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冷たい海  作者: いっき
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僕と美夏~海蛍~

 夏休みになり、僕達の町にも『真夏日』と呼ばれる日が増えてきた。この土地は都会ほどに暑くなることはないようだが、それでも外を歩いていると、半袖でも汗が滲むほどには暑くなっていた。僕はその夏休み、晩秋にある箏の演奏会に向けての練習に励んでいた。

 

 その年のお盆も間近になった日のことだった。

「ねぇ、涼平兄ちゃん。海蛍って、知ってる?」

 つい先刻まで部屋に来ていた女友達が帰ってすぐに、彼女は僕の部屋のドアを開けて尋ねた。

「あぁ……夜に海で光るっていう」

 僕は勉強机に向けていた顔を彼女に向けた。すると、彼女の瞳はまるで蛍が光っているかのように美しく輝いた。

「うん! 縞目の浜の洞窟に行ったら見れるんだって。ねぇ、涼平兄ちゃん。今晩、見に行こうよ!」

「えっ、縞目の浜の洞窟? でも……」

 思わず、美夏の座る車椅子に目がいった。

 その洞窟には昔、彼女と何度も行った。そう……彼女がまだ走り回っていた頃に。その時と今は、もう違う。足場の悪い洞窟には、きっとこの車椅子は入れない。


 だが……僕はすっと目を瞑った。

「分かった、美夏。海蛍を見に行こう」

「本当? やったぁ!」

 美夏は無邪気に喜んだ。

 そのキラキラと輝く笑顔が、僕の心を眩しく照らして。心地よい眩しさが僕を柔らかく包み込んで。

 彼女の望みは全て叶えてやりたい。そう……彼女が足を使えないなら、この僕が彼女の足になろう。そう思った。


 夕陽が沈み暗い紺色に様変わりした空に、無数の星がプラチナのように白く瞬いていた。美夏が懐中電灯で進路を照らしてくれていたのだが、その夜は星の輝きに明るく照らされていて、懐中電灯も不要かと思うほどだった。僕はその下を、美夏の車椅子を押しながら歩いていた。

 そんな時間に『車椅子の』美夏と出かけるのも初めてだった。

 彼女が車椅子ではない頃には、幾度となく夜に二人で線香花火をしたり星を見に出たことはあった。しかし、その晩は両親に「危ないからやめなさい」と反対された。そんな場面を切り取っても、僕達は以前とは……彼女が立って歩いていた頃とは、何処か異なるということを実感せざるを得なかった。

 僕達は「少し夜風に当たってくるだけだから」と必死に両親を説得して、どうにかその星空の下に出ることができたのだった。


 僕は暫し立ち止まって満天の星空を見上げた。車椅子の美夏も空を眺め……その瞳には星の放つ白い光が反射して輝いていた。

「いつぶりだろうね」

 彼女の口から、ふとそんな言葉が溢れた。

「こうやってお星様を眺めることができるの」

 その言葉を噛み締めるように、彼女はその瞳に星を無数に輝かせていた。


 その満天の星空は僕にとっては何でもないものだった。夏になれば、いつでも見れる空。だけど、美夏にとっては特別なものになっていたのだ。そう……決して自分の意志で、自分で歩いて見に行くことができないものになってしまったのだから。


 しかし、彼女にとって当たり前に見れるものではなくなっても……その土地から見ることのできる満天の星空は、幼い頃から微塵も変わることがなかった。


「ほら、見て。夏の大三角……」

 彼女は星空の中でも特に際立って光り輝くその三つの星を指さした。

「あのベガが涼平兄ちゃんの星座なんだよね」

 ベガはこと座の星。だから箏を演奏する僕の星座だ。彼女は両親から星座について教わった時、真っ先にそう言った。


 ギリシャ神話では、こと座の箏はオルペウスがアポロン神から贈られたものだとされている。優れた奏者であったオルペウスは美しいエウリディケと結婚し幸せな日々を送るが、エウリディケは毒蛇に噛まれ、亡くなってしまう。嘆き悲しんだオルペウスは冥界で願いを込めて箏を演奏し、その音色は神々を感動させ……地上に戻るまでは彼女の顔を見ないという条件で、エウリディケが戻されることになる。しかし、あと少しで地上に到着する、その寸前でオルペウスはエウリディケの方を振り向いてしまい、彼女は永久に冥界へと連れ戻されてしまう。

