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冷たい海  作者: いっき
2/7

僕と美夏~発症~


 海に面した小さな町だった。

 その海には、北のオホーツク海から冷たい潮を運んでくる親潮が流れていた。

 親潮は栄養塩を多く含み、『魚を育てる親となる潮』というのがその名の由来だという。しかし、沿岸に立って目に映る限りの海面からは魚は滅多に確認できず、そこにはただ、呑み込まれそうな静寂が広がっているのみであった。


 僕達はそんな町で育った。

 物心ついた時には美夏みかは僕の箏奏に合わせて、澄んだ海のように美しい声を伸ばしていた。その歌声と同じく透き通った笑顔を浮かべて。

 一歳下の従妹だった彼女の両親は彼女が三歳の頃に交通事故で亡くなった。家族三人で車に乗っていたドライブ中の交通事故。母親に覆い被さられる形で庇われ、左腕の切り傷のみで済んだ彼女は僕の両親が引き取った。だから、僕は四歳の頃からずっと彼女と同じ屋根の下で暮らしていたのだ。


 僕の家は古くから続く箏の名家で、僕は三歳の頃から箏奏を教えられていた。美夏が我が家に来た四歳の頃には、『さくら さくら』のような初心者向けの曲は弾けるようになっていた。


 美夏が来てからというもの、家で箏を奏でるとすぐに彼女が隣にやって来て、その純粋で澄んだ歌声を僕の箏奏に乗せた。僕は自分の箏奏に乗るその透明な歌声が好きで堪らなかった。だから、毎日、箏を奏でるのが楽しみだった。


 美夏が小学校に入学して以降は、夏には家から見える海へよく二人で遊びに行った。その水は夏でも相変わらず冷たかったが、それが逆に心地よかった。

 その冷たさの所為か、海にはやはり生き物の気配はなくて。でも、くるぶしまで水につけた僕達は、まるで親潮の運ぶ栄養塩で育まれているかのように、キラキラとはしゃぎ合った。水をかけ合ったり、追いかけっこをしたり。その時からしょっ中、美夏は転んで顔中砂まみれで笑っていた。それは、とても楽しくて幸せな笑顔だった。

 そう。砂まみれの彼女はとても幸せそうだったのだが……今思えば、それはあの忌まわしい病気の症状の現れだったのかも知れなかった。


 僕が高校に入学した年だった。彼女に最初の症状が現れたのは。

「おい、美夏。早く起きて。遅刻するよ!」

 僕はいつものようにさっさと朝ごはんを食べ、身支度を済ませて彼女の部屋のドアを叩いた。

 彼女が朝、中々起き出してこないのもいつものことだった。低血圧ぎみの彼女は朝が苦手で、僕が毎日のように起こしていたのだ。

「起きられない……ねぇ、涼平りょうへい兄ちゃん。部屋に入ってきていいから、私を起こして」

「何だよ、全く。しょうがないなぁ」

 僕は頭を掻きながら彼女の部屋のドアを開けた。十五歳になっていた彼女は、普段は一丁前に、自分の部屋への僕の進入を禁じていた。でも都合のよい時だけ、僕を部屋に入れたのだ。

 僕はこの時はまだ、この事態をさほど深刻に捉えていなかった。


 久しぶりに入る美夏の部屋は僕の部屋とは随分違った。スリムサイズのカラフルなカラーボックスの上にはドールハウスが置かれており、そのあちこちで小さなお人形が天真爛漫な笑みを浮かべていた。そして部屋のいたるところには緑や水色やピンク……お洒落なワンピースが掛けれていた。彼女はベッドに横たわりながら、お気に入りの白いうさぎのぬいぐるみをしっかりと抱えていた。

 僕の部屋といったら勉強机に箏に布団……他にあるものといったら釣りの道具のような色気のないもので。そんな部分がいつも一緒にいたはずの僕と彼女の絶対的な違いを主張して、僕はしばしば寂しくなっていたのだった。


