僕と美夏~別れ~
美夏が病院で貰う内服薬が変わったのは、海蛍の洞窟へ行った日から数週間後のことだった。
彼女が診察を受けたその日。いつもと同じように夕食後に彼女が飲む薬……それに少し、違和感を覚えた。
「美夏……もしかして薬、変わったの?」
僕が何気ないようにその言葉を発した瞬間、美夏の顔は硬直し……不自然な沈黙が流れた。
永久に続くかとも思われたその沈黙の中。恐る恐る口を開く彼女に得体の知れない緊張が走るのを感じた。
「いいじゃん。薬変わったって……何でもないよ」
「何でもないってことはないだろ! 今までの薬……効かなくなったのか?」
つい声を荒らげてしまった僕に美夏の顔は引き攣って、瞳を微かに潤ませた。
「……ごめん」
いたたまれなくなった僕の口からその言葉が零れ落ちた。すると美夏は、頬に一筋の涙を伝わせてそっと目を瞑った。
「ねぇ……涼平兄ちゃん。私ね」
彼女の震える声が僕の心を震わせた。
「どうやら、『三人に一人』みたいなんだ」
彼女はそう言って……力なく笑った。
「美夏、どうして、それを……」
両親は内緒にしていたはずなのに……僕はその言葉を飲み込んだ。
何故なら、そんな事を言う以前に……『三人に一人』。すぐに意味が分かったその言葉を、僕は信じたくなかったから。
美夏の病気は三人に二人はさほど進行せず、それまでと変わらずに生きていける。しかし、三人に一人は悪化してしまい……最悪の場合、死に至る。そう、医師が言っていたと両親から聞かされていた。
僕はそれを聞いて以降、その確率から目を背けていた。大きいというわけではないが、決して小さくもないその確率。でもきっと、美夏は……美夏に限って『三人に一人』のわけがない。そう、信じていたのだ。
「違う……」
僕の口からその言葉が溢れた。
「美夏に限って……美夏だけは、『三人に一人』じゃない」
僕はベッドの彼女をそっと抱き寄せ、ぎゅっと強く抱き締めた。
「そんなの、僕が許さない。僕が……絶対に死なせないから」
僕は離さない……美夏を絶対に。その強い想いをもって彼女を抱き締めた。熱い彼女の涙はただひたすらに僕の胸を濡らして。奥の奥まで熱くした。
「涼平兄ちゃん……苦しいよ」
僕が抱き締める腕の中。彼女は涙で濡らした顔で微笑を作った。
「ご、ごめん」
僕が腕を解くと彼女は哀しげな笑顔を浮かべた。
「でも……嬉しい」
彼女のその笑顔が僕の心に突き刺さって。僕は堪らなく苦しくなった。
絶対に美夏を死なせない……熱い想いに満ちた僕の瞳を見て、彼女の微笑は苦しげに歪んだ。
「涼平兄ちゃん……怒らないで聞いてね」
彼女の視線は少し下……その動かない足に移った。
「私、入院した方がいいんだって」
「えっ……」
耳から入ったその単語は、僕の頭の中で独特の響きを持った。
「入……院?」
その単語は、彼女は確かに『三人に一人』で、いつ危険な状態に陥るか分からない……そのことを僕に実感させるのに充分な響きを持っていた。まるで惚けたようにただその単語を反芻するしかできない僕に、彼女は無言で頷いた。
「でもね。嫌だと言った」
彼女は下に向けていたその視線を、ゆっくりと僕の瞳に移した。
「だって、私……ずっとここにいたいから。ここでずっと……涼平兄ちゃんの箏を聞いていたいから。だから、お願い。お医者さんの言うことを聞けなんて、言わないで……」
僕の瞳に彼女の澄んだ瞳が映って……だがすぐに、それは自らの涙で滲んでぼんやりと揺れた。僕には滲んで揺れて見える彼女に対し、ただ頷いて。その我儘を聞いてやることしかできなかった。