 幼い頃に聞いたそんな悲しい伝説を不意に思い出した。


 僕は昔からこういった伝説は現実味のないものとして……どこか他人事として捉えていた。しかしその時ばかりは、自らをオルペウスと重ねずにはいられなかった。

 もし自分がオルペウスで美夏がエウリディケだとしたら……きっと自分も彼女を取り戻すために、冥界へでも入るだろう。そして彼女の顔を見るなと言われても、振り向かずにはいられないだろう。


 僕はそんなことを考えるにつけて、美夏に対して禁断の感情を抱いていることを再確認せざるを得なかった。


 縞目の浜の洞窟前でその中の様子を見た。やはり思っていた通り……懐中電灯で照らす限り、洞窟にはゴツゴツとした岩がゴロゴロと転がっていた。

「わぁ。これじゃあ、車椅子では行けない……」

 美夏は茫然として洞窟の中を見つめていた。

 しかし僕はそっと屈み、彼女の膝と背中に腕を回した。

「きゃっ! ちょ、ちょっと。涼平兄ちゃん?」

「いいから。ちょっと、じっとしてて」

 僕が膝を伸ばして直立すると、彼女は上半身を起こして抱きかかえられる形になった。

「今日は僕が美夏の足になる」

 僕はそう、力強く彼女に言った。

 すると、その場は暫しの静寂に包まれて……

「涼平兄ちゃん……」

 やがて発せられた彼女の声には、微かに涙声が混じっていた。


 僕は美夏を抱きかかえながら洞窟の中、恐る恐る足を進めた。

「お姫様抱っこって、こんな感じなんだぁ。初めてで、すっごい面白い!」

 彼女が右手に持った懐中電灯をブラブラ揺らして、足元の灯りが不安定になった。

「いいから、ちゃんと懐中電灯で足元照らして!」

 『お姫様抱っこ』なんて言葉の響きが照れ臭くて、つい僕の口から照れ隠しがでてしまった。しかし、彼女はそっと僕の肩に左腕を回した。

「私……立てなくなって、不幸だと思ってたけど。悲しいことばかりじゃないんだね」

「どういうことだよ」

 僕はゴツゴツした足元に気をつけながら尋ねた。

「だって、私が歩けていたら涼平兄ちゃんにお姫様抱っこなんてしてもらえなかったし、『僕が美夏の足になる』なんて言葉も聞けなかったんだもん」

 そんな彼女の無邪気な言葉に、僕の顔はかぁーっと熱くなった。

「美夏、お前……絶対にからかってるだろ」

 僕は体に込み上げる熱を誤魔化すために、ぶっきらぼうな言葉を放った。

「からかってるんじゃないよ。私は幸せだなって、喜んでるのよ」

 忌まわしい病気に蝕まれながらも、こんなちょっとしたことを幸せと感じることができる。そんな、前向きで明るい彼女の言葉に僕の心も明るくなった。

「ところで、美夏。今更なんだけど……どうして海蛍なんて見に行きたいんだ?」

 すると、美夏は左腕にぎゅっと力を入れた。

「クラスメイトの……播磨くんと夕実ちゃんも見に行ったみたいだから」

「えっ、美夏のクラスの名カップル?」

「うん……」

 僕の腕に伝わる美夏の体温が心無しか上がったような気がした。

 美夏のクラスメイトの播磨くんと夕実ちゃんについては、以前からずっとお話を聞かされていた。何でも中学生の頃から付き合っていて、周囲からの囃し立てなど気にもしない仲良しカップルだって。