「ちょっと、涼平兄ちゃん。何してるの? 起こしてよ!」

 そんなセンチな感情を抱いていた僕に、美夏は苛ついた声を投げかけた。

「分かった、分かった。ほれ」

 僕が手を差し出すと、美夏は白いうさぎを離した右手でしっかりとつかんだ。

「よいしょっと……」

 僕は彼女の右手を引っ張って起こし、手を離した。しかし……彼女は足を床につけて立とうとしたが、まるで足に力が入らないかのようにその場に座り込んだのだ。

「美夏……どうしたんだ?」

 事情が飲み込めない僕は、茫然と彼女を見つめた。

「涼平兄ちゃん……」

 美夏は涙を溜めた瞳を僕に向けた。

「私……足が何か、おかしい。力が入らなくて、立てないの」


 一体、どういうことなのか。どうして彼女が立てないのか、分からなかった。

 いつも元気な彼女のそんな言葉は、あまりに現実味がなくて。きっと、今日は低血圧がいつもよりひどいんだろう。僕は必死で自分にそう言い聞かせていた。


 その日の僕は学校が終わるや否や、両親が美夏を連れて行った病院へ駆け出した。

 きっと、大丈夫。だって、昨日まであんなに元気だったし、好物の唐揚げなんて僕の分まで食べていたし。呑気にそんなことを考える、幸せな自分がいた。

 でも、だからこそ。昨日までがあんなに幸せだったからこそ、これからの僕達に突然に災いが降り注ぐのではないか……得体の知れない何かが美夏を奪って、僕の元から連れ去ってしまうのではないか。そんな漠然とした恐怖も僕の胸の中に同時に潜んでいた。

 そして、相反するその感情の共存はただひたすらに僕に訴えかけた。僕にとって美夏はただの従妹以上にかけがえのない……最愛の者になっていたんだって。


 病室に入った僕は、拍子抜けした。

 彼女は寝巻き姿でベッドにいたものの、上半身を起こして林檎をシャリシャリと食べていたのだ。

「あ、涼平兄ちゃん。食べる?」

 無邪気に林檎を勧めてきた彼女に、僕は全身が脱力するのを感じた。

「いや、食べる?って、お前……お父さんとお母さんは?」

「お医者さんと話してるよ。何か、難しい話みたい」

 彼女は今日は一日、検査ばかりしていたようだ。「学校をサボれてラッキー」と言って八重歯を見せた彼女はしかし、表情が何処か引き攣っているように見えた。

 無理もないことだ。一日中検査をした結果を僕の両親が神妙な面持ちで聞いている……そんな状況、不安でないはずがない。その時の彼女は、強がりだったのだ。


「待たせたね」

 僕の両親が病室に入ってきた。その顔は不自然なほど明るくて……だが、母親の目が赤くなっていたのを僕は見逃さなかった。

「美夏ちゃん、大丈夫よ。すぐに家に帰れるって」

「本当? やったぁ」

 家に帰れるかどうか以上に気になることは山ほどあっただろうに、その時の彼女は母親の言葉の上面に対して喜んでいた。きっとそこには、幼いながらも勘の良い彼女の、僕の両親に対する気遣いが含まれていたのだろう。

「さ、涼平。帰ろう」

「お父さん、お母さん、涼平兄ちゃん。また明日も来てね!」

「うん、もちろん」

 一人きりで精一杯に強がりの笑顔を浮かべる美夏に後ろ髪を引かれる想いをしながらも、僕は両親とその病室を後にした。


「それで……本当はどうなの?」

 病院を出て……両親と三人で歩く並木道で僕は尋ねた。

「え……」

 母親は目を見開き、思わず立ち止まった。

「嘘なんでしょ? 大丈夫だなんて」

 僕には分かっていた。

 その日の朝……美夏は立てなかった。

 僕も朝からずっと自分に言い聞かせてきた。大丈夫だって。今日は彼女の低血圧が特に酷いだけだって。

 でも……引っ張って彼女を立たせた時に僕の右手に伝わってきた足の筋力の感触。手を放した瞬間のあの脱力の仕方。それは、彼女の状態が尋常でないことを物語っていた。


 そして、何より母親の目。医者の話を聞いた後の真っ赤な目を見れば、余程の悲しい現実に涙を禁じ得なかったことは明白であった。

「う……嘘じゃないわよ。美夏ちゃんはすぐに退院できるわ。でも……」

 そこまで話した母親の瞳には涙が湧き出した。続けようとするも言葉が詰まって……話すことができない様子だった。そんな母親の代わりに、父親が続きの言葉を放った。

「美夏は二度と歩けない」

「えっ?」

 僕の全身は、まるで凍り付いたかのように硬直した。

「冗談……だよね?」

 父親の言葉を冗談だと思いたくて……その現実を冗談にすり替えたくて。僕の口からは真っ先にその言葉が出た。

「本当よ。美夏ちゃんはね……そういう病気になってしまったのよ」

 母親はそう言って、嗚咽を漏らし泣き崩れた。美夏の呼称には必ず「ちゃん」をつけ一定の距離を保っていたかのように見える母親も、彼女を実の娘のように愛し、その残酷な運命に深く傷つき悲しんでいたのだ。そのことを知った僕は堪らない気持ちになった。

 『歩けなくなる』美夏の病気が『自己免疫疾患』だと知ったのは……そしてそれは実は『歩けなくなるだけ』ではないかも知れないと両親から聞かされたのは、それから程なく後のことだった。

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