分かっていた。ずっと僕の箏を聞いていたい……彼女のそんな我儘を聞いてやることは、きっと、『絶対に死なせない』という僕の決意を不可能にする。
僕は彼女を守りたかった……でも僕の口は、彼女の寿命を『ただ』延ばしてやることなんてできなかったのだ。
『三人に一人』……その言葉をただただ肯定するかのように、その日から美夏の病状は日に日に悪くなった。そして病状の悪化に伴って、彼女は高熱を出して寝込むことも多くなっていった。
その度に……美夏が高熱と闘う度に、僕は彼女の手をぎゅっと固く握った。
もし、この世に神が存在するなら……どうか、僕から美夏を奪わないで下さい。たとえこの身が切り刻まれても構わない。だから……。
彼女の手を強く握って……僕はそう祈り続けたのだ。
時間が経過するごとに頻度と酷さを増してゆく彼女の高熱は、まるで神様が気まぐれに祈りを聞き入れてくれたかのように……その日はどうにか治まった。その禍々しい熱を必死の想いで自らの内に封じた彼女は、涙で滲ませた瞳を僕に向けた。
「涼平兄ちゃん……私、怖いの」
その手は、堰を切ったように次から次へと目から溢れ出す涙をぐっと押さえた。
「私の体の中の悪魔に、涼平兄ちゃんのいない所に……誰もいない、どこか遠くに連れて行かれそうで。悪魔に……何もかもを奪われそうで。私、怖くて堪らない……」
その言葉が僕の胸に熱い奔流となって流れ込んで。僕は彼女を抱き締めずにいられなかった。強く、強く……彼女が悪魔にさらわれてしまわぬように。
そして、僕は祈った。
どうか、美夏の痛みを苦しみを少しでも僕に分けて下さい。それで僅かでも彼女の苦しみが和らぐのなら、少しでも僕に……。
彼女のその、壊れそうなほどに儚い身体をこの胸に抱いて、僕は祈り続けた。そんな僕の目からも、痛くなるほどに熱い涙が流れ出した。
「ねぇ、涼平兄ちゃん。箏……弾いて」
強く抱き締める僕の胸で、彼女は震える声で懇願した。
「涼平兄ちゃんの箏を私……ずっと、聴いていたいの」
もうすでに呼吸器官にまで浸透していた病は、彼女からその澄んだ歌声を奪っていた。だけれども……彼女は自分の聴覚が機能する限り、僕の箏奏を聴きたがった。
僕は彼女の病が治まるように……少しでも彼女の苦しみが引くように。祈りを込めて、その部屋で弦を弾いた。僕の箏奏はその部屋全体に響き渡り、僕達の見た海の風景を映し出した。
彼女はその日から、高熱を自らの内に封印する度に、まるで御褒美をねだるかのように僕の箏奏を聞きたがった。
そして、その度に……僕が弦を弾く日が来る度に季節は少しずつ晩秋への変移を遂げ、その部屋は少しずつ寒くなっていた。それに伴って、箏奏が映し出すその海は、徐々に冷たさを増したのだった。
秋が深まって吹く風も日に日に冷たくなるにつれ、病は美夏の深い部分にまで浸透し蝕んでいった。それは彼女の体の至る部分に痛みをもたらすだけでなく、様々な臓器の機能を低下させ……息をするという、生物にとっては当たり前の行為さえも奪おうとしていた。それはまるで、足を喰らいつくした悪魔が徐々に、彼女の魂を喰らっていくようで。僕は悪魔に喰われていく彼女を見るのが……いや、その忌まわしき悪魔と必死に闘う彼女に何もしてやることができないのが、辛くて堪らなかった。
しかし、それでも彼女の心は美しく澄んでいて。どれほど悪魔に蝕まれようとも心までは喰われない……そんな彼女の強い想いを遣り切れぬほどに感じて、僕は胸が締め付けられる想いがした。