「それで……僕と見に?」

「うん。私……とっても綺麗だったって夕実ちゃんから聞いて、絶対に涼平兄ちゃんと見に行きたいって思ったの」

 美夏の身体はさらに温もりを増したような気がした。

 だがそれ以上に、僕の心臓は鼓動を増して体中が熱くなった。クラスのカップルが見に行った景色を僕と一緒に見に行く……きっと、意味もなくそんな行動をするほど、彼女はもう子供ではないはずだった。


「暗い……ままだね。海蛍、光ってくれないのかな」

 僕は意識的に話題を変えた。彼女の言葉に鼓動が跳ね上がったのを誤魔化したかったから。それに、分かっていたから。従兄妹同士のそんな想いは一般的には受け入れられない禁断のものだということを……。

 すると彼女はくすっと笑った。

「ううん。海蛍はね、何か刺激を受けないと光らないみたいよ」

「刺激?」

 その瞬間。彼女の口から透き通った歌声が流れ出た。それは洞窟の中の空気を震動させて……微かに、冷たい海の水を震動させた。そして海面は徐々に……僕達の足元から、まるで波紋となって広がるように青白く光を放ち始めたのだ。

「すごい、綺麗……」

 僕の口からその言葉が漏れた。

 その美しい光は徐々に広がってゆき、洞窟全体を青白く輝かせるかのようだった。その神秘的な光景に美夏の澄んだ歌声が相まって。まるで夢の中にでもいるかのような感覚になった。

「ここは……天国?」

 本当にそう思った。もし夢の中にいるのなら醒めないで欲しかった。ずっと、この青白い光の中、美夏の歌声を聴いていたい……。


「ねぇ、涼平兄ちゃん。降ろして」

「えっ?」

 歌声の代わりに放たれた美夏の言葉で、僕は我に返った。

「だって、重いでしょ?」

 言われてみれば、ずっと美夏をお姫様抱っこしていた腕はだるく、感覚を失いかけていた。しかし、そんなことさえも忘れてしまうほどに、僕は海蛍の美しい光に……そして、美夏の神々しいほどの歌声に魅せられていたのだ。


 だが……僕はどういうわけか、彼女を降ろすのが怖かった。だから、首を横に振った。

「このままでいいよ」

「えっ?」

「全然重くないから」

 何故だか分からない。でも、降ろすと彼女がいなくなってしまうような気がして……冷たく深い海の奥底へ、彼女が連れて行かれるような気がして。僕は彼女を降ろす勇気がなかったのだ。

 すると、彼女は両腕を僕の肩に回して顔を近づけ……その唇をそっと僕の唇に重ねた。

「ん……」

 僕は唇に触れるその温もりに心を奪われて。彼女を抱く腕は、さらにその感覚を失った。

「大丈夫だから……降ろして」

 顔をそっと離して優しくそう言った彼女は、僕の想いを汲み取ってくれたのかも知れなかった。僕の膝は脱力して……ゆっくりと、彼女をそのゴツゴツした洞窟の岩の上に降ろした。

「ねぇ、涼平……触って」

 彼女は耳元でそっと囁き……僕の手を取った。僕は一瞬、躊躇した。分かっていたから。今、彼女に触れてしまうのはきっと禁断の行為で……そして、触れてしまうときっと、僕は自分を抑えきれなくなるということを。だが、彼女は哀しげに囁いた。

「お願い。だって、きっと……。私、もう……」

 その後に彼女が何と続けようとしたのかは分からなかった。いや、分かりたくなかった。だから、僕の手が彼女の膨らみに触れた瞬間……僕は自分の唇を彼女の唇に熱く重ねた。

 二人とも分かっていた。それは、禁じられた行為だって。でも、僕達は自分を抑えることができなかった。その夜……青白く光り輝くその海蛍の洞窟で、僕達は禁断の契りを交したのだった。

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