また、いつか。…来てくださいね。
おきをつけて。
いってらっしゃい、旅人さん。」
目を腫らして笑う楓に、指を振って別れの挨拶をすると。
欣秀はスロットルを思い切り開け、北を目指して疾駆する。
もう、迷わないだろう。
"気を付けて"と送り出してくれる人たちのために、欣秀は旅人で在り続けるのだ。
この風が来たるところに、必ず物語が在ると信じて。
風来譚
第一章 終
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。
ビジュアルノベルにしたものを作ってみました↓
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