その日……自らの内に忌まわしき悪魔を封印した彼女は、虚ろな瞳を僕に向けた。
「ねぇ、涼平兄ちゃん」
透き通ったその声は、壊れそうなほどにか細かった。
「私……涼平兄ちゃんの箏の演奏会、行きたい」
「えっ……」
まるで消え入りそうなその願いは、僕の心をトクンと揺らした。
「だって……見たいんだもの。涼平兄ちゃんがその箏で、みんなに……すっごく綺麗で忘れられない夢を見せてあげてるところ」
綺麗で忘れられない夢……そう。それは、僕にとっても忘れられない夢だった。僕の爪が弦を弾くたびに、そこには海が広がって……隣では美夏が透き通るほどに美しい声で歌っていて。できれば、永久に醒めて欲しくない、そんな夢。
「私……涼平兄ちゃんの演奏会に行きたい。もう一度……一度だけでいい。あの夢を……忘れられない夢を、私、見たいの」
そこまで言った美夏は苦しげに顔を歪めた。たったそれだけのことを言うことも彼女にとっては命懸けで……息切れを起こしていた。
このような状態の彼女が外へ出ることは命を縮める結果になるかも知れない。だがしかし……僕は彼女の口から懸命に放たれたその言葉を、どうしても断ることができなかった。忌まわしき悪魔の与える苦しみを和らげてやる術を知らない僕が、彼女にしてやれる最大のこと……それは、彼女の願いに対して全力で応えてやることだった。
それからの僕は必死で箏の練習に打ち込んだ。爪が弦を弾く度に流れるその旋律には、いつでも美夏の美しい歌声が重なった。病床の彼女はもうあの美しい歌声を放つことはないけれど……それでも僕の中では、彼女の部屋で箏を奏でるその度に、透き通った歌声が重なったのだ。
「涼平……すっごく綺麗な音。私……すっごく楽しみ。演奏会で……みんなが涼平の音で夢を見るの」
僕の奏でる旋律を聞く度に、彼女は幸せそうに微笑んだ。声を出すだけで辛いはずだった……苦しくて仕方のないはずだった。なのに……それなのに彼女は、必死で箏を奏でる僕に天使の笑顔を向けてくれたのだ。
演奏会前日の朝……それは、いつも通りの朝だった。いつも通りに窓から朝の陽が射し込み、いつも通りに前の日よりも肌寒さが増し、いつも通りに秋が終わりに近づいているのを感じて。でも、布団から起きた瞬間に僕は得体の知れない胸騒ぎを感じた。
理由は分からない……ただ、哀しい夢を見たのだ。その夢の中では、自分は暗い空で最愛の美夏を呼び戻すためにただひたすらに箏を奏でる星座であった。しかし、僕の祈りは通じずに彼女は空のさらに奥……恐ろしいほどの暗闇が包む冥界に吸い込まれる、そんな夢。
僕の中の胸騒ぎは堪えきれぬほどに大きくなった。
「美夏!」
僕は布団から跳ね起きて、彼女の部屋に入った。すると……僕は自分の顔からさぁっと血の気が引くのを感じた。
「美夏! 美夏!」
僕がどれほど揺さぶっても、彼女は口もきくことができなかった。ただ、苦しそうに……周囲の空気に縋るように、必死でそれを吸い込むだけで。僕は彼女に届くように、彼女を呼び戻すように、必死で叫び続けた。
「美夏ちゃん……美夏ちゃん!」
その異様な空気を察知して部屋に入って来た母親も血相を変えた。それは、夢の演奏会の前日。残酷な運命が冷徹にもたらした、彼女の容態の急変であった。
美夏は意識不明の状態で病院へ担ぎ込まれ、精一杯の蘇生処置がなされた。
「美夏、美夏!」
僕は演奏会のことも忘れ……酸素マスクをした美夏の手を握り、叫び続けた。
どうして……何で?
