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冷たい海  作者: いっき
3/7

僕と美夏~冷たい波~

 翌日も学校終わり、直接病院に寄った。その日は美夏は一人、ベッドから体を起こし背中を壁にもたれさせて窓の風景を眺めていた。

 二学期も始まってまだ間もない頃だった。少し勢いは弱まったがそれでも黄金色の強い熱を放つ太陽の光が、窓から見える花壇に咲いていた青い紫陽花の花をジリジリと焼いて枯らしていた。

 僕には何故かその風景が彼女の運命を暗示しているかのように思えて、どうしようもないほどに遣る瀬無くなった。だから窓のカーテンを全部しめて、彼女と僕のいる病室をすっかり薄暗くしてしまった。


「ちょっと、涼平兄ちゃん! 何すんの? 折角、窓の外を見てたのに」

 美夏は頬を膨らませて僕を睨んだ。

「いや、太陽の光が眩しそうだったから」

 僕は思わず頭を掻いて、適当な言い訳をした。

「もう……」

 彼女は頬を膨らませたまま、ベッドに寝かせている自らの足に目を移した。

 その目は暫し……彼女が逃避していた現実に引き戻されるまでの数秒間、動きを止めた。そして視線は宙に浮き、その瞳は僅かに潤んだ。

「ねぇ、涼平兄ちゃん」

 彼女はその瞳を僕に向けた。

「涼平兄ちゃんは、知ってるんでしょ?」

「……何を?」

 不意に投げられた質問に対し、鳥肌が立った。涙が出そうになるほどに僕はその意味を理解していた。しかし、僕の口は反射的に誤魔化しの言葉を発してしまったのだ。

 しかし、彼女は僕の顔色の微妙な変化を見逃さなかった。

「やっぱり……私、もう歩くことができないんだね」

 美夏は淡々とした口調でその言葉を響かせた。彼女の口から発せられたその言葉はあまりにも無機質で現実味がなくて……だからこそ、その残酷な事実への深い悲哀をその病室全体に響かせていた。


 でも僕は、彼女の言葉を否定することができなかった。

 分かっていた。彼女の底知れぬほどに澄んだ瞳は、僕の口が彼女のその言葉を否定することを望んでいた。「大丈夫だよ、美夏は必ず元気になる」って、他の誰でもない……僕の口からその言葉を聞けるのを待っていた。

 でも……僕は言えなかったのだ。


 僕と彼女の間に静寂が流れた。

 まるで金縛りにあったかのように何も言葉を発することのできない僕と彼女の間に流れるそれは、まるで永久に続くかのように感じられて。『美夏はもう、永久に歩くことができない』ということを肯定するのには充分な時間だった。


 その静寂を遮ったのは、彼女のすすり泣く声だった。彼女は両手で顔を押さえ、その静かな声を響かせたのだ。

 それは、僕が初めて目にする彼女の姿だった。僕の知っていた彼女は、いつでも無邪気で元気で輝いていた。それなのに……。

 残酷な運命に怯えすすり泣く彼女を前に、僕はその時存在していた世界は現ではないような……まるで夢でも見ているかのような浮ついた感覚に陥った。

 何も答えることのできない僕の前で、そのすすり泣きは徐々に大きくなっていって。それは、病室全体に響く嗚咽に変わった。


 それでも……それなのに、僕は静寂を保つことしかできなかった。だから、その罪を少しでも紛らわすように……軽く思えるように。僕はベッドから壁にもたれている彼女の体をこの腕で強く抱きしめた。彼女の涙は僕の胸をただひたすらに熱く濡らして、奥の奥まで染みていった。


 次の日から、彼女は僕に病気のことを聞かなくなった。その代わり、まるで自らを蝕む病のことを忘れたかのように明るく振る舞うようになった。学校帰りに寄る僕に、彼女はしょっちゅう我儘を言った。

「ねぇ、涼平兄ちゃん。お菓子持って来て」

 大概はそのような些細なことを、家にいた時と変わらない声でねだられた。

「いや、ダメだって。病院食があるだろ?」

「病院食なんて、味は薄いし不味いんだもん」

「だもん、じゃない! 何歳児だよ」

「わぁ、涼平兄ちゃんが怒った。うわぁん」

 そんなことを言って、彼女は小さい子供の泣き真似をした。

 実際、彼女は十五歳という年齢を考慮しても幼かった。小さい子供のように純粋で、僕にはいつも我儘を言うので困らされた。

 でも、それはきっと、彼女が甘えて我儘を言えるのは僕くらいしかいなかったからだ。彼女は子供心にも理解していた。自分は僕の両親の実の子供ではなくて……それなのに、両親は実の子供と同じように自分を愛してくれているって。そのため、彼女は両親の前では常に『いい子』だった。


 だから、僕は彼女の我儘にいつも応えざるを得なくて。

「仕方ないなぁ。お医者さんにも、お母さんにも内緒だぞ」

「やったぁ!涼平兄ちゃん、ありがとう!」

 彼女の喜ぶ顔に苦笑いする……当分はそのような、彼女の足が動かないこと以外はいつもと変わらない幸せな日々を送っていた。


 そんなある日。僕はいつものように学校帰りに病室を訪れた。すると、今まで見たこともなかった……僕にとっての彼女には似つかわしくないものが、目に飛び込んできた。

「ねぇ、涼平兄ちゃん。見て見て! 車椅子!」

 彼女は自らにあてがわれた、お洒落な桃色の車椅子に得意げに座っていた。

「美夏、お前。それ……」

「お父さんが買ってくれたんだ。それにね、私、来週には退院できるって!」

 彼女の精一杯の明るい言葉。病室の電灯の光を反射する、新品の車椅子。

 しかし、僕はその新品の車椅子を見た途端に、胸の底から堪えられない痛みが込み上げてきた。僕は実感せざるを得なかった。彼女はもう元通り……冷たい波の打ち寄せるあの海辺を走り回ることができないんだって。

「涼平兄ちゃん?」

 車椅子の美夏は不思議そうに僕を見つめた。僕はその澄んだ無垢な瞳を見て、自らの内に込み上げる想いが口から流れ出すのを禁じ得なかった。

「お前は……それでいいのかよ?」

「えっ?」

 彼女の顔色が変わった。それでも僕は続けた。

「それに座ってしまったらきっと、『本当に』お前はもう、歩くことも走り回ることもできない。それで……本当にいいのかよ」

 痛い想いは激流となって自らの口から流れ出し、その病室にいる僕を沈めた。

 しかし……

「じゃあ……どうして?」

 美夏のその言葉に、僕の背筋はびくりと反応した。

 彼女はもう、それ以上の言葉を発することはなかった。でも、僕は分かっていた。その言葉の続き……彼女が何を言おうとしていたのか。そう……彼女は『あの日』、僕の口から「大丈夫。美夏は絶対に歩けるようになる」って。どうしても、涙が枯れてなくなってしまうほどに、その言葉が聞きたかったんだ。


 もし『あの日』に戻れるなら。僕はその言葉を言うことができるだろうか?

 大丈夫、絶対に歩けるようになるって……彼女を安心させてやることができるだろうか?


 そんなことは分からない。あの日と同じく、その言葉が無責任な気休めとなるのを恐れて、僕の口はその言葉を放つことを許さないかも知れない。

 でも、もしその時、僕がその無責任な気休めを言う勇気を持っていたとしたら。もしかしたら、今とは違う『現在』があったのかも知れない。


 そんな寂寞の想いが後悔と自責の念となり……冷たい波となっていつまでも、僕の胸に打ち寄せる。

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