冷たい海
病院から出た僕は遥か彼方、西の水平線を見つめた。水平線に接する空を夕陽は鮮やかな紅色に染めており、それは空を暗く蝕んでゆく紺色に対して明確なコントラストをなしていた。
僕は思った。あの紅色は、彼女の血だ。そう……内なる黒い病と闘った彼女の血。それは熱くて美しくて……彼女が自らを喰らう悪魔と懸命に闘った証なのだ。
だから、僕はあの時の彼女の願いを叶えなければならなかった。それが、いつものように……病と懸命に闘った彼女への御褒美になるから。
そう。僕はもう一度、彼女にあの夢を見せてやらなければならない。僕の弾く箏奏に彼女の透き通った歌声が重なり、永遠の調べとなる……忘れられない、美しい夢を。
まだ紅色の残る空に、薄っすらと満月がその姿を現した。海蛍の洞窟からはぼんやりと白く輝くその満月が見えて……その輝きは瞬間が経過する度にくっきりとしたものに変化した。そして僕の箏は、あまりにも違和感なくその景色に溶け込んだ。
美夏の背と膝を抱いてその場に立つ僕もまた、その景色に薄まってゆき……彼女との夢のような記憶がまるで走馬燈のように頭の中に浮かんでは消えた。
『お姫様抱っこ』を喜んだ可愛らしい美夏。クラスのカップルが訪れたこの場に僕と共に来たがった愛おしい美夏。そして……消えてしまう自分の運命を受け入れていた、強く美しく、それゆえ儚い美夏。
僕はもう一度、彼女の足にならなければならない。そう……僕の箏奏で魂を呼び戻し、彼女に永遠の生を与えることで。
海蛍の洞窟の中……僕はそっと、彼女を寝かせた。そこは、前に彼女と一緒に来た時よりもずっと冷たくて、肌寒くて……だけれども、そこから見える冷たい海の風景は何も変わらない。
夕陽が遥か彼方の水平線に落ちて空は紺色に変わり、洞窟もすっかり暗くなった。
僕は彼女の隣にそっと座り、爪で弦を弾く。流れ出す旋律は洞窟の中の空気を震動させて……空間全体へ広がってゆく。そして、それは海面にも落ちて波紋となり、徐々にこの広大な海に響き渡る。
僕は弾く。彼女のために。彼女と共に見た、綺麗で忘れられない夢のために。
そう。ギリシャ神話の中でオルペウスがエウリディケのためにそうしたように、神々を感動させて、彼女をこの世界に戻して貰うように。
その旋律は海の奥底にも響き渡り、微か。本当に微かであるが、その海底は青白い光を放ち始めた。それと同時に、僕の奏でるこの旋律に彼女の透き通った歌声が重なり、それは永遠の調べとなって。洞窟全体が、ぼんやりと青白い光に包まれた。
それと同時に、僕は見た。その海に足をつけて遥か彼方、水平線の向こうまで歌声を伸ばす彼女の姿を……。
弦を弾く爪から零れる旋律は、澄み渡る冷たい空気を震わせる。世を照らす月の灯りはこの旋律と調和して、果てなく広がる冷たい海の波紋となる。
海に落とされしその旋律は深い底に届かんと震え続けてただ一つ、その魂へ贈る調べとなる。この世から姿を消した愛する者。だからこそ、最もこの調べを伝えたい。永遠の生を与えたい、最愛の者……。
贈る調べは海の底。眠る魂を青白く輝かせる。決して消えることのないように。冷たく暗いこの海に、封印されることのないように。
絶え間なく贈り続けるこの箏奏は、生と死の狭間を曖昧に、箏を奏でる自らを冷たく薄く透明にする。
それでも、いつまでも。この爪は弦を弾き続ける。夢を見るその魂に永遠の生を与えながら。
満月は遥か彼方、その水平線に沈みゆく。海面に光り輝く永遠の旋律を伸ばしながら。眠りから醒めんとする魂に最大の光を与えながら。
透明となった自らは、月と海と……贈る調べと一体となる。自らの魂を込めたこの箏奏は最愛の、その魂を呼び覚ます。
呼び覚まされし魂は、眩い月を揺らすほどに透明な歌声を響かせる。その歌声は贈る調べと調和して、果てなく広がる海を永遠に青白く輝かせる。
月は海は、この調べは、彼女に永遠の生を与えるであろう。たとえ、自らの生が消えてなくなる日が来たとしても。