僕には分からなかった。
この世界に神様がいるのなら、どうして彼女を連れて行ってしまうのか。どうして僕から彼女を奪うのか……どうして僕達の夢を奪うのか。
僕は冷酷な神に祈った。
せめてあともう一回……もう一回だけ、美夏を僕の元へ戻して下さい。そうすれば僕は、彼女の願いは何でも叶えるから。
それが、抱き締めて欲しいという願いなら、僕は永久にこの小さな身体を抱き締め続けよう。それが、苦しみを取り除いて欲しいという願いなら、僕は彼女の全ての苦しみをこの身に背負おう。それが、一人で逝きたくないという願いなら……僕は迷いなく、この命を絶とう。
僕は永久に続くかとも思われたその晩……そんな想いを祈り続けた。
病室の窓から白い朝日が微かに射し込んだ。
「りょう……へい……」
「みか……美夏!」
彼女は薄っすらと、微かに目を開けた。僕は自分の掌にさらに力を入れて、彼女の手を固く握った。彼女は弱弱しい力で僕の手を握り返し、最後の力をふり絞って消えそうなほどに細い声を出した。
「おねが……いって。えんそうか……」
酸素マスク越しに彼女が言ったことは分かった。『演奏会に行って』……でも、僕は首を横に振った。
「嫌だ。僕は……美夏の側にいる!」
その言葉を聞いた彼女の瞳からは一筋の涙が頬を伝って輝いた。嬉しそうに……頬が緩むのが分かった。
だが、彼女は目を瞑って首を横に振った。
「ダメ……いって。わたしの……さいごの……おねが……」
最後のお願い……僕が叶えてやると誓ったそれは、いつも我儘な彼女がねだった今までで一番お利口なお願いだった。本当はもっと、もっと……無茶なお願いをして欲しかった。僕は彼女のためならば、この命をも投げ出す覚悟さえできていた。
でも……それなのに。
「おねが……りょうへい。ゆめ……みさせて」
彼女が最後に願ったのは自身のためではない……僕と箏奏を聴く人、皆のためのお願いだった。僕は彼女のその、今までで一番お利口な『最後のお願い』を聞かざるを得なかったのだ。
僕を見守る聴衆……その中に、車椅子の美夏の姿はなかった。だけれども、僕は自作のその曲を演奏した。
僕が弦を弾くと一面に、僕達の育ったその海が広がった。透き通っていて、美しくて……そして、冷たい。流れ出すその旋律には美夏の透き通った声が重なった。僕が弦を弾く度に……その箏奏は美夏の歌声をのせ、その海に落とされる調べとなり、どこまでも永遠に広がってゆく。
そして、海は青白く輝き始める。徐々に、少しずつ……そして、その冷たい海に美夏が足をつけて、遥か彼方にまで歌声を伸ばし、その輝きは広大な海一面に広がってゆく……。
その演奏……『僕達の』演奏は透き通った美しい夢となり、それを聴く者を皆、包み込んだ。それは、忘れることのできない夢。美夏が最期に……皆に見て欲しいと願った夢。僕の爪が動きを止め……皆が夢から醒めて暫くの後。演奏会場全体に、聴衆達の弾けんばかりの拍手が響き渡った。
箏奏を終え、聴衆の皆が夢から醒めると同時に僕は現に引き戻された。それは、直視するにはあまりにも酷で……しかし、愛する彼女の為にも確りと向き合わなければならない現実。
僕は震えていた。体中が小刻みに、ガクガクと。それは彼女を失ってしまった……そのことを自らが確認することへの恐怖。しかし僕は、自らの手で触れ、目で見て確認しなければならなかった。
僕は相棒であるはずの箏さえも忘れて演奏会場を出た。怖い……彼女と対面するのが。だけれど、ほんの僅か。ほんの僅かだけ、僕の胸には希望もあった。それは……彼女が呼吸をやめないでいてくれるという、微かな希望。僕はただひたすらにそれに縋り、病院の階段を駆け上った。
「美夏……」
病室に入った瞬間、僕の頭は鈍器で殴られたような衝撃を受け、全身は感覚を失った。
僕が対面したのは……顔に白い布をかけられ、冷たくなった美夏の姿だった。
心の何処かでは分かっていた。この微かな希望はきっと叶えられないだろうって。しかし、僕はやはりこの現実を受け入れたくなかった。
僕はそっと、彼女の顔にかけられた白い布を取った。その顔はまるで、忘れられない夢を見ているかのように安らかで美しくて。僕はそっと、その唇に自分の唇を重ねた。けれども、その感触は冷たくて、初めて感じる『死の味』がして。
彼女の『死』を実感した途端に、僕の目からは堰を切ったように涙が溢れ出した。
彼女はもうここにはいない……会えない。それは僕には受け入れ難い事実だった。信じたくない……彼女はまた起き出して、元気に笑ってくれる。また我儘を言って、僕を困らせる。だから……僕は願った。
「美夏、目を……開けて。また、笑って……」
しかし、僕のそんな願いはその病室にただ虚しく響き渡った。
でも……彼女の『最後のお願い』。あの箏奏で、確かに僕の奏でる旋律に彼女の声が重なったのだ。だから、彼女は冷たくなったとしても、動かなくなったとしても。彼女は美しい歌声を響かせ続ける。
僕は屈み、ベッドに横たわる彼女の背と膝を腕で抱え上げて……もう一度、彼女と唇を重ねた。その唇は、病室に入った時に重ねたより少し温かかったような気